「フランケンシュタイン」再読と新たな発見
こんばんは、ひとりごとの時間です。 こんやはフランケンシュタインについて話そうと思います。
少し前になるんですけど、ずいぶんと久しぶりにフランケンシュタインの本を読み返しまして、
ページをめくっていると、昔読んだはずなのに、どこか初めて触れるような静けさを感じたんですよね。
本や映画なんかを読み返したり、見返したりした時に、時々こういうことがあるんです。
同じものに触れているはずなのに、受け取り方が以前と少し違っている。 あの、当然作品が変わったわけではなく、それを受け取る僕の側が知らないうちに少しだけ変わっているんだと思います。
読み返してみて、改めて感じたのは、 初めてあのを読んだ時と同じ感覚で、この物語はいわゆるあのゴシックホラーやサイエンスフィクションといった枠には綺麗には収まらないなということでした。
18歳のメアリー・シェリーが描こうとしたのは、 もっとむき出しの孤独と、それでも誰かと結びつこうとする切なる願いのようなものだったのではないでしょうか。
物語の誤解と構造
よく知られているようでいて、少しだけ誤解もあるんですよね。 あのフランケンシュタインという名前は、怪物のものではないんです。
彼を生み出し、名前も与えぬまま手放してしまった科学者、 ビクター・フランケンシュタイン博士の名前です。
物語は、北極航路を目指す船長が、 姉にあてた手紙から始まり、その一筆一筆の積み重ねの中で物語が流れていきます。
その手紙の中では、三人の男の孤独が静かに重なっていくことになるんです。 見知らぬ土地で友を求める船長、
神の領域に踏み込んでしまった科学者、 そして誰からも受け入れられないまま生まれてしまった怪物。
その怪物は最後まで名前を持ちません。 呼ばれることのないままに、置かれた存在の空白が、
彼の孤独の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせているように思えるんです。 森に身を潜めて暮らす彼は、偶然手に入れたジョン・ミルトンの失落園を読み、
自分の境遇をそこに重ねていきます。 神に愛され、伴侶を与えられたアダム、
あるいは仲間と共にあるサタン。 けれど自分はそのどちらでもない。
創造主からは拒まれ、寄り添う相手もいない。 どこにも居場所がないということを少しずつ知っていくことになります。
孤独の中の希望と盲目の老人
そんな流れの中で、ほんのわずかに小さな光が差す場面があります。
本を通してあの自分の孤独を知った彼が、 思い切って足を踏み入れた先で出会う、
一人の盲目の老人とのやりとりです。 僕はあの場面に、
彼が求めていたものが、一度だけ確かな形を持ったのだと思いたいんですよね。
老人が盲目であったということは、 ただあの怪物の恐ろしい姿が見えなかったから優しくできた、
ということではなかったんだと思いたいんです。 目に頼らない世界の中で、老人はあの声に耳をすまし、
言葉を受け取り、その奥にあるものに触れていました。 その受け止め方には、
どこにも欠けたところのない、まっすぐさがあったように思います。 盲目であるということは、読む側にも静かな問いを残した形となっているんです。
もし、見えていたらどうだったのか。 あるいは、それでも同じように受け止められたのか。
映画版「フランケンシュタイン」との比較
その答えは示されないまま、そっと置かれていきます。 ちょうどその頃、ネットフリックスでデルトロ監督のフランケンシュタインが配信されているのを見かけて、
そのまま鑑賞してみたんですよね。 先日のアカデミー賞でも、いくつかの部門に選ばれた作品です。
映画では、いくつかの変更点が見受けられたんですけど、 物語の根っこにあるものは丁寧にすくい上げられているように感じられました。
原作を読んだ直後だったこともありまして、細かな設定変更が気になりつつも、それ以上に心に残ったのは、
孤独に対して差し出されるすくいのあり方の違いだったんですよね。 原作では、ただ一つの光が絶たれてしまって、そのことの冷たさが長く残る感じがするんですけど、
それに対してあの映画では、小さなすくいがいくつか置かれていました。 異形の姿にひるまず、その声に耳を傾けようとするエリザベスという女性。
語られる言葉を静かに受け止め、最後を見届ける船長。 そしてあの創造主であるビクターが、死の間際に悔いを伝える場面。
そうした場面には、異形の存在へ向けられた、この映画ならではのデルトロ監督自身の柔らかな眼差しのようなものが感じられました。
けれど、あのすくいの形が変わっても、物語のシーンは変わらないんだと思います。 この物語の悲しさは、すくいがなかったことではなく、
確かにそこにあったすくいが、人の持つ単純な恐れや思い込みによって、あっけなく壊れてしまっていくことにあるように思えます。
一度でも触れてしまった温もりがあるからこそ、それが失われていく時の冷たさは、一層はっきりと残る。
「怪物」とは何か
そしてあの、読み終えた後に静かに残るものがあります。 本当の意味での怪物とは、一体何だったのだろうかと。
それではここで一曲、渡り鳥。
広げて立った 一人の旅路
下を向けば街は オモチャの箱みたい
寂しさは風に預けて 青い海を越えてゆく
悲しみも虹を目指して 月様が笑ってる
大丈夫 悲しみも虹を目指して
作者メアリー・シェリーの人生と物語
さてあの、物語というものは、時に作者の心をそのまま映す鏡のようにも見えることがあります。
18歳でこの物語を書いたメアリーシェリーもまた、自分自身の心のどこかをこの物語の中に置いていたのではないかと思えてならないんですよね。
彼女は、生まれてほどなく母を亡くしています。 自分の誕生と母の死が一つに結びついてしまっているという感覚は、
きっとあの簡単には解けないものだったんだと思います。 父との間にも距離があり、
家庭の中でどこか居場所の定まらない感覚を抱えていたとも言われていて、 そう考えるとあの生まれた瞬間に拒まれ、
名前も与えられなかったあの存在というものは、 決して遠いものではなかったのかもしれません。
さらにあの当時の社会の中で居場所を失っていたという背景もあります。 すでに家庭を持っていた詩人、
パーシー・シェリーとの関係、そしてその前哉の悲劇的な死。 そうした出来事は、彼女を家庭を壊した女という逃れ難い、
不道徳な存在という見方の中に閉じ込めてしまいました。 人は一度つけられた印象からは、なかなか離れることができません。
どれほどあの誠実に生きようとしても、外側の部分だけが見られてしまう。 その感覚はどこかで、あの物語と重なっているようにも思えます。
物語を書き始める少し前、 彼女は生まれたばかりの子供を亡くしています。
日記に、死んだ子が生き返る夢を見たと記したのも、そのすぐ後のことでした。 命のないものに息を吹き込むという、この物語の始まりには、
失ってしまった繋がりを、もう一度手元に引き寄せたいという、 静かな願いが流れていたのかもしれません。
偏見と見えない断絶
そう思うと、あの怪物は、ただ恐れられる存在というわけではなく、 愛されたいと願いながらも、その由来によって拒まれてしまう。
彼女自身の当時の心象とも重なって見えるんです。 物語の中で語られる怪物の言葉は、どれもあの静かでありながら、
重さを持って胸に残ります。 それはきっと、そこに彼女の実感が確かに通っているからなのだと思えるんです。
この物語の奥底に流れているものは、偏見という名の見えにくい断絶です。
人は、相手そのものではなく、その周りにあるものを見てしまいます。 見た目や境遇、あるいはその人の背負っている背景だとか、
誰かが勝手に決めた印象だとか、 それらが、いつの間にか膨らんで、その人そのものを覆ってしまう。
そして、塗り固められた印象の中で、その人の本当は見えなくなってしまう。 怪物も、そしてメアリーシェリー自身も、そういった中に置き去りにされてしまったのではないでしょうか。
どれほど言葉を尽くしても、どれほど静かに生きようとしても、 自分を覆ったものが消えず、
やがて自分そのものさえも塗り潰されていく。 そんなやるせなさが、この物語には静かに流れているように思えるんです。
現代への問いかけ
メアリーシェリーは、この物語を通して問い続けているんだと思います。 目の前の存在を純粋にただ一人の人間として、まっすぐに見つめることが、
果たして私たちにできるのかと。 200年以上経った今でも、その問いは色褪せることなく、
僕たちなの心の奥にある、独りよがりな境界線を、 静かに見つめ続けているような、そんな気がします。
今夜はフランケンシュタインについて話しました。 それではまた次回。