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寿司屋バイトと遊びに燃えていた頃の話
2026-04-30 20:21

寿司屋バイトと遊びに燃えていた頃の話

高校生から20歳くらいまで、京樽でアルバイトをしていた頃の話です。
寿司を握って、巻物を巻いて、忙しい現場で鍛えられました。
仕事終わりに仲間と遊びに行ったり、競馬にハマったり、よく笑っていた青春時代でもあります。
今振り返ると、現場の大切さや仕事の基本は、あの頃に少し教わったような気がします。
そんな昔話です。
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はい、転んで学んで、成長するANMAのアップデートラジオを始めました。おはようございます。
オリジナリティゼロANMAでございます。はい、この間ですね、
ハリーさんのね、ラジオを聞いていましてですね、自己紹介のね、お話をしてね、あの経歴をね、語っておられてたんですよね。
それがね、とても面白かったので、マネコーヤ、自分もね、マネして、ちょっと自己紹介をしてみたいと思います。
子供に向けてね、お父ちゃんのね、昔話でしょうかね。はい、これはね、不動産とか経営とかね、全然関係ないので、面白くないんでね、
あのスルーする方は、もう全然スルーしてください。はい、すいません。 今でこそね、不動産だのね、投資とか節約とかね、
イーヤマンドボリタのなんだのかんだのって、こう言って喋っておりますけども、
そのね、昔からそんな偉そう、偉そうなってかね、あの偉そうなことを言って、あのあれですけど、
昔はね、全然そんなことはもうないんですよね。もうむしろ逆、もうかなりね、遊んでいた人間でございます。
私の、そんな昔のね、私のお話しさせてもらいます。 はい、子供の頃、小学生の頃ね、勉強が得意なタイプではありませんでした。
はい、成績もね、なんか4強化とか5強化とかありますけどね、
5段階でね、2とか3ばっかりですよ。 カロージで1はなかったかな。
体をね、動かすのは好きだったんで、体育だけずっと5。
これも小中高体育だけずっと5だったかな。
まあそういうあのワンパクなね、あの少年いるじゃないですか、どこにでも、ああいうどこにでもいるワンパク少年だったように思います。
小学校ではね、野球、少年野球ね、熱中しましたね。毎日ね、一人でね、その家の壁にボールをぶつけてね、
キャッチボールなら、ほんと壁当てか、壁当てをずっとして、なんか買ってもらった木のバットがあってね、木のバットをずっとね、素振りしてね、
一生懸命、ほんと毎日やってたな、少しずつ上手くなっていくんですよね。
ボールに当たったり、投げるとかね、そういうのが嬉しくて、どんどんどんどん夢中にね、続けていった記憶があります。
少年野球チームに入って、そのダンチかな、地域の少年野球チームに入りましてですね、超弱いチームだったんだけど、
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5年生ぐらいでね、上級生、6年生のチームに入れてもらったりしたのかな、6年生のチームでね、結構5番ぐらい打ったんだよ、すごいな俺。
6年生上がって、3番を打ってたんだよな、ピッチャーとキャッチャーを交互にやってましたね。
かなり夢中、勉強一切やらない、野球オンリーの生活をしてた記憶がありますね。
今思えばね、コツコツ練習してね、積み上げていくっていうのはね、そういうの好きなのはもうあの頃から、あの頃からのことかもしれませんね。
中学ではね、ハンドボール部に入部したんですよ。本当はね、野球部に入ろうと思ったんですけどね、何だろう、入学前、野球部を見学してたら、先輩に石投げられてね、ここじゃ無理だなと思ってね、野球部は諦めましてね。
で、あのハンドボール部に行ったんですよね。ところがね、これがね、その学校の中でもね、唯一強豪のスポーツ部活だったんですよね。
なんか、そう、県大会とかにも行けちゃうような、ハンドボールってあの、何だろう、競技人口少ないからちょいちょいって勝ったら県大会行けちゃうんですけど、それでもね、
あの、練習がね、かなりね、厳しいかったんですよね。めっちゃ走るしね、めっちゃ怒られるしね、あの、辞めてく仲間もポツポツいるしね、あの、かなりハードな部活でした。でもね、結果的には良かったんですね。
身体能力がね、かなり上がりまして、中学1,2,3年でね、すごい身体能力伸びたんですよね。
2年か3年かな、2年3年両方かな。
駅伝のね、選手とかにも選ばれて、えーとね、市内でね、2位とか、2位だったかな、なんか表彰されたことあります。でも僕が2位じゃないですよ。
あの、駅伝チームの中では6人中5,6番手ですからね、駅伝チームの6人中の中でね、あの、最下位を争う選手でしたね。
総力はね、高くない。でもね、根性だけで走っていたみたいでね、気持ちだけでね、走っていた選手です。
あの頃にね、そのきついことをね、やる体制がね、できてた気がします。
相変わらずね、学校のこの弁学の成績がね、めっちゃ悪かった記憶があるなぁ。
1位は取らなかったけどな、2と3ばっかりだったかな。数学トリガーがちょびっと良かったような気もするけど、
まぐれで4が何回かあったか、いやでもだいたい3だな、はい。
そんな感じですね。英語は2、もうビタッと張り付いて英語はずーっと2でしたね。かろうじて1を取らない、みたいなね、そういう成績でした。
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で、高校時代に入って、高校もね、新学校じゃなくて、ちょっとね、やんちゃな学校だったような気がするんですけど、
人生のね、大きな転機というかね、舞台がね、現れるんですよ。
あのね、レストランの調理場で働いたんですけど、昔ね、バブルの頃ね、レストラン京太郎っていうのがあったんですよね。
今、今でお弁当屋さん?お寿司のお弁当屋さんみたいなのありますけど、あの京太郎のレストラン。
お寿司屋さんのレストランでバイトを始めたんですよ。でね、私ね、子供の頃からね、お寿司がね、すごい好きだったんですよね。
だから、もう、その、京太郎のレストランでね、働くことがとても嬉しかったですね。
仲間がね、何人かいたんだよな。2,3人友達が先にやってて、それに誘われるようにしてね、入っていったみたいな、そういう流れだったと思います。
でね、最初ね、働く場所はね、もう調理場の、あのー、洗い場、うん、洗浄って言い方してましたけどね。
洗う場所って書いて、洗浄。これがね、またね、めっちゃきつい。めっちゃきつくてね。
あの、汚れた皿でしょ。残飯がたくさんあって、鍋とか寿司桶とかね、鉄板とかこう、もう、永遠とね、洗うんですよ。
でもね、その、16歳だったんですね。16歳。最初にね、それを経験したらね、あの、ラッキーだったんですよね。
最初にね、過酷できついところをね、あの、知ったわけで、その後ね、こう、様々なね、あの、
お仕事、ミッションをもらった時にね、全てがね、楽に感じました。それくらいあの、洗い場、洗い場ね、きつかったなぁ。
暑かったしね、ほんと、なかなかきついですね。はい、であのね、
あの、そう、過酷なね、洗い場に比べればね、とりあえずね、他のミッションはね、何でもできるだろうみたいなね、そういう風に思えたね、
経験でございました。で、そのうちね、えーとね、レギュラーメンバーになっていくんですよね。週に4回とか5回とか入って働くわけで、
あのー、調理場の方に、あの、お手伝いみたいなことで入らせてもらうんですけども、
私ね、なんかラッキーなことにね、お寿司屋さん、お寿司、寿司チームに入れてもらえたんですよ。和食チームとか洋食チームとかあるんですけどね。
お寿司チームに入れてもらって、最初にね、あの、指令されたのがね、イクラの軍艦30個とウニの軍艦10個作って、速攻で!みたいな。
これがね、緊張してね、あの、遅いし、形が悪いしね、大変でしたよ。でもね、だんだんだんだん、毎日毎日やるわけで、慣れてくるんですよね。
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で、調理場は、この、スピードを求められて、さらに綺麗さも要求されるわけですよ。
スピードと綺麗さ、相反するんですよ。相反することを要求されるんですけども、
調理の世界ってね、結構厳しい世界だったなぁなんていう風に覚えてますね。
で、だんだんだんだん、巻物ね、テッカー巻きとか、カッパ巻きとかね、覚えてくるし、えーと、フト巻きね。
あの、職場ではね、フト巻きのことをね、ノリ巻きって呼んでたんですけど、ノリ巻きもやったし、魚もね、さばいたりして、
そう、あの、マグロってほら、でっかい筋の、あの、さばいていくとね、でっかい筋の部分が出てきたりするんでね、その筋をね、スプーンでね、引っ掻く作業なんてありましたね。
あの、スプーンで引っ掻いたところが、中トロっぽくて美味しいんですよ。でね、永遠とね、地味な仕事です。
で、それがね、トロみたいなネタになって、テッカ巻きの死になるんですよね。商品になるんですよね。
あの、現場って面白いですね。現場、うん、私、現場好きなのは多分、そう、あのー、京太郎の経験があったからかな、調理棟の経験があったからかと思います。
で、当時のね、京太郎は、今みたいな、そのー、なんだ、工場一括調理とか、そういうのはね、極力少なくて、かなりね、店内でね、作っていました。
ハンバーグとかもあって、手こねのハンバーグでしたね。で、魚も捌くし、そのー、調理場のね、現場力がね、高かったんですよ。
ただね、そう、私入ったのね、90年ぐらいだったかなぁ、1990年ぐらいだったかなぁ、うん。
で、93年頃になるとね、その、だんだんね、景気も変わってくるんですよね。
うん、客数も減ってったしね、手こねハンバーグだったはずがね、工場の、工場で作った製品とかにね、変わってきたりとかね、
他の食材ネタも、工場生産のものとかが増えてったような気がしますね、うん、そんな記憶があるかなぁ、うん。
で、入ったとおりね、90年ぐらいだったかなぁ、
うん、ちょっとね、つまみ食いパッてしてもそんなに起こらなかったんだけど、93年頃はね、そのコスト管理も厳しくなってね、社員さんの目とかがね、
すごく厳しくなってったような気がしますね、うん、学生の私でもね、景気の波がね、こう、わーってね、こう、
現場で感じることができましたね、うん、はい。
で、そんな中でもね、その最前線のその職場、現場、調理場はね、楽しかったんですね、うん、あのー、調理場だけじゃなくてホールにもね、たくさんこう、若いね、男女がたくさん働いてましてね、
仲間意識も強くてね、うん、なんか部活のような、サークルのようなね、組織だったのかもしれないですね、私大学行ってないからサークルよく分かってないですけども、
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なんとなくサークルのような、あの関係性のグループだったような気がします。で、仕事終わりにね、あのー、夜ね、
11時ぐらいかな、うん、遊びに行くんですよ、うん、で、あのー、そう、先輩、尊敬する先輩のね、
真壁さん、かっこかめーっていう、その真壁さんっていう方にね、あのー、私大好きな先輩だったんだけどね、その先輩に、あのー、一緒についてもらってね、
あの、古文のようにね、ついててもらいましたね、あのー、お寿司握らしたらめちゃくちゃ早くて綺麗だしね、
あの、みんなに好かれててね、あのー、面白くてね、あのー、兄貴みたいな、そう、ギャンブルの博士だしね、あのー、ほんとみんなに慕われてるリーダーみたいな先輩でしたねー、うん、
で、その真壁さんの、大学生のね、真壁さんの、マーチターボ、中古のマーチターボに乗ってね、
あのー、あちこちラーメン屋ね、地下のラーメン屋とかね、あの、大経園っていうね、あのー、24時間やってる、刑務センターみたいなところにね、行って遊びましたねー、うん、
マーチャーもずいぶんやったかなー、うん、で、仕事もね、あのー、本気でやってましたよ、あのー、そう、調理場でね、そのバブルの余韻が残ってるからめちゃくちゃ忙しいんですよ、土日なんかもうやばいっすよ、
うん、で、子供の日が一番やばいんですよ、あのね、通常、土日ね、の売り上げが、100万いったら、わー、忙しかったなーって、大変だったーって感じだったのが、
あのね、すんごい忙しい時にね、150万円ぐらいだったらね、もう、大繁盛なんですよ、うん、もう、バイトは、ヘトヘト、ヘトヘト、でもね、子供の日になるとね、毎年200万円ぐらいいくんですよ、売り上げが、
もうね、ほんときついんだなー、あのー、スピードが要求されてね、すんごい大量にね、お寿司とか、さしもりとかね、なんちゃら丼とかね、ま、海鮮丼みたいなのをいっぱい作ってね、あのー、戦ってましたねー、うん、子供の日前後のゴールデンウィークとか、ね、あのー、夏のボン休みの時とかね、バイト絶対、休むことは許されませんでしたねー、はい、
ただね、そのー、あのー、なんだろう、乗り切った時、うん、閉店の時ね、乗り切った、こう、みんなのね、一体感があってね、そういうのも良かったですねー、うん、でー、そう、ま、あのね、土日の忙しさだけじゃなくてね、その、京太郎なんで、お弁当の発注が入るわけですねー、うん、思い、覚えてるのはね、あのねー、朝4時半ぐらいに出勤して、でー、
社員さん込みで3人ぐらいで、弁当900人分だったかな、900人か600人かちょっと忘れちゃいましたよね、あのー、弁当作ったことがあります、うん、で、あの時のミッションが、太巻きをね、300本、で、稲荷寿司1000個だったかな、うん、で、そう、朝はね、それで、うわーって作って、朝9時に終わって帰るみたいなね、うん、そういうね、あのー、すがすがしいね、すがすがしい、あのー、ミッションもね、
15:15
してましたねー、若いってほんと、すごいですよね、うん、でねー、その頃ねー、えーとねー、いっぱい思い出すなー、これなー、あのー、競馬にも羽ばってたしー、そう、おぐりキャップの時代だったのかなー、
新聞読んでね、めちゃくちゃ研究して、そのー、たまに勝ったらね、仲間、高校時代のね、仲間にね、あのー、カツ丼をおごる、うん、競馬仲間にね、競馬仲間にカツ丼をおごるのは全然いいんだけど、よーしみんなー、行くぞーってやってね、競馬やらない連中までね、カツ丼食べにね、来て10人ぐらいでカツ丼食ったことがありますね、はい、
アブクズには速攻で消えますねー、まあ、だいたい負けるんだけどね、はい、でね、お金の使い方はね、今とね、真逆です、うん、壊滅的な使い方をしてましたねー、うん、ずいぶんね、あのー、後で分かったんですけど、そのギャンブルってド、ドーパミン?ドーパミンがね、こうー、脳内に出て、なんかだいぶ刺激されるらしいんですよね、うん、病的になります、うん、
私あの時ほんと病的でした、うん、月曜日ね、競馬放置っていう週刊誌が出るんですよ、で、そこでね、あのー、来週の出走場とかがね、こう、見えて、早く土曜日にならないかなーっつってね、あの待ち遠しくね、学校の授業上野空でね、競馬、馬のことばっかり考えてましたね、うん、高校時代ですよ、うん、でね、待ちきれなくてね、うん、地方競馬とか行ったのかなー、うん、ちょっと、うん、うるお、うる覚え、うん、
ほんとにね、あれはちょっと病的でしたね、うん、ちょっとおかしくなる、うん、で、高校ね、3年生になると、そのー、学校よりね、その、京太郎のバイト仲間と遊ぶほうが忙しくてですね、卒業した時ね、宿席日数もね、ギリギリだったんですよ、確か、うん、確かね、その休みすぎて、うん、
高校のね、友達からね、お前学校来いよ、もうやめんのか、みたいな、電話が来てね、うん、助かりましたね、うん、あ、そっか、やめんな、ちょっとまずいな、と思ってね、あのー、一生懸命通いましたね、危なかったです、うん、でね、あのー、今振り返るとね、あのー、京太郎のバイト時代ってね、あのー、ただのね、バイト小僧じゃなかったんですよね、そのー、仕事の厳しさとかね、そのー、技術を磨く面白さとかね、仲間と笑う時間も大事でしたし、
社会の現実とかね、その経緯の変化とかね、そういうことをね、体でね、学ばせてもらってましたね、うん、あの座学、学校の座学、机に座って学ぶの苦手なんですけどね、そういう、あのー、現場でのね、感覚でね、だいぶいろんなことを、うん、学ばせてもらってましたね、でね、バイト卒業するとき、専門学校だから、えー、卒業する、うん、二十歳ぐらいか、二十歳ぐらいかな、うん、
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二十歳ぐらいの、三月ぐらいですかね、うん、仕事中ですよ、うん、もうあと、あと一時間くらいで終わるなーっていうときにね、そのー、仲間とね、別れるのが寂しいのと、そのー、それまでね、四年五年、四年五年働いてた思い出がね、うわーってこう、フラッシュバックしてきてね、涙が止まらなくなりましたね、
涙ボロボロ流しながらね、あのー、調理場の床をね、デッキブラシでこすってたのね、あのー、なんか思い出しますね、うん、はい、青春だったんでしょうね、ほんとにね、あれはね、うん、惚れた晴れたのお話もなんか、なんかもう、あったような気がするなー、うん、で、あの頃ね、私はね、そのー、お金も人生もなんもね、分かっていませんでした、うん、そりゃそうです、二十歳ぐらいですからね、うん、
恥ずかしいね、惚れた晴れたの恋愛の恥ずかしいお話もあるけど、これはラジオでは喋れない、喋れない、はい、でもね、そのー、一生懸命働いて、一生懸命遊んでね、人と関わっていたね、うん、それが今の土台になってる気がします、うん、でまだね、これからそのー、先ね、二十歳以降のお話もできるっちゃできるんですけど、もう長くなりすぎてるんで、
今日はね、ここら辺でやめておきます、はい、いつかね、そのー、遊び人だった私がね、そのー、仕事、会社勤めを始めてね、で、結婚して、そのー、子供が生まれてね、そのー、人生がコロコロと変わっていくんですけどね、そんなお話もね、いつかまた続きをお話したいと思っております、はい、今日は私の子供の時代のお話から、子供から二十歳ぐらいか、までのお話、二十歳も子供だな、はい、子供時代の話を、はい、お楽しみに、はい、ありがとうございました。
それでは今日も一日、アップデートしていきましょう。
アンマーでした。ありがとうございました。
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