「吾輩は猫である」の紹介とあらすじ
こんばんは、ひとりごとの時間です。 こんやは、吾輩は猫であるについて話そうと思います。
夏目漱石の作品で、僕が一番好きなのは、 吾輩は猫である、なんです。
このタイトルや、吾輩は猫である、名前はまだない、 という冒頭の一文はとても有名です。
でも、意外と最後まで読んだことはないという人も、 僕の周りには結構いたりします。
この前、その話になったとき、ところで、 あの猫って物語の途中で名前はもらえるの?と聞かれたことがありました。
実は、最後まで名前はまだないまま、物語は終わるんです。
そう聞くと、あの少し切ないようにも感じるんですが、 簡単にあらすじを話すと、こんな物語なんです。
ここからの少しネタバレになるので、まだあの読んだことないから、 自分で読んでから聞きたいという方は、ここで一旦引き返してください。
また、あの読んだ後にでもお会いしましょう。
ということで、ざっくりとあらすじをお話しすると、 生まれてすぐに捨てられた名前もない野良猫。
その野良猫は、へんくつな英語教師の、 チンのくしゃみの家に転がり込み、我が輩として暮らし始めます。
物語は、あのそこから始まるんですが、 僕がこの作品を大好きな一番の理由は、その視点の置き方なんです。
つまり、あの猫の目線です。 物語は、あの猫の目線で始まり、猫の目線で終わります。
この猫の目線という感覚が、本当に面白いところなんです。
あの主人の書斎には、最もらしい大嘘で人をからかう男や、 変わった研究に夢中になっている学者など、一癖も二癖もある人たちが集まります。
世間の目を気にしたり、自分で悩みの種をまいては大騒ぎしたりする人間たちを、 我が輩は少し離れたところから眺めています。
我が輩の目から見れば、人間というのは、わざわざ自分で苦労の種をまいて、 それを刈り取って大騒ぎしている不思議な生き物なんです。
猫から見れば、人間の悩みなんて案外くだらないものばかりに移るんです。 だってそれは、あの人間が人間の物差しで作り出している、そんな悩みでしかないからです。
けれど、そんな冷静な我が輩も、最後はあの人間が飲み残したビールを飲んで、酔っ払ってしまい、 水が目に落ちて亡くなってしまいます。
なんとも悲しい結末のようにも思えるんですが、それだけではないような気もするんです。 というのも、あのこの猫は水が目に溺れながら、
最後には、あのナムアミダブツ、ナムアミダブツ、 ありがたい、ありがたいと、まるで何かを悟ったように心の中で唱えながら、静かにこの世を去っていくんです。
ここまであの、ざっくりとお話ししてきましたが、物語の大枠としては、こんな感じのお話です。 それではここで1曲、風見鳥。
風見鳥、今日はどっちの風が吹く? 青空がひるがえる朝、雨の雫が跳ねる日も、
無理に進まなくていいよ、 北風来たら後ろを向こう、 頑張りすぎた肩の力、 ふっと抜いたら楽になる。
風見鳥はいつも砂を吹いてくる風のまにまに、 同じ向きじゃなくてもいい、 くるりと回るステップはとても軽やか、
春の光も寒さも、 みんな暑さに風見鳥、 風のまにまに同じ向きじゃなくてもいい、 くるりと回るステップはとても軽やか、
春の光も寒さに風見鳥、 風のまにまに同じ向きじゃなくてもいい、 くるりと回るステップはとても軽やか、
そよ風が抜けてゆく、青空の下、 今日もいい日になりそうだ。
さて、それでですね、 「我輩は猫である」の話は一旦脇に置いておいて。
アドラー心理学の解説
これまたあの僕の好きな心理学者に、 アドラーという人がいます。
ブロイトやユングと並んで、 世界3大心理学者の一人としても知られている人です。
アドラー心理学は、5つの考え方を柱にしているんですが、 その中に目的論と対人関係論というものがあります。
要するに、人間の抱く感情についての話なんですが、 僕たちはつい感情というものは、出来事そのものが運んでくるように感じますよね。
でも、アドラーはそうではないと考えました。 感情は自分自身が無意識のうちに選び取っているものだと言うんです。
無意識のうちに選ぶと言われると、少し不思議に聞こえるかもしれません。
例えば、悲しい出来事があったから悲しくなるという仕組みではなく、 そこにあるのはあくまでも出来事そのものだということです。
そして、その出来事に対して自分自身が何らかの目的を持って悲しむという方法を選択することで、悲しみという感情が生まれる。
だから、同じ出来事に出会ったとしても、人によって感じ方が違ったりするわけです。
つまり、感情というのは過去の出来事についてくるものではなく、 その出来事に対して自分がどんな意味を与えるかという未来へ向かう選択の結果だということなんですね。
そして、もう一つが対人関係論です。
これは、人の悩みはすべて対人関係から生まれるという考え方です。
読み進めていくと、その対人関係というのは突き詰めれば比較のことなんだとわかってきます。
ここでいう比較の相手というのは他人だけではありません。
例えば、過去の自分なんかも含まれます。
つまり、悩みの多くは何かと比べることから生まれてくるということです。
例えば、もし最初から自分一人だけの世界で毎日畑仕事をしていて、少しずつ年を重ねていったとしても、
最近は少し体が重たいな、くらいにしか思わないかもしれません。
それは天気が変わるのと同じように、ただそこにある変化として受け入れているからです。
でも、そこに若い頃の自分との比較や他の誰かとの比較が入り込むと、
昔に比べてつらいなぁとか、あの人よりできなくなったなぁという悩みというものが生まれてきます。
そう考えると、悩みの生みの親は何かと比べること、つまり比較なのかもしれません。
「吾輩は猫である」とアドラー心理学の接続
と、ここまでアドラーの話をしてきたんですが、ここでもう一度、我輩は猫であるに話を戻します。
僕には、この猫の目線で人間を眺めるという感覚が、アドラーの心理学とぴったりと重なって見えるんですよね。
やっぱり、鍵になるのは猫の目線という視点です。
我輩の目から見れば、人間たちはわざわざ自分で苦労の種をまいて、それを刈り取って大騒ぎしているように見える、この感覚です。
つまり、起きた出来事そのものが苦労を連れてくるわけではないから、猫にはただの出来事として映るんだと思います。
だから、我輩には人間たちが自分で苦労を作り出し、自分でその苦労に振り回されているように見える。
これはまさにアドラーが言うように、人間が自ら苦労という感情を引き出しているという見方にも重なります。
正直、この猫目線という人間の物差しの外側にある視点に立ってみると、その感覚がすごく自然にわかる気がするんです。
そしてもう一つ、僕があの心を動かされたのは我輩の最後の場面です。
我輩はビールを飲んで酔っ払い、水が目に落ち苦しみながらもがきます。
その中でこんな風に考えるんです。
無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。
そう思った我輩は、体を自然の力に任せて抵抗しないことにしようと決めて、もがくのをやめます。
そして最後は、
これをあのアドラーの考え方に重ねてみると、
我輩は猫なりに、溺れているという出来事に対して苦しいを選ぶのではなく、ありがたいを選んだのではないかと思えたんです。
必死に抵抗し、無理を通そうとすることを手放した時、苦しみ続ける理由もまた消えていった。
だからこそ最後の瞬間に、ありがたいという穏やかな感情を自分の中から生み出すことができたのではないか。
そんな風にも感じるんです。
僕たちあの人間は、つい他との比較という物差しを作ってしまいがちです。
そしてその物差しで、自分や誰かを計っては苦労の種をまき、自分で大騒ぎしてしまう。
だけどもし今、何かにもがくような苦しさの中にいるなら、この我輩の目線を少しだけ思い出してみてもいいのかもしれません。
無理を通そうとすることをほんの少しやめてみる。
そしてあの自分の引き出しの中から、次の未来のための別の感情を選んでみる。
120年ほど前に夏目漱石が、猫の目を借りて描いたあのラストシーンは、
今を生きる僕たちにそんな未来を選ぶ自由があることを、そっと教えてくれているのかもしれません。
まとめとエンディング
今夜はあの、我輩は猫であるについて話しました。
それではまた次回。