面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 まず最初にコメント等を紹介したいと思います。
はい、お願いします。
タカピさん、後半も良いネタが多い。しかし、著者もあまりに分野が広範囲に及ぶと、書く技術が足りなくなってくるのか。
分かりがたい部分を読書側がAIで補おうというのは、かなり正当な使い方だけど、私だったら面倒臭さが先立ってしまったわ。
というご意見ですけど、まあ、そうですね。
まあ、当然そうですね。
だって、もう結構誠読に近いことをなさってましたもんね。
そう、まあ、でもやっぱりそういう価値がある本は、やっぱりそう読む方が自分が思うになんだけど、結果的に俺は10年先を見つめたらこっちの方がいいと思っている。
だから、総読書冊数が多少減ったとしても、そういう質の高い本については深く読んだ方が読書人生クオリティーが上がるであろうと。
そうですね。目標、俺は教養を得るなので。
それは大切だね。
ちゃんと教養を得るためには、結局一つ一つをちゃんとやった方がいい。
まあ、でもやっぱりどうしても、その分野のプロであっても、この分野はちょっと触っただけですみたいなのは当然出てくるので、そこを精々AIとかユーザーの検索で補いながら読むというのは、インターネット時代の本の読み方のパターンでしょうね、きっと。
そう同じく、確かアフタートークとかで話したと思うんですけど、やっぱり興味持てないことは時間をかけようという気には当然全くならんので、ここ何回か動物系の本を読んでみたけど、興味持てずにやめてるんですよね。
なるほど。
まあ、そういうことなんやろうなっていう。
まだいろいろパラパラと見ていって、ヒットするものがあったら深読みしていくという感じ。
そうなので、言ったら自分はやはりいわゆるスケールの大きな歴史とか、もっと大きなレベルの宇宙から始まって現代から未来までみたいな、そういう概念はどうも好きっぽい。
なるほど。
高校生とかめっちゃ調べたのは直接は関係ないんだけど、とはいえやっぱそれが当然めんどくさい。あとあれかな、やっぱりコツとしてはそれがネタになっているからやれるっていうのがあるかな。
まあ確かにね、僕らこのような情報発信者にとってあらゆることがネタですからね。
これは面白いからやろうと思えるというのは、すごくスケールの大きなライブハックな気がする。
まあ確かにそうですね。
全てはネタになるっていう。変なことすると簡単に変なYouTuberになってしまうので。
でもあれはそうですね、全てがネタになるというよりは、もうネタって確定しているものを責めている感じがしますけど。
そうだね、例えばスーパーで買う前に食うとか、それはもう違いますよね、明らかに。
なんかだから手に負えないを編み直すでも出てきましたけど、ごく当たり前のことが実はネタになるという方が価値の探索が大きいというかね、新しいものを作り出せる感じがしますね。
あとあれですよね、他の人に真似できないが重要な気がするな。
さっきのスーパーとかは社会的制約を振り払えば簡単に覚えつけるし、真似できるし。
まあそこですよね。それをやることはやっぱりヤンキーがモテるのと同じ理屈でダサいからな。
その通りにそれぞれの人が持っている興味の形っていうのは人それぞれなので、その興味の形に沿って探索していくと結果的に他の人に出せないパフォーマンスになっていくという感じがしますね。
ですね、ということがなんか期待できる気がしますね。
はい、ということで今回は145回、会議論、科学否定論はなぜ人を惹きつけるか。
はい、というわけで、クラシタの恒例の2冊本シリーズということで、間違った。
これまで3回やってきたのかな?ページ変えますね。
3、多分。
はい、今が4回目になります。
もう冊数が多くて覚えられん。
新書系を結構2冊セットで取り上げることが多かったんですが、今回も新書系2冊ということで。
1冊目が会議論、古代ギリシャからデカールと陰謀論までという中古新書の本でして、2026年の2月25日に出ました。
古谷哲也さんという方で。
古谷哲也さん。
古谷哲也さんの方で、1979年生まれて結構年近いですね、今気が付いたんで。
知らなかった、もっと年上やと思った。
思ってましたね、僕も。もっと年上やと思ってました。
哲学の研究者の方で、僕型リストで言うと、僕が哲学史入門の4というのを取り上げたときに冒頭の章を担当されておられたのと、
薄い本を読もうという会があったんですけど、そこですごい古典入門シリーズとかを紹介したんですが、
そのウィト・ギンシュタインの論理哲学論考の基本という本を書かれていたりとか、
あと間で考えるシリーズというのを友達に紹介したんですけど、
そこで言葉なんていらないという本を書かれているのと、超有名な100分で名著シリーズで、
ウィト・ギンシュタインの論理哲学論考と哲学探究。
ウィト・ギンシュタインの前期と後期を代表するような人たちと紹介されているということで、
結構ポピュラー向けの哲学の本を読んでいる人であれば、おそらく触れたことがある方ではあろうと。
日本で多分ウィト・ギンシュタイン関連の現存するというか、書店で手に入る本はほぼ全てフルトさんなんじゃないかというイメージですよね。
非常にわかりやすく、読みやすく書かれる方でして、ウィト・ギンシュタイン以外にも自身の著書として謝罪論とか、
このゲームにはゴールがないとか、不道徳・倫理学講義とか、いつもの言葉を哲学するという、結構新書系の本が多いので、
僕もちょいちょい読んでいるんですけども、今回はその会議論をテーマにした本を書かれたということです。
今までのウィト・ギンシュタインと比べるとちょっと分野が離れる。
哲学史全体に及ぼす射程があるような本なんですが、一応目次をざっと紹介しておくと、
第一章で古代ギリシャでの起こり、会議論というのがどう起こってきたのか、どう流れてきたのか、
その中で特にピロン主義というのがございまして、それが第二章でフューチャーされておりまして、
それ以降、第三章からピロン主義とか非常に古い古代ギリシャあたりからの流れですけど、
ちょっとギュッと飛んで、近代でいうとモンテーニュあたりからデカルトあたりの会議論。
たぶん会議論というとパッと思いつくのがデカルト3だと思うんですけども、
そのデカルトというのが本書の位置付けでいうと、デカルト以前、デカルト以後みたいな線引きができるんじゃないかということで、
フューチャーされておりまして、第4章でウィトゲンシュタインが出てくるんで、ここは著者の専門分野で、
会議論的な視点から見た時のウィトゲンシュタインがどうであるか、みたいなところが語られて、
第5章で会議主義の意義ということで、ここでちょっと注目したいんですけど、会議論という本ですけど、
第5章で会議主義の意義というところで、言葉遣いがちょっとニュアンスが変わっているんですけども、
会議論と会議主義ということを一般的には混ぜて使われるんですけども、本書ではその2つに間違いを見出して、
それを際立たせて、先回し言うと会議主義でいこうよということですね。会議主義でいこうよと。
会議論から会議主義へということが全体をとして語られる本でして、哲学史というか哲学学として読んでももちろん面白いですし、
その会議、基本的に何かを疑うことは考える、思考するということの出発点となるものだと思うんですけど、
考えることが好きな人は基本的に疑うことが得意なわけですけども、疑うって結構難しいんですね。適切に疑うって難しくて、
疑い方がまずいと、どんどんまずい方向に行ってしまうと。
何も信じないにもなってしまう。
そういうことになってしまうので、その会議とかの思考法としての会議として見たときに本書がノウハウとしても色々役立つポイントがあるんじゃないかなと思って、
まず1冊目挙げさせたのが会議論。2冊目が科学否定論はなぜを引き付けるかで、サブタイトルが地球平面説から反ワクチンまでということで、
筑波春章から出ている本でして、2026年の6月10日ということで、ちょっと最近出た本でして、松村和志さんという方が著者なんですけども、
1988年生まれということで、私たちから見たらだいぶお若い方ですけども、
エビデンスの社会学とか、あと無知学への正体っていう本の教授も書かれていまして、
私たちが何を知るのか、それを例えば認知、認識論というよりは、
この社会の状態とか社会の制度から見た時に知識とは何か、何を知識と言えるのかとか、
科学哲学とか知識社会学と呼ばれる分野があるらしいんですけど、
知識社会学、ちょっと想像できた。
というものを研究されている方が書かれた本で、結構それまでの本は専門書というか、
研究者向けの本が多かったんですけども。
おだしょー 出版社的にもだいぶ渋いところが多い。
三沢 そうですね。本書は新書ということで、僕のザッと読んだ漢字、非常に読みやすい内容でして、
ザッといくと序章が真実、かけがく付きの真実を求める社会ということで、
ポストトルースとかいろいろ言われている現代において、その真実を追い求める姿勢というものと、
その科学否定論とのつながりがあるんじゃないかという話。
題書が生き残る地球平面説ということで、地球平面説って漢字を見たらわかると思うんですけど、
この地球は球体ではなくて平面だと。
たぶん端っこにいたら地球の端みたいな感じで。
おだしょー 見たことないのは事実なんですよね、俺も。
ということが、どんな起こり方をして、どんなふうに今まで命脈を長続きしてきたのかということが、
提唱者とか制度的なものと解説して語られます、紹介されます。
つまり、地球平面説という一つの学説ではないですけど、説の歴史を振り返るということで、
つまり、こんなものは間違っているんだというようなことではなくて、
それを主張している人たちがどのようにこの説を主張してきたのかということを、
割とフラットに観察と記述するような内容でして、
それを一つサンプルとして2章以降で、
科学否定論とは何かとか、科学と擬似科学の間、
第4章が陰謀論の何が問題かで、第5章がエビデンスと陰謀論、
第6章が内なる否定論と向き合うということで、
冒頭の序章に出てくる、一番最初に出てくる話なんですけども、
誰かがトコトコと来て、富士山は日本で2番目に高い山だと主張をしたとしますよね。
素朴な僕は、いやいやいや、富士山は日本で一番高い山だよって言ったとしたときに、
それって証拠あんの?って切り返されたとしますよね。
で、例えばこの地図帳にこう書いてあるよって言ったら、
その地図帳が正しいって何で言えるの?っていう風に切り返されるわけですよね。
こういうふうに言っていくと、そもそも私が知識として、
富士山は日本で一番高い山だって知ってるっていう風に感覚のまま生きてますけど、
それを知ってるってどういうことなんだろうと。
で、それにさっきのような、ひろゆきさんみたいな人が突っ込んできたときに、
どこかの時点で示す証拠がなくなるわけですよね。
誰かがそう言ってたからっていうしかなくなってくる。
そうすると、それは適当に物を言っている人間と、
どんな違いがあるのかがだんだんわからなくなってくるわけですよ。
そういうとこで、科学否定論と呼ばれているようなものも、
完全に無視するわけではない。
そういうことを仮に言われたときに、こっちは応答できないような、
うろたいてしまうことがあるんで、
ちょっとちゃんと考えておきましょうというのが冒頭で語られる話で。
そもそもタイトルの科学否定論という言葉は、
僕は本書を読むまで全く知らなかったんですよね。
多分、科学を否定する何かだろうという感じは、実装でわかるんですけど。
一応本書で挙げられているものが、さっき言った地球平面説。
創造説というのは、神が生物を作ったという。
気候変動否定論。
気候変動があるにしても、それが人間の営みである影響ではないんだ、
みたいなことを言う人たち。
エイズ否定主義というのは、HIVみたいなもののせいではないんだ、という人たち。
ホロコースト否定論というのは、ホロコーストというのは実際なくて、
何か証拠が捏造されているんだ、という人たち。
反ワクチン運動は直近盛んやったのでわかると思うんですけど、
ワクチンというのは人体に悪影響があるから、
ありとあらゆるワクチンを排泄しようという、かなり極端な主張を取る人たち。
こういうのが大体、科学否定論としてまとめられている。
代償的なやつかな。
それが、どのようなメカニズムで生まれているのかを解き明かしていく。
人間の認知とか心理とか、現代に向かっている状況とかを踏まえつつ、
これをグマイナー意見だというのではなくて、
ある種進化論的に見たときに、こういうものが起きて、
存在していることに何かしらの合理があるのではないかという観点を取りながら、
紹介していく本です。
もう2冊の本がざっと紹介できたので、
ここまででもうだいたい読もうと思っていただいた方は、
どっちもあれですよね。大きな意味で同じことをしているのに、
なぜ違うのか。
というところが面白いんですけども、
一応簡単に僕が読んだポイントを2冊を通して紹介したいと思うんですけど、
まず最初の解理論とは何かということなんですけど、
物事の大切さや真実に対して解義を向けて判断を保留する立場だと。
本当に何が正しいとか、何が真実、真理であるのかっていう、
あるいはそもそも真実など存在するのかということを問う立場、
問う考え方が解義論と。
一言で解義論と言っても、実はかなり多様な解義のバリエーションがあるんですね。
何を疑うのかということに、低レベルから高レベルまで、
あるいはその表面レベルから深いレベルまで結構ありまして、
本書ではそれをいくつか例を挙げながら紹介しているんですけども、
今回の趣旨にはあまり関係がないので飛ばしますが、
その解義論の具体的なバリエーションについて知りたい方は、
この解義論とともにもう一個山口さんという方が書かれた、
早川新書から出ている「哲学の始め方」という本があるんですけど、
その本でも解義論が扱われて、それも一冊通して全部解義論が扱われている本なので、
多分その本はまた紹介すると思うんですけど、
この本とその本を合わせて読むと、
いろんな解義論のバリエーションがあるということがわかると思います。
僕は結構そんなところまで解義するんだというふうに面白く読めましたので、
詳細は本書を読んでください。
何を疑えばいいのかということの疑い方のヒント?
フリームワーク?
例えば哲学とかこのような思考にハマる人は、
その解義の沼にハマってしまって抜け出せなくなる時があるんですけど、
自分がこういう解義にハマり込んでいるなというふうに気づくことができる。
だからパターンを知っておくというのは結構ありとあらゆる思考で重要だと思うので、
考えることが好きな人ほど解義論は慣れておいた方がいいと思うんですけど、
現代におけるその解義、疑うことの位置づけとしては、
まず何が正しいのかはよくわからない、
完全としない情報社会がやってきていると。
昔は偉い先生が言ったら正しいみたいなことをやったのが、
インターネットとかSNSによって本当にそうかなというふうに、
専門家であっても専門以外のことでも間違うことがあるし、
専門のことでも間違うこともあるので、
そういうことがもう結構明らかになってしまった社会の中で、
疑うということが出てくると。
ただし疑い続けていっても行動は取れないわけで、
どこかで何かを信じて進んでいかなければならない。
会議との付き合い方というのが重要。
全く疑わないのも、それはそれでもちろんまずいわけですから、
ある程度疑いつつ、疑いの沼にはまり込まないようにできたらいいよね、
というところが本書の一つのアピールポイントというかな。
会議を身につけましょうと、会議との適切な距離感を身につけましょうという定義で始まっていくと。
本書でいくつかのポイントとして出てくるのが、
会議論と陰謀論の違い。
何にしようかと言うと、会議論と相対主義の違いというのがいくつかポイントに挙げまして、
陰謀論は非常に現代的な風潮ですけど、
陰謀論と会議論もちょっと似てるんですよね。
陰謀論で言うと何か、
例えば911は政府の自演であるみたいなやつは多分陰謀論だと思うんですけど、
つまり定義された映像が何かを不自然であるという、
正しくないのではないかという会議を伴っているわけですね、陰謀論の発端には。
だからそういう私たちが当たり前だと思っているものを疑うという姿勢と、
会議論というのは結構近い、あるいは共有している部分があるけど、
それって区別つくんですかというのと、会議論と相対主義というのがありまして、
相対主義というのは正しいものは一つではないということなんですけど、
いろんな正しいものがあるということですけど、
正しいものが一つではない、これは正しいのかと問うことと、
正しいものが複数あるという、相対主義と会議論もちょっと近いんですよね。
相対主義じゃないので、これが絶対の真実だと受け入れる状況が非相対主義なわけですけど、
絶対に正しいと言われているけど本当かな?
正しいものはもうちょっとあるんじゃないかなと考えた相対主義で、
これも契機としては会議があると。
だからこれも近いんだけど、ちょっと違いがあるんじゃないかなということで、
この辺の語彙の区別に注意を払って読むと、本書の理解が深まるかなと思います。
冒頭の方は、ヨーロッパの哲学とか古代理事から始まって今後に続くヨーロッパの歴史において、
会議論がどのようなふうに現れて、どのような役割を果たしてきたのかと。
で、先ほども言ったようにデカルトがキーマンというか、
何もかも疑ったと言われている人ですよね、一般的には。
デカルト以前と以後で会議というものの扱われ方、位置付けっていうのが変わってきたというのが本書の大きな主張で、
その変化が、さっき言った会議論と会議主義の違い。
本書の視点にとれば、デカルト以前は会議主義であった。あるいは会議主義の割合が強かった。
デカルト以降、会議論になっていったという区別が本書全体で明確になっていくんですけど、
冒頭あたりはその区別あんまりなくて、会議論と会議主義っていうのはまとめて語られるわけですけど、
一番の会議論のポイントは、一般の人たちは疑っていないものを疑うことなんですね。
一般の…どっちがでしたっけ?会議論?会議主義?
会議そのものは。一応会議論としてここは話を進めておきますけど、
会議論ということは基本的に社会の多くの一般の人たちが疑っていない、常識として受け入れているものを
いや、そうではないのかということが初めて会議論と言えると。
だから、社会一般の人たちが疑っているものを新たに疑っても、それは別に会議論としては注目されないわけですね。
NASAは宇宙人を捕まえていたというのは本当かを疑っても会議論ではない。
その代表として、この本の一番最初に出てくる人物として、プロタゴラスという古代ギリシャの方がおられまして、
最初のソフィストと呼ばれている方なんですけど、
その人は神がいるかいないかをわからないって言ったらしいんですよ。古代ギリシャですよ。
そんなこと言ったらどうなるかって言うと、アテネから追い出されるわけですね。
彼の本も焼かれたらしいんですけど、それぐらいその時代、その社会の突拍子もない意義を疑問を立てることが基本的には会議論であると。
現代神がいるかいないかわからないと考えてもそれは会議論ではない。
ある時代の一般的な通念に対して、それって本当って言われてるけど本当ですかっていうある商発的なことを言うときに、それが会議論というふうに認識されると。
プロタゴラスさんは会議論でもあるんだけど、相対主義の感覚もあり、神がいるかいないかはわからないと言ったんですね。
神がいないとも言ってないわけですよ。
いるとは断言できないという。それだけでもすでに絶対神的な存在化したら、神がいるかどうかわからないということ自体も冒涜的ですけどね、もちろん。
でも基本的にいないと言ったわけじゃなくて、いるかどうかはわからないというふうに言ったと。
彼はソフィストだったんで、僕らは別にソフィスト見たことはないですけど、議論の達人だと言われてますよね。
議論の達人というのはどういうことかというと、ある手段に対してAであるという主張を立てることもできるし、反Aであるという主張を立てることもできると。
それぐらい議論の構成が非常に上手い人たちのことをソフィストと呼ぶと思うんですけど、
ということはそういう人たちにとって正しい主張というのはないわけですよ。
あらゆることが反対意見も組み立てられると。
非常に相対主義な感覚を持っていた人であるとまず出てくると。
これがプロタゴラサで、その以降が古代会議主義というふうに分類されている。
これは著者の分類というよりは一般的な区分らしいんですけど、
前4世紀から後3世紀あたりまでの範囲で、
まずピロン主義といった主義でないピロンさんそのものがスタートであって、
その後中期アカデミア派。アカデミアというのはプラトンが作った学校かな。
そこに所属していた人たちで、最後がピロン主義。
一番最初にできたピロンさんをそこにピロンに変えろみたいな感じの人たちがピロン主義。
このまま3つの区分があると。
ピロンさんが結構キーマンなんですけど。
なぜピロン主義というぐらいですか。ピロンさんがキーマンなんですけど。
真実に沿うであるもの、真実なものっていうのは一つもないんであって、
人はただ法と慣習に従ってあらゆることを行っているにすぎないと。
非常に壮大的な感覚を主張されたということなんですけど、
残念ながらその世代の人たちってほぼ書き物が残ってないんですよね。
現在300、400、200とかですよね。
書き物が損してるんで、彼の弟子とかピロンさんがあんなこと言ってたよっていうことから、
彼の発言が構成されてるんで、絶対的ではないんですけど、
おおむねそうだろうという話が進んでいくと。
真実でそうであるものが一つ、真実はただ一つっていうものが言えないと。
言えないとした時に、これを真実だと思い込むなと。
真実かどうかは分からないというふうに判断を保留しておけと。
それを哲学の理論としてではなくて、
一つの生き方として、そのように生きなさいというふうな教えがあったとされてます。
ピロンさんが言っていたとされること。
されていること。
判断を、真実を追い求める。
真実がある、それは真実だと確信する。
そこに従って生きるんじゃなくて、真実かどうかは分からないという判断を保留する態度が、
心の平穏とか、アタラクシアというギリシャの言葉、平成さというものにつながっていくと。
だからこれは一つの哲学理論ではなく、生き方の指針としてピロンさんは述べたと。
そのピロンの後に中期アカデミア派という人たちがいて、
さっき話したって結構ストア派の漢字に近いと思うんですけど、
その中期アカデミア派の人たち、ストア派に対して文句を言ったと批判したと。
ストア派っていうのはまず、自分が真実と感じられるもの以外は無視せよみたいな話なんですよね。
基本的に。
確かどっかのシリーズで話してましたよね。
はい、ストア派については話しました。
例えば、目の前にコップがあると。
コップを手に取ったら、これはコップがある、ちゃんとした実態だと。
でも、例えば心配事っていうのは、僕の思念でしかないわけですね。
だから、そんな心配事とかには関わらずらうなと。
できることしかやるなでしたよね、確かイメージとして。
それはいいんですけど、例えば今目の前に僕コップがあって、
それは手に取って確かめられるということって本当なのかと言いたいわけです。
中期アカデミア派の人たちは。
ストアの言説に対して。
だって自分が手に持っているコップも持っている感覚があるだけであって、
実態にアクセスしているわけではないではないかと言われるわけですよ。
ベーコンとかそういう系の人たちが言っていたイメージですね。
前のことを言っているのか。
だから、常にそこに帰っていると思うんだけど。
だから、判断保留の態度が全然弱いんじゃないかと。
そこにコップがあること自体もまだ判断保留できるんじゃないかと、
中期アカデミア派の人たちは言うわけですね。
その後に出てくるピロン主義の人たちは、
いやいやその中期アカデミア派の人たちも間違ってるんではないかと言いたいですね。
中期アカデミア派の人たちは、
コップがあるみたいなその実態の感覚は存在しないと。
存在しないものをストア派は存在しているというふうに反論してたんですけど、
お前たちは存在しないということを確信しているではないかと言うわけですよ。
ピロン派の人たちは。
まじ泥試合ですね。
ピロン派の人たちは、判断保留を徹底することはあるかないかすらを
言うこと自体がもうそれは判断してしまっていると。
だから真実を探求するというスタイルは、
そもそも真実があることが滑舌されてますよね。
そうじゃないんだと。
探求する真実かどうかというか、
これはどうなっているんだろうということを常に探求し続ける姿勢を持てと。
それこそがかつてピロンが言ったことであるということでピロン主義と言われています。
あのあれですね。泥試合だけど最終的にはいいこと言っとるやん。
ここが一つの会議論、会議主義の一つのクリティカルな秘境でして。
これっていうのは、なぜそんなことを言うのかっていうと、
中期アカデミアの人たちに対してピロン主義の人がわざわざそういうことを言うのは
あなたたち独断に捕らわれてますよねと。
真実があるとかないとか。
どっちがあるかそれは独断ですよねと。
それたち独断に捕らわれている人たちを
なんとか独断から脱出してほしいと願っていると。
だからこそ何か言うと。
その時に当たり前ですけど、
あなたたちが独断に捕らわれてますということすら
判断できるかどうかわからない。
そういうルートは通らずに、
ある種の考えとか話し合いをする中で、
当人があれ?これもしかしてドグマに捕らわれてるんじゃない?って
気が付く状態に移行することをいかにサポートするのかっていうのが
ピロン主義たちの態度であると。
だから絶対的なものはないだっていう主張を押し付けることは
ある種の判断ですから。
それをせずに応答する中で考える中で
勝って気が付いていく。
これは結構ソクラテスの問答もそれに近いと思うんですけど
当人があれ?
自分の主張って最初と最後で反対のこと言ってるよなって気付くことで
当人がそのドグマの状態から脱出する手がかりを
送っていくということをしようとしてたのが
ピロン主義の一つのスタンスで。
僕はこれに非常に共感を持てるというか
これが一つのアプローチだなというのを感じたところですね。
この1章と2章のピロン主義の話が非常に面白かったです。
ストア派とすごく近いような気がしますね。
ストアを実践していった時に
ストアは基本的に自分の生活だけを気にするわけですけど
ピロン主義の態度はそれを何とか他人にも影響を及ぼすように
どうしたらいいのかを考えている人たちという感じ。
どちらにしても独断とか信念によって
人間の生き方が苦しくなっている状態があるとしたら
それを何とか解除したいというような願いがあるというのは
共通していると思います。
めっちゃ科学否定論の人たちに役立ちそうな考え方
そうですね。これは2冊目の本で繋がる話で
今ここでビッグワードしてるんですけど
何が真実なのかを判断保留性ということを言うと
じゃああなたは道を歩いてきた時に
前から馬車がこっちに向かって突っ込んでくると
いやあれは馬車が突っ込んできてるかどうかは真実か
また泥試合に戻ってきた
というイチャモンがあるわけですけど
一応それに対する反論としては
それはそもそも判断するようなことではないよねと
それはつまりある種の知識ではないわけですよね
前から馬車が走ってくるというのはある種の感覚なわけで
そこは別にいいんじゃないかと
そこを本当に疑いだすと日常生活がまもなくなるわけですから
本当にそうですよね
そういう感覚的なものは別に
そもそも判断云々感
判断保留っていうもので言われている判断には入っていないと
神がいるかどうかは判断のあれかもしれませんけど
前から馬車が走ってくる
避けるっていうことに
多分僕たちは直感的に避けますよね基本的に
危ないって言って避けますよね
それは何か意識的な判断の手前で行われていることなので
そこまで別に入れろとまでは言ってないという主張があると
まだ突っ込めそうなところはいっぱいあるような気がするけど
まあとりあえず
そこはそういう切り返しが可能であるというのと
ちょっと似てるんですけど
このピロン主義とか
ピロンそのものとかは
監修
法律
技術など
受け継がれてきたものに従って自然に活動する場面にも
それは当てはまると
つまりそこをいちいち疑うなどを言ってるわけですね
神がいるは監修にはならない?
疑うから
神に従って何か
祈りを捧げるは監修やけどきっと
それは僕はいいと思うけど
神がいるかで会議して生活がままなくなったりとかするのは
あまり良くないと思うんで
その辺の線引きがある種の制度
特に長く続けられてきた
今のこの社会を成立させるために
機能してきたものを
いちいち疑うっていうことは違うんじゃないかと
いう話なんですけど
それは結構保守主義だよねという
反論があり得ますよね
保守かもしれないですね
完全に保守なんですよね
だからここは多分突っ込みどころがあって
ある安定した平和な社会において
そこで成立させている制度を疑うのは
多分基本的には意義のない沼にはまる
意義ですけども
社会そのものが大きく変更しかねない
しようとしている時に
技術とか法律とか監修を疑わないというのは
ちょっと問題があるので
このピロン主義の判断保留が通じる場面が
ある程度社会的に限定されるんじゃないかというところの
指摘はあると思います
それは本書にも書かれていました
常にこれで生きようということではないですけども
ある安定した社会において
今まで続いてきてこれからも続いていくことが期待される社会において
それを支えているような制度とかを
いちいち疑うな
そもそも疑って壊すと困ることになりますよね
という実際的な問題もあるので
そういう線引きがなされていると
その辺がピロン主義とかピロンとかピロン主義についての
古代かなりギリシャ西洋哲学の根源にあって議論されてきた
この時代からずっと
すでにこの短いタームでも
その会議論についていろいろ応答があったわけですけど
そういう考えの歴史がありましたと
ビュッと話が飛んでモンテイニューに行くんですけど