はい、というわけで、今回は松永臨さんとお話をする第2回になります。
第2回はですね、メインの小笠原の話へと話が深まってまいります。
岡山出身の臨みちゃんが、どうして今小笠原の歌を歌っているのかな、なんていうきっかけとか、
経緯をお話ししてもらっているので、どうぞお楽しみに。
これで臨みちゃん、結構私のことをカッキンって呼んでいるんですけど、
昔からのお友達は、私のことをカッキンって呼んでくれているんですよね。
で、ポッドキャストを始めるときに、メイっていう名前に、なんか気まぐれでしてみたんですけど、
やっぱりなんか私は私だなっていう感じで、最近は2つを統合して、メイカッキンっていう名前にしてます。
そんなこんなで、松永臨さんとのお話、第2回小笠原編、どうぞ。
はい、えーとでは、臨みちゃん、松永臨さんの第2回始まり。
ありがとう。
第2回はですね、小笠原の話を。
小笠原、私岡山出身なんですけど、歌を歌い始めて、最初のアルバムを作った頃だから、
本当に25になる年だったんですけど、その時にやっぱりやりつけないことをやり始めたから、
なんかちょっとやっぱり、全然違うことをしてみたいなっていうかね。
なんか、全然知らないことをしてみよう。一番苦手なことをね。
苦手なこと。
と思って、私は南の島っていうのはほとんど興味がなかった。
なかった?
うん、全然なかった。リゾートとかそういう旅行に興味がないというかね。
あと海もね、あんま泳げないから、ちょっと結構苦手。
で、だいたい船が泳ぐからダメ。
で、っていうのがあって、船の旅っていうのをしてみようかなとまず思ったのね。
なるほど。
で、そのバイト先の人がみんなサーファーだったの。私全員。
そう。
全員サーファーだった。で、東京の人だからみんな。
うん。
伊豆七島とか、小笠原も諸島とか、みんな結構身近なんだよね、東京の人って。
大島とか行ったりしてサーフィンしたりとかさ、なんか小笠原もサーフィンで行ったことがある人って2人ぐらいいたの。
珍しいと思うんだけど。
それは結構でも。
たまたま。で、一緒にバイトしてるサーファーじゃない友達も行ったことがあったのね、小笠原に。
行ったらどうだったって聞いたら、なんか結構寂しかったみたいな感じだったの、感想が。
で、サーファーはもうサーフィンしかしてないから、サーフィンのことしか言わないし。
全然わかんなかったんだよね、小笠原がどういうとこか。
で、これはいいなと思って。
で、調べたら、当時は今24時間で行けるんだけど、その時はね25時間だったの。
船がまだ前の船でね。
で、25時間かけて片道だよ。
で、結構値段もするしね。
で、もう船嫌いでしょ。
遠いでしょ。
あとその1席しかないんで、もう行ったら1週間は最低でも帰れない。
6日間なんだけど。
これだと思った。もうこれしかないと思った。
そうなんだ、もう苦手の詰め合わせ。
もう詰め合わせ、パック。
で、あんまり、私はその時はネットとかもそんなになかったんだよね。
メールとかもできないし。
だから、ガイドブックみたいなのもあんまりなかったし。
で、私も調べるのも苦手だから、ほとんど何にも調べないで。
とにかく船に乗ったっていう。
そうなんだ、もう。
じゃあもう偶然も偶然っていうか。
全然何にも目的もなく。
それがね、だから本当に初めて行った時、1人で。
1人旅の人も、でも当時、今も多いと思うけど、当時も結構いた。
9月くらいだったから、私くらいの世代の大学生とか。
なんかツテとかはあったの?
ツテ全然なかったんだけど、当時やってたバンドの人が、昔行ったことあったんだよね。
それも知らなかったんだけど、私が岡沢に行くことにしたんだって言ったら、
あ、知り合いがいるって言われて。
で、そういうのも本当はいらなかったっていうか。
だからいいって言ったんだけど、知ってることってみんなこれやってあげたくなるじゃない?
だから一応連絡はしといてくれて、その人全然知らない人だったんだけど、
私はのぞみですけど、その人はのぞのさんっていう人だよね。
で、行ったら、なんか迷惑そうな顔してた。
でも結局はその人との出会いが、私の島での島ライフを最高のものにしてくれたっていうか、
ほんと今でも一番仲良し、最初の友達。
で、いっぱい友達ができて、寝る間も惜しいんで、みんなと遊んで。
え、もう行ったその日から?
もうその日からずっとお店でみんな飲み屋。
その頃、今はね、結構ね、小笠原も乳島便利になったけど、
当時はやっぱりもう特に何もなかったから、
本当に飲んだり泳いだりって感じだよね。
ほとんど私もお金もなかったし、みんなと一緒に飲んだり。
イルカも一応乗ったり、イルカの船に乗ったりもしたけど。
え、何イルカの船って?
イルカが来る。
イルカクルーズみたいな?
そうそうそう。船に乗って行ったらイルカがもういっぱい来るの。
で、そこに飛び込んで。
え、飛び込むの?
飛び込んでっていう、そういう一番メジャーなイベントだよね。
そうなんだ。
一応そういう観光客的なこともやったんだけど、
ほとんどみんなと遊んで飲んで、みたいな感じ。
ミュージシャンも多くてね。
今でも一緒にやってもらったりしてるけど、
みんな特技を披露してくれないとか。
本当にね、苦手を詰め込んで行ったんだけど、本当に会ってた。
楽しかった。
奇跡だね。すごいね。
岡沢はその時に本当に初めて何にも知らないで行ったんだけど、
めっちゃくちゃ楽しかったよね。
水があったんだ。
うん。本当に水があったと。今でもあってると。
あとお仕事とかそういうのも移住にはいろいろハードルはあるんだと思うんだけど、
でも、何年か住んでまた戻る人もいるし、気がついたら何十年みたいな人もいるし、
やっぱり子どもとか多いよ。すごくいっぱいいる子どもが。
えーいいね。
だから育てやすいんじゃない。ここで育てたいとか思う人もいるんじゃない。
そっかー。
あとは、村役場関係の人っていうのは転勤の人もいるからね。
転勤で何年かいて帰る学校の先生とかね。
やっぱり東京都の職員っていう。
そう。だからいろんな島に派遣される人もいるんじゃない。希望してるのかわかんないけど。
そうなんだ。
あと自衛隊の人とかね。
そう。
いろんな人がいるんだけど、やっぱり新島民の人、あとは元々の欧米家の人。
私が歌を教えてもらったのは、欧米家の島民の人に教えてもらった。
大平さん。
そう、えーとね、大平京子さん。
大平京子さん。
イーデス・ワシントンさんっていうね。本来は。
日本名にしたときに大平京子さんって名前があって、ワシントンさんだね。
大平京子さんは歌ってた人だったよね。
要は担ぎ出されて、なんかのときにいつも歌を、じゃあ大平さん、イーデスさん歌ってよっていう感じで。
私が最初に聴いたカセットテープも半分ぐらいは大平京子さんだったね。
半分はその歌をパラオから持ってきたエーブルさんっていう、セブリー・エーブルさんっていう人の。
二人ともやっぱり歌がすごく好きで、うまいしね。
なんとも言えない味わいの歌で。
それを、だから私も最初それを聴いたんで、エーブルさんとか大平さんにアルバム作るときに教えてもらった。
それで紹介してもらって、また別の人に色々聞いたり、教会の牧師さんに話聞かせてもらったりね。
そういう感じですごくお世話になったよね。
ただ皆さんちょっともう、今もう亡くなりになっちゃって。
大平さんすごい長生きして。
だからね、今ちゃんと調べてきたけど、2023年の12月にね、でも103歳だったの。
103歳すごいね。
大王女、大王女だし、本当に最後まで歌が好きでね。
すごく私も間ブランコもあったんだけど、交流ずっと続けて、いつも仲間のように迎えてくれて、本当に感謝してる。
のぞみちゃんのフェイスブックとかでさ、小笠原行ったときのライブ風景とか、みんな大平さんいらっしゃったりするよね。
絶対歌ってくれるのね。行って誘うじゃないですか。
みんな大平さん歌ってるのを見たいじゃない、島の人も。
でもこれだし、決まってれば出てくれる、ちゃんとやるときもあるんだけど、そんな言われなければ出てくる人はないから。
だけど私がライブすると、野外とかライブハウスみたいなとこでもね、やるときは声かけて来てくださいって言って一緒に歌いましょうよって言ったら、絶対一回も断られたことないの。
絶対私より声大きいんだ。声すごい大きいの。
だって、最初だったのは70代くらいだけど、本当だって100歳とかのときでも歌ってくれたよ。
やっぱりそれ、楽しいんだなと思ってね。
私も歌うのが好きなんだなっていう感じ。自分も好きだし、そういうとこで一番共通点かな。
うん、いい話。
すごく尊敬してる。人柄も本当に素晴らしい方で。
憧れの、歌手じゃないけど、別に歌いついたりするものじゃないから、小笠原声ってのは誰が歌ってもいい。
そういう魅力もあると思うんだよね。
島の歌手と言えば大平恭子さんだなっていうのはあったから、だからやっぱり一緒に歌えて。
実際本当にいろいろ教えてもらったしね。
すごくお話も好きな人でね。楽しかったなって。
いろんなエピソードとか。
大平さん、本当にこのポッドキャストじゃないけど、行くと近郷喋ったりね。本当そんな感じなのね。
大平さん、私はいろんなのがあるけど、戦争の時に、大平さんは強制疎開して本土にいたんだけど、
その時に自分の家が、要は兵隊が使う場所になるわよね、建物は。
どれもそうなっちゃう。
その時に写真みたいなのが残ってたらしいんだよね。倉庫みたいになってたらしくて。
日本の兵隊さんの写真、小さいね。
初見写真でも残って、誰だか分かんないんだけど、
でも本当に何回目か遊びに行った時に、こんな写真あるのよって見せてくれて、
どうですか?って言ったら、いやここに残ってたんだって。
もしかしてね、いつかね、取りに来るかもしれないから、取ってあげようって。
そうか。
全然、さらっと言うわけ。
でも結構胸を打たれちゃってね。
返還する前、大米圏の人だけが帰れたら、アメリカ時代の小笠原にいた時は、
本当にもう日本と連絡も取れなくて、
友達と手紙とかもできない。
本当に、だからどういうことでそうなるのか、今は考えられないじゃない?
手紙とか別にいいんじゃないかって気もするけど、当時本当にダメで。
たまに、別に船壊れてるわけだけど、
漂着する船があるよね、漁船とか。日本の。
そういう人に預けるわけ。手紙を。
そしたら、届くんだよね、不思議な。
かつての同級生。日本にいる。本土にいるね。
そしたらその友達たちから、そのシートに声を入れた。
友達の声が入ってんの?そのシートに。
送られてきた。送られてきたんじゃない?漁師が持ってきた。
漁師に尽くして。
でもね、それってね、漁師に小笠原の辺に行くかもしれない、
もしかしたら寄るかもしれない、可能性のある船に渡すわけじゃない?
その本土の友達を。
で、それを一回のその船が行けるとは限んないじゃない?
だって本来は日本の船入れないからね。
なんだけど、ということはその漁師がまた、
行くかもしれない漁師に渡してるか、ずっと持ってるかじゃなければ、
絶対たどり着かなくなっちゃう。
うわー、ちょっと。
それ嬉しかったー、とか言って。
だからやっぱり、大江系の皆さんも時代によって、
いろんな、同じ感情ではないと思うんだけど、
でも小笠原さんの場合は、本当にそうやって日本人の友達と一緒に
日本語教育を受けて学生生活してたから、
だからやっぱり同級生と会いたかった。
どうしてるか心配だった。
だからそういう話をね、本当にギラギラ笑いながら。
そうなんだよ。
もういっぱいあるんだけど、すごくそういう人なんだなって。
それこそね、電話もできない、手紙も届かないようなところに、
そのシートにみんなが歌った歌が入ってた。
学校とかで習った歌だと思うんだけど。
それ嬉しかった、とか言ってね。
そういう遠いところにいて、でもそういう思いで生きてきて、
みんなで歌った歌を懐かしく歌ったりね。
そんな感じが、私のイメージとしては、
小笠原の声もそういうイメージも入っちゃってね。
小平さんの思い出だと思って。
なんか、いいな、歌ってそういうもんだよなって。
いいね。
なんかわかる?
わかってないけど。
なんて言うんだろうね、胸が熱くなるっていうか。
熱くなるでしょ。
その漁師さんのね。
そう、それで何回もやり取りしてるって言うんだよ。
で、どっちもどっちにいいよね。
すごいね。
そういうね、なんて言ったらいいんだろうね、
そういう心が美しいって。
そういうものを学んだ部分もあるかな。