#81 【後編】黒歴史じゃない、艶のある「漆黒の歴史」なんだ。
2026-06-17 28:46

#81 【後編】黒歴史じゃない、艶のある「漆黒の歴史」なんだ。

挫折から始まった「暗黒の20代」を、持ち前の馬力で這い上がった私のキャリアの後編。
10万円払って挫折したアナウンサー養成スクール、地元への思い、大学での学びが 30代になってから少しずつ伏線回収されていきます。
黒歴史を「漆黒歴史」として受け入れるまでの 葛藤のエピソードです🌊
スタエフで話せたことで また自己受容できました。

前編


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オープニング:心身の限界と、実家への逃亡(24歳のクリスマス)

:ピカチュウを知らない小学生

:「安定」なんてこの世にない。

【伏線回収①】アナウンススクールの学び:採用担当として迎えた内定式

【伏線回収②】地元とのコラボ:まさか自分が地元の地方創生に⁉︎

【伏線回収③】生涯学習:学生時代の学びを、今、自分自身が一番体現してる

エンディング
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感想

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サマリー

この放送では、語り手のキャリアにおける「暗黒の20代」を乗り越え、「漆黒の歴史」として受け入れられるまでの道のりが語られます。アナウンススクールでの挫折、地元への思い、そして大学での学びが、30代になってからキャリアの中でどのように伏線回収されていくのか、具体的なエピソードと共に振り返ります。過去の経験を自己受容し、未来への糧とする姿勢が示されています。

キャリアの挫折と実家への帰還
はい、こんにちは。ばりきのさらです。今回はですね、前回の第80回目の放送に引き続き、私自身のキャリアのお話、後編をお届けします。
前編ではですね、まさかの震災による進路変更から始まり、地元の短大へすびり込み、そして三年次編入という制度を使って、東京の女子大へ。
そういったものは良いものの、せっかくの新卒カードを一切使わず、東京の個人経営のNPO法人、障害者福祉施設での仕事に携わり、そこでの挫折までお話ししました。
私の最初の就職先、東京でのNPO法人での仕事というのはですね、放課後等デイサービスというお仕事で、ハンデキャップある子どもたちの学校帰りの放課後の時間を支援する場所です。
本当に仕事自体はものすごく尊いもので、誇りに思ってました。
子どもたちに受け入れられている、必要とされている感じもすごくやりがいがあったし、世の中的にもすごく需要があって必要とされている、本当はなくてはならない仕事だなというふうに、すごく誇りを持っていました。
ただそこでの生活リズムとか、夜型の生活リズム、それから人間関係、環境、いろんなものがどうしても自分と合わなかったり、いろんなことが重なったりして、結局心身ともに疲弊してボロボロになって、東北の実家に逃げ返ってきたんですね。
それが24歳のクリスマス12月のことでした。
当時私には四つ舌の弟がいて、その弟がなんと老人性で、そのとき大学受験の真っ只中だったんですね。
しかも1月の共通試験、センター試験の直前という、一年で家族が一番ピリピリしている時期、そんな最悪のタイミングで私がちょっと帰りたいってなって、
でも今じゃないでしょって感じなんですけれども、当時は本当に親に頼るしか自分の生きる手段がなかったように思っています。
後になってから母も当時のことを本音語ってくれまして、本当は勘弁してくれよって受験終わってからにしてくんねえかなって思ったって。
でもあの時、待ってとか話しちゃったらこの子は本当に消えちゃうと思った。
だから戻ってきなっていうふうに言ったってね。
それくらいあの時の自分は相当追い詰められたんだなと改めて気づかされました。
なんだかんだ言って最後家族なんだなっていうふうに身に染みた出来事でしたね。
育ちと環境へのコンプレックス
でもそもそもなんで私はそこまで個人経営の狭い世界の限られた人間関係の職場にどっぷりとはまってしまったのか。
冷静に分析してみると、それは私の中にあった育ち、老いた知恵のコンプレックスが原因だったかなって思っています。
私は結構山奥、不便なところで育って、母親その時は専業主婦。
私は幼稚園も保育園も生かされずに育ったんですよ。
いきなり小学校という集団生活に放り込まれて、同級者の話している内容も音楽も全然知らないし、ピカチュウすら知らなかったんですよ。
ポケモン知らなくて、運動会のチャンスレースが全然チャンスになっていないという、校庭で立ち尽くすという、そんなことでありました。
本当に自分は世の中のこと何も知らないんだっていう、なんか後ろめたさをずっと抱えてましたし、
あんまり自由に遊んでこなかったっていう思い出がね、自分の中でひけ目というか老い目になってたんです。
そんな私がいきなり東京で一人暮らし始めて、地元では出会ったことないような次元の違う人たちに急に出会ってしまった。
しかも集団というかね。
この人たちの言っていることが世の中の正解なんだって、マインドコントロールというか思ってしまって、
その人たちに一気に圧をかけられるというか、教えを解かれまして、一気に自分の視野が狭くなっていったなというふうに思ってました。
ただね、もう当時はね、本当にずっと10代の頃はね、自分と育った環境が違ってればなってよく思ってました。
親がもうちょっと教養があって、教養があってっていう言い方もあるんですけど、いろいろ物知りで行動力があって、
いろんなことを知っている両親の元にもし泊まれてたらね、私の人生は違ったんだろうなとか、周りの環境のせいにしてましたね。
でも今となっては本当にこの10年通してですけど、誰も悪くないんだって本当に思うんですよね。
知らないものは知らないんだし、環境はしょうがないんだし。
今ほどネットがそんなに、ちょうど流明期というか、それこそ10年20年前、そんなに情報が潤沢な時代ではなかったっていう微妙な時代だったっていうのはあるんですけれども、
ただみんなね、あの時はあの時で一生懸命ただ生きてただけなんだよって本当に素直に思えるようになりました。
誰も悪くないんです。
地元での再就職と営業職の経験
そんな風にして東京から逃げて帰ってきたわけで、ひとまずパートとして母親と同じ職場で働くことになります。
実はこれが後に今の会社、今のグループ会社になるんです。
当時はそんなことを考えてなかったので、とりあえずパートは腰掛けのつもりで、第二新卒として銀行とかいろんな企業を受けながら、
二学年下の新卒生と一緒に第二新卒ということで就活してました。
今のグループ会社から内定をいただいたときに、前編でもお話しした通り勤務希望地、東北6県内で転勤があるので、勤務希望地を3つ書かなきゃいけない。
その様式にですね、仙台市と1個しか書かず厳しい環境で働きたいからですと書いた生意気なエピソードにつながります。
本当に仙台の中で一番の激戦区の市場規模のところの視点に配属されてしまったということで、
第二新卒で入った営業職の仕事内容は生命保険の外回り営業でした。
しかも車じゃなくて基本スクーターというバイクをぶんぶん乗り回して仙台の街を走り回っていました。
ほぼ新卒のような施設の次に入った会社だから、会社員っぽい仕事はほぼ初めてみたいな感じでね。
初めての営業職、わりとその時は目標の数字を追いかけるとか推進管理とか飛び込み営業とか、わりと楽しんでやれてた方かなと思ってました。
1、2年目は先輩たちの力もお借りできたし、営業って楽しいなと思ってたところ。
迎えた3年目、よしここから新人賞を目指すぞ、女性で珍しかったから取りに行こうと、やる気に満ち溢れてた時期ですよ。
またしてもこんなはずじゃなかった事件が起きるんです。
今度は会社で大きめの不祥事が発覚して、それから生命保険の連日テレビのニュースになるほど大騒ぎになってしまったんです。
誰もが知っている、めちゃくちゃわりと信頼度の高い企業だからこそ、一気に世間の信用が失意していくのを本当に目の当たりにしました。
メディアの拡散力本当にすごいなと思ったし、一瞬で営業どころではない空気になりましたし、
これまでせっかく契約をいただいてたお客様に次々と解約されていっちゃうんですよね。
そうなると、営業正式としていただいてた手当てがごっそり引かれるんですよ。
お客様が解約されたら、手当ては会社に返納返すという仕組みだったんですね。
営業職って基本給がものすごく低い、その代わり成果報酬で頑張れば頑張るだけいっぱいもらえるよという世界だったので、
営業停止になった時は返納も含めて月のお給料が8万円とか9万円とか積んだ極限の生活でした。
この時は本当に有名な会社に所属すれば安定なんて絶対ないって思いました。
安定なんてこの世のどこにも存在しないって本当に思いました。
会社全体が暗闇の誰も動けない状態で、営業もいつ再開できるのかなみたいな感じで目処が立たない。
そんな時に社内で30歳までしか受けるチャンスがない企画職への登用試験というのを勧められました。
別に内勤のいう事務職をやりたいって思ってたわけじゃないんですけども、
年齢制限があって、せっかくの推薦の機会だったっていうのもあって、
どんなもんかわかんないけどやってみるかということで、私でも未経験のステージへ足を踏み入れることになりました。
これが今も続いている管理部門、企画職だろうな、いわゆる管理職コースと呼ばれるような、
事務職のキャリアの始まりです。
外回りから転職したような気分ですよね、一気に。
会社不祥事と企画職への転換
同じ会社だけどこうも仕事って違うんだというふうに思って、そこに入ったのは2021年の4月でしたね。
ですから、いきなり外回りの営業をしていた人が突然1日8時間デスクに拘束される。
なかなかしんどいですね。今でもちょっとしんどいけど。
好き勝手に外回ってた人間がずっと席に固定されるっていう、なかなかしんどいですよ。
時間長いなって思いながら必死にやってましたね。
そんなパンチでビル内で働く仕事も6年目になりました。
人事部での採用担当とアナウンススクールの伏線回収
この会社本当に人事異動激しくて、管理部門、企画職になってからなぜか2年おきに人事異動で違う部署へ飛ばされるんです。
本当に不思議です。
2年おきに転職する気分でしたね。
全然違う仕事になるので、最初の2年は金融機関のバックオフィスの警察のような、金融機関のおまわりさんみたいな防犯関係の仕事でした。
営業とは全く違って、なんじゃこれとよくわかんないまま終わりました。
その次の2年で配属されたのが、なんと人事部の新規採用の採用担当でした。
このあたりからですね、私の20代の苦労歴史、本当にタンダベとぶん殴りたくなるような、この真っ黒に塗りつぶしたかった過去の出来事がちょっとずつね、
おや?あの時のあれ?みたいな、なんかこう伏線回収というような、なんかちょこちょこと出てくるようになります。
で、人事部にいた時のね、伏線回収エピソード2つありまして、
1つは、あれですよ、私が生意気に1個しか書かなかった勤務希望値のアンケートです。
これね、8年ぶり、入社して8年の時か、見た時にですね、笑ってしまいました。
8年前と全く同じ様式でした。
これを今度自分が内定者に対して、希望値を3つ必ず書いてくださいと支持する側になりました。
で、上がってきた用紙に2つしか書いてこない内定者を見て、3つ書けっつってんだろうかってね、言ってしまうんですけれども、
決して人のことは言えません。私は1つしか書かないで堂々と出してしまった。
はい、さすがに1個しか書いてない内定者はいませんでした。
組織に入ったからこそ分かったことなんですけど、各地にたくさん店舗を持っている企業にとって、
人員の配置、いわゆる要員配置って既存の社員の移動も含めて本当に本当に大変な作業なんですよね。
そんなわけでね、新入社員、新規採用の社員、希望を聞いてもらえるだけでもありがたいことなのに、
当時は厳しい環境でとかほざいて1個しか書かなかった。
そんな当時の人事の方には本当に迷惑をかけたなと反省しました。
それと同時にあの時に私はそれだけ必死だったのかなというふうに思いました。
この必死な思いが会社に伝わったのかな。
そして人事部というのは、とにかく人の名前、個人情報を扱う非常にセンシティブな部署です。
部内もめちゃくちゃピリピリしてるし、常にピリピリ。
忙しくて期間に追われて、絶対に間違えられないっていう世界なので、
採用試験前とか個人、個室にね、社員2人3人でこもって書類のデータの読み合わせ、
もうチェックチェックチェック、そんな地味なことを永遠とやってます。
そんな中で採用試験も一通り終わって、内定者が決まってというところで迎えた10月1日にある内定式という、
大きい企業あるあるの、来年4月に入社予定の内定者たちを集めるという式典ですね。
ここで内定者一人一人の名前をマイクで読み上げるという大役ですね。
内定式は若手でということで私が任されることになったんですね。
入社式だからさすがに常席がありますけど、内定式は若手の社員だということで役割を私に回ってきました。
この出来事が当時の私の20代に3ヶ月だけ通って挫折したアナウンススクールの伏線回収になりました。
読み上げをやると決まったときにふとアナウンススクールのことを思い出して、
3ヶ月通ったんだからという、自分の中に小さな小さなプライドにカチッと火がつきました。
普段の事務仕事でポンコツ、本当にポンコツだったわ私はね。
もう自信なくしてたんですけど、ここで自信を尽きようというふうに思いました。
これならできると思いまして、やるからには絶対に間違えない。
一人一人の名前を心を込めて正しく呼びたいって本当に思いました。
私は福島育ちなので、どうしても独特のイントネーションがおかしいよと、
よくアナウンススクールでもご指摘いただいたし、普段もご指摘いただくんですけど。
ネットでアクセント時点というのを調べて、
50人ぐらいの内定者全員の苗字を正しいアクセントを調べて台本に印つけて、
それを見ながら3週間くらい毎日自分の声を録音して聞いて直すっていうのを、
1日1回はやってたかなというふうに練習しました。
本番当日もイントネーション、紙を見ながらではありましたけど、
何とか落ち着いて全員のお名前をマイクを通して読み上げることができました。
なんちゃってアナウンサーになれてるって思いました。
これやりたかったんだよなって思いました。
びっくりしたことに式が終わった後、役員の方がわざわざ私のところに来てくださって、
読み上げがすごく良かったですって褒めてくださってびっくり。
普段、私のポンコツ具合で迷惑をかけまくってて、もちろん褒められたこともない課長からも、
今日は良かったよってハンドサイン付きで言ってもらえて、
気持ちが軽くなって帰った思い出があります。
当時の採用の仕事は、本当に自分が思い描いてた説明会で学生に華やかに説明するとか、
そういったことは一切なくて、むしろそういう、説明してもらう人を選定してとか、
段取り、段取り、段取り、チェック、データ集め、そんな日々で地味すぎて向いてなさすぎて、
ミスしちゃいけないプレッシャーで毎日半泣き、うつなりかけ時期だったんですけれども、
この内定式の日だけは、ちょっと採用担当らしいことができたなって思ったし、
学生の時に10万円近く払って、意味あったのかしらって思ったような、
アナウンススクールの経験、通ったという経験が自信となった。
ここで来たなというふうに思いました。
地方創生とナレーション経験
そして、声を使うということで、もう一つ伏線回収がありまして、
それが昨年、今の地方創生に関わる部署に移動になって、
そこでもまたなんちゃってアナウンサーの経験ができたのがびっくりしました。
地方創生の部署では、地域の取り組みを紹介するPR動画を作るということになって、
作られた映像に私がナレーション、いわゆるアテレコさせてもらえることになりました。
この際に職場の上司にも、私3ヶ月だけアナウンススクールというものに出たんですよ、
完成した動画を見たら、映画みたいに最後のエンドロールのところに声の出演みたいな、
アナウンスだれだれみたいな感じで、私の名前がちゃっかり動画に残りました。
こうやってプロのアナウンサーにはなれなかったし、
何よりもなろうと頑張りきれなかった過去が、自分の中でずっと後ろめたかったんですよね。
でもあの時の学びというか、自分で行動してスクールを選んで通ったっていう経験?プライド?
これが形を変えて思わぬ場面で発揮したっていうところで、
やりたいと思ってたことっていつか必ずできる日が来るんだなって思いました。
ちなみにアナウンサーになりたかったといっても、
朝の民放の女子アナウンサーではなくて、
私がやりたかったのは、日曜日のお昼の歌番組の喉自慢の女性発のアナウンサーになりたかっただけなんですよね。
毎週日曜日全国の普通裏裏に現れるあの番組。
皆さんご存知ですかね。多分まだやってると思う。父親が大好きでその番組。
小さい頃から見ててっていうところでしたね。
それだけでアナウンススクールに行くっていうね。
結局その職業そのものになれなかったとしても、それでダメっていうわけじゃなくて、
でもやっぱり自分がやりたいって思った種を持っていれば、
全然予想もしないところでその花を咲かせるチャンスってね、
必ず来るんだなっていうふうに思ったっていうのが私の大きな学びですね。
地元福島とのコラボと生涯学習の伏線回収
続いての伏線回収。まさかの地元福島とのコラボです。
地元のために働きたいって前向きにUターンしたかったんですけど、
そんなかっこいいことを言えなくて、別に地元で働きたいと思わなかったんですけれども、
ただ今5、6年経ってまさかの地方創生の部署に飛ばされて、
東北6県を3人で受け持つっていうことになったとき、
まさか私が地元の福島県と、あともう一つ秋田県を受け持つことになって、
自分でも本当にびっくりしました。
なんか結局地元とコラボして働くことになるんかいと、ちょっとなんか面白いなって思いました。
そして最後の伏線回収。これは大学時代に学んだ、
卒論を書いた障害学習、一生涯の学び、大人の学びという分野です。
当時はよくわからないままなんとなく卒論を仕上げた程度だったんですけれども、
編入する前、短大のときから、なんか教育って、学校教育じゃなくて、
私がやりたい教育ってなんか違うんだよなと思ってて、
障害学習センターとかカルチャーセンターに通うおじいちゃんおばあちゃんとか、
大人になっても趣味とかね、いろんなことを一生懸命やってる人たちを見て、
いいな、これこそが教育なんだよなというふうに思ってて、
なんかうっすらと感じてたんですよね。
運良く震災で行くとこなくなって入った短期大学で、
障害学習を学問として研究していた編入指導の先生と出会えて、
やっぱ障害学習って学校教育じゃない学びの学問ってやっぱりあるんだっていうのと、
そしてそれを専門としている先生のいる大学へ編入をできたっていう、
あの短大で出会ったサバサバした先生が、
なんだかんだ私の人生のキーパーソンだったなというふうに振り返って思います。
そして今大学卒業してからも、
なんだかんだ自分自身が一番この障害学習を体現してるなということに気づいたんですね。
本当に周りで何かを一生懸命頑張っている人を見かけると、
この人たちも障害学習やってるなと思って、
いいムーブだなというふうに思うんですよね。
昔からいいなって思ってたことを自分自身もやって周りの人もやっていて、
それが私がやりたいなって思ってたことが今できてるなって思ってるし、
これは私自身が一生懸命ずっとやっていくことなんだなというふうに思ってます。
「黒歴史」から「漆黒の歴史」へ
こんな感じでこの10年間のじたまたを振り返っていって、
ここ最近、昔しくじりがちょっとポツポツと思い出して、
でもそれがいい感じに生きてるかもしれないという、
そんなことをいくつか伏線回収があったことで、
こじつけですけど、なんかここにつながってたんだなって、
ようやく自分の中で区切りがついて受け入れられるようになりました。
本当に無くしたい、もうなかったことにしたいぐらいの、
この黒く塗りつぶしたい過去がですね、
重ねて重ねて漆のように艶のある、ちょっと艶が出てきた。
例えるなら漆の黒漆黒の歴史として、
完全に喜ばしいものではないけれども、
自分で受け入れる形ができたなって思ってます。
前編後編にわたって長くお話ししちゃいましたけれども、
なんで今この話をしたかというと、
この一連のやらかしエピソードって、漆黒漆が出る前のエピソードです。
一連のやらかしエピソード、大学行けなかったエピソードから
東京で挫折して帰ってきたのの、
この一連のやらかしエピソードが、
私のお箱というか、ちょっと仲良くなった人と
詳しく話し込む時の鉄板トークだったんですよね。
でも最近、さらに月日を重ねて、
そのお箱ネタが大したネタじゃないかと思って思えてきたんですよね。
今の方がよっぽど毎日忙しくて面白いので、
当時の苦しかった記憶がだんだん薄れてきました。
泥臭く這い上がってきた、その事実を一旦自分でしっかりと受け入れて、
ただね、本当にあの時ちゃんと考えて正しく行動してればなっていう、
後悔は時々顔を出すんですけれども、
そこは一旦置いておいて、
自分の事実というか、そこを一旦受け入れて、
これから先に進むための弾みにしたいなというふうに思いました。
過去の経験の整理と未来への決意
だから私もこのしょうもないジタバタエピソードを一度求めて、
このネットの海に放流して、
このストーリーを成仏させようと思ったんです。
なんかこれ今やっとがないと、私がおばあちゃんになった時に、
孫に一生同じ話をしてそうだなっていうふうに思ったんですよね。
これもなぜかというとね、私の祖父が80歳過ぎた頃かな、
なんかいっつも同じ話してたんですよ。
自分は昔病弱で体が弱くて、体重軽すぎて、
林間学校の受験に落とされた。
だから勉強するしかなかったみたいな、このくだりの話をですね、
毎回毎回聞かされてて、
おばあさんからね、かわいそうにと、いつも同じ話聞いて、
かわいそうにありがとうねって聞いてくれてありがとうのお小遣いをもらうのが決まりでした。
私は長生きするつもりなんで大丈夫なんですけれども、
ただ昔の、すごくだいぶ遡った昔の話ばかりを繰り返すおばあちゃんにはなりたくないと思ったので、
一旦ここで区切ります。
まずだってそれも大した話じゃないなと思えるレベルになれたこと。
それだけ充実というか、いろんなことがまたまた重なったなっていうふうに思ってます。
何よりもこれから先にね、何が起こるかわかんないこの不確かな世の中で、
もしも大きな災難来たとしても、
持ち前の馬力と言いますか、それで乗り切るしかないなという覚悟と、
また日が昇る場所へ必ず行けるという確信が持てました。
皆様いろいろありますよね、本当にいろいろあります。
でも本当にね、なんとかなるそれだけだなって思います。
そうですね、私自身も住むところとか働き方とか、
いろいろ考えて行動した10年でしたけれども、
あと言ってね、自分の働き方とか住むところ、
こだわりを持っていないっていうのもかれまた事実。
別にずっと東北に住んでいたいと思ってないし、
なんなら大阪とかで働きたいと思っている。
第二の人生は関西に住みたいと思っている。
そっちの方が波長が合うじゃないかとか思ったりしている。
そんな感じです。
このジタバタとしたエピソードが誰かにお役に立つか、
そんな高尚なこと全く願っていなくて、
本当に一旦ここに置いて、
私は次なるもっと新しくて面白いストーリーを語れるように過ごしていきます。
だからしばらく、しばらくというかこのお箱の話はしません。
本当に前編後編合わせて長くなっちゃったけど、
聞いていただいた本当にありがとうございました。
また新しくて面白いストーリーを毎日重ねていくように楽しんでいきましょう。
では、わりきのさらでした。
それではまたいい1日になりますように。
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