グリコの誕生とおまけの影響
皆さんこんにちは。AI歴史蓄積チャンネルへようこそ。
本日のエピソードは、「グリコ、おまけから始まった菓子帝国」をお送りします。
グリコといえば、大阪道頓堀の巨大な看板で有名ですよね。
両手を挙げたランナーの少年。
でも、実はこの看板、最初は手を挙げていなかったんです。
どうしてランナーが手を挙げるようになったのか、
そんな意外な秘密の一つ一つを、今日は紐解いていきましょう。
ちなみに、このポッドキャストを聞きながらポッキーを食べている方、
一緒にストレッチしませんか?なんてね。
それでは始めていきましょう。
グリコの物語は、一人の役主ドイヤの息子から始まります。
創業者の江崎理一は、1919年、柿の煮汁に含まれるグリ高原に注目します。
実は、この発見には切実な背景がありました。
幼い頃に病弱だった理一は、健康と栄養に一一倍関心を持っていたのです。
当時、柿は需要競争の代表的な食材でした。
理一は、その栄養成分を子どもたちにもおいしく食べてもらえる方法を考え始めます。
1922年2月11日、ついにグリコのキャラメルが誕生します。
価格は現在の価値で約30円。
でも驚くことに、おまけのおもちゃ付きだったんです。
最初のおまけは、おもちゃの時計。
実は、このおまけこそがグリコの大ヒットの立役者だったと言われています。
パッケージに書かれた、栄養価一粒で走り300mというキャッチコピーは、実際の計算に基づいていました。
このような科学的なアプローチは、当時としては画期的でした。
1935年、大阪道頓堀に巨大な電光看板が設置されます。
両手を挙げたランナーの少年は、グリコサインとして大阪の象徴になりました。
最初の看板では、ランナーは両手を振って走っていました。
両手を挙げるポーズになったのは1972年のリニューアル時、
これは勝利のポーズとして、より前向きなイメージを表現するためでした。
グリコの成長と世界展開
この看板は、戦時中も10日完成の時以外は転倒し続け、
大阪の人々に希望を与え続けたと言われています。
戦後、グリコは急速に商品ラインナップを拡大していきます。
1950年代にはアイスクリーム事業に参入、
1966年にはあのポッキーが誕生します。
ポッキーの名前の由来はパキッという音、
開発者が試作品を食べた時の音をそのまま商品名にしたんです。
最初のポッキーはチョコレート味のみ、アーモンドクラッシュが登場したのは1971年でした。
1970年代に入ると、グリコは次々と革新的な商品を生み出していきます。
1971年のプリッツ、1977年のポッキーチョコレートなど、
今でも愛されている商品の多くがこの時期に誕生しています。
プリッツは当初、ポッキーの製造過程で出るはみ出したチョコレートを減らすために開発された商品でした。
また、1980年代には冷凍食品事業にも本格参入。
二段熱という画期的な調理方法を開発し、業界に革新をもたらしました。
1984年、グリコ森永事件が発生。
この事件は会社に大きな影響を与えましたが、消費者からの支援もあり、グリコは見事に復活を遂げます。
この事件をきっかけにグリコは品質管理と安全対策を一層強化、現在の高い品質管理体制の基礎となりました。
1990年代以降、グリコは世界市場への展開を本格化。
特にポッキーはアジアを中心に大きな人気を獲得します。
2022年には創業100周年を迎え、新たな挑戦を続けています。
最近では健康志向の高まりに応えた商品開発にも力を入れています。
グリコの100年の歴史は子どもたちの健康に貢献したいという一つの思いから始まりました。
おまけつけのキャラメルから始まり、今や世界的な食品企業となったグリコ。
その歩みは日本の菓子産業の発展そのものを映し出しているとも言えるでしょう。
それでは、AI歴史蓄積チャンネルの本日の放送は以上となります。
最後までお聞きいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう。