アメリカからこんばんは、NAKAMURAです。
この番組では、アメリカ研究留学4年目を迎えた私、NAKAMURAが、ゲストとお話ししながら、アメリカ留学の魅力を再発見し、沖縄のあなたにおすそわけすることを目指しています。
今あれじゃないですか、今4月で、今5月でみんな卒業とかいろんなタイミングがあるじゃないですか。結構今回、ラボーのメンバーがいなくなるってことが発覚、だいぶ前から発覚してたんですけど、僕の中では。正式に決まりまして。
結構やばいんじゃね?って思いつつ、その次のプロセスに向けて、推薦書を書いてくれっていう依頼が増えてくるわけですよね。
推薦書ってなんか、一回ひなかで書いたら簡単に書けるんかなと思ってたんですけど、その子に応じて何をこの子がやって、どういうバックストーリーがあってみたいなやつを、英語2ページ英語で書かないといけないからさ、嫌って言えんじゃんあれって。
お願いしてもいいって純粋な目で見られたらオッケーって言うしかないじゃんね。それで純粋な目で言われるからオッケーって言うんだけど、今日チャットGPTがあるからさ今。全部チャットGPTに台本、ドラフトを投げて書かせるんだけど、やっぱチャットGPTだけど俺が書いた文章にはなんないわけだよね。
なんかすげーうまい英語になっちゃうんだよね。俺が絶対こんな書けないだろうなっていう。しかもなんか今時見抜かれそうですよね。そうそう。多分推薦者も絶対さ、絶対こいつ書いてないなって思われるじゃんね。結局自分で書くんだけどさ、文法がわかんないってやっぱしんどいなっていうのが思って。
なんか今から文法を勉強し始めるのもなんか違うなと思いつつ。だからまあ結局チャットGPTに直してもらってはいるんですけど、文法だけ。だからチャットGPTがなかったらマジでこれ昔の人たちどうやって書いてたんだろうなと思って。だって論文でさえさ、文法さ、もうチャットGPT直してくれるじゃん。
無理じゃね?って思って。昔の人すげーなーと思いながら今推薦書、今あと2通書かないといけないっていう状況を1週間以内に書かないといけないんで。まあけどまあ、あんな純粋な目で言われたら断るわけにいかないんで。
次の話題に入っていきたいと思います。
次の話題に入っていきたいと思います。
NAKAMURAです。それでは今回のゲストを紹介します。中部一先生です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
2週間ぶりぐらいですね。
そうですね。
LAで。だからですね、道の中でも何回かすれ違いましたもんね。
あ、そうね。夕食行った時に。
そうですそうです。
どうしようかな、こういう環境が。
そう、むちゃくちゃだもん。
食前に途中でやめました。
今回、中部一先生に出ていただくということで、簡単に先生の自己紹介をお願いします。
NAKAMURAさん、ありがとうございます。
2022年3月31日に九州大学を定年退職し、
2022年4月1日より、バークエスにあります日本学一新工会、JSPSサンフランシスコ研究連絡センターのセンター長を務めています。中部一先生です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
私はですね、宮崎県西物語高原町という土地の中で生まれました。
天孫降臨の地としてよく知られているかどうか知りますが、有名といわれている、
霧島連邦の一つの高地本宮の元です。
実家が落脳を営んでいた影響もあって、1975年に宮崎大学の獣医学科に入学しました。
もともと生物学に興味があったので、入学直後の一般教養課程では、生物学の母子遺伝学、母子生物学を履修したんですけど、
この時の先生が後に私が留学するジョーンズホフキンス大学出身の井上幸夫先生でした。
縁があって、4年間井上幸夫先生の研究室に出入りして実験をさせていただき、その一部は卒業論としてまとめることもできました。
一方獣医学科では、基礎医学、特に生理科学や微生物学に興味を持っていました。
3年次から教室に入ることがあるんですけども、微生物学教室に所属して、新庄俊晴先生の下でウイルス学や細菌学を勉強しました。
また、井上幸夫先生の研究室でサルムナガキンを材料に分子電圧の実験をする方から、この獣医の実証の細菌の導体とか抗生物質の管理性試験などを学びました。
ちなみに、私が教える時代はボクシング部に入ってましたので、当時の部長は微生物の新庄先生でした。
そんな縁もありました。
こんな環境で。
ボクシングやってたのは初耳だったんですけど。
あんまりやってないです。
結構強かったんですか?
クラスがフライ級、52キロくらい。
当時大学に入った時が60キロあったので、10キロ以上減量しましたね。
厳しかったんですけどね。
一度だけ宮崎県の国体の予選で、まあまあいいとこまで行ったことはありますぐらいです。
すげえ。
じゃあもう逆らっちゃいけないですね。
ボクシングの部活のトレーニングとかの合間に、研究室にも顔を出されてたんですか?
ボクシングの方は毎日夕方5時から7時くらいまでやってましたからね。
朝は起きたら8時くらいから授業が始まるまで、猪瀬先生のところに行って。
後は講義を全部受けて。
獣医の方って実は宮崎大学は1年次から専門があったんですよ。
午前中が一般教育、午後が獣医の専門課程って感じで、行ったり来たりしてましたね。
え、でも1年の頃から研究室に入りしてたんですか?
はい、そうです。
それってすごいな。
ラッキーだったんですよ。非常にね。
猪瀬先生という方がジョンズ・ホッキンスで、サルモネア・キンのフィシチニオペロンの研究をやってました。
当時って遺伝子配列決定ができないから、遺伝子産物のタンパク質を生成して、その網の酸配列を決定して、遺伝子の変異を導体するというような、
セリ科学と遺伝学両方をやってた先生なんで、非常にいい勉強させてもらいましたよ。
すごいですね。やっぱりそういうのは、1年から行くって交渉みたいなの使われるんですか?
そうね。たまたま一般教育の生物学の分子自然学を取ったときに、
その後、獣医の友達といろいろ話をするときに、三原君って言うんだけど、その同級生が、私よりも先に猪瀬先生のところに出入りしとって、
俺こんなことやってるんだって言うんで、教えてもらって、え、俺も行きたいって言って、ついて行ってもらって、
いろいろテストがないけど、試験みたいなのがあって、まず18歳だけどお酒飲めるかとかね、
ソフトボールするかとかね、そんなことでね、だいたい毎週土曜日の午後1時からセミナーを3時間ぐらいやって、
4時ぐらいからソフトボールをやって、5時、6時、その後飲み会っていうのが4年間続きましたね。
学生だから行けますね、全然、たぶん。
悪いんだけどね。
今だから言える。
そこから獣医学部だったんですけど、そこから獣医のお医者さんにはならなかったんですか。
そうですね、文資でなかなか基礎の勉強を猪瀬先生のところでしながら、獣医のほうをずっと4年間やって、ちゃんと国家試験も通ったんですけど、
将来は臨床でやっていくよりも基礎研究に進みたいなという気が強くなったので、
1979年に宮崎大学卒業後、九州大学の理学研究科の大学院に進んだということです。
大学院では文資連絡を専攻して、指導教官の関口六郎先生という方で、世界で初めてDNS修復構想を発見、贈呈されるんですけども、T4FARGEのT4エンドヌクレア5という構想なんですね。
T4FARGEから見つかったんですね、これ。
そうそう、研究テーマにもなりました。
これね、T4FARGEに紫外線があっていると、ある程度死ぬんですけど、地上で死にやすい変異体として見つかった変異体があって、その遺伝子産物がこのT4エンドヌクレア5で、紫外線に出てきたPB人材を除去修復するという構想なんですね。
これが世界で最初に発見された贈呈したんですね。
修復構想です。
じゃあ眼鏡に関係してくるんですかね。
そうですね、当時、眼研究の方で発断剤というのが突然変異を引き起こすということがほぼわかっていたので、その突然変異を起こす原因とそれを防ぐメカニズムを研究しようということが進んでいたんだけど、
まだ哺乳動物、人では研究できないから、もっぱらファージレや大腸菌、紫外線も発断物質ですね、発断剤として働くと。
そういったものがどのようなダメージを与えるのか、遺伝子に、そしてどのような修復メカニズムがあるのかというのを明らかにするという目的で、DNA損傷修復構想の研究が進んでいたということです。
この当時って哺乳類の細胞とかっていうのはなかったのか。
私が修士に入った段階で、石口先生のところではファージと大腸菌、1979年の時代は。
ところが80年に入って、女教授に動物細胞を材料にして変異細胞を探すという研究をされていた西本先生という女教授に採用された。
そこから石口先生の研究室でバイオ細胞の研究が始まったのは。
比較的バイオ細胞もこの時期だと新しいっていうか。
むちゃくちゃ新しい。
すごいな。
そういう時代でしたね。
その頃はもう博士課程に進学されたんですかね、修士。
まず修士ですね。
ちょうど9代に入った、1979年秋だから石口先生がコールドスプリンガーハーバー研究所からジェームズ渡辺博士を呼んできて。
大きい。
ラボで遺伝子の分析生物学という教科書があるでしょ。
その講義とかラボでディスカッションとかする機会があったんですね。
余計分析生物学の研究者を目指したと思ったんですね。
ジェームズ渡辺博士先生はその時もマンマリアンの方を研究を進める必要があるということで、
がん遺伝子の管理を進めるということを言ってました。
実際数年後に石口先生のところの助手だった清水健次先生という方がコールドスプリンガーハーバーで、
ボスの黙らせで留学してラス遺伝子の管理に成功してます。
そういう時代です。
そもそもラスとかが管理されていた時代なんですね。
今では教科書で当たり前に出てくる分子とかがこの時代にどんどん発見されてきたんですね。
そうですね。私の終始の終わりから博士課程の始めぐらいから、
石口研究室でも遺伝子のクローリングということがようやくできるようになり始めた時代です。
この頃ってPCRとかってのはあるんですか?
ないよ。
ないんだ。
ないよ。
いやーしんどいな。
だからね、第一の菌のDNAを生成してきれいにして、
それを制限コースも当時買えないから自分たちで生成したりしながら切って、
あるいはDNAライゲスもないから自分たちで生成するとかね。
すっげーな。
当然、プラズミッドも自分たちで生成して、
それを結合させてまた大腸菌に返してクローを選択してという感じでやってましたね。
大腸菌で紫外線に感受性の高い変異体があれば、
その感受性が復帰するというような感じでプラズミッドを持っている細胞を選択して、
全部があったりじゃないのね。
その中の100個ぐらい探してみてどうにか間違いないのが見つかるような感じで。
だから遺伝子をクローニングするということで論文が書けるし、
クローニングしてシーケンシングしたら当然論文が書けるし。
当時のシーケンシングは最初はマクサム・ギルバートで、
PSRT2でダイレクトしてDNAの化学分解してやるような候補だから、
ものすごく放射能を上げるのね。
その後、サンガフォーでSRT5でラベルした抜き量を取り込ましてやることになって、
少し放射能への被曝も減りましたけどね。
とりあえずHCMフィルムに全部オートラジオぐらいに撮って、
それを自分で目で読んでいきましたね。
そんな感じで、私自身も博士課程までに4つぐらいの遺伝子をクローニングして、
結局世界で初めてってやつだよね。
おーすげー。どんな遺伝子ですか?
ARCAとかADAとかSAGとか、そんなもんかな。
ARCAとかアルキルカザイって八岩物質なんですよ。
それの感受性を決定する遺伝子ということで撮ってきたんだけど、
DNAがアルキルカ、メチルカとかエチルカとかそういうのがアルキルカっていうね。
そうすると当然変異が起こるんで、
そうやってアルキルカされた塩基を切断して切り出す構造。
そしてARCAというような遺伝子を、もともとミュータントがあったので、
それを送放するプラズミッドを持つクローンを選択するということでクローニングしましたね。
その辺の修復構想、修復系のかなりのシステムの部分が、
中部先生はじめチームでいろいろ取られてきた時代になるんですか?
そうですね。実はARCAとかADAとかいう遺伝子、
AとBがあってタグAがあってADAという遺伝子、
4つが関連する遺伝子なんだけど、
イギリスのトーマス・リンダウという先生が王立の眼研究所にいらして、
彼のグループも同じことをやってコンピートしたんですけど、
リンダウ先生は2015年にノーベル賞をとられたんだけど、
その方と一緒に結局、実はADAという遺伝子が修復構想でもあるんだけど、
修復した後、転写に一緒で活性化されるのね。
ARCAとかARCBの転写を活性化して、歩き抜かないで抵抗性を獲得するという、
我々が言う歩き抜かないに対する適応的オートという現象なんだけど、
それを制御する遺伝子の制御飛行を、
リンダウ先生のグループと私というか石油グループが、
もうほぼ同時期に世界に開設しようとしたんで、
一緒にレビュー誌のバイオケミスのレビュー誌があるよね。
一番有名な。あれに一緒にレビュー書いたんだけど。
当時は一緒に投稿するとかそういうのはあったんですか?
なかった。お互いに今みたいにEメールもないし、
国際学会なんかに教授が行ったときに、なんか同じことやってそうだねと。
言うのが分かるぐらいで。論文はインディペンデントに全部出してましたね。
出し終わってからレビューを一緒に。
アイアン・レビュー・オブ・バイオケミストリーカに書いて、
今それがいいよが850ぐらいになってるんだ。
なんか、ノーベル賞取ってから急に増えましたもんね、そのレビューはね。
アニュアル・レビュー・オブ・バイオケミストリーってやつ。
私がラストオースターで、リンダルさんがファーストオースターで。
え、すごいですね。これまだ学生っすよね?
学生。
やーば。
博士家庭の学生。
すごいですね。だからこういうノーベル賞受賞者と、受賞者になるような人と、
コンピートして認めてもらったって感じなんですよね。
そうそうそう。嬉しかったですよ。
すごいな。
で、それを博士家庭で、博士号を取られたんですよね。
うん。
で、その後はジョンズ・ホッキンスに行かれたんですか?
そうですね。その前にJSPSの特別研究院。
当時はね、まだ、私に行こう、実は。
最初は普通の特別研究院かな。
その後、がん特別研究院に採用されて、
半年後に募集が始まったんです。そっちに乗り換えたのね。
で、結局4年卒業して、
85年の9月にはジョッシュに採用されるので、
そういうのは、関義先生が生物学科から、
9代の医学部の生化学部の教授に迎えられたので、
医学部のジョッシュに採用してもらったんですよ。
そうか。すげえな。博士すぐジョッシュなんですね。
1年半してね。
で、医学部の教室も、
助教授、講師、ジョッシュ3人とかいっぱいいて、
そこに一人で入っていて、教授と僕だけですよ。
とにかく新しい体制にするために、2年間必死で働きましたね。
セットアップのために。そのご褒美で、
留学するかって言われたんですよ。
教授としては研究者を目指すつもりだったら留学しなさいよって。
でもジョッシュでいた方が、当時ね、ジョッシュを給食して留学すると、
7割くらいの給与が出るんで、2年間は。
で、アメリカの方の給与ももらえる可能性が高かったんで、
まあじゃあ給食できるはずだよって言われたんだけど、
最初はロックフェラーの方にタイロシン関係のガン関連の
遺伝子研究者を見つけて、そこに留学することを決めて、
JSPSの海外と文字研究に申請してたんですよ。
ところが、その年の文字生物学会、ちょうど京都でやったんだけど、
ダニエル・ネイサンス先生が特別講演されたのね。
そこでマンマリアン、まあマウス細胞も違うんだけど、
イミディターリンジンというのをクローニングしてるんだと。
イミディターリンジンというのは、バイオ細胞を増やしていくと、
いっぱいになったら増殖が止まりますよね。コンフレントになると。
で、そこで新しく培育を変えてあげると、また少し増えるんですよ。
で、その時に遺伝子がバッて誘導されるのがわかったらしくて、
その誘導される遺伝子をイミディターリンジンというふうに名付けて、
それをディファレンシャルスクリーニングでCDNAクローニングをしてますと。
で、いろんな細胞増殖、眼科に関わる遺伝子が取れてくるはずだと、
いうようなお話をされたんですね。
あ、これは面白いと思って、
で、すぐ講演が終わったら飛んで行って、
留学させてくれって言っちゃったんですよ。
行動力がすごいですね。
他でも決まってたのに。
そうそう。で、お前らができるんだと。
言われたんで、いや、獣医なんだけど、動物のことは知ってると。
大腸菌のボリューシー遺伝がずっとやってきたし、生化学もやってきたんで、
遺伝子をクローニングして、その遺伝子産物を生化学的に導体することはもう専門だと。
いうアピールしたのね。
そしたら、イメディタリズムをクローニングしてるんで、
その遺伝子産物の導体とか、機能解析できるよねと。
言っていただいて、できますと。
で、すぐ採用決まって。
確かにそんなにやる気がある若者だったら、採ってみるかとなるかもしれないですね。
最初の給与はNIHグラントだったんで、25,000ドルくらい年間。
それってどうなんですか?当時にするといいんですか?
うん、スタンダード。NIHの基準でしたね。
で、1年半したら、ちょっと仕事が進んできたもんだから、
ネイサンスはハイワードヒューズの研究所のボスだったので、そこの助手にしてもらった。
アソシエーター。
そしたら、3万8000ドルくらいになったかな。
そうなるとかなりリッチですね。
そうなんですね。
当時のジョーンズホッピンスだから、ボルチェモアですよね。
物価とか家賃とかに対したら、かなり楽に生活できるぐらいのお給料なんですか?
アパートが2ベッド2バスで600ドル。
安っ!
むっちゃ安いよ。
そうなんですね。
僕の今の、ここの3000ドルの5分の1だからね。
そう考えると安いな。
給料は3万6000ドルだったら半額かね。
だからね、むっちゃ楽で、円も強くなっていく途中だったから。
いくらくらいなんですか?
えっとね、覚えてないんだけど、最初は200円前後からだんだん200円に近づいたのかな。
だって元は3560円だからね。
で、変動相場制に入ってっていう感じだから。
私たちが行った時代、だから87年から3年間留学せんだけど、
ジャパンアズナンバーワンって言われていた時代で、
で、もうニューヨークのビルなんかを日本の企業がどんどん買い占めてる状況だったのよ。
だからジャパンバッシングすごかったよ、実際は。
だから円がどんどん強くなっていってる時代なんですね。
日本のあれどこだったか、そうすればなんかテレビとか家電をみんながデモンストレーションでぼっこかすとか、
そんなことが頻繁に起こってましたけどね。
幸いバルチモではそういうのになんで起こさなかった。
ニューヨークとかそっち系の。
そうですね。
じゃあそこで研究者、僕も実はAPMをやってたので。
あ、そうなんだ。
俺中べっぷ先生の仕事は多分知ってるんですよね。
知ってるの?
あるじゃない、ジュンとフォスが結合すると強くなりますよっていう。
今となってはもう当たり前の話なんですけど。
1988年かな、9年かな、セルに最初に中べっぷ、ケブンライダー、レイサンス3人の記号書で出します。
この論文めちゃくちゃ引用されてますよね。
今1000本くらいかな、サイテーションがね。
もうマジで教科書レベルの話を見つけた人と今こうやって話せてるっていうね。
しかもジュンフォスなんでね。
このジュンフォスはもうすでにクローニングされてたんですか?
元々はバイラルジュン、バイラルフォス、ウイルスの個人だったのよ。
それもクローニングされてたんですけど、他のグループでね。
レイサンス圏では、セルラーがカウンターパートということが、
イミディタイジンのクローニングの中にバイラルジュン、バイラルフォスとホモロジンの高い遺伝子があると。
おそらくプロトン個人で、それがバイラルゲノムに取り込まれて、
オン個人になったんだろうということですよね。
そういうことがオレの研究から分かった。
すごいですね。この当時で3つのジュンとかって見分けれるもんなんですね。
そうね、もうね。交代も私作りましたよ、自分で。
3つのジュン、3つのフォスを。
だからフォスの方にも、僕フラとかフラワーとか、フォスBかな。
そういうのもクローニングしてやってますけどね。
マジか、すげえな。オレ全部使いました、一応。
じゃあそれで何年くらいでそのセルは出されたんですか?
1年半。
やーば。
いや、理由があってね。
最初は大腸菌で発現させて、そのタンパク質の機能を見ようと思ったんだけど、結構壊れるんですよ。
交代は作れたんだけど、
たまたまインビットのトランスレーションというシステムが手に入るようになって、
ウサギの毛状石球のXラップ使いですね。
それでCDNAをメッセンジャーDNAに検索したやつ、メッセンジャーを入れて翻訳させると、結構タンパク安定にできるんですよ。
もうそのまま生成することなく、翻訳産物を使ってAP1の血合配列を持つDNAとかいろんなのを持ってきて、
血合圧制をジェルシフト圧制というので言ったら、きれいに血合することが分かって、
そのシステムを使って純糖素を混ぜる、一緒に翻訳させると、地上温に血合圧制を持つとかね。
すげえなあ。
インビトロであるからものすごく仕事が早いのよ。
そうか。全部平梱できるし。
パッパッパッパッっていって、1週間でかなりデータがありましたから、動き出した段階で。
動き出すまではいろいろ代償金で苦労しましたけど、
ラケット代償金でやった方は全然上手くいってないのよ。
でもインビトロトランスレーションの技術の出始めの時にやっぱりそれを使えたっていう。
ラッキーだったですね。
その時代ほぼ1年置きぐらいでビッグジャーナル書かれてますよね。
その88年のセルの後に翌年エンボを出されてて、2年後にまたセル出されて。
やべえなあ。
いやもう生き生きどんどんやったですよ。
いや考えて、3つの純と3つのホス全部手元に持っているんだから。
まあそうか。
抗体もクローンも。で、わざわざ持っていない訳よそんなこと。
独占状態なんですね。
そうそうそう。そこは楽しかったです。
ちなみになんですけど、先生ってどのタイミングでご結婚されたんですか?
えっと博士課程の。
あ、違う。
博士号を取って助手になる前後。85年の6月。
あ、そうなんですね。
うん。
とべも一緒にされたんですか?
そう、赤ちゃんも連れて行きました。もう生まれたんで。
おおー。
で、ちなみに家内は関口先生のところの当時、学部の4年生で卒業研究で配属されていたんですね。
それで司令やったということです。3つとして。
じゃあまあ研究者と言ったら研究者なんですね。
まあ研究が分かる方ですね。
私と結婚したんで、手術師とか博士でいってないですけどね。
ただアメリカに留学するまで2年間は九州大学の遺伝情報実験室っていうのがあって、そこで実験助手をやってました。
どうなんですか?研究に理解のあるって感じになるんですかね?
いやもろありますよ。大事ですよね。
大事ですよね。
後々ね、教授になって、ラボを構えて、マウスを2000匹くらい維持するようになったときに、これを信頼できる人にやってもらうと大変なんです。
だいぶ2000はもう自分しかやらないから。
で、それを結局ね、家内に全部やってもらいましたね。
へー。
やっぱ大事なんだな。
NAKAMURA君もね、奥さんが。
いや俺、あれですよ、中口先生と同じです。3人としてなんで。
後輩だもんね、ラボの。
そうだね、後輩だね。
そうなんだ。
一緒です。あるあるなんですね。
いや、理解はよくしてくれました。
ただ時々厳しいことも言われるんで、こっちの方がめげたりしますけどね。
いや、実はね、リンダル先生なんかと付き合いされたし、ワトスム先生なんかとも縁があったりして、ノーベル賞ってやっぱり研究者の夢じゃないですか。
ネイサンス圏でジオンフォスで行ってすぐいい研究ができたんで、アメリカ行ったときはね、自分もいつかノーベル賞に取れたらいいなって夢で言ったんですよ。
だからそれは夢じゃないから、ちゃんと実現しないとダメよとか言われたりして、
結局さ、20、30年近く一緒に暮らしとって、ストリームが至ってないんで、まだダメよとか言われます。
けど、なんか尻を叩いてくれるというか。
そうね。
めげそうになったら、そうやって励ましてくれましたね。
結構入学は楽しかったですか。
楽しかったよ。
アメリカンナイトGOLD。
一応自己紹介なんで、その後も聞きたいんですけど。
ネイサンス圏の話はしたんだね。
3年間だったんで、最初ネイサンスからはアメリカでポジション取りに行ってもいいんじゃないって言われたんだけど、
石口先生が医学部に移られて3年目って、
ラボのほうに帰ってきて、マンマリアンのことを大人とやれる人が欲しいんだということで、一旦日本に帰ったんですね。
で、その時の約束は自分の研究テーマをやらせてもらうことだったんで、
純保守による細胞増殖の制御との解明ということをやらせてもらったんでね。
で、このテーマで結構掛け費も取れてね。
私個人で一番多いところで2000万ぐらい年を取れてました。
しかも当時の2000万って多分今で言ったらもっとでしたね。
ですね。だからボス自身は当時も突破出身もってたんで。
すげえな。
私も結構自由に研究させてもらいました。
ただ、関羽先生の研究テーマの活性酸素によるデイネーション症とその周波数の解明というのも興味があったんで、
それも大学研修生の指導という形で結構良いモデルもしてました。
で、運がいいのか悪いのかその後関羽先生が本田寄付大学の生態防御薬研究所の生化学部門の所長として異動になるんですね。
で、私も生態防御薬研究所、我々は生育園って言うんですけど、生育園のほうに異動しました。
で、先生は1996年に定年退官されるんですね。
はいはい。
で、私は助手だったんですけど、その時の助教授は私よりも4歳上の方で、
ノックアウトマウスの研究をアメリカで学んできて、
石油事件でノックアウトマウスの実験ができるように立ち上げた方なんですね。
で、その方と私が一応立候補内部から来て、外部からも応募があって、
まあいろんな季節があったんだけど、結果として私に決めたということなんですよ。
まあそれでラッキーだったんで、
ちょっと2001年に研究所の開始もあって、
研究室の名前を脳機能制御薬分野、
英語ではDivision of Neurofunctional Genomicsということにして、
テーマは活性酸素による脳機能障害とその防御機能の解明ということを、
結局懸念する2022年3月まで続けてきました。
この間、純ホスト関係が実は脳で一番発言が高いと。
特にね、神経活動だったり、活性酸素ストレスで誘導されるということが分かってたんで、
そこをうまく回しさせて、
ブレインでのDNA損傷ダメージ修復と脳機能維持機構を一緒に理解しようかなと思った次第なんですね。
ホスト化って確かめっちゃ脳でそういうマーカーでめっちゃ使われてますよね。
昔から。
というか、我々が最初にマウスの耳を電極すると、
カエバできれいにデンテザイラスに、
こんなにCDNAでハイブリデイズすると誘導されるというのを報告したのが最初なんですけど、
90年くらいにね。
それから神経活動のマーカーとして純ホストが使われだしてます。
私自身は実はね、純ホストの研究を日本でやり始めたとき、
アメリカ、一番有名な方はエリック・ネッサラって言って、
アメリカの神経科学会がありますよね。
そこのプレジデントを数年前にやった方かな。
その方と共同研究を91年くらいからずっと続けとって、
当時はもうEメールだけで、私の抗体とかクローブを送るとか、
そんなことでやってました。
彼がね、国外中毒にずっと研究をやってて、
国外中毒で実は脳に純ホストが誘導されるんですよね。
そん中でも特に日本語のセルで出してるデルタホスビーって、
私が発見した新しいホスビー遺伝子のオータネティブスプライシングバリアントね。
これが特に誘導されるということを一緒に見つけて、
彼はそれでずっと、なんで国外中毒、アビュースが起こるのか、
デルタホスビーはどう関わるのか、ずっと研究されて、
アメリカのそういうニューロサイエンスの分野ではそこまで上り進めてますね。
当時エイルにいたんだけど、途中でテキサスに移って、
後半、最後はニューヨークだったかな。
マウントサイナー?
マウントサイナーさん、そうです。
で、私の大学以前も彼のとこに留学したりとか。
で、こっちで作ったノックアウトマウスだったり、
向こうで作ったコンディショナルだったりをお互いに交換しながら、
共同研究を、どの程度に退職する前後まで続けましたかね。
すっげえな。
結構、あれなんですね、そういう、
日本語だと先生コミュニケーション能力高いなと思うんですけど、
英語でも昔からいけたんですか?
それとも結構頑張って勉強したんですか、英語とか。
えーとね、まあまあ勉強はしてましたけど、
宮崎大学に留学した時の井上先生が、
もう最初から英語の論文、
ネイチャー・セル・サイエンス・プログラスぐらいしか読ませなかったのよ。
へえ。
で、その週出た、1ヶ月で出た論文を、
これを読め、あれを読めって感じで、英語で読まされて、
で、セミナーで発表するというトレーニングをずっと受けたので、
まず、論文を読む、
論文に関してコミュニケーションするのは英語でできるようになってました。
だから、年産試験でも、
仕事に関しては全く英語で困ったことはなかったんだけど、
ただね、街に出ると、もう言葉が全くわかんない。
へえ、なるほどなるほど。
でも研究系はもう完璧だけど。
日常会話とかだったね。
事前のアンケートでも、当時苦労されたことはあったところで、
一旦研究室に出ると言葉が通じずに、
途方を遅れることが多かったですっていうふうに。
多かったよ。
いや、レストランに入って注文できないんだもんね。
へえ。
やっぱり聞き取ってもらえないんですか。
そうそう。相手が言うことがわかんない。
へえ。
今でこそね、こう言うんだよなってわかってるからね。
日本に帰ってからも、年に2、3回は必ず海外、アメリカ、ヨーロッパに行くようにして、
学会に参加を送るようにね。
ちょうど自分の貢献があるからできるわけです、自由に。
で、学会に参加したら、だいたい前後1週間ぐらいは近隣の大学を訪問。
特にネイサンス研究大に知り合った友達を訪問するとか、
あるいは共同研究を開催した人間は、
もう相当増えてきたんで、ジューフォースでね。
そういうとこに行って、セミナーディスカッションと。
リンポートをずっとやってました。
じゃあもうその後も、やっぱりそういうコミュニケーション能力を高めとか維持するっていう感じですね。
実際どうなんですか?
アメリカ、例えばインベントトランスレーションとかの技術とかがあったからこそ、
多分最初のセーラーが出たわけじゃないですか。
やっぱり日本とアメリカの技術の使うの速さとかっていうのは、
今でも多分そうだと思うんですけど、当時からってそうなんですか?
えっとね、実は関口県でも私たちが遺伝子を4つ、5つローニングしてるんで、
当時としてはもちろん多かったし、論文としてはPNSとJBCがメインかなって出してるんだけど、
終始派生でスーフォースという論文を書く人間っていなかったと思う。
で、関口県がやっぱりね、研究費が潤沢で、
もう最先端の技術を常にアメリカから取り組むということをやってました。
で、先輩がスタンフォード大学に留学してるケースが多くて、
アーサー・コンバーグ県、もう亡くなられたけどね、DNAプリミネスを発見した先生で、
あそこに留学した方が3人くらいいたし、
それからポール・バーグって、この方も亡くなったかな、
マンマリアンのクローニングベクターを開発された方、やっぱりスタンフォードだよね。
そういうとこに留学して帰ってきても、最先端のテクニックをどんどん持って帰ってくるわけ。
で、マンマリアン、マウスのノックアウトに関しても、
ユーザー大学大学、ちょっとおもしろい名前忘れたけど、ノーベル・シュマイタ方。
USクローニングでね、ノックアウトでね。
そういうとこに先輩が行って帰ってテクニック持ってくるから、
基本的にはアメリカとそんなに変わらないスピードで、
テクニックは入ってきましたので、僕にとっては差なかった。
だから、レーサンス研に行っても特にすごいということはなかったんだけど、
違ったのは、共通機器、といえばファシリティがもうしっかりしてるから、
で、しかも人的サポート。
自分があんまり下仕事をしなくていいんだよ。
例えば、僕、バイオ細胞ちょっと2、300枚ディッシュが欲しいなって思うときがあるけど、
一回の事件で。
で、それをさ、やってくれるんだよ。
あ、いいよ、1週間にするぜ、データ。
で、もうCO2インキーメーター取り出して、トランスフィクションするだけ。
で、何をやってたかというと、ジオンフォスがテンシャイン質として活性化するかどうか、
AP1のリポーター遺伝子とジオンフォスのコトランスフィクションやったのね。
で、そのとき、ジオンフォスの組み合わせとミュウさんとかいっぱいやると、
で、リピートもN3で大体やると損がなっちゃうんよ。
そういう仕事を1週間でやっちゃうと、アメリカのポストクはね、毎日試合だったらいい気持ちだよね。
いや、けど今から聞いてもすごいですね。
なんでこんなのできるの?
いや、これね、向こうテクニカルスタッフの女性の方が、ものすごく僕の実験に興味を持って、
全面的に手伝うと言ってくれて。
いや、200枚プレート準備するってやばいよな。
やばいよ。
20枚でも嫌だもんね。
20枚でももう嫌になってくる。
そんなことやってました。
日本だとそういう人的サポートというか、そういうのはやっぱりなかったな。
僕も広島大学なかったっすね。
いや、ないというか、自分でそれを作らなかったね。
資金を取ってきてってことですよね。
だから、実験支援員を雇用すると。
だから、教授になってからやっぱり実験支援を4人5人は雇ってましたかね。
だけど回すのいじませんね、感じ。
で、そのお持ちの一人がカナエですよね。
それはすごいな。
で、フォースロックを数人。
日本だとそういうラブあるんですね。
政権はそういうラブばっかりだったね。
そうか。
日本だとごく限られた場所だと思ってたでしょ。
と思います。
だから、国立大学の父県と呼ばれるトップ5ぐらいの父県。
東大の伊加県とか、
旧大の生態防御研究所、大阪大学の理研とか、
今はただの免疫のほうもあるけどね。
そういうとこかな。
あと、理研だね。
今はね。
今は理研ですね。
昔、理研なかったからあんまりね。
もともと東海岸に行って、
今西海岸にいるわけじゃないですか。
どうですか?
今選ぶならどっちがいいですか?
当時、先輩方はスタンフォードなんで、
ものすごく解放的になって帰ってきてましたよ。
えー、何組まそうって感じだったんだけど。
で、東に行った方いなかったんで、
私が最初で、西5個が多分。
やっぱりヨーロッパ的で保守的で、
っていう感じが強いですね。
エスサブリッジメントの世界だから。
まあ、でもそれはそれで良かったのかな。
ヨーロッパに行っても通用するしね。
生活スタイルとか、
カンバセーションとか、英語の使い方とかね。
こっちに来てね、英語が違うじゃんって思ってもね。
そうなんですか。
カリフォルニア英語だね。
へー。
違う。
ゆっくりしてるんですか?
いや、アクセントと…
そこまで?
うん。違いましたね。
へー。
多分あなたがクイズ英語とかキングズ英語とか聞いたら
ちょっとおかしいと思うでしょ。
ベッカムの英語しておかしいと思うでしょ。
うん。
そんな感じ。
おー、なるほど。
若干の違和感があるってことですね。
そうそうそうそう。
でね、こっちの若い方の言葉、僕聞き取れない。
へー。
ようやく少し、ああ、それぐらい言ってるんだなと分かってきたの。
そうなんですか。
だから違う世界ですよ。違う国ですよ。
あー、そっか。
西がちょっと特殊なんですかね。
東が東で特殊、中央は中央で特殊。
アメリカとちょっと違うんだよ、一緒で。
忙しいですね、なんか。
あんまりそういう経験ない。
いや、一応旅行とかで、ボストンで1ヶ月くらいいたんですけど。
あー。
結構ハードワークの人がいたんで、あんまりこっちと変わんなかったんですね。
いや、アメリカ人ってむっちゃ働くんだよ。
いや、そうなんですよ。俺びっくりしたんですよ。
いつ寝てんだろうっていうくらいなんか。
そうそうそう。
朝から1時。
あのね、ボス族時代は朝5時にみんなラボ行ってました。
やーべ。
でも、5時に帰るんよ。5時に帰るために。
あー、なるほど。
絶対5時に帰る。
それはやっぱりファミリーがいるからってことですね。
うん。
で、私がそれで5時じゃなくて9時まで頑張ってたりすると、
母親から怒られました。
何やってんじゃん、あんた。
しかも子育てもされてる時期ですよね、その時代って。
そうそう。
で、アメリカで2人目の子供生まれました。さすがにいますから。
それは怒られますね。
怒られますね。
でも今、中部彦先生ご自身もアメリカ中だったりを
飛び回ってられると思うんですけど、
時代を得て違いってもう感じられますか?
東西だけではなくて、
当時と今でもいろんな違いってある?
えっとね、はい。
今は特にトランプ政権に変わったということもある。
その前のバイデンさんの時期というのは、
ダイバーシティが偉く、
主張されていた時代ですよね。
そういうことはアメリカは僕はいたことなかったので、
やっぱりある程度男女取りのしっかり、
特に保守的な東部ではありましたね。
だからそれが最初来た4年前は、
おお、かなりアメリカは違うんだなというのを感じて、
でも結局それが共和党と民主党が反発する大きな理由を作って
やってるんだなというのは実感しています。
なるほど。
アメリカの白人の方々はやっぱり価値観が違うよね。
プロテスタントの方々はね。結構保守的なのよ。
女性は家庭を守り、男性が働いて支えるという、
まあ日本と一緒なんだけど、
そういう価値観が強いの。
というかそれが本当の彼らの人生観なのね。
なるほど。
ところが、民主党になってくるとね、
それが男女共同三角というかイーコールで、
それだけじゃなくて当然ながらいろんな人種の方も、
セックスに関してもトランスジェンダーまでとなっているじゃないですか。
それも全然違う価値観、世界観なんですよ。
それが衝突するのは当然だなと思うんですね。
アメリカは大統領制だからそこがガラッと変わるのも、
外から見てると面白いところはありますよね。
それを中にいて体感するのもいい経験だと思いますよ。
そうですね。
僕ら、中嶋先生もそうですけど、バイデンからトランプさんに代わって、
いろいろ経験しましたからね。いろんな変化を。
実は私、35年前にいたときにはワンガン戦争をちょうど経験したんだよね。
テレビでさ、テレビゲームみたいにポンポンポンポンってミサイルを飛ばすのがテレビで映って、
驚いた記憶があります。
また今度こういう戦争、えーっと思ってますけどね。
というわけで中嶋先生には来週も引き続きお話を伺いたいと思います。
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