オッケーな人は全然オッケー。
当たり前のこと言っちゃった。
全然オッケーだし、
結婚してた頃は彼が割と甘えてくる人だったから。
良かったですね、そういう意味では。
そういう意味では良かったと思いますね。
毎日一緒に暮らしてた時も、行く前に一回ハグして行っちゃいこうみたいな感じ。
でもいわゆる、私苦手なのは人前でベタベタとかは嫌ですね。
それは嫌ですね。
私も。
それがしたい人おる?
いや、いるでしょ。
したいっていうか、やっちゃうみたいな人?
そうそう。常にくっついてるとか。
確かに常に腕組んでるカップルとかね。
そうそう。別に嫌味じゃなく、普通に嫌味なケースもあるけど、大半は本当に自然とそういう距離感みたいな。
分かる分かる。
私たちカップルなのよっていう感じ出してるのね。
夫の友達とトリプルデートみたいな。
トリプル?
そうトリプル。
彼女同士は別に仲良くないみたいな。
正確に言うと3人ずつですよね。
私以外の2人は元々同じ職場の同僚間で知ってて、そこに私が混じる形になり。
全部日本人ですか?
全部日本人。もうすごい前の話。めちゃめちゃ前の話。
男性人の方は私全員知ってる。
男友達、男友達、彼氏、男友達の彼女、男友達の彼女みたいなラインナップで行った時に、ものすごく自然に男友達と彼女がトリプルデートで手繋いで歩いてて、
私には絶対できないって思いました。
ナチュラルにみんなで歩いてる中で手繋ぐとか、全然非難したりとかじゃなくて、なんかすごいって思いましたね。
私、年越し台湾行ったじゃないですか。
行ってましたね。
それはコワーキングの人とかといっぱいいたんですけど、カップルが2組くらいいて、ちょっと移動中とかもずっと手繋いでるみたいな感じだったり、
時々手繋いでたりするカップル、全部で2組いたんで、どっちもそういう感じちょっとあったんですよ。
どっちもね。
その2組は全く悪気ないし、本当にただ私がこじらせてるだけなんだけれども、
ちょっとこう、ああそういう感じかみたいな気持ちになってしまった。
なんか我々、なんなんすかね、別にその2組だって日本人だから、日本人ありがちなのかなっていうわけでもないんだけど、
それこそ私がよく家族組で仲良くしてるラトビア人とフランス人の友達カップルとかは、
カップルで出かけたりすると、普通に腰に手回してたり、一緒に旅行したりとかしてると、
気づいたら彼氏の方が彼女の頭にチューとかしてたりもするし、めっちゃラブラブな感じ。
そう、別にそれでいいんですよね。
そう、それでいい。なんなんだろう、気まずい思いに勝手になるみたいな。
そう。
見てしまったみたいな。
2人だけの空間でやるべきことと私が勝手に思ってることを見せつけられてて、
プライバシーを覗いてるみたいな感覚になるのかも。
でもそんな風にしてるカップルなんだけど、さっきのラトビア人とフランス人の。
普通に手繋いで歩いてたの、私がパッと振り返って話しかけた時に手繋いでて、パッと話した時があったんですよね。
そうなんですね。
彼女の方かな、話したのは。それぞれの羞恥心みたいな感じはあるのかも。
ボーダーがそれぞれあるのかも。
そうそう、そうなのかもとは思いますけど。
喋ってる時までずっと繋いでいる感じではないんだよね、みたいなことが。
そうそう、見られてまでっていう。多分彼氏の方は気にしてないかなって腰に手を回したりチューってしたりしてるから。
やっぱ我々はそういうものはプライベートなところでやるものであるみたいなのを思っちゃってるからこそ、人の見たら気まずいのかも。
そうなんですよね。だから自分がやんないから不思議な感覚に駆られるというか。
なんか部屋のドア開けっぱなしにしといて見せられるみたいな気持ちっていうか、見ようとも思ってないっていうか、見たいとも思ってないみたいな感じ。
だって私、社内恋愛2年ぐらい隠し通した上に、前も言ったけど、本当にしょっちゅう会ってる友達に一言も結婚するその瞬間まで彼氏いること言わなかった人だから。
それ何の誤りだっけ?それこそ本当なんか2年ぐらい前の。
なんだっけ?忘れちゃった。
そんなことあんのって、もうびっくりしたけどね私は。仲良くてよく会ってるのに結婚するその時までその報告まで言わなかったっていう。
プライベートっていうのが凶行なんでしょうね。からっていうか守りっていうか。
そうなのかも。なんだろう。だから難しい。この感覚を人に説明するのすごい難しいんですけど。
すごい抵抗があるそういうことを人に話すということに。
それでよくあるパターンとしては、もううちと外の態度がまるで違って恥ずかしいみたいなパターンあるじゃないですか。
要は外ではそんなに積極的にスキンシップ全くしないし、甘えるとか全然しないみたいなタイプなのに、実は彼氏とか夫にもベタ甘えでみたいな。
だから隠してるとこあるけど、からさんはどっちかってうちでも向こうから来てくれた方がいいしみたいな感じじゃないですか。
まあでもどうなんだろう。結構違うと思いますよ。
普通違うと思うけどね。
だから2人きりで家にいるからといってそうなるかって言ったらそうはならないんだけど、それを崩してくれる人が現れた時にすごい楽になるっていうか。
甘えられるみたいな状況になるから、自分で言いたくないけどちょっとツンデレみたいなところあるかもしれないですね。
それはもう本当にそういう人にしか見せない一面だから、他の人には決して解放しない一面なので。
だからじゃない?それは他の人に見せないんだからそうなるよねみたいな感じのナチュラルなあれでは。
それを見られたくないから、その片鱗すら人に感じさせたくなくて、そういうふうに振る舞ってないのに、それをオープンにしてる人をどう受け止めたらいいのかがわからないのかもしれない。
二人の間だけ変なあだ名で呼び合うとかあるじゃないですか、カップルだったら。
あるあるある。
だからそれこそなんとかぴょんとかそういうのをみんなの前でも呼んでるカップルとかがいると、ふぉーみたいな。
なんかチブを見せられてるような気持ちになり、いいんですか我々ともシェアしていただいてそれはみたいな感じ。
自分は絶対にシェアしないから、私も同じ感じで。
かやこさんは改めて確認するとどんな感じなんですか。
改めて確認すると。
ちゃんと今話聞いてなかったから。
カナさんのツール聞いたからね。
同意してもらってる感あったけど、実際どうなんですか。
だからもう私も内弁系じゃないけど、外側でなんかそんな誰かにスキンシップすごい取ったり甘えたりとかは全然しなくて、恋愛関係、彼氏とかになった時に初めてその人にだけ甘えるので、もう絶対に外ではその辺りは見せない。
あーじゃあ似てるかもしれない。
それは結構多数派なんじゃないのって思いますけどね、私的には。むしろ外に出していく人の方がすごいなーみたいな感じ。境界線ないのかみたいな感じかな。
そうですね。境界線が出てない人もいるし、切り替えてやってますみたいな人もいるっていうことで、ちゃんと対外的にしっかりしてる風な感じでやってますみたいな人ほど、そういうギャップみたいなものはあるのかもしれないですね。
なんかね、どうなっていくんですかね、ここからって思いません?
いやそうなんですよ、だって年も重ねていくじゃないですか、言ったら。でなんか体力的にも落ちてくるし、女性はどうなんですかね、なんか30代とかでなんか性欲高まるみたいな言うじゃないですか。
あんまりその兆しが自分に見えなくて、おかしいなーって思ってるんですけど、そうなりたいわけでもないけど、そうなるのかなと思ったらならなくて。
じゃあこのまま年をとっていった時に、どういう関係で我々はなっていくのでしょうか、みたいな。同居人?みたいな。
でもそれこそ、なんか性欲とかじゃない感じの、共にあるスキンシップみたいなものが、この世界には存在するんだろうかって私はまだよくわかってないんですが。
愛情のものが恋愛感情的な愛というよりは家族愛とか、そういう愛に変わって、そういうもののスキンシップになっていく?
そうそう。超越してる愛みたいな。恋愛じゃないとは言わないけど、それを超えた先にあるステージ2とか3とか、そういう関係のあり方におけるスキンシップみたいな。
確かに。慈しみみたいなね。
そうそうそうそう。
漢字をよく、若い頃によく言う人いませんでした?なんかラブラブなおじいちゃんおばあちゃん、手繋いだおじいちゃんおばあちゃんとか見て、私もあんな風になりたいんだ。
いるー。
何人かに一人は絶対言わなきゃいけないのかな?法律で。一定数で現れるんだけど、そういうおじいちゃんおばあちゃんを憧れとする女子が各世代において絶対に現れる。
誰かがそういうのを見たみたいな話して、憧れるんだよねっていうのを誰かが言うみたいな説。
そうそうそうそう。何歳になっても手を繋いで歩きたいよねみたいなのとかを17歳とかが言ってて、今思えば本当に少子って感じですけど。
知っとんじゃんお前が。
いる?でしょうけど、そういう2人が別にずっと手繋いできてきたかどうかわかんないですよね。
いやわかんないわかんない。
いろいろ乗り越えてその手繋いでいる境地に至った可能性もあるじゃないですか。
そう、だからあれをラブラブで片付けるこの解像度の荒さこそがやっぱね、ティーネイジャーの良さなんですけど。
そこの背景を察してしまうこの30代の我々のピュアの無さみたいな感じはあるけど、愛は慈しみなのかなってこうね。
いろいろあった上でそれでも人生共に歩むと決めてますから我々はみたいなね。
愛するということでも言いましたけど決めてるんで、そういう人たちは。
そう、だから行動をするっていうことですよね。
愛するということにおいて結局アクションをし続けることが愛するということになるから、それをこうあえて実践していくんだみたいな、
もうなんて言うんだろう、いろいろ超越した決意みたいなものの可能性結構ありますよね。
なんかあと最近何で言うのだったのかな、なんか夫婦で自分は相手に対して伝えたことを相手が行動してくれることによってのみ愛情を感じるっていうパターンの人と、
相手方は自分が言ったことに対してあなたはそうなんだねってこう受け止めてくれる。
行動は実のとこ何も変わらないみたいな、でも話を聞いてくれるとかいうことに対してのみ、両方のみと言うとちょっとあれですけど愛情を感じるってなった時に、
何をもって愛情となすのかの定義が意外と違って、この人は行動してくれないから私のこと愛してないんじゃないかみたいな、
いうふうに思ってしまうみたいなすれ違いが実は発生しているみたいな何かで見たんですね、誰かのノートかな。
見て、あり得るな、要はスキンシップがなくなっていっても私たちは分かり合ってるよねみたいなふうに思ってたら、
片方はスキンシップ全然なくなってもう愛がないんじゃないかと思ってるみたいなこととかもあり得るから、
そこで自分にとってのと相手にとっての愛情は何かで、スキンシップの重要性みたいなものをちゃんと認知していかないといけないなと。
そうですよね。だから今こうしてかやこさんはそう話しているけど、旦那さんサイドからしたらまたちょっと違った景色を見ている可能性はありますもんね。
もう完全にあるよね。それは完全にある。こういうもんだと。しかも机が長くなればなるほど合意取れてるでしょみたいな感じになるけど、
人間ってその長い机の中でも変わっていくから、合意取れてたかもしれないかつてはねみたいなことがありえますよね。
そうなんですよ。だからなんか偽造エグるわけじゃないけど、私はそうだった。合意取れてると思ってたら取れてなかったわみたいな感じでした。
身につまされる。
そうなんだな。人間関係ってなんかここで一回合意取ったからおしまいみたいなプロジェクトじゃないから。
ちっちゃいプロジェクトが日々日々進行してるから。
確かに確かに。コンセンサー取りましたよね。じゃないからね。
そうそうそう。え、あの時はあれでいいって言ったじゃん。あの時はね。みたいな感じで。
そうそうそう。そうなんだよな。だからあの時そうだったから、なんか1年後もそうかって言ったら、全然そんなことないし、そういう前提で生きなきゃいけないんですよね。
そうそう。で、自分も知らず知らず変わったりするからね。あれ?確かにあの時そう言ったけど、今となっては全然そう思ってないわみたいなこととかあるからね。自分の変化にすら自分も気づかないみたいなね。
そうだよ。ことがあるからな。
だからやっぱり確認とかをしていく、それこそ行動していかないといけないんでしょうね。
そうだな。もうこれスキンシップの話じゃなくて、また何の誤りの話かわからなくなってきたけど。
なんだろう。何の話してこう。男友達の誤りじゃないけど、人と人と向き合うみたいなことになっていきますよね。
結局やっぱ我々社会的動物として人との関わりなしに生きていけないとなると、全ての悩みと誤りの根源は人間関係と。
そうですね。なんていうか、恋愛もやっぱりティーネイジャーの時とかに、めちゃくちゃとまでは言わないけど、しっかりいろいろ経験して、失敗しといたほうがよかったなって今思う。
確かに、怖がりレベルが低いうちに、怖いんだけどね、もちろん。高校生とか中学生でも、傷つけられたくないし、傷つけたくないって怖いんだけど、
大人になると背負ってるものとか、勝手に想像してしまう未来とかが多すぎて、やっぱ臆病になっていくじゃないですか。
10代の時にこけてもすり傷だったのに、今こけたら骨折するみたいなことがあるから、すり傷で済むうちに傷ついておいたほうがよかったよなっていうのは思いますね、私もめちゃくちゃ。
大恋愛とかしたほうの人ですか?
いや、大恋愛とかしてない。何をもって大恋愛とするか分かんないですけど、30年後にイタリアのドゥオモで会おうみたいなことしてないわけですから、私は。冷静と情熱ないなみたいな、そういうものを大恋愛とするのであれば、平平凡凡な恋愛してきてますね。
たとえば何年もかけて片思いして、付き合って、で、別れるとか別れないとか何回か乗り越えてみたいな、そういうの。
なんかやっぱ私、女性性少ないのかな、みたいな思うっていうか、あんまり振り回されないんですよね。振り回されてきたことありますよ、もちろん。人生において黒歴史もいっぱいあるし、恋愛関係で。
でも劇場型じゃないからやっぱり、女友達でもあったけど、あえて大恋愛を選ぶとしたら今の夫ですね。長く付き合って、そのまま結婚して、子供生まれて、いろいろあってみたいな感じ。だからそんなないな。大恋愛コンプレックスはあります。そういうのしたい人生だったみたいな。
そういうこと? 大友情コンプレックスもあったけど。
そう!そうなの!そうなの!セックス・アンザシーに恋焦がれる私は、恋愛もしたいし、大友情もしたかった。
友情よくわからないけどそういうことですよね。
ビッグウェーブに溺れたり乗りこなしたりしたかった。波を横のショーウェーブを踏んで乗りながら、あの波を乗りこなしたり、もうダメだ浮上できないと全て諦めて沈んだりしたかったみたいな。
そうですよね。私もそんなないんですよね。数ヶ月付き合って、自然消滅みたいな。とか、別れようって言われて、もちろんめちゃくちゃショックですよ。めちゃくちゃショックだけど、分かりましたみたいな感じ。
でも、それで言うと、私も付き合ってた人と別れた時に、別れで何日後かに、たまたまその友達と久しぶりに会ったんですよね。大学生の頃に。
最近どうなの?みたいに言われて、あ、実はほんとちょっと前に別れてみたいな。え、そうなんだ。どんな感じなの?とか言って、わーって恋話してて。
その子に、え、私だったらどんなに惨めで情けなくてもいいから、すがりつくよみたいな。私が振られたんですよね。その時って。
そんなことある?って思ったんですよ。すがりつくって言われて。みっともなくても恥ずかしくてもいいから、どうにかならないかみたいな感じで。
ちょっとでも可能性があるなら、私は頑張るけどねって言われて。え?なんか夢にも思わんかったと思って。
ああいう人が大恋愛するんやと思うんですよ。
そうだと思う。すがりつくって尊いですよね。
いや、そうなんよ。すがりつくって本当に尊いですよね。マジで。なんならちょっと本当にその時も思って、すげえ!と思って。尊いと。
私もそっち側に行ってみたいと思って、すがりついてみようと思ったんですよ。その時。
要は振られて連絡も全く取らなくなり合わなくなってたので、そのままおしまいってなるところを連絡とか取ってみて。
家に行ってみて、何事もなかった友達の頃から喋ってるけど、機会があればみたいな感じを狙おうとするんだけど、うまくできないの。
もうそういうタイプじゃないから。ぎこちないっていうか、すがりつき方に真剣味が足りないっていうか。
本心差がないっていうか、なんか自分でも違うなみたいな。ここまでして別にいいかもみたいな思っちゃってるし。
慣れないんだよな、劇場型に。
友情の時も話しましたけど、傷を負うじゃないですか。すがりつくことによって、相手からひどい扱いを受けたりとかする可能性が高いじゃないですか。
うん、本当にそう。
選んでまで、5%とかそういう可能性にかけるって、全然うまくいかなさそうに思えちゃって、そこに頑張れない。
私もあるんですよ、一回すがりついてみなければいけないのではないか、みたいな。
人って一回はあるのかな、やっぱ。
なんだろうな、このままだと終わっちゃうなみたいな時に、要は連絡とかが減ってきて、なんか良くない雰囲気だぞみたいな。
その時にたまたま遠距離みたいなことになって、このままでいいんだろうかみたいなことで、頑張ってLINEしたんですよね。
で、その時に相手に用事があって連絡してきたんじゃなくて、連絡取りたいから連絡してきたんでしょ?そういうの分かるからやめてほしいんだよねって言われたの。
へぇー!
へぇー!
もうトラウマじゃん。
でしょ?
二度とすがりつかんわと思う、誰にも。
めちゃくちゃすがりついたというよりは、そこで不器用ながら、何かしらのアクション取るべきなのではないかと思って連絡を取ってみたわけ、こっちは。
そしたらその結果、とてつもなく傷つくこと言われて、結構傷つきますよね、そんなこと言われたら。
めちゃくちゃ傷つくよ。だめなん?だって付き合ってるんでしょ?その時点ではまださ。
そう、まだギリね。
だって恋愛してる時ってそうじゃないのみたいな、そもそも。
用事ない時以外に連絡し合うのがカップルなんじゃないの?どういうことなの?仕事の関係なの?取引先の方?
散々してきたじゃん、自分もって思って。
どういうことなの?
よく分かんなくて言ってることが。
で、もうダメなんだって思ったんですよね。そこでもう全然折れちゃって。
それはもう、折れるわ折れるわ。二度と連絡せん。ほんま、そんなやつ。
ほんまもう何も連絡しませんみたいな感じで終わったんだけど。
私もそうなるわ。
怒ってというかショックだったから。
いやショックでしょ。
そんな風に言うならもういいですみたいになったんですよね。
だから全然うまくいかない。すがりつくっていうのが何なのかが全然分かんないままここまで来てしまいました。
かなさんと私が同じか分かんないけど、多分私自身のことで言うと、相手の愛情とか相手を愛する心とかよりも自尊心が何より大事なんだろうなと思って。
自尊心を超えてまで手に入れたいみたいなものがある人はすがりつくことができる。
傷ついたっていいし、自分コケにされたってバカにされたってその先にあるその愛が欲しいからそんなものを差し出しますみたいな。
人の方がやっぱりすがりつくことができて、そこで傷つきたくないとかバカにされたくない、見下されたくないみたいな気持ちがあるとどうしてもブレーキがかかってしまうし。
なんでそのかなさんのそんなエピソードでいくと、ぶっちぎ感情から来る衝動でなりふり構わず連絡して、そんなこと言わないでよって涙を流すとかじゃなく、
すがりついといた方がいいよなこういう時はみたいな感じで、頭で考えてLINEしたらそんなこと言われて、じゃあいいですみたいな感じの理性みたいな。
そこまでじゃないですけどね。そんなに平熱じゃないけど、なんかしなきゃ、なんかしなきゃみたいな感じですよね。
そういう、言ったらお母さんの誕生日パーティーも近いもんあるんじゃないと思った。
そうかもしれない。
なんか、平熱じゃないけど、やんなきゃね、やんなきゃねみたいな気持ちの方が先に立っちゃって。
お母さんものすごい喜んでくれたからいいんだけど、あ、そうでしたかみたいな感じというか。
だとしたらこれは何みたいな感じですかね。
そうだな。やっぱどっちかっていうとこう、自尊心なのか自我なのか、自分みたいなものがすごい大事というか、私も同じサイドに立ってると思って言ってるんですけど、だからこそなのかなっていう。
本の話になっちゃうんですけど、かくたみつよさんっていう。
いらっしゃいますね。
いらっしゃると思うんですけど、彼女の愛がなんだっていう本があるんですけど、これはもうどう考えても絶対に遊ばれてるんですよ、主人公の女性がね。
すごい軽く扱われてる。それこそ、もう今から来てみたいな。行って何もしてくれないみたいな。家の家事とかしてあげたりしてみたいな。
会うのはいつも家だしみたいな。付き合ってるみたいな事実もないみたいな感じなんだけど、でもそれで会ってくれてるっていうことが、もうそれだけでいいみたいな。
どんなに傷つくことを言われても、これはきっと軽く扱われてるってことを全て自覚してても、それでも猛烈に愛を注ぐんですよ、相手に。
すごいな。
で、私はその愛がなんだのあり方にも、けっこう尊みを感じてしまって、ある意味恋愛ばかみたいなことだし、依存してるし、そこが割と無様な感じではあるんだけど、でもそうまでしてこの人を愛せてるっていうのは、やっぱすごいエネルギーだなと思ったんですよね。
うーん、そうだな。その愛のエネルギーがすごいのもあるし、自分というものを優先順位の中の一番上から軽く下ろしてしまえる人というか、そこの上にスペースを用意できる人?
たしかに。
はそういうことできるんだろうって。私も自分というピラミッドの中で、常に自分が一番。娘が産まれてようやく、ようやくあっ、そういうことだったんだ。自分より大事なものができるって、こういう感覚だったんだってなったから、それが常にそこを開けたり開けなかったりできる人はそういうことできるんだろうなと思いました。
だからスキンシップの話に戻るわけじゃないけど、その境界の曖昧さみたいなことも関係してる気がするんですよ。その人と自分みたいなことの境界をやっぱり軽く乗り越えれるかどうかみたいなのって、触れるみたいなことに原点があるのではないかみたいなことを持ったりなどするっていう。
伝わってるかわかんないんですけど。
言いたいことはわかるけど、言語化がめちゃくちゃ難しい。
そうなんですよ。
言葉としての認知を超えて、触れるっていうことがすごい難しい。でもわかる、言いたいことは。そういうことが気軽にできる人は、認知の上でも身体的な上でも、他人との境界があやふや繋がっていけるんだろうなってことですよね。
そうそうそう。恋愛とかにオープンで情熱を注げる人とかの方が、例えば介護とかいう仕事って、境界が曖昧になるじゃないですか。何なら下の世話みたいなこととか結構入ってくるし、動けない人の世話だったりするから、体と体を触れ合わせながらやるような仕事で、すごい尊敬してるんですけど、
そういうこととかも抵抗なく望めるんだろうなって思ったりしてて。
確かにね。他人に触れているみたいな感覚ってよりは、単純に肌に触れているとか、そういうものであるみたいな認識ができる人の方がね、きっと向いてるだろうね。
この人と向き合うにはそうした方がいいからそうしてるっていうことだし、自分と直接すごい繋がりがない人であっても、親しくなるみたいなことについてもそんなに境界がないというか、結局だからリターの精神もあるのかもしれないですけど、
そういうの尊いなと思って、私祖母が病気で最後亡くなる直前に、これもね、誤りの一つだと思ってるんですけど、要は最後自宅で見とるみたいなことになったんですよね。
もともと延命治療してほしくないって言ってたから、じゃあもう最後の時は家で過ごそうみたいになって、1週間ぐらいは家で過ごしたんですよ。その時に結局おむつ変えたりとかしなきゃいけないみたいな。
私は仕事しているのもいいことに、全然そういうのに協力しなかったんですよ。母親はもちろんそういうことはしてたし、自分の母親だからね。それがもちろんとも思わないけど、
あと別のいとこの話ですけど、母方のいとこの方も一緒におむつの変え方とか介護士さんから聞いて、こういうふうにやるんだねみたいなことをポジティブにインプットしてて、
私のいとこはわりと社交的で、人との距離感が親しいか親しくないかみたいなののステップがあまりないっていうか、仲いいよねぐらいの感じで、いろんな人とつながれるみたいなタイプなんですけど、
その彼女がおばあちゃんの介護に対して、全然抵抗なく向き合ってたから、すごいな、自分には全然できてないなって思って。
話聞いてても、私何年か前に祖母を見とりましたけど、できないなって思いました。
高修を受けることもできないかも。こういうふうにするんだよって。しないから。できない。
私も、高修も受けれなかった。
なんでなんだろうな。祖母のことはすごい好きだし、でもそこの壁というか境界線を乗り越えるっていうことが、果てしなく高い壁に思える。
そうなんですよ。
でも勝手に祖母はそれをしてほしいと思ってるんだろうかみたいなことを考えちゃってるのもあるかもと思って。
自分だったらしてほしくないから、娘とか孫に。でもそれって自分がやらない言い訳かもなとか思っちゃって。
でもなんでかわからないけど、できないと思う。大好きな人の。
できる人とできない人がいるっていうこととか、そこについての謝りの意識みたいなことがすごい考えさせられて、
これからやっぱり年を重ねていくと、そういう機会がもういろいろと出てくるんじゃないのかなと思っていて。
確かに。
じゃあそういうこじらせてる原点って何なんだろうなぁとか思った時に、スキンシップとか、それこそ自尊心の持ち方とか、幼少期の過ごし方とか、