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こんばんは、ひとりごとの時間です。今夜は、ことばの余韻について話そうと思います。
最近ですね、映画を見たり、本を読んだりしている時に、ふとわの考えることがあります。
その時代ごとに使われることばというものは、ただ意味を伝えるだけではなく、
その時代を映し出す共通の匂いのようなものをまとっているのではないかということです。
ことばは時代とともに移ろい、時には消えていきます。 だからこそ、ことばこそが、その時代になかば、
一番寄り添っている存在なのかもしれないと、そう思うようになりました。 例えば、チンプンカンプンという言葉を口にすると、
僕の中には、わけのわからない呪文が飛び交うような、どこか間の抜けた情景が思い浮かびます。
けれど、今時の軽やかな言い回しとして言えば、 意味不明だとか意味不あたりが、その代わりになってそうです。
ことばは、時代とともに姿を変えていくものです。 かつて、テンやワンやと呼ばれていた騒ぎも、
今ならカオスという言葉の方がしっくりくるのかもしれません。 ヘナチョコなんて呼ばれていた未熟さは、
今ではザコなんて呼ばれたり、 アンポンタンも今風に言えば天然あたりに置き換わっている気がします。
言葉が最短距離で結論を伝えるためのストレートな伝達手段へとそぎ落とされていくのは、
むしろ、この令和という時代にあったごく自然な流れのようにも思えます。 ただ、ふと立ち止まって昔の言葉を眺めてみると、
たとえそれが悪口のようなものであったとしても、 そこには不思議な愛嬌が宿っているように感じられるんです。
例えばですね、オッチャコチョイ。 現代であれば注意力3万などといった事実をそのままなぞるような乾いた表現になるのかもしれません。
けれど、その言葉の響きには一生懸命に動いた末に空回りしてしまう、 どこかの憎めないドタバタの気配が混じっているようにも思えるんです。
ボンクラやトンマなんかも同じで、 そこにはの単なる能力の否定だけではなく、
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しょうがねえなぁと笑って受け止めてしまえるような、 人の気配のする隙が残されているように感じます。
それではここで一曲、ぬくもり。
うなっちゃうな 胸の中大渋滞
あふれそうなこの想い 安っぽいセリフには
したくないから黙ってる 君にはバレてるかな
爪切りのパチンという音 自転車のペダルを漕ぐ足
なんでもない瞬間に ありがとうが込み上げて
胸の中大渋滞 あふれそうなこの想い
安っぽいセリフには したくないから黙ってる
君にはバレてるかな
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膝の手のひらを重ねて また一つ青い空を見る
こうした言葉には、いつも隠れた続きのようなものがあるように感じられます。
例えば、このすっとこどっこいがと怒鳴った後、江戸の長屋であれば、
ほら、これでも食って落ち着けと団子が差し出されるような、そんな余韻です。
突き放しながらもどこかで見捨てずに引き寄せる、
昔の言葉はそんな不思議なフックのような役割を持っていたのかもしれません。
今の言葉の中で、そうした系譜を引き継いでいるものはないかなとちょっと考えてみたんですけど、
ふと、ポンコツという言葉が思い浮かびました。
こいつ本当にポンコツなんだよ。
そうやって誰かを紹介するとき、話し手の心にはほんの少し緩んだものがあるのではないでしょうか。
そこには、相手の欠点を自分のことのように引き受けながら、
だから多めに見てやってほしいと周りに伝えているような、
どこか共犯めいた連帯感のようなものが滲んでいるように見えるのです。
もし本当に愛想をつかしているのなら、もっと無機質な言葉で突き放してしまうはずです。
例えば、無能だとか、戦力外だとか。
けれど、ポンコツと呼ぶとき、その言葉の後ろには、
でも悪い奴じゃないんだよとか、ちゃんと頑張ってはいるんだよといった、
目には見えない付け足しがそっと添えられているような気がします。
今の言葉たちが持つ無駄のない真っ直ぐな響き、
それと並べてみたときに見えてくる、
かつての薄らとん勝ちたちが持っていたようなのんびりとした余白。
相手のダメなところをどこか魅力として受け取り、
つい笑ってしまいながら、あっけらかんと受け入れてしまう。
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そんな風に言葉の行間に漂っていた、しょうがないなという余白こそが、
少しギスギスしがちなこの時代を、
あっけらかんと生きていくための小さな支えになるのかもしれません。
今夜は言葉の余韻について話しました。
それではまた次回。