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こんにちは。 お聴きいただきありがとうございます。あきねです。
こちらは、2人の小学生の子を持ついちお母さんの私が、ASDの息子を通して出会った行動分析学について語るチャンネルです。
今回も久々に方言で話してみたいと思います。 私は、楽しいということ以外で感情が上がったり下がったりするのが苦手です。
他人に怒りをぶつけることはまずないし、明らかに故意的な迷惑行為でもない限り、目にしてもあまり腹は立ちません。
なのに、家族、特に子どもたちに対しては大きな声で怒ることも日常的にあるんです。
これが家族にも他人にも怒りがわくけど、他人に対しては我慢しているというだけなら簡単な話なんですが、それとも違うのでちょっと考えてみました。
結論、私自身に自分が正しいという気持ちがあるかどうかの違いだと思いました。
自分の家ではお母さんである私が主にルールの基盤だったり、ルール自体も作っていますし、ルールが守られているかの監視をするのもほぼ私です。
だから家族の言動を見ているときには、前提として私が正しいという考えが頭にあって、その正しさに反する言動にセンサーが働いてしまうんだと思います。
相手が我が国かそれとも他人かでは責任のかかり方が違うからというのも考えましたが、そもそも腹が立つか立たないかの違いはどこなのかに包括するとこの結論に至ります。
私は行動分析学の講座で、学び手は常に正しいという言葉を教わりました。
学び手は常に正しい。これは学び手のする行動がいつも望ましい行動なんだという意味ではなく、
学び手と教えてがいるときに、教えてが提供する環境、それに対する行動からの結果という流れに乗って起こるのが学び手の行動であって、
つまり学び手はその流れイコール行動随反性に従っているだけなんだという意味だそうです。
だから学び手の視点に立つ必要があるんですね。
行動分析学入門という本の著者である杉山直子先生は、教えてが教えたいことを教えるのではなく、
学び手のスキルとレベルを常にモニターしながらそれを伸ばす環境を設定すること、これが学び手に視点を置くことだとおっしゃっています。
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ということはうちで言うと、我が子たちがルールを守れないのは、この家で教えての立場である私の環境整備の仕方を見直す必要があるということになってしまいますね。
まあ私は子育てのためにも、まず自分自身のメンタル安定を最重視しているので、思いつめない程度に反省と見直しを心がけます。
冷静に観察分析したり子どもたちの視点に立つには、自分が正しくて相手が間違っているという思考は邪魔にしかなりません。
他人に怒りを感じるきっかけにもなるので、私には扱いづらいですし、やはり学び手は常に正しいという言葉をこれからも頭の前面に置いておきたいと思います。
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それでは今日も大事なものを大事にできる一日を。あきねでした。