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BC145『懐疑論』『科学否定論はなぜ人を引きつけるか』
2026-08-11 1:10:19

BC145『懐疑論』『科学否定論はなぜ人を引きつけるか』

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今回は二冊セットシリーズの第四回として、『懐疑論』『科学否定論はなぜ人をひきつけるのか』の二冊を取り上げました。

哲学方向と科学方向と若干の違いはあれど、重要な部分は共通していると思います。

収録に使ったメモは以下からご覧いただけますので、書誌情報もそちらを参照ください。

◇ブックカタリストBC145用メモ | 倉下忠憲の発想工房

真実をめぐる冒険

インターネット以降、専門家の権威が崩れてしまい、またフェイクニュースや詐欺的な活動の勃興も相まって、何かを素朴に信じることができなくなりました。

陰謀論や科学否定論にはまっている人を「信じやすい性質」だと理解することが多いかと思いますが、よくよく考えれば、私たちは科学的な通説を当たり前のように信じているわけです。それに対して疑義を持っているのがそうした人たちで、むしろ「疑いやすい性質」を持っていると理解したほうが良いでしょう。

でもって、専門家の権威が崩れたということは、「専門家に任せておけば安心」という信頼の構造が崩れていることを意味しています。そうなると不安が生じ、「正しいこと/真実」がよりいっそう強く求められることになる。

そのときに、その不安を解消してくれる人が現れたら、私たち人間はそこに引き寄せられるでしょう。「あいつらは現実のことをぜんぜんわかっていない」と強い声で批判し、「正しいことはこれだ」と断言してくれる声は、不安でいっぱいな心を愛撫してくれるはずです。不信感を共有するコミュニティの出来上がりです。

ようは、私たちが今置かれている情報環境と人間の心理をまったく無視して「正しい証拠を提示すれば問題は解決する」というアプローチでは問題は解決しないばかりか、まさにそうしたアプローチが不信感・不安感を増長させていることに目を向ける必要があります。

「正常・異常」のような規範性を持ち出さなくても、懐疑や科学否定論にはまることによって生きづらさを抱えている人がいたら、その人をケアするという姿勢を持つことはできるはずです。そのためには、人の話を聞き、こちらの話も聞いてもらうというコミュニケーションの基本がとても大切になってくると思います。

その他の回:



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感想

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サマリー

今回のブックカタリストは、「懐疑論」と「科学否定論はなぜ人を引きつけるのか」の2冊を取り上げ、現代社会における懐疑主義や科学否定論の背景と心理、そしてそれらとの向き合い方について深く掘り下げています。インターネットの普及により専門家の権威が揺らぎ、情報が氾濫する中で、人々は真実を求めつつも不安を抱えています。このような状況が、陰謀論や科学否定論に人々が引き寄せられる土壌となっていると指摘します。 番組では、古代ギリシャの懐疑主義からデカルト、さらには現代の科学否定論まで、その歴史的変遷と論理構造を解説。特に、懐疑論を単なる疑う姿勢(懐疑論)から、より建設的な探求の態度(懐疑主義)へと発展させることの重要性を強調しています。また、科学否定論が単なる無知からではなく、専門家への不信感や情報へのアクセス困難さから生まれる場合があることを示唆し、信頼関係の構築や対話の重要性を説いています。 最終的に、これらの問題への解決策は単純な知識の提供ではなく、相手の話を聞き、共感し、ケアする姿勢にあると結論づけています。現代社会における科学と市民の距離感や、情報過多による不信感の広がりを踏まえ、祭りや地域社会といったアナログな繋がりや、時間をかけて関係性を築くことの価値を再認識させる内容となっています。

リスナーからのコメントと読書術について
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 まず最初にコメント等を紹介したいと思います。
はい、お願いします。
タカピさん、後半も良いネタが多い。しかし、著者もあまりに分野が広範囲に及ぶと、書く技術が足りなくなってくるのか。
分かりがたい部分を読書側がAIで補おうというのは、かなり正当な使い方だけど、私だったら面倒臭さが先立ってしまったわ。
というご意見ですけど、まあ、そうですね。
まあ、当然そうですね。
だって、もう結構誠読に近いことをなさってましたもんね。
そう、まあ、でもやっぱりそういう価値がある本は、やっぱりそう読む方が自分が思うになんだけど、結果的に俺は10年先を見つめたらこっちの方がいいと思っている。
だから、総読書冊数が多少減ったとしても、そういう質の高い本については深く読んだ方が読書人生クオリティーが上がるであろうと。
そうですね。目標、俺は教養を得るなので。
それは大切だね。
ちゃんと教養を得るためには、結局一つ一つをちゃんとやった方がいい。
まあ、でもやっぱりどうしても、その分野のプロであっても、この分野はちょっと触っただけですみたいなのは当然出てくるので、そこを精々AIとかユーザーの検索で補いながら読むというのは、インターネット時代の本の読み方のパターンでしょうね、きっと。
そう同じく、確かアフタートークとかで話したと思うんですけど、やっぱり興味持てないことは時間をかけようという気には当然全くならんので、ここ何回か動物系の本を読んでみたけど、興味持てずにやめてるんですよね。
なるほど。
まあ、そういうことなんやろうなっていう。
まだいろいろパラパラと見ていって、ヒットするものがあったら深読みしていくという感じ。
そうなので、言ったら自分はやはりいわゆるスケールの大きな歴史とか、もっと大きなレベルの宇宙から始まって現代から未来までみたいな、そういう概念はどうも好きっぽい。
なるほど。
高校生とかめっちゃ調べたのは直接は関係ないんだけど、とはいえやっぱそれが当然めんどくさい。あとあれかな、やっぱりコツとしてはそれがネタになっているからやれるっていうのがあるかな。
まあ確かにね、僕らこのような情報発信者にとってあらゆることがネタですからね。
これは面白いからやろうと思えるというのは、すごくスケールの大きなライブハックな気がする。
まあ確かにそうですね。
全てはネタになるっていう。変なことすると簡単に変なYouTuberになってしまうので。
でもあれはそうですね、全てがネタになるというよりは、もうネタって確定しているものを責めている感じがしますけど。
そうだね、例えばスーパーで買う前に食うとか、それはもう違いますよね、明らかに。
なんかだから手に負えないを編み直すでも出てきましたけど、ごく当たり前のことが実はネタになるという方が価値の探索が大きいというかね、新しいものを作り出せる感じがしますね。
あとあれですよね、他の人に真似できないが重要な気がするな。
さっきのスーパーとかは社会的制約を振り払えば簡単に覚えつけるし、真似できるし。
まあそこですよね。それをやることはやっぱりヤンキーがモテるのと同じ理屈でダサいからな。
その通りにそれぞれの人が持っている興味の形っていうのは人それぞれなので、その興味の形に沿って探索していくと結果的に他の人に出せないパフォーマンスになっていくという感じがしますね。
ですね、ということがなんか期待できる気がしますね。
紹介する2冊の本の概要
はい、ということで今回は145回、会議論、科学否定論はなぜ人を惹きつけるか。
はい、というわけで、クラシタの恒例の2冊本シリーズということで、間違った。
これまで3回やってきたのかな?ページ変えますね。
3、多分。
はい、今が4回目になります。
もう冊数が多くて覚えられん。
新書系を結構2冊セットで取り上げることが多かったんですが、今回も新書系2冊ということで。
1冊目が会議論、古代ギリシャからデカールと陰謀論までという中古新書の本でして、2026年の2月25日に出ました。
古谷哲也さんという方で。
古谷哲也さん。
古谷哲也さんの方で、1979年生まれて結構年近いですね、今気が付いたんで。
知らなかった、もっと年上やと思った。
思ってましたね、僕も。もっと年上やと思ってました。
哲学の研究者の方で、僕型リストで言うと、僕が哲学史入門の4というのを取り上げたときに冒頭の章を担当されておられたのと、
薄い本を読もうという会があったんですけど、そこですごい古典入門シリーズとかを紹介したんですが、
そのウィト・ギンシュタインの論理哲学論考の基本という本を書かれていたりとか、
あと間で考えるシリーズというのを友達に紹介したんですけど、
そこで言葉なんていらないという本を書かれているのと、超有名な100分で名著シリーズで、
ウィト・ギンシュタインの論理哲学論考と哲学探究。
ウィト・ギンシュタインの前期と後期を代表するような人たちと紹介されているということで、
結構ポピュラー向けの哲学の本を読んでいる人であれば、おそらく触れたことがある方ではあろうと。
日本で多分ウィト・ギンシュタイン関連の現存するというか、書店で手に入る本はほぼ全てフルトさんなんじゃないかというイメージですよね。
非常にわかりやすく、読みやすく書かれる方でして、ウィト・ギンシュタイン以外にも自身の著書として謝罪論とか、
このゲームにはゴールがないとか、不道徳・倫理学講義とか、いつもの言葉を哲学するという、結構新書系の本が多いので、
僕もちょいちょい読んでいるんですけども、今回はその会議論をテーマにした本を書かれたということです。
今までのウィト・ギンシュタインと比べるとちょっと分野が離れる。
哲学史全体に及ぼす射程があるような本なんですが、一応目次をざっと紹介しておくと、
第一章で古代ギリシャでの起こり、会議論というのがどう起こってきたのか、どう流れてきたのか、
その中で特にピロン主義というのがございまして、それが第二章でフューチャーされておりまして、
それ以降、第三章からピロン主義とか非常に古い古代ギリシャあたりからの流れですけど、
ちょっとギュッと飛んで、近代でいうとモンテーニュあたりからデカルトあたりの会議論。
たぶん会議論というとパッと思いつくのがデカルト3だと思うんですけども、
そのデカルトというのが本書の位置付けでいうと、デカルト以前、デカルト以後みたいな線引きができるんじゃないかということで、
フューチャーされておりまして、第4章でウィトゲンシュタインが出てくるんで、ここは著者の専門分野で、
会議論的な視点から見た時のウィトゲンシュタインがどうであるか、みたいなところが語られて、
第5章で会議主義の意義ということで、ここでちょっと注目したいんですけど、会議論という本ですけど、
第5章で会議主義の意義というところで、言葉遣いがちょっとニュアンスが変わっているんですけども、
会議論と会議主義ということを一般的には混ぜて使われるんですけども、本書ではその2つに間違いを見出して、
それを際立たせて、先回し言うと会議主義でいこうよということですね。会議主義でいこうよと。
会議論から会議主義へということが全体をとして語られる本でして、哲学史というか哲学学として読んでももちろん面白いですし、
その会議、基本的に何かを疑うことは考える、思考するということの出発点となるものだと思うんですけど、
考えることが好きな人は基本的に疑うことが得意なわけですけども、疑うって結構難しいんですね。適切に疑うって難しくて、
疑い方がまずいと、どんどんまずい方向に行ってしまうと。
何も信じないにもなってしまう。
そういうことになってしまうので、その会議とかの思考法としての会議として見たときに本書がノウハウとしても色々役立つポイントがあるんじゃないかなと思って、
まず1冊目挙げさせたのが会議論。2冊目が科学否定論はなぜを引き付けるかで、サブタイトルが地球平面説から反ワクチンまでということで、
筑波春章から出ている本でして、2026年の6月10日ということで、ちょっと最近出た本でして、松村和志さんという方が著者なんですけども、
1988年生まれということで、私たちから見たらだいぶお若い方ですけども、
エビデンスの社会学とか、あと無知学への正体っていう本の教授も書かれていまして、
私たちが何を知るのか、それを例えば認知、認識論というよりは、
この社会の状態とか社会の制度から見た時に知識とは何か、何を知識と言えるのかとか、
科学哲学とか知識社会学と呼ばれる分野があるらしいんですけど、
知識社会学、ちょっと想像できた。
というものを研究されている方が書かれた本で、結構それまでの本は専門書というか、
研究者向けの本が多かったんですけども。
おだしょー 出版社的にもだいぶ渋いところが多い。
三沢 そうですね。本書は新書ということで、僕のザッと読んだ漢字、非常に読みやすい内容でして、
ザッといくと序章が真実、かけがく付きの真実を求める社会ということで、
ポストトルースとかいろいろ言われている現代において、その真実を追い求める姿勢というものと、
その科学否定論とのつながりがあるんじゃないかという話。
題書が生き残る地球平面説ということで、地球平面説って漢字を見たらわかると思うんですけど、
この地球は球体ではなくて平面だと。
たぶん端っこにいたら地球の端みたいな感じで。
おだしょー 見たことないのは事実なんですよね、俺も。
ということが、どんな起こり方をして、どんなふうに今まで命脈を長続きしてきたのかということが、
提唱者とか制度的なものと解説して語られます、紹介されます。
つまり、地球平面説という一つの学説ではないですけど、説の歴史を振り返るということで、
つまり、こんなものは間違っているんだというようなことではなくて、
それを主張している人たちがどのようにこの説を主張してきたのかということを、
割とフラットに観察と記述するような内容でして、
それを一つサンプルとして2章以降で、
科学否定論とは何かとか、科学と擬似科学の間、
第4章が陰謀論の何が問題かで、第5章がエビデンスと陰謀論、
第6章が内なる否定論と向き合うということで、
冒頭の序章に出てくる、一番最初に出てくる話なんですけども、
誰かがトコトコと来て、富士山は日本で2番目に高い山だと主張をしたとしますよね。
素朴な僕は、いやいやいや、富士山は日本で一番高い山だよって言ったとしたときに、
それって証拠あんの?って切り返されたとしますよね。
で、例えばこの地図帳にこう書いてあるよって言ったら、
その地図帳が正しいって何で言えるの?っていう風に切り返されるわけですよね。
こういうふうに言っていくと、そもそも私が知識として、
富士山は日本で一番高い山だって知ってるっていう風に感覚のまま生きてますけど、
それを知ってるってどういうことなんだろうと。
で、それにさっきのような、ひろゆきさんみたいな人が突っ込んできたときに、
どこかの時点で示す証拠がなくなるわけですよね。
誰かがそう言ってたからっていうしかなくなってくる。
そうすると、それは適当に物を言っている人間と、
どんな違いがあるのかがだんだんわからなくなってくるわけですよ。
そういうとこで、科学否定論と呼ばれているようなものも、
完全に無視するわけではない。
そういうことを仮に言われたときに、こっちは応答できないような、
うろたいてしまうことがあるんで、
ちょっとちゃんと考えておきましょうというのが冒頭で語られる話で。
そもそもタイトルの科学否定論という言葉は、
僕は本書を読むまで全く知らなかったんですよね。
多分、科学を否定する何かだろうという感じは、実装でわかるんですけど。
一応本書で挙げられているものが、さっき言った地球平面説。
創造説というのは、神が生物を作ったという。
気候変動否定論。
気候変動があるにしても、それが人間の営みである影響ではないんだ、
みたいなことを言う人たち。
エイズ否定主義というのは、HIVみたいなもののせいではないんだ、という人たち。
ホロコースト否定論というのは、ホロコーストというのは実際なくて、
何か証拠が捏造されているんだ、という人たち。
反ワクチン運動は直近盛んやったのでわかると思うんですけど、
ワクチンというのは人体に悪影響があるから、
ありとあらゆるワクチンを排泄しようという、かなり極端な主張を取る人たち。
こういうのが大体、科学否定論としてまとめられている。
代償的なやつかな。
それが、どのようなメカニズムで生まれているのかを解き明かしていく。
人間の認知とか心理とか、現代に向かっている状況とかを踏まえつつ、
これをグマイナー意見だというのではなくて、
ある種進化論的に見たときに、こういうものが起きて、
存在していることに何かしらの合理があるのではないかという観点を取りながら、
紹介していく本です。
「懐疑論」の歴史的背景と現代的意義
もう2冊の本がざっと紹介できたので、
ここまででもうだいたい読もうと思っていただいた方は、
どっちもあれですよね。大きな意味で同じことをしているのに、
なぜ違うのか。
というところが面白いんですけども、
一応簡単に僕が読んだポイントを2冊を通して紹介したいと思うんですけど、
まず最初の解理論とは何かということなんですけど、
物事の大切さや真実に対して解義を向けて判断を保留する立場だと。
本当に何が正しいとか、何が真実、真理であるのかっていう、
あるいはそもそも真実など存在するのかということを問う立場、
問う考え方が解義論と。
一言で解義論と言っても、実はかなり多様な解義のバリエーションがあるんですね。
何を疑うのかということに、低レベルから高レベルまで、
あるいはその表面レベルから深いレベルまで結構ありまして、
本書ではそれをいくつか例を挙げながら紹介しているんですけども、
今回の趣旨にはあまり関係がないので飛ばしますが、
その解義論の具体的なバリエーションについて知りたい方は、
この解義論とともにもう一個山口さんという方が書かれた、
早川新書から出ている「哲学の始め方」という本があるんですけど、
その本でも解義論が扱われて、それも一冊通して全部解義論が扱われている本なので、
多分その本はまた紹介すると思うんですけど、
この本とその本を合わせて読むと、
いろんな解義論のバリエーションがあるということがわかると思います。
僕は結構そんなところまで解義するんだというふうに面白く読めましたので、
詳細は本書を読んでください。
何を疑えばいいのかということの疑い方のヒント?
フリームワーク?
例えば哲学とかこのような思考にハマる人は、
その解義の沼にハマってしまって抜け出せなくなる時があるんですけど、
自分がこういう解義にハマり込んでいるなというふうに気づくことができる。
だからパターンを知っておくというのは結構ありとあらゆる思考で重要だと思うので、
考えることが好きな人ほど解義論は慣れておいた方がいいと思うんですけど、
現代におけるその解義、疑うことの位置づけとしては、
まず何が正しいのかはよくわからない、
完全としない情報社会がやってきていると。
昔は偉い先生が言ったら正しいみたいなことをやったのが、
インターネットとかSNSによって本当にそうかなというふうに、
専門家であっても専門以外のことでも間違うことがあるし、
専門のことでも間違うこともあるので、
そういうことがもう結構明らかになってしまった社会の中で、
疑うということが出てくると。
ただし疑い続けていっても行動は取れないわけで、
どこかで何かを信じて進んでいかなければならない。
会議との付き合い方というのが重要。
全く疑わないのも、それはそれでもちろんまずいわけですから、
ある程度疑いつつ、疑いの沼にはまり込まないようにできたらいいよね、
というところが本書の一つのアピールポイントというかな。
会議を身につけましょうと、会議との適切な距離感を身につけましょうという定義で始まっていくと。
本書でいくつかのポイントとして出てくるのが、
会議論と陰謀論の違い。
何にしようかと言うと、会議論と相対主義の違いというのがいくつかポイントに挙げまして、
陰謀論は非常に現代的な風潮ですけど、
陰謀論と会議論もちょっと似てるんですよね。
陰謀論で言うと何か、
例えば911は政府の自演であるみたいなやつは多分陰謀論だと思うんですけど、
つまり定義された映像が何かを不自然であるという、
正しくないのではないかという会議を伴っているわけですね、陰謀論の発端には。
だからそういう私たちが当たり前だと思っているものを疑うという姿勢と、
会議論というのは結構近い、あるいは共有している部分があるけど、
それって区別つくんですかというのと、会議論と相対主義というのがありまして、
相対主義というのは正しいものは一つではないということなんですけど、
いろんな正しいものがあるということですけど、
正しいものが一つではない、これは正しいのかと問うことと、
正しいものが複数あるという、相対主義と会議論もちょっと近いんですよね。
相対主義じゃないので、これが絶対の真実だと受け入れる状況が非相対主義なわけですけど、
絶対に正しいと言われているけど本当かな?
正しいものはもうちょっとあるんじゃないかなと考えた相対主義で、
これも契機としては会議があると。
だからこれも近いんだけど、ちょっと違いがあるんじゃないかなということで、
この辺の語彙の区別に注意を払って読むと、本書の理解が深まるかなと思います。
冒頭の方は、ヨーロッパの哲学とか古代理事から始まって今後に続くヨーロッパの歴史において、
会議論がどのようなふうに現れて、どのような役割を果たしてきたのかと。
で、先ほども言ったようにデカルトがキーマンというか、
何もかも疑ったと言われている人ですよね、一般的には。
デカルト以前と以後で会議というものの扱われ方、位置付けっていうのが変わってきたというのが本書の大きな主張で、
その変化が、さっき言った会議論と会議主義の違い。
本書の視点にとれば、デカルト以前は会議主義であった。あるいは会議主義の割合が強かった。
デカルト以降、会議論になっていったという区別が本書全体で明確になっていくんですけど、
冒頭あたりはその区別あんまりなくて、会議論と会議主義っていうのはまとめて語られるわけですけど、
一番の会議論のポイントは、一般の人たちは疑っていないものを疑うことなんですね。
一般の…どっちがでしたっけ?会議論?会議主義?
会議そのものは。一応会議論としてここは話を進めておきますけど、
会議論ということは基本的に社会の多くの一般の人たちが疑っていない、常識として受け入れているものを
いや、そうではないのかということが初めて会議論と言えると。
だから、社会一般の人たちが疑っているものを新たに疑っても、それは別に会議論としては注目されないわけですね。
NASAは宇宙人を捕まえていたというのは本当かを疑っても会議論ではない。
その代表として、この本の一番最初に出てくる人物として、プロタゴラスという古代ギリシャの方がおられまして、
最初のソフィストと呼ばれている方なんですけど、
その人は神がいるかいないかをわからないって言ったらしいんですよ。古代ギリシャですよ。
そんなこと言ったらどうなるかって言うと、アテネから追い出されるわけですね。
彼の本も焼かれたらしいんですけど、それぐらいその時代、その社会の突拍子もない意義を疑問を立てることが基本的には会議論であると。
現代神がいるかいないかわからないと考えてもそれは会議論ではない。
ある時代の一般的な通念に対して、それって本当って言われてるけど本当ですかっていうある商発的なことを言うときに、それが会議論というふうに認識されると。
プロタゴラスさんは会議論でもあるんだけど、相対主義の感覚もあり、神がいるかいないかはわからないと言ったんですね。
神がいないとも言ってないわけですよ。
いるとは断言できないという。それだけでもすでに絶対神的な存在化したら、神がいるかどうかわからないということ自体も冒涜的ですけどね、もちろん。
でも基本的にいないと言ったわけじゃなくて、いるかどうかはわからないというふうに言ったと。
彼はソフィストだったんで、僕らは別にソフィスト見たことはないですけど、議論の達人だと言われてますよね。
議論の達人というのはどういうことかというと、ある手段に対してAであるという主張を立てることもできるし、反Aであるという主張を立てることもできると。
それぐらい議論の構成が非常に上手い人たちのことをソフィストと呼ぶと思うんですけど、
ということはそういう人たちにとって正しい主張というのはないわけですよ。
あらゆることが反対意見も組み立てられると。
非常に相対主義な感覚を持っていた人であるとまず出てくると。
これがプロタゴラサで、その以降が古代会議主義というふうに分類されている。
これは著者の分類というよりは一般的な区分らしいんですけど、
前4世紀から後3世紀あたりまでの範囲で、
まずピロン主義といった主義でないピロンさんそのものがスタートであって、
その後中期アカデミア派。アカデミアというのはプラトンが作った学校かな。
そこに所属していた人たちで、最後がピロン主義。
一番最初にできたピロンさんをそこにピロンに変えろみたいな感じの人たちがピロン主義。
このまま3つの区分があると。
ピロンさんが結構キーマンなんですけど。
なぜピロン主義というぐらいですか。ピロンさんがキーマンなんですけど。
真実に沿うであるもの、真実なものっていうのは一つもないんであって、
人はただ法と慣習に従ってあらゆることを行っているにすぎないと。
非常に壮大的な感覚を主張されたということなんですけど、
残念ながらその世代の人たちってほぼ書き物が残ってないんですよね。
現在300、400、200とかですよね。
書き物が損してるんで、彼の弟子とかピロンさんがあんなこと言ってたよっていうことから、
彼の発言が構成されてるんで、絶対的ではないんですけど、
おおむねそうだろうという話が進んでいくと。
真実でそうであるものが一つ、真実はただ一つっていうものが言えないと。
言えないとした時に、これを真実だと思い込むなと。
真実かどうかは分からないというふうに判断を保留しておけと。
それを哲学の理論としてではなくて、
一つの生き方として、そのように生きなさいというふうな教えがあったとされてます。
ピロンさんが言っていたとされること。
されていること。
判断を、真実を追い求める。
真実がある、それは真実だと確信する。
そこに従って生きるんじゃなくて、真実かどうかは分からないという判断を保留する態度が、
心の平穏とか、アタラクシアというギリシャの言葉、平成さというものにつながっていくと。
だからこれは一つの哲学理論ではなく、生き方の指針としてピロンさんは述べたと。
そのピロンの後に中期アカデミア派という人たちがいて、
さっき話したって結構ストア派の漢字に近いと思うんですけど、
その中期アカデミア派の人たち、ストア派に対して文句を言ったと批判したと。
ストア派っていうのはまず、自分が真実と感じられるもの以外は無視せよみたいな話なんですよね。
基本的に。
確かどっかのシリーズで話してましたよね。
はい、ストア派については話しました。
例えば、目の前にコップがあると。
コップを手に取ったら、これはコップがある、ちゃんとした実態だと。
でも、例えば心配事っていうのは、僕の思念でしかないわけですね。
だから、そんな心配事とかには関わらずらうなと。
できることしかやるなでしたよね、確かイメージとして。
それはいいんですけど、例えば今目の前に僕コップがあって、
それは手に取って確かめられるということって本当なのかと言いたいわけです。
中期アカデミア派の人たちは。
ストアの言説に対して。
だって自分が手に持っているコップも持っている感覚があるだけであって、
実態にアクセスしているわけではないではないかと言われるわけですよ。
ベーコンとかそういう系の人たちが言っていたイメージですね。
前のことを言っているのか。
だから、常にそこに帰っていると思うんだけど。
だから、判断保留の態度が全然弱いんじゃないかと。
そこにコップがあること自体もまだ判断保留できるんじゃないかと、
中期アカデミア派の人たちは言うわけですね。
その後に出てくるピロン主義の人たちは、
いやいやその中期アカデミア派の人たちも間違ってるんではないかと言いたいですね。
中期アカデミア派の人たちは、
コップがあるみたいなその実態の感覚は存在しないと。
存在しないものをストア派は存在しているというふうに反論してたんですけど、
お前たちは存在しないということを確信しているではないかと言うわけですよ。
ピロン派の人たちは。
まじ泥試合ですね。
ピロン派の人たちは、判断保留を徹底することはあるかないかすらを
言うこと自体がもうそれは判断してしまっていると。
だから真実を探求するというスタイルは、
そもそも真実があることが滑舌されてますよね。
そうじゃないんだと。
探求する真実かどうかというか、
これはどうなっているんだろうということを常に探求し続ける姿勢を持てと。
それこそがかつてピロンが言ったことであるということでピロン主義と言われています。
あのあれですね。泥試合だけど最終的にはいいこと言っとるやん。
ここが一つの会議論、会議主義の一つのクリティカルな秘境でして。
これっていうのは、なぜそんなことを言うのかっていうと、
中期アカデミアの人たちに対してピロン主義の人がわざわざそういうことを言うのは
あなたたち独断に捕らわれてますよねと。
真実があるとかないとか。
どっちがあるかそれは独断ですよねと。
それたち独断に捕らわれている人たちを
なんとか独断から脱出してほしいと願っていると。
だからこそ何か言うと。
その時に当たり前ですけど、
あなたたちが独断に捕らわれてますということすら
判断できるかどうかわからない。
そういうルートは通らずに、
ある種の考えとか話し合いをする中で、
当人があれ?これもしかしてドグマに捕らわれてるんじゃない?って
気が付く状態に移行することをいかにサポートするのかっていうのが
ピロン主義たちの態度であると。
だから絶対的なものはないだっていう主張を押し付けることは
ある種の判断ですから。
それをせずに応答する中で考える中で
勝って気が付いていく。
これは結構ソクラテスの問答もそれに近いと思うんですけど
当人があれ?
自分の主張って最初と最後で反対のこと言ってるよなって気付くことで
当人がそのドグマの状態から脱出する手がかりを
送っていくということをしようとしてたのが
ピロン主義の一つのスタンスで。
僕はこれに非常に共感を持てるというか
これが一つのアプローチだなというのを感じたところですね。
この1章と2章のピロン主義の話が非常に面白かったです。
ストア派とすごく近いような気がしますね。
ストアを実践していった時に
ストアは基本的に自分の生活だけを気にするわけですけど
ピロン主義の態度はそれを何とか他人にも影響を及ぼすように
どうしたらいいのかを考えている人たちという感じ。
どちらにしても独断とか信念によって
人間の生き方が苦しくなっている状態があるとしたら
それを何とか解除したいというような願いがあるというのは
共通していると思います。
めっちゃ科学否定論の人たちに役立ちそうな考え方
そうですね。これは2冊目の本で繋がる話で
今ここでビッグワードしてるんですけど
何が真実なのかを判断保留性ということを言うと
じゃああなたは道を歩いてきた時に
前から馬車がこっちに向かって突っ込んでくると
いやあれは馬車が突っ込んできてるかどうかは真実か
また泥試合に戻ってきた
というイチャモンがあるわけですけど
一応それに対する反論としては
それはそもそも判断するようなことではないよねと
それはつまりある種の知識ではないわけですよね
前から馬車が走ってくるというのはある種の感覚なわけで
そこは別にいいんじゃないかと
そこを本当に疑いだすと日常生活がまもなくなるわけですから
本当にそうですよね
そういう感覚的なものは別に
そもそも判断云々感
判断保留っていうもので言われている判断には入っていないと
神がいるかどうかは判断のあれかもしれませんけど
前から馬車が走ってくる
避けるっていうことに
多分僕たちは直感的に避けますよね基本的に
危ないって言って避けますよね
それは何か意識的な判断の手前で行われていることなので
そこまで別に入れろとまでは言ってないという主張があると
まだ突っ込めそうなところはいっぱいあるような気がするけど
まあとりあえず
そこはそういう切り返しが可能であるというのと
ちょっと似てるんですけど
このピロン主義とか
ピロンそのものとかは
監修
法律
技術など
受け継がれてきたものに従って自然に活動する場面にも
それは当てはまると
つまりそこをいちいち疑うなどを言ってるわけですね
神がいるは監修にはならない?
疑うから
神に従って何か
祈りを捧げるは監修やけどきっと
それは僕はいいと思うけど
神がいるかで会議して生活がままなくなったりとかするのは
あまり良くないと思うんで
その辺の線引きがある種の制度
特に長く続けられてきた
今のこの社会を成立させるために
機能してきたものを
いちいち疑うっていうことは違うんじゃないかと
いう話なんですけど
それは結構保守主義だよねという
反論があり得ますよね
保守かもしれないですね
完全に保守なんですよね
だからここは多分突っ込みどころがあって
ある安定した平和な社会において
そこで成立させている制度を疑うのは
多分基本的には意義のない沼にはまる
意義ですけども
社会そのものが大きく変更しかねない
しようとしている時に
技術とか法律とか監修を疑わないというのは
ちょっと問題があるので
このピロン主義の判断保留が通じる場面が
ある程度社会的に限定されるんじゃないかというところの
指摘はあると思います
それは本書にも書かれていました
常にこれで生きようということではないですけども
ある安定した社会において
今まで続いてきてこれからも続いていくことが期待される社会において
それを支えているような制度とかを
いちいち疑うな
そもそも疑って壊すと困ることになりますよね
という実際的な問題もあるので
そういう線引きがなされていると
その辺がピロン主義とかピロンとかピロン主義についての
古代かなりギリシャ西洋哲学の根源にあって議論されてきた
この時代からずっと
すでにこの短いタームでも
その会議論についていろいろ応答があったわけですけど
そういう考えの歴史がありましたと
ビュッと話が飛んでモンテイニューに行くんですけど
デカルトの方法的懐疑とウィトゲンシュタインの視点
デカルトはすっ飛ばしてモンテイニュー
先にモンテイニューからいかせていただきます
モンテイニューもエッセイで有名ですけど
空聖獣かな
何を知れるのかという問いを
いろいろなことを疑問視したと
彼も非常に相対主義的な感性を持っていて
人間が一番偉いって本当かよとか
そういうことを続けておられると
それと同時代のデカルトが出てきまして
僕の哲学初心者時代でいうと
会議主義というか会議
会議っていうとデカルトがまず
思い浮かぶと
徹底的に疑ったとして有名ですよね
さすがに今説明する必要ないと思いますけども
彼は何とかして揺るがない真実を見つけ出したかったと
しかし人間の感覚というのはあてにならんと
そんなものは知識の土台にはならんと
じゃあどんなことが
知識の基本的な土台になるかっていうと
ありとあらゆることを疑った末に
自分が今何かを考えているということそのものは
疑えないというふうに発見したと
そこからその発見から
真実らしいものを構築していったと
本人は言ってるわけですが
現代的にはデカルトの理論というかロジックは
だいぶ穴があるだろうと突っ込まれて
現代ではいっぱい言われている
一番疑った末に
今自分が何かを考えていることそのものは
疑えないというところまでは
一応反駁はできないし
そこから真実の大器を築いていく道のりに
どうしても絶対的な神というものが
要請される構図があり
それはちょっと
しかもその絶対的な神があって
真実が構築できるっていうのと
真実があるから神が認識できるっていうのが
入れ子状になってて
循環しているという批判があるらしく
僕は結構デカルトの本を最初に読んだ時
この人はこの考えはすごいって思ってたんですけど
結構反駁されていると
いろんなデカルトが
徹底的にいろいろ考えて
その影響を受けた
様々な現代的な会議っていうのはありまして
例えば
顕微鏡の中の脳か
僕たちは今何か生きているように感じるけど
実は脳がある種の
顕微鏡の中
ビーカーの中に入ってて
配線とか繋がっていて
そこでただ夢を見ているだけだというような会議ですね
これはマトリックスに通じて
クワインとかが言ってたやつ
とかその系統
あるいは世界5分前仮説
世界5分前創造仮説か
僕たちは地球とか宇宙が
すごい長い年月続いてきた気というように感じるけど
実は5分前にできたかもしれない
全部作られてるってやつですよね
ありとあらゆる過去の証拠も
5分前に作られたとしたら
僕たちはそれは区別つかないんじゃないかな
というようなものも
この徹底的な会議
現実の性の様式そのものを疑うような会議は
基本的にデカルトの方法的会議というところから
生まれてきているのではないかという話があって
いろんな会議の話は可能であれば次回したいと思いますけど
そのデカルトによって会議主義っていうものになってきた
会議論から会議主義っていうものに移行してきたと
会議論から会議主義?
会議主義から会議論になってきたと
やっぱりポイントは
デカルトは哲学の方法として
会議を重ねたわけですよね基本的には
でもピロンは生き方として述べたわけですよね
自身の生き方でもできるだけ判断を保留しよう
というふうに勤めてきたと言われています
でもデカルトはそうじゃないんですね
論なわけです
ロジックなわけです
ロジックを組み立てながら
主義じゃないのか
態度ではないんですね
姿勢とか態度
生き方に根差すものじゃなくて
ある種のロジックとして
それを考えたっていうところが
会議論と会議主義と違いとして
本書で取り上げられているところで
以降のさっき言った極端な会議も
基本的には会議論なんですよね
世界が5分前にできたからといって
そのように生きてるわけではない
会議主義ではない?
ない!
というところが指摘されていて
なるほどなという話を確認して
ちょっと次に繋がるんですけど
ここで著者の専門である
ウィトゲンシュタインが出てくるんですけど
結構ね
ピロリン主義とかモンテールとも重なる
つまり一つの態度
姿勢として疑っていくと
ウィトゲンシュタインは
彼の著作はどれも名責なんですけど
会議について語っているところで言うと
全てを疑おうとする者は
疑うところまで行き着くこともできないと
疑いの実践は確実性を前提にしていると言って
読めば名責なんですけど
何かを疑おうとしている時
確実に何かを信じてないと疑えないんですよね
全てを疑うためには
何かを信じていないと疑うことはない
だから徹底的に疑う
疑うっていうことを積み重ねていった先に
待っているのは
何の疑いもない
疑えない
疑うということすらできない状態になってしまう
デカルトをだいぶバカにしている感じが
だから逆に言うとデカルトもそれに気づいてたんですよね
おそらくは
どこかで信じるものを持たない限り
疑いっていうのはそもそもできないんだということなんですよ
あれを別風に解釈する
彼は扉と蝶使いっていう話をしてまして
扉がクルクル動くのは蝶使いが止めてるからですよね
蝶使いがない扉はそのまま倒れますよ
基本的には
この信頼何かを信じている疑うが扉だとしたら
何かを信じている蝶使いが絶対にあるはずだと
例えばある種の疑問を提示した時に
僕たちは言葉の存在を疑ってないですよね
そもそも言葉を疑ったら
問いそのものが成立しなくなる
相当難しい想像できない次元に入ってきますね
だから疑ってるっていう
それを何もかも徹底的に疑うとか
正しいものはないとかって言ってる人たちも
何か見えない前提
蝶使いの前提という信じているものがあるんだという話が
ウィトギンさんに語られて
この人頭いいな
言語を使っている時点でその言語を信じているのか
信じているわけですよ
その言葉っていうのは生活の中で初めて意味を持つ
言葉っていうのが人間の実践的使用と
乖離して意味があるんじゃなくて
私たちが使っている中で意味というものが生まれていく
だからここを土台を築き崩して
何かいいことを言ったとしても
実はその見えてない土台が絶対にあると
そこを気づいてない人って
結構しょうもない遊びをしてると
ウィトギンスタイルには覚えるんでしょうね
基本的には
そこは言語ゲームみたいな話と
近いですね
重なっていくと思います
これまたウィトギンスタイルの非常に鋭いんですけど
知識という言葉
あるいは知識っていう概念は
何かを知っている
知っていないを問う時に聞かれると思うんですけど
知識って疑うことができる事柄に
初めて適用される概念なんですね
疑うことができる事柄に適用される
私は私であるという感覚
これは知識ではないんですね
例えば
ハンター×ハンターの新刊が発売された知識なんですよ
本当って言いますから
知識っていうのは基本的に
知識と呼ばれるものは
本当かどうかを問える対象である
問える対象でないと知識とは呼ばない
僕たちが知識と呼ぶものはそうであると
呼んでいるものは
ウィトギンスタイルでいうと
言語ゲームにおける
僕らの言語ゲームにおける知識っていうのは
必ず疑える対象を指して知識と呼ぶと
言った時に
完全
絶対に正しい知識を追い求めるというのは
間違ったゲームなんですね
ポパーの科学の否定性みたいなのと
同じことを言っている
言っていると思います
ある会議主義たちが
知識の不完全さに絶望して
より確かな
完全な正しい知識を求めるということで
会議を重ねていくわけですけど
それをまさにデカルトがやったわけですけど
そもそもそれは無理なゲームだと言ってるわけですよ
知識は常に
それは正しいかどうかは
疑われる対象を知識と呼ぶし
そうじゃないものは
知識と僕たちは呼んでいないと
だから疑えない知識っていうのを
探していくと
泥沼に余っちゃうよということが
ウィト・ゲンシュタインが
言っていることで
そのように
あ、そうか
ここは疑っても仕方がないことだっていうことに
気づかされるのが
ウィト・ゲンシュタインがやりたいことで
これは哲学における治療的アプローチという話があるんですけど
彼もピロン主義と一緒で
そんな風に考えられるんじゃないかと思ってもらいたい
それが真実だと言いたいわけじゃないんですよ
そのように考えたら
あなたの世界はどのように見えますかという変容を迫ってくるんですよ
ここが面白いとこで
ウィト・ゲンシュタインも色々主張してるわけですよね
多分彼自身の主張に照らし合わせた時に
語る必要あるのとか
語ってる時点で失敗じゃないかっていう話はあると思うんですけど
そうではなくてそれを読んだ人が
自身のドグマに気づいて
あれっと気づいたら
もうウィト・ゲンシュタインのことは忘れてもいいというような話なんですね
彼の主張はもう忘れ去ってもいい
自分のドグマを治療したらそれはもうそれでいいと
これはだから
一つの例えとして下剤の話がありまして
下剤飲みますよね
じゃあ出す時に下剤も一緒に出ますよね
そのように一度取り込まれるけども
成果が上がったらなくなって廃止されていくもの
あるいはその梯子の例えもあるんですけど
梯子を登ったらもうその梯子はもう蹴り飛ばしていいっていう
タイプの主張としてウィト・ゲンシュタインは
主張されてるし
彼の哲学全体的にそのように語られていると
基本的に先の話
言葉が知識は僕たちは知識はそのように使っているとか
言葉をまず信用しますよねっていう風に
僕たちの生活っていうものを
成立させる様々な前提があるんですね
でそれ前提だから僕たちは見えてないです
でそれをある種の過剰な
会議論者はそこの前提を疑うわけですよ
僕たちは生活の上に成り立っているのに
その前提そのものを
それってどうなんですかっていう
だから僕たちが知識として使っている言葉を
別の知識として言い換えて
でそれはこうじゃないかって言い始めるわけですね
それは全然
僕たちが生活していく上で特に役立つことなくて
ある種の哲学ゲームが行われているだけなんです
要するに
それは別にいいんですけど
基本的にはある種の
僕たちがその哲学者も普通に言葉を信用して
誰かと会問して生きているはずなのに
その生活基盤に乗っているはずなのに
ある種の哲学する時だけそれを疑ってしまう
それはある種の無責任さでもあるんではないかという話が
提示されます
だからこの会議論の一つのポイントは
会議論
過剰な会議論者がやっていること
会議主義者が心がけていることっていうのは
生活の基盤っていうものを大切にするということなんですね
どちらも
彼らはその生活の前提とか基盤であるっていうことを
全く忘れて
ある種の超越的な立場から
言語とか真理とかを論じようとするわけですよ
でもウィトゲンシュタインとかピーロン主義者は
まず僕たちが生活してますよねと
この世界で扱って行っていることとか
やり取りされる言葉とかっていうのがありますよねと
そこから何が言えますかっていうことを考えましょうと
いうふうに述べていると
ここの線引きが会議論者と会議主義者の違いとして
上がってくるし
会議を適切に
つまり
疑うべきでないところまで疑わせない線引きを
設けるとしたら会議主義的にやったほうがいいですよね
ということが全体的に確認されるというか
僕が会議論という本から受け取った内容です
なんか初めてね
自分がどうもデカルトとか興味持てるなって思っていた理由が
ちょっとわかった気がする
論を持て遊んでいるだけ風?
生活というか
だからなんやねんなんですよね
俺の言い方で言うと
科学否定論の構造と現代社会における信頼
もちろんそれぞれの哲学者には
切実な思いというのはあったと思いますけど
僕らの日常生活との距離感というのは確かにあると思いますね
極端なことを言えばそんなことどうでもええやん
それを言ったら哲学でありたたんだけど
ウィトゲンシュタインとかリチャードローティはむしろ生活
僕らの日常に会議させようと試みた人たちだとは思いますけどね
そのようなエステンスを受け取って
2冊目の科学否定論あるいは否定主義と呼ばれるんですけど
ここにも主義と論が出てきますが
科学否定論って何かっていうと
科学の通説を否定するんだと
で、著者の説明によると
擬似科学と陰謀論を組み合わせたものという説明があって
単に非科学的なことを言ってる人たちのことではないんですね
なんかすごいわかる気がするわ
で、例えばさっきの地球平面説ですけど
地球平面説はまず地球球体論は間違ってるってまず言われるんです
僕らが日常に社会的通念として受け取っているその考え方を
間違ってるものとした上で
地球は平たいんだという風にまず説明する
だから非科学的なものの色々あって
例えば大体医療とか一部の占いとかはそうですけど
ああいうのって別に科学の通説がどう言ってるかは別に気にしないんですよ
占いの人は科学を否定しないイメージですね
あの人たちはあの人たちでやってるけど
僕たちは僕たちでやってますっていうテイストなんですけど
科学否定論者は一般的な科学の通念を
まず間違ってると言いたい
その上で本当はこうですよっていう話を持ち出すんですけど
ここに陰謀論が出てくるのは
間違ってるはずの通念がこの社会に広がっているのは何ですか
なぜですかって問われた時に
それは陰謀が働いてるから
言うしかなくなってくるんですよね
だって地球が丸いこと
人類が月に行ってないことを
こんだけの人たちが信じてるのはなぜかというと
NASAがめっちゃ頑張ってるからという風に
理由を持ち出すしかないですよね
だから通念に対して
非常に抜本的なレベルで反論しようとしたら
陰謀論を持ち出すしか
その合理的な説明が成り立たないと
ここがポイントは
その人たちも合理的な説明をしようとしてるわけですよ
合理的に説明をしたら陰謀論しか残らない
残らないっていう形で
科学否定と陰謀論っていうのが
その疑似科学と陰謀論がくっつくとこに
この科学否定論っていうのが出来上がってくると
ここまで言うと陰謀論的な人たちは
愚かしいですよねという風に感じるわけですけど
本書の見立てでは別にそうではないと
1冊目の本でも語りましたけど
専門家への不信感っていうのが
ここインターネット以降に増大していると
例えば専門家に対して
それってエビデンスあるんですかっていうのが
一般素人でも言えるようになってしまっていると
この時に例えば
陰謀論的なものが立ち上がってくるのって
無知からではなくて
専門家への不信があると
専門家が何か言うと
それを信じることができないと
それって本当なの?という
懐疑が入り込んでしまうと
エビデンスが出されたって
エビデンスが正しいかどうか
僕らは検証できないわけですよね
だから結局疑おうと思えば
いくらでも疑ってしまう
そういう状況にいる人たちに
例えば知識を教えるとか
より確かなエビデンスを出して
説得するとしても
解決しないんだと
だってそこには信頼
専門家への不信がずっと残っているから
だからこの問題は
どのように信用するのかという形でしか
解決できない
だから疑う力と信用する力を
セットで捉えて
信用してもらえるように
取り組まないとダメだろうと
そのためには
科学否定論の各論者が
どんなロジックで
それを主張しているのかを
ちゃんと耳を立てて聞き
でもそれはこういうこともあるんじゃないですかと
何か言って
そうかもねと思ってもらえることでしか
直せないという話は
さっきの話と全く一緒なんですよね
解疑論への手当と全く一緒で
あるドツボにハマり込んでいる
自分の中のロジックにハマり込んでいる人に
外から知識とか主張とかをバッて投げてもダメで
むしろ話をうまく聞いてもらえてない人
話を聞いてもらえてないっていうのは
信頼を
回復じゃないな
信頼を構築できないわけですよね
例えばガンとかの治療に対して
いわゆる代替医療にハマる人がいるわけですけど
おそらくはお医者さんとのコミュニケーションが
うまく取れてないんじゃないかなと
僕は想像するわけですよ
そもそも疑うとかの気持ちはわかる
で患者というか患者の家族側には
不安があるわけですね当然のように
でも医者がただ治療方針を説明するだけで
その不安感に寄り添えないとしたら
不信感が生まれますよね
それで本当にいいのかっていう
そこに対して代替医療の人が
大変ですねって話を聞いたとしたら
どっちを信じるかって言われたら
そろそろそっちを信じるなっていうのは
僕はわかる気がするんですよ
人間って知識の正しくない以前に
誰が信用できるかをまず判断すると思うんですよ
そこで話を聞かずに一方的に押し付ける人と
話を聞いてくれる人がいた時
どっちを信用するかって
それは話を聞いてくれる人を信用し
その信用の上に乗った知識を採用すると思うんですよ
だからここの1階の部分を無視して
2階の情報だけだーってあげても
基本的には何も解決しないんではないかと
いう話がありまして
だからやっぱりその人間脳死の
関係性の回復とか
信頼の構築っていうことが非常に重要なんですけど
そこが結構逆に難しくなっているのが
現代だという話がありまして
科学的なものと非科学的なものを
瞬別して
科学的なものをできるだけ避けたいという
要望がニーズがあったとしても
それって結構難しいらしいんですよ
散々考えられてきたらしいんですけど
何があったら科学と言えて
何がなかったら非科学なのかという
研究がずっとなされてきたんですけど
基本的に大論争で
結局何かを定めたら
外れてしまうものがあると
外れてしまったら困るものも
非科学になるのは困るし
逆にほとんど科学やけど
非科学なものが
非科学の方に行くのもダメだということで
いろいろ揺れ動いてたんですけども
最近は結構
科学の要件というよりも
科学的な態度というふうに
視点が移っていると
科学的な態度って何かっていうと
科学の境界線と市民社会との距離
経験的な根拠を大切にし
その上で新たな根拠に照らして
自分の理論を変える意思を持つこと
これを重視している態度があれば
それは科学的態度と言えるし
これがなければ
科学的態度を持っていないと言えると
特にポイントは
そのような態度を生み出す制度が
どうなっているのかに注目されていると
だから科学的な態度を生み出す制度が
あるのかないのかというとこで
判断基準が見えてきていると
良い制度があるかないかということが
重要であって
あるものを一つポッと持ち出して
それが科学か科学じゃないかっていうことは
多分あんまり建設的ではないんだろうなと
そこの背後にそのようなものを
生み出している制度がどうなっているのかを
見た方がいいということなんですけど
そこでね
有名なリクラス・ルーマンが引用されていまして
久しぶりにルーマンが引用されているのを
見たんですけど
社会科学の話
はい
科学っていうのは
自分の境界を自分で作り出すシステムだと
ルーマンは定義したらしいですね
かっちょいいですね
自分の境界を自分で作り出すシステム
ここは科学ですと
まず科学本人が決めると
新しいデータが入ってくると
じゃあこれも科学ですねよね
っていうふうに拡張していく
だからある時代全般にわたって
これが科学であるっていう
共通印象を取り出すことは不可能ですよね
だって改定している国ですから
社会と必ずつながっている
ありがあっているっていうところで
その改変していくシステムがあるものは
科学と言えるし
逆に言うとだから
イデオロギーとか
ドクマに留まっているものは
この改定がないわけですよね
だってドクマやから
だからある種の
改定が進んでいくようなものであれば
ちょっと非科学的なものに見えても
改善というか進歩が
科学的なものになり得る?
あるけどそうじゃないものは
ずっとそのままで
それを科学と呼ぶことは
難しいであろうということですね
だからこのルーマンの
自分の境界を自分で作り出すシステム
っていう定義は非常に
機能的な感じがしますね
分かったけど分からん
難しいなって感じですね
さっきの信頼の問題に直結するんですけど
現代において
その境界線を作り出しているのは
学術雑誌
ジャーナルであろうというのが
著者の見立てで
そりゃそうなんですよね
学術雑誌によった
さぞつき論文があれば
少しずつ境界が広まって
科学と呼べるものが増えてくるかな
イメージ
僕がブログで書いた2000字は
ジャーナルには載らない以上
少なくとも科学には入り難い
入れてはもらえないと
つまり
ジャーナルに入るものは限られているわけで
科学のやりとりに
入れるものが
ジャーナル内部に限定されていると
僕ら一般市民は
少なくともそこにはアクセスしづらい
あるいはしていない
というとこで
科学の中の営みが
僕らの市民社会から非常に見えにくい
何が定義され
何が採用され
何が改定され
何が主流で
何が主流じゃないのかが見えない
これが不審感を生んでいるのではないかと
言った時に
陰謀論的なものは
基本的には
それって本当なのという気持ちがあると
懐疑論・科学否定論への向き合い方とケアの重要性
科学でこう言われてますけど
僕たちはそれを信頼する情報を持っていませんよね
だからかなり過剰に見える
例えば政府発表のワクチンが
云々かんぬって過剰に見えますけど
ある種現代社会の
この科学と市民の距離感が考えた時に
ある種自然な反応ではないかと
著者は見立ててます
僕もそれはそう思います
会議主義的タイトなイメージですね
過剰には出てしまっているけども
そもそも過剰に出やすい
今社会状態になっている以上
それをだから
愚かしさとか潰すとか
あるいは情報を一方的に与えて
これを信じない奴はバカだという態度で
抑えつけるってのは多分違うだろう
ということが
本庄で語られていると
結局
フェイクニュースとかでもそうなんですけど
真実っていうのを求める
何が正しいかを求める
目の前のものが正しくないとして正しいを求める態度が
ますますドツボに困っている
デカルトもそうですね
絶対的な正しい知識を求めた上に
再現ない会議に巻き込まれてしまったと
だから真実かどうかということよりは
どの程度機能しているとか
どの程度確かなしさがあるのかという態度をまず持ち
それがアップデートしていく中で
改善されていくというのが
科学的な態度ですし
定性可能性の哲学ですし
僕らが地位を扱う基本的な態度
になっていると思います
だからこの2冊の本
会議論の哲学の本でして
科学的定義の本は科学の本ですけど
地のありようの健全というか
好ましい姿は多分一緒なんですね
疑うことはするけども疑いすぎない
疑いすぎるということは
絶対的に確かな真実を求める態度はやっぱり
疑いすぎの態度なので
ある程度機能しているところを引き受けて
その機能していない部分もあるよと分かったままに
その時その時で判断していくということを
繰り返してはいいというのがまず一つ
もう一つは僕らが生活により横にしているものを
そのものを疑い始めると
生活基盤が成り立たなくなるし
実際に僕らがその生活の制度の上に乗っかっているのに
それはあったかもないかのように批判するのは
多分ただ乗りですよね
フリーライナーとも言えるのか
それは好ましくなる
3つ目が人の話を聞こうと話し合おうと話をしようと
人の話を聞かないでこっちの意見を押し付ける態度で
相手を改定することはおそらくできない
それはそういう態度では信頼が構築されないから
っていう風に言えると思うんですけども
そのように話を聞いて話し合うということをする中で
相手の態度が変わったらいいなというぐらいで
アプローチしていく
これは結局ケアの態度だと思うんですよ
ケアと編集でできましたけど
一個一個個別の事例でしかないと
こうすれば解決できるっていう方程式はなくて
個々人がある種の会議しすぎ
陰謀にハマってしまっているという症状だと見た時に
それをいかにケアしていくのかという風に考えれば
これまで話してきたシリーズとも
繋がるんではないかというところで
この2冊を紹介させていただきました
非常に現代の問題の答えということはないけれども
ヒントはめちゃくちゃあって
でもやっぱ少なくとも1時間かけてしゃべったわけで
やっぱ時間がかかるんやなっていう
それは3秒で相手を黙らせられるわけがないよねっていう
そのように態度を取れば取るほどやっぱり
不審感が広がっていくので
だから解決
僕ら人間存在にとって時間をかけるというか
いかに価値があることだと思いますよ
同じ答えではないかもしれないんですけど
ただ大雑把なことを言えば
やっぱ2時間3時間話を聞くとか
同じ場にいるとか
そういうレベルのことすら
次へ繋がるような感じがしますね
しますねそれはします
そんでいいじゃないか
それを原始に変えろとかっていうと
また極論になってしまうから
違うんだけど
そういうことでしか作れないものが
人間と人間の関係にはあって
同じ釜の飯を食った仲間みたいな用語が
やはり今でも強いんだなっていう感覚を
むしろ味わった気がしますね
ピロン主義で言った伝統が大切だというのは
そういうレイヤーにおいて言えることだと思いますね
僕らが人間存在で社会的な生活を送っている以上
ずっと続いているものがあって
それを誰か効率的だからといって遮断することは
ある種の愚かしさに繋がっていくという気はしますね
はいはいはいそうですねだから
まとめと今後の展望
少なくとも会社組織みたいなやつは
それで言うと歴史は浅いわけで
いわゆる会社の飲み会みたいなものは置いといて
地域社会でのそういう活動みたいなものだったり
一番歴史があるのが多分それか国家よりも
地域社会が多分人類の中で一番古いじゃないかな
って言うと意外と地域社会にヒントとかがあるのかもしれないですね
そうですね会社組織ってさっきも言ったけど
そもそも潰れるもんないからさ
皆さんの都合で集まっていつ辞めてもいい組織が会社ですもんね
伝統とか言ってもめっちゃタームが短いわけよ
そんなものは実は頼りにしたらあかんので
だから飲み会とかもそれで育まれるコミュニケーションがあるのは確かとして
やっぱそれはある程度絶対的なものというよりは
ある時期ある局面で通用したものとして相対化した方がいいでしょうね
それよりもなんかやっぱ祭りなイメージですよね
そういう言い方で言うと
祭りとかは重要だと思います
今回の会議とか科学否定とは関係ないけど
極端なことを言えば祭り否定みたいなことは
日本人比率としては少ない気がするからな
そうですねそれは良いことだと思いますね
そうですねそういうところから
なんかやっぱ一緒に楽しく踊った人と仲悪くはあんまりならんやろうって
そうだと思いますよ
それで話が打ち解けて相談事を乗ってもらってっていう風にして
社会性を回復するとちょっと強いですけど
関係性が戻っていくってことは多分普通にあると思うんで
だから基本的に会議とかにハマる
インボールもそうですけど孤立するんですよね
基本的に孤独になるからますますそこにしか行き場所がなくなってしまうんですよね
ならばっていくっていうのはあんまり健全とか健やかではないと思うんで
だから祭りみたいな日常の外にあるもの
晴れがあるからこそ毛でハマり込んでる人も
逸脱するチャンスがあるというか
だから祭りごとって結構重要だと思うんですね
年末年始とかでも
昔の僕は年末年始だって普通の1日やとかって言って
下に構えてましたけど
でもそうではないんだなと
そういう風に意味付けしていくことで生まれるものがあるんだなという風に
40代になって考えるようになりましたね
そして日本ではその祭りごとっていうのがね
政治っていう意味ですからね本来の意味で言えば
そこからなんかやっぱアナログにじゃないか
解決のヒントはあるような感じがしますね
なので一応考えることが好きな人とか
科学知識が好きな人とかが読まれると
非常に得るものが多い2冊だと思います
ということで今回のご意見ご感想などあれば
Book Catalyst Twitter Blue Skyなどなど
ハッシュタグでご感想お便りフォームなどなど
活用いただければと思います
サポーター特典というのもやっているので
そちらも気になる方は概要欄などから
ご確認いただければと思います
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
01:10:19

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