始まりました、おおきなかぶは抜けるのか。この番組は日常で起きた一人では紹介できない些細な悩みや出来事をおおきなかぶとして、ちょっと不思議な関係の3人がうんとこしょどっこいショートを引っ張ってみるポッドキャスト番組です。お送りするのは石橋と
大輝と
あいにぃです。よろしくお願いします。
あのー、私先日、映画、急に具合が悪くなって言ってきました。
見たーいのー。
石橋さんから、もう紹介を受けて、絶対に見たほうがいいということで。
ありがとう。
まずはありがとう。
最高ですね。
3時間だよね。
時間13分。
あっという間、本当に。
本当。
あっという間だよね、あっという間。
え、原作読んだ?
まだ。
まだ出ないですね。
素晴らしそう。
浜海さんのね、作品で。
バッシーから絶対に見たほうがいいと紹介してもらったんですけど、改めて。
ネタバレはないですよね。
ドキュメンタリーみたいな感じなんで、本当に。
メインは介護施設での話だったりするんですけど、
本当に多様な社会問題をいろんな角度から扱うみたいな。
織り込んで。
作品でした。経済的な話とかもそうですし、
介護における発給だったり、あとは離職率の高さみたいなところが、
そこから一人一人の負担がめっちゃ大きくなっちゃったりとか、
そういう経済的な問題、あとは組織的な問題とかも
相関われてたりとかして、
風習、既得権益に立ち向かうときのどういうふうな御情事になるのかとか、
いろんな面とかを美しい描写で、
ドキュメンタリータッチで描いている映画なんですけど、
その映画、介護って僕は遠かった存在だったんですけど、
追体験できた、すごくいい経験だったなと思いますし、
そこで僕はテーマとして、
介護施設なので、アルザイマ病の方達と
介護する介護士さんっていう関係を描くんですけど、
非介護者と介護する側みたいなところで明確な境界線があると、
その事態で相互理解できなかったりとか、
うまくいかない現状でいろんな歪みが起きてしまうみたいな現状がすごい描かれてて、
そのテーマとして貫かれてたのが、
境界線を曖昧にすることみたいなテーマを描いてたんですよ。
そういうのもすごい刺さって、
あえて仕切りをなくしてあげることによって初めて、
非介護士と介護者がうまい関係になっていったりとか、
より組織が良くなっていくみたいな、
偏見、介護している側が、
これは介護されている側で何も能力がないんだって決めつけちゃうと、
すごいいろんな歪みが起こっちゃうみたいなところとかもあったりとか、
そのテーマをすごい考えさせられた映画でした。
馬志とかはどう感じたんですか?
全部が丁寧だなと思いました。
それこそ、介護の問題もあるし、
障害を持っている子とかも出てきたりして、
その子が、そもそもメタ的な描き方としても、
障害を持っているからどうこうって描かれるんじゃなくて、
その子がその子のままでいて、
起きた出来事からいろんなことが発生していくみたいなのが、
ごく自然に描かれていて、
メッセージの伝え方とかも全部が自然なんですよね。
伝えてこようと力んでないから、
こっちに自然に入ってきて泣いちゃうみたいな、
かなり自分の話と重ね合わせられるところもあるし、
メインはその2人の女性なんですけど、
1人の女性が早稲田大学出身の、
その2人の対話で結構話が進むんですけど、
ちゃんと何かの要素を切り取った物語の中の人物じゃなくて、
かなり人間として描かれてて、2人が。
本当に人生全部でいろんな側面からの対話で、
本当に人生みたいな。
自分の日常と地続きな感じのところにあるのに、
多角的で深い資産みたいなのを与えてくれる、
けどそれもしつけがましくないみたいな、
かなり高度な技術の結晶。
繊細で高度な技術の結晶って感じで、
アリさんにも見てほしいな。
見たいのも、
磯野さんの読んでからにしたいなとか思ってるうちに、
全然そんなに磯野さんの読める気力がなくて、
その先に映画見に行こうかなと。
まだやってるもんね、きっとね。
是非見てほしい。
見に行きます。
なんとなく劇場で見てほしい。
確かに。
ちゃんと受け取るみたいな感じ。
そうだよね。
文字とまた違う気がするというか、
映像描写の伝え方をしてるから、
全く別物な気もしてきて、
さすがだなと思いました。
濱口さんと同世代で、
同じ時期に映画学校に行っていた方の話を前読んだことがあって、
即興その場で作品を作って、
その場で役者を集めて撮るみたいな、
限られてたから2,3時間くらいだけ与えられてて、
そこで作品をまず撮らなきゃいけないみたいな課題があった時に、
2,3時間だから、
とにかくどれだけ早めに準備して撮れるかみたいなことをみんな考えるんだけど、
濱口さんだけはその時に、
始まって2時間くらいずっと本読みさせてるんだって。
役者に台本ずっと読ませてる。
みんなはずっと撮ってるんだよ。
急いで撮らなきゃいけないから、
焦ってみんな撮ってるのにもかかわらず、
濱口さんのチームだけがずっと本読みに時間をかけてて、
最後の最後でも本当に余った時間で全集中で撮影するみたいな。
だからそれくらい本をちゃんと、
役者が理解する、入れるっていうことを
それだけ集中してやってるんだってことに驚いたっていうのを話してる監督がいた。
その姿勢が如実に現れてる気がしましたね。
かなり人間として描かれていた全てが。
誠実な仕事。
なんて誠実だ。
すごいわ。
ぜひ読んでほしい。
読みます。
見てほしいアイドルさんにもおすすめです。
あっという間だったな、3時間くらい。
本当にあっという間だった。
びっくりした。
展開もめっちゃあるってわけじゃないけど、
そうなんだよね。
空気感とかなんだろう。
でもやっぱり、私は結構自分の問題というか、
日常とも照らし合う試行したりとかしてたんですよね。
そうそう、だからもう一言じゃないっていう。
それもあるかもね。
そうか。
本当に追体験できるのはなんか今バッシーの言ってたけど、
やっぱこうスッと入ってくるからなんだなって今逆に気づきました。
なるほど。
この感覚があっておすすめです。
読みます。
逆に映画見てどう感じました?
あの映画の内容で、
僕はそこがすごい印象的だったんだけど、
境界線ってどんな感じでしたか?
境界線は…
いやでもそうですね、私も映画に対してはめっちゃ印象的というか、
そうよね、みたいな。
言葉を使って枠にはめることをやめるというかね。
人と人なんだからみたいな感覚。
で、私も同じく日常でもあるよなと思っていますね。
それこそ私の話で言うと、
前回も出したやったあき子さんっていう、
マジで人生で一番すごいって思った女の人がいて、
そこの人にいろいろ相談したら、
聞く訓練というのに参加させてもらって、
前も話したかもなんですけど、
それは何かというと、
カウンセリング的な感じなんですけど、
1対1で10分間深掘るみたいな。
だけどその時に、
人ってほとんど自分がよく思われたいとか、
正解を出したいのために人の話聞いてるんじゃなくて、
自分の解釈の箱の中に閉じ込めてる相手を。
みたいな話をしている。
だからそれをメタ認知して、
相手を自分の解釈の箱の中の、
いわばレッテルを張った状態で向き合うんじゃなくて、
本当にエネルギーとしてというか、
そいつの言葉だけじゃなくて、
じゃあどういう姿勢で言ってるかなとか、
どういう声色かなとか、
非言語のところに着目して、
その人の本当のところをなるべく掴みに行こうみたいな、
訓練をしていて、
数ヶ月くらい参加させてもらったんですけど、
もうそっから落ちて、
人との関わり方がマジで変わって、
まず人の話が聞けるようになったというか、
遮って自分の話をめっちゃしてたわみたいなのが気づいて、
でもそれは、
かなり相手をレッテルで見てるというか、
そっちの方が自分の認知コストが下げられて楽だし、
安全な気がするから。
けど、完全にそれを、
やめようって気づいたのが、
ある種境界線は曖昧にするじゃないけど、
自分の中で勝手に認知した、
こいつはこうやつだからこうで、
じゃなくて、
今生成され続けているそのエネルギーとして、
捉えて共鳴しようみたいなスタンスが、
その時から生まれて私の中に。
っていう意味で、かなり深く分かると思いましたね。
映画見てなおさら分かるけど、
本当にその境界線なくしてコミュニケーションをしている人は、
本当にその人のエネルギーを見てた感じがして、
今すごい船落ちた、
そういう描写もいろいろあったりとかして、
なるほど。
やっぱりこの境界線曖昧にするっていうところは、
やっぱり人の話を聞くだったり、
相手を理解するっていう上ですごい、
なんだろうね、
結構キーポイントになる部分だろうかな、やっぱり。
そんな気がする。
曖昧にするは多分、
介護、非介護みたいな役職の話だけど、
なんとなく境界線を取り払うみたいな感じかもしれない。
混ざり合わせていくみたいな表現があって、
映画の中でアルツハイマー描写が、
ちゃんとカフェの店員をやるみたいな描写があるんですけど、
それも社会のコミュニティに溶け込むために、
介護だけされてるだけじゃないよと。
人間一人の人間として、
活動させるためにこのプロジェクトは必要なんだ、
みたいな動きがあるんですけど、
そこでも言ってたんですよね、
境界線を曖昧にするみたいな話。
だから混ざり合わせていくっていう、
ついだと思ってたものが、
あえてちょっとカオスじゃないけど、
ちょっとあえて混ざっていく。
そういうことをしない限りは、
本当に理解されないしできないし、
共存できないっていうメッセージを僕は感じて、
確かになって思った。
一方でできてないところとか、
私社会もできてない部分とかも、
やっぱりあったりするのかな、
あるたりするんだなと思って。
私ちょっと映画見てないけど、
本当に境界線っていうものをずっとない状態で、
取り払いながらコミュニケーションを取るって、
ありとあらゆる状況においてそれをやるって、
すごい難しいなって思ったことを、
今思い出してたんだけど、
去年、いとこが亡くなって、
私と本当に年齢が近かったんだけど、
長い間がんを患ってて、
最後は自宅で長く見とるような形で、
おじおばが見てたんだけどね。
私のいとこは障害があって、
年齢が近いんだけど、
知能が小学校3、4年生ぐらいで止まってたのかな。
だったのね。
でももうずっとそれぐらいで何となく止まってるみたいな感じで、
脳に障害があるから歩きづらかったりもあって、
がんも治療も本人が理解できる部分まではいいけれど、
そうじゃないものは負担が大きすぎて、
理解もできないかもしれないからっていうので、
なかなか根本治療できないみたいなところがあったりしたわけ。
それで病院にずっといるのもかわいそうだし、
自宅で治療してるときに、後半寝たきりになっちゃってたんだけど、
母親と一緒にお見舞いに行ったときに、
私はまず部屋に入ったときに、
いとこがもう弱ってベッドで寝てるっていうのを見た時点で、
視覚的に完全に境界線を引いちゃってるわけよ。
弱ってる、どうしよう、こんなに弱っちゃったんだ、みたいな。
そしたら母親はもうガンガン話しかけるわけ。
いつもみたいに話しかけるし、
なんか暑いわよね、この部屋とか言って、
なんか暑いんじゃないとか言って、
タオルとか冷やしたの首に巻いたりとか勝手にしたりとかしてて、
何見てんのとか言って話しかけたりとかしてて、
私は母親の態度を見て、
こういうふうに、そっかこれぐらいナチュラルに接していいんだ、みたいなことを学んでたんだけど、その場で。
今思えば母親は多分どっかで境界線は引いてたのかもしれないけど、
多分それを取って、自分と同じ、今私が暑いからあなたも暑いよね、みたいな。
で、あなたが見てるの何それを教えて、みたいな感じで話しかけてるっていうか、
それぐらい視覚的に特殊な状況になってたとしても、
境界線をない状態でコミュニケーションし続けるって、
すごい難しいことだし、でもそういう状況だからこそ必要なことだろうなっていうのを今ちょっと思い出していた。
すごいな、お母さん。
すごかった。なんかものすごい頼もしく見えて、その時。
すごいすごい。
頼もしかったね。
ちょっと勇気のいることですよね、それって。
そうだね。
でもなんか、振り返ってみたりするとさ、うちの母親って子供と仲良くなるのがすっごい早いの。
そこも境界線なんだよね。子供だから大人だからっていう風に見てないっていうか。
同じ人の人間としてフラットに。
そうなの、そうなのっていうことなのかもなと思って。
入っちゃいますもんね。子供だ、後輩だ、先輩だとか。
そうそうそうそう。
なんかそういうのもすっごいいらないフィルターが入って、
それこそ態度を変えるじゃないけど、そういうことを全然しちゃいがちですよね。
そういう意味でフラットにみんな平等に接している人って本当に楽しいですよね。
楽しい。そうだね。
虚構を乗り越える強さがあるというか。
面白いね、それは強さなんだね。乗り越える。
強さに見えました、私には。
なんとなく楽じゃないですか、自分のかわいそうな人だとか。
リッテルを貼っておくこと。
それって関わる上での痛みも減るかもしれないし。
乗り越えるかもともとの気質としてどうかみたいな話はあるけど、
生き物として強いって思う、なんかそれって。頼もしい。
境界線をさ、私はそういう場で多分無意識な境界線を引いてるなと思ったっていう反応があったけど、
多分比較的普通の生活ではわりと境界線がなくなりやすいタイプ。
だからむしろ意識して多分多少引かなきゃいけないみたいなところをむしろ後天的に学んでる部分があると思うんだけど、
でもやっぱりその境界線をなくそうと思ってコミュニケーションを私はとってるわけではないけれども、
でも境界線がやっぱりない状態の方が相手の気持ちはやっぱりすんなりわかるよね。
これなんでその、もう意図してないからわからないかもしれないんですけど、
その境界線をなんでなくせるんだろうというか、なくそうと思うのは、そうしてるのは理解したいからっていう欲求がすごい強いからなんですか?
いや、ないよね。
そういうのもなく?
ないないない。もうない。ないね。
感覚で言うと真っさらな状態から相手を理解するみたいな、そういう感覚で接してるって感じなんですか?
そうそうそうそう。真っさらな状態でただ見てるみたいな。
ただ見てる?
ただ人として見てるっていう感じ?
普段はそういう?
そうそうそうそうそうそう。
なんかちょっと話変わるんですけど、私は逆に最近境界線引くの頑張ってて、
それこそ私もちゃんと人を見たいというか、それは私の場合は割と理解したいもん入ってて、
ちゃんと捉えたいみたいな気持ちがあって、なるべくその魂でコミュニケーションできるようにずっと、
なるべく全部の場でいるみたいなことをやってたんですけど、
かなり若者のしょうもない話なんですけど、私って結構表層と中身が乖離しすぎてるというか、
ポップでSNSをやっている若者と哲学的思索を深め、今の人類にこういうのが必要なんじゃないかみたいな、
心に向き合い哲学などが必要なんじゃないかみたいな自分が乖離しすぎてて、
ちょっと話せばわかってくれるんですけど、
表層でちょっと例えば仕事とかで、直接話したことないけどちょっと遠い人からとかのレッテルというか、
が本当に嫌で、いくとかできる若者一緒に何踊ってんの?みたいな、
嫌すぎて、でもみんなと分かり合いたいと思ってたから、
ある種その人の認知に合わせにいくみたいなことをやっちゃってたんですよ。
そこを境界線なくそうとして。
でもそれってすっごいきついじゃないですか。
そこの内的葛藤にめっちゃエネルギーを取られてた感覚があって、
ちょうど一昨日の朝ぐらいにマジで物騒なんですけど、
でも真に自分の成すべきことにフォーカスするとしたら、
自分が死ぬか相手を刺すかしかないんだみたいなことが突然理解されて、
言葉は物騒ですけどイメージは本当にナイフが出てきて、
ある種そこを切り捨ててでもちゃんと自分の熱にフォーカスする勇気というか、
今は持たなきゃと思って、境界線を逆に頑張って。
逆に境界線ってのはもう見ないようにするみたいな感じ?
ここに近いのかな?
阿部 いや、でもある種本当に傲慢で若者なんですけど、
その人の認知の限界を分かってあげるじゃないけど、
同じ地平で分かり合おうとするんじゃなくて、
それ見えちゃうの仕方ないよねみたいな感じで、
ちょっと諦めるじゃないですけど。
分かる分かる分かる。
阿部 すごい悲しいけど、そうしないと進めないなみたいな辛くて。
でもすごい正しいと思う。
石橋ちゃんすごい正しくそれができてて、
それの極端な例になると私みたいに切るっていう。
阿部 社会の、前回参照。
そうそうそう。
阿部 ストリートやってるについて話したいけん。
全ての管を。
阿部 社会の管を切った人がいますここに。
全ての管を切ってみた。
海底にその沈んだ人がいます。
ぜひ聞いてください前回は。
そっかそれもあるんです。
阿部 そうそうあると思うよ。あると思う。あると思う。
そういうのもあると思うね。
だから逆に、
ちゃんと理解される状態に持っていくために、
理解し理解される状態に持っていくために、
一旦境界線を引くみたいなのを、
最近は頑張って見てます。
阿部 いや私もその両方が重要だと思うんだよな。
本当に引くことと、
でも、境界線を解いて、
本当に相手と解け合うことができる自分みたいなのと、
両方のスキルが必要だと私は思う。
両立大変じゃないですか。
最近の私の思うのは、境界線引こう引こうと思って、
孤独みたいな、悲しい理解者いない。
みたいな感じにもなってきてて。
阿部 逆に境界線を曖昧にするみたいなポイントを、
ちゃんと注意力を見極めて、
実行するみたいなことがとても大事になってくる。
そうだと思うんですけどね。
曖昧というか、解け合うこと。
阿部 解け込む。
解け込むことを引くことを、
能動的に取捨選択するみたいな感覚がある。
今私の中で仮説としてあるのは、
境界線を引く時に、相手と解け合う自分もいるんだけれども、
前回の株を聞いていただけたらいいかもしれないけど、
自分というものがあるわけじゃない。
自分というものはないけれども、他者によってあらわになる自分というものがあるわけで、
それが結構はっきりしてくると、
境界線を引かずとも自ずと自分の輪郭が境界線代わりになる部分ってあるのかなと思っていて、
だから無理して引かなくてもいい段階が来るのかなとも思ったりもしている。
そう思います、私も。そこに向けて頑張っているみたいな感じかな。
大輝さんは引いている派ですか?普段?
引かない派?人と関わる時。
でもやっぱり僕は根付いちゃってますね。競争だったりとか、竹社会に根付いちゃってて、
もうまず一旦先輩かどうかを見るみたいな。
これもう根付いちゃってるから。
ザ男社会だよね、それがね。
あとはやっぱり組織の中だったら役職はまず何かとかをめちゃめちゃ見る。
そうだよね。
じゃないと仕事が回らないから。
そうだよね。
無意識に行ったら、この人の権限はこれでみたいな。
じゃあこういうコミュニケーションを取らないとダメだとか。
会社はそうだよな。
組織図を見て。だからもう人じゃない。
役割の境界線を見てる。
経営が活かした境界線を。
だからかもしれない、僕がめちゃめちゃ去ったのが。
そういう状況だからこそ、これ改めて本当に考えなくちゃいけないなとかって思ったのかもしれない。
僕の人生で振れたのが真逆すぎたんだと思う。
なるほど。
本当に自由にいろんなところに出入りするようになって、いろんな人と会うと、本当にそれこそ、一概には言えないけど、本当に素敵な人ほど表に出てなかったりするしさ。
有名じゃなかったり、役職とかそういうのもなかったりもするし、本当にどれだけ幻想かと思うよね。
本当に同じ役職とかでも人格全然違う人がいますし、あれですけど。
そうだよ。
認知の仕方としては、合理とスピードの時代で生きているとそこが逆に立っちゃってて、ちょっとどうしたものかなっていうところとか。
そうだよね、この社会を回していくにはそこを記号的に使っていかないとあまりにロスが多すぎちゃうんだよね。
ちょっとロスがね。
変な話で言うと採用社会、採用とか学歴見るじゃないですか、ある意味ラベリングとかフィルターとして、一定数めちゃめちゃ合理的に機能しているから、絶対に怒っちゃってるところはあるし。
全部においてそうだよね、それこそアプリとかもそうじゃん。
評価とかね。
そうですね。
そうだよな。
なんか境界線ってやっぱ合理的になればなるほど境界線ってのは絶対機能するんだなとか思いつつも、その非合理なところでどういう動機で追求するようになるのかとかっていうのがすごく考えちゃったというか。
めっちゃでかい話になっちゃうかもしれないですけど、境界線って言われた時に国境かなと思った時に、国境曖昧にしたらもう機能しねえなとか思っちゃったりとかして、
なるとこれ本当に難しいこと言ってるぞというかやってるぞみたいなことも考えちゃって。
確かに。
細胞と同じですよね。
隔てることで機能が内部として機能するし、それが外部的でもあるというか。
それヒントかもね。
遮られてるようで、一応細胞もさ、
開かれてもいるから。
開かれてもいるから、そっか。
本当に内部の閉じられてるところと開かれてる部分のこのバランス感覚というか。
確かにそんな話もしてたような気がするな。
映画の中で。
並立してることを受け入れるというか。
どっちでもあるんだよな。
国境でもそれこそ移民とかも含めて、外部の世界の影響、貿易とかも含めて生きてるとなると、
確かにそこのバランス。
あとは場面。
そうなんですよ。いろいろ本当に考える部分もあったりして。
バランスだよ本当に。
ただ受け入れればいいっていうことでもないと思うし。
全部が全部曖昧にすればいいとかじゃないですよね。
組織でもそうなんですよね。
そんな部分でそうなんですよね。
ただあまりにラベリングする境界線を引くことで、
みんなちょっと盲目的になるというか、
本当は見てもいいことを感じてもいいことを気づいてもいいことに気づかないようにしちゃってるというか、
鈍感になろうとしてる人は多すぎるかもしれないね。
切り捨てるというか、考える。
どっちからいったらスコープアウトするみたいな感じですね。
そうじゃないと回らないという社会のあれがありますよね。
部分もあるっていう。
でも全部が全部じゃないけど、難しいんだよなって。
そこがある、そこもあるよなっていうふうに自分の視界に入ってる上で、
かつその中で選択をしていくというかね。
確かにアイマイネスっていう境界線自体に自覚的であることが常に大事なのかもしれない。
一旦向こうに飛び出してみるかとか、そこの境界線をすごいはっきりさせること。
引くにしろ引かないにしろ。
自覚しろってことか、確かにね。
なのかも。
確かにそこで一個見えてくるか。
映画のメッセージだとそもそも境界線がある状態で問題が発生しているところだったからそこは曖昧にしようみたいな感じだったけど、
逆になさすぎるとさっきの私の話で言うと普通自分が進めないなみたいな苦しくてみたいになるし、
自覚的能動的であれということなのかもと思いましたね。
あれは一方であと理想があったよね。
曖昧にすることによって今ある負の状況が改善されるようなロジックというかそういう見え方もあって、
そういう大目的があったから曖昧にしようという策を取れたという。
それでいろんなところにある気がしていて、
逆にバッシーの自分で前に進むというじゃないと目的達成できないという時には、
その境界線の仕方はまた違ってくるじゃない、そういう選択になるというか。
だから結構大目的が大事なのかなって思った。
本当にそうだね。
フォーカス、焦点をそこからずらさないというかね。
ちょっと皆さんが何かフニョチョが分からないんですけど、
組織の例で組織って役割がその組織ごとにちゃんとパッキリ分かれてるんですけど、
組織ってそういうもんだから。
でも一方で組織に僕たちは染み出すという言葉を使うんですけど、
あえてその組織の役割を超えて隣の組織とかの仕事とかも含めて手伝ってあげるみたいな。
染み出しっていうことを言うんですよ。
染み出せとか、染み出しすぎとか。
染み出しすぎも言うんだ。
あった、染み出しすぎのやつ最近。
でもその良い悪いも何に判断してるかなと思ったら、
やっぱ大目的の事業にとって良いかどうかって動きかどうかって判断軸があるなと思った時に、
ただただ染み出せばいいってわけじゃないし、
そうじゃないけどその良し悪しは全部目的に照らし合わせる時に判断されてるなって思って、
それは今の話も通じるなって感じかな。
合理的で染み出し。
そうそう、境界線の作り方とかは目的にやっぱり理想とか目的によって柔軟に変えられるものというか、
そこが唯一の判断の拠り所。
面白い。
今思いました。