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はい、こんにちは。ばりきのさらです。 今回はですね、私自身のキャリアのお話をしたいなと思います。
キャリアのお話と言いましてもね、まあそんなキラキラしたお話ではなくて、私自身のこの20代半ばぐらいから10年ぐらいの
葛藤挫折挑戦みたいな、もう舌ばっかの記録をですね、お話ししたいなと思います。 なんでこれを話そうかと思ったのが、ちょうど今仙台に来て10年目の年になりまして、
今年はね、仕事にも地方創生に関わる業務に携わったり、 あとはね、あの地方で働くという多様な働き方を考えるプロジェクトに参加させていただく機会があって、
自分のお仕事の返力とか、まあその原点ってどこだったかなって振り返るタイミングがちょうど重なったということがあって、せっかくだから自己紹介みたいな感じで自分のスタッフでもお話ししようと思ったところです。
はい、まあ仙台に来て10年目の年ってことで、10年あっという間だなという感じなんですけれどもね、こうやって割と穏やかに暮らせてる働いて、
まあいろいろありますけど、いろいろありますけど、それ以上にやっぱり20代前後とかね、自分の選んだ道でボロボロになったり、また思いもよらぬ災害に阻まれたり、
また立ち上がっていい感じになったかと思いきやまた柔らかしたり、本当に黒歴史を重ねて重ねて重ねて参りました。
そこからどうやって自分の居場所というか、今の暮らしにたどり着けているのかっていう、ひとつのストーリーとして聞いていただけたら嬉しいかなと思います。
ここがこの10年が一番濃いなって自分で思ってるんですけど、いやいやまだまだこれからだぞと思っているところです。
はい、では私の原点のお話というところなんですけど、私は福島県の東北地方の福島県福島市というところで、海沿いではなく真ん中の方、山に囲まれて砂遊びして過ごしてました。
自分の中で一番大きな分岐点というのは、やっぱり18歳の春ですね。
実は大学受験の後期試験、本当に国立試験のラストチャンスという日の前日が3月11日でした。
大学受験の前日、東日本大震災ということで、天の災いに阻まれて進路が断たれるという、そういったことがありました。
高校時代に、将来絶対これやりたいっていうのがあまりなくて、ちょっと進路選択、悩んだまま受験した感じでした。
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地元の理科大学の看護学部を受けようとしてたんですね。前期落ちてる受験でダメなんですけどね。
看護大学で受験する予定だったんですけど、その後期試験中止になりました。
私立の滑り止めも受けてないし、浪人してまでに行きたいところがないなと。あれ看護はどうしたんだいって感じなんですけれども、
専門学校とか上がってみたけど、ダメですって感じでした。そんな中、もう何もすることがない自宅で、電気も通った頃なんですけど、
CMしかやってないテレビで、下のテロップに、地元の定員割りしてくたなき大学で追加募集っていうのを見かけまして、
これだと思って、追加募集ということで、また追加の入試があるということで受験させていただくことになりました。
この短大もいくつか学部あって、保育士になる保育学科、栄養士になる食物栄養、英語学科とかいろいろあったんですけど、どれも消去法で。
もう一つあったのがキャリア教養学科という、その法律とか人権とか、いろんなことを幅広く学べるという、そういったところに入学しました。
ちょうど入学のとき、入試のときその短大に、私と全く同じ教育で国立受けられなかったっていう子もいて、一緒に入ることになりました。
本当に強い志があったわけじゃないんですけど、思わぬ災害に阻まれて、とりあえず進めるところに進めってことしかできませんでした。
あれが私の最初の扉になったのかなというふうに思います。
短大入学してですね、短期大学ってね、私の思ってた大学生活とは全然違って、2年間で全部やらなきゃいけない過密スケジュールになって、高校時代とほとんど変わらない朝から晩まで授業がある感じ。
おまけにね、その震災の後の年なのに、震災復興プロジェクトの学生と企業でやろうみたいな、そういったプロジェクトの運営とかも気づいたらやらされてたっていうね、本当に忙しかったなって思いました。
短大ももちろん卒論もあるので、卒論も書きましたね。
そこで思わぬ出会いがあって、短大行ったらほとんどの方が地元の企業に就職っていうルートなんですけれども、偶然、四年生大学への編入制度をやることを知ったんですね。
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運良くそこのキャリア教養学科ってところに編入の指導ができる先生もいらっしゃったんですよ。
私がキャリア教養学科を選ばなきゃいけなかった先生でした。
その先生の後押しと熱心なご指導のおかげで、三年次編入というところで、四年生大学に三年生からぬるっと入る、そういった試験を受験することにしました。
編入試験って短大の二年生の11月頃に試験があって、試験内容は英語と小論文、そんな感じでした。
私はいくつか受けましたけれども、最終的に日本女子大学の人間社会学部、要するに教育学部みたいなところに入ることができました。
そこを選びました。運良く入学することができました。
この時にもう神が勝ってたって思ったのは小論文のテーマなんですけれども、小論文苦手だったんですけど、その時のテーマが、
テーマ忘れちゃったけど、震災復興プロジェクトの内容を書くことができたんですよ。
その短大の時に忙しい中やらされたプロジェクトの経験をまとめられて書き切れたっていう。それで運良く合格できました。
なんで日本女子大の選んだか、受験しようと思ったかっていうところにやってみたいっていう学びが、短大に入ったらようやく見つかったんですよ。
あと東京に行きたいっていう。その学びたい分野というのが障害学習という分野でした。一生涯の学びという、大人の学びっていうことです。
教育学部って候補になったけど、学校の先生にはなりたくないんですっていうところで。
そこで短大に見合った先生が障害学習を専攻してたっていう方で、大人の学びについて学びたいっていう。それが大学で学びたいものっていう。
あと東京に行きたい理由っていうのがもう一つ。東京に行きたかった理由っていうのが、アナウンサー養成スクールに通いたいというのができて、それが東京に行きたい理由でした。
こうして東京生活が運良くスタートするわけです。大学入学と同時に真っ先にアナウンススクールに入学しました。
6分のテレビ朝日アスクというところに申し込んでいきました。3ヶ月のスクールでしたね。
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現実は甘くありませんし、入学したら満足したみたいな感じで、ダメですね。
本気で採用試験を勝ち抜こうとするほどの熱量に至りませんでした。
アナウンサースクールに通ったっていう。これでもアナウンサースクールに行きましたっていう感じです。
アナウンサースクール行ったならもうちょっとはきはき喋ろうよという感じですね。
そんな中、私は大学での学びもやりつつも、3年次編入すると、当然大学での必修授業を取らなきゃいけないので、
3年生から入って、普通の3年生はもう必修授業取り終わって、あとゼミだけですみたいな感じなんですけど、
3年次編入で入った人は、まず1年生と一緒に必修授業を取らなきゃいけないという、どんだけ勉強させられるのかという感じなんですけれども、
編入してからも、1年生の授業にまず必修単位を取らなきゃいけないということに追われていました。
その必修授業であるボランティアのこの単位を取るために、ボランティアを実習のところにご紹介を受けまして、
そこがNPO法人の障害のある子どもを受け入れる、放課後支援するという設備でした。
そこのNPO法人の活動にどっぷりと、最初ボランティアだったんですけど、そこで衝撃的な出会いといいますか、
ハマってしまいまして、ボランティアから始まって、学業そっちのけでアルバイトを働いてしまって、
そのまま新卒して入社することになってしまうんです。
おやおや、せっかく名門女子大の新卒カードどうしたって感じなんですけどね。
せっかくですよ、三年次編入で、それこそ有名どころというか、女子大に入って黙ってればですよ。
ちゃんとしてたら、もしかしたら関東のいい企業に入れたかもしれない。そういったプラチナカードですよ。
そう思ってたのに、それを使わず、やっぱりNPOの就職を決めてしまったんですよね。
その選択は本当に仕事を選ぶというよりも、圧力と恋といいますか、ちょっと盲目的なものでありました。
本当に振り返って、当時の自分に教訓を送るなり、田舎の真面目な女子大生こそ、お金と男と宗教には気をつけろって思います。
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本当に視野が狭くなって、のびり込んでしまいましたね。
だから本当に教訓といいますか、ここがせっかくいい感じに回復したのにまたやらかすという、そういったことでした。
東京とはいえ、近道が郊外、田んぼいっぱいあるようなところだったので、そんなキラキラした都会で働く環境がなかったりませんでした。
でもやっぱり自分どうしても無理して合わせてた環境で、結局は退職、1年経つ前に退職してしまうことになるんです。
まさに本当に苦労歴史。
本当にもったいないことをしたというのももったいないことなんですけれどもね。
そうして私は結局どうにもならずになってしまって福島の実家へ戻ることになります。
これが決して前向きなUターン規制ではなくて、またどこにもいらなくなって、帰るしかなくなったという感じでした。
実家に戻ってから、なんだかんだそこでまた親が助けてくれるというところなんですけどね。
ひとまず母と同じ職場でパートをすることになります。6時間労働ですね。
母が保険証を切らさないようにということで。
そうですね。なんだかんだ心も傷ついてたなと思います。
結構東京時代の施設でクラッシュバックじゃないですけど、心が穏やかじゃないなっていう日が続いて、それを紛らわすためにも働いてましたね。
でもなんか自分の中でね、また正社員として働かなければみたいな。
なんかわかんないんですけど、なんか自分の、なんか気づいたらね、いろいろ調べてですね、若者ハローワークに通い詰めてました。
で、パートしながら6時間労働だったんで、でまた就職活動。
で、これまた第二新卒というですね、新卒3人以内にリスタートできる仕組みであるのです。
それを生かしてね、その権利を得てですね、新卒と一緒に、2年遅れての新卒採用みたいな、そんな感じでですね、
2学年下の新卒の人と同じスケジュールで就職活動をしました。
で、自分の本当の大学生の時はね、なんかNPO活動にどっぷりで、
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ちょっと東京の怪しい企業にインターンとかちょっと行ったことはありましたけど、
ちゃんとした就職活動っていうのは地元に帰ってきてからでした。
で、本当にまた視野が狭くて、地元福島、せめて東北のどこかっていうところで就職活動しました。
東京でね、やらかしたんで、もうさすがにまた東京に行こうとは思いませんでした。
で、福島の金融機関などを中心に何社も受験しましたけれども、
結果は厳しいものでした。やっぱり新卒でも厳しいのに、あいにち新卒は厳しいですね。
そんな中、唯一内定をいただけたのが、全国展開している大規模企業の営業職でした。
で、内定をいただいた後、配属先の勤務地希望アンケートがありました。
そこはね、東北管内でね、全国に資源があるので、東北の採用だったので、東北6県の中で、
第一希望から第三希望まで勤務地を新国できる制度があって、
そこで私は尖った口頭に出ます。
で、なんとね、第一、第二希望、第三希望を完全に無視して、第一希望、仙台市とだけ書いて出しました。
本当にね、仙台しか書かなかったっていうことなんですけれども、
これがね、震災とか周りの人に丸め込まれたりして、
自分でパシッと進路を新国、言えなかった自分が、ここ、人生で初めてというか、ここで働きたいとね、自分の意思で出した希望でした。
で、なんで仙台だったのかっていう理由。
で、その仙台市って書いてあったんですね。理由を書いたのが、厳しい環境で働きたいからです、書きました。
で、それはね、どうせ営業をやるなら東北で一番市場競争激しくて、目標も大きい場所で働きたいという、
後から苦労したくないという気持ちがあって、最初に一番でかいところを希望しました。
結果として、本当に日本一営業目標を大きい仙台にしてに海賊されることになりました。
こんなわがまま聞いてもらえるなんて、一生に一度あるかないかだと思いました。
で、あとはもう一つ現実的な理由ですね。東京行ったりしてペーパードライバーだったんで、仙台なら公共交通機関で福島帰ったりもできるかなみたいな、そんなことでした。
で、よく地元のためにとか、地元に帰ってきたいということで、入団される方がいらっしゃると思うんですけど、
地元福島を希望しなかったわけで、正直に言えば、地元愛はゼロみたいなところからのスタートでした。
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で、こうやって、こんな感じで、私は新しい新天地と言いますか、
ありがたく希望が通って仙台で働けるという切符を握りしめてですね、仙台に来ました。
都会での挫折を経てですね、なんか本当に全て失ったような感じで、親に泣きついて、本当にろくでもない虹の台なんですけども、
この仙台でね、というところに来て、そこから10年、なんだかんだ入れて、ありがたいことだなって思います。
で、本当にね、今振り返ると、これらの黒歴史もね、なんか重ねて重ねて、なんか磨かれて、本当に黒は黒でもね、漆の黒、漆黒だなというふうに、この10年振り返って、ようやく思うことができたんですね。
で、次回、2回目はですね、この東京での暗黒時代ではなく、やっぱり漆黒の歴史ですね。
こう、漆色に染まった、ちょっとね、艶が出てきた、艶が出るような、そんな黒だなと思います。
で、そのね、漆黒の歴史がね、とか、あと、大学で学んだ障害学習とかね、この後、まさかの伏線回収という流れになっていきます。
長くなっちゃうので、ここで一旦、次回はですね、この漆黒の歴史の伏線回収のお話をしたいと思います。
はい、では、前半ここまでにします。はい、ではまたお聞きいただけると嬉しいです。
マリキナ・サラでした。