こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
Advanced Therapistエピソード25本目ということで、前回はですね、ちょっとオフ会の音源も共有したのもあるんですけど、
ちょっと前に3月に堀先生中心にやられている推論学会の学術集会もあったりして、最近実際に人に会って話す機会とかがちょこちょこあったので、
どういう話が行われたかなとか、現場でどういうこと困ってそうだな、みたいな話から広げていけたらなと思います。
はい、よろしくお願いいたします。ちょうどこの収録が3月31日で、その3月というものを少し振り返ってみると、
僕自身が3つの学会に参加してきました。
1つは先ほど田代さんが言ってくださった日本理学療法推論学会。これは主催者なので、好き勝手にやってるというところもあります。
あと、IEEEのABCという技術系の、映画でアクティビティー&ビヘイビアのコンピューティングだったと思うんですけども、
そこは函館に行って国際学会に行ってきて、そしてその次の週に東京で大学理学療法教育学会というのがあるんですね。
それに行ってきて、とにかくいろんな人と喋りまくって、
昨今の理学療法の状況だとか、昨今の学術の状況とかの情報を仕入れてきたという感じですね。
なるほど。推論学会とかだとPTとかで、他だと理学療法士以外のとても結構交流してきたという感じですかね。
そうですね。そのABCに関してはもう理学療法士はほぼいない学会です。
大学理学療法教育学会は理学療法士なんですけど、この学会は大学教員のみが会員になれる、ちょっと特殊な学会なんですね。
だから同じ教育でも専門学校ではダメなんですよ。
理学療法、大学教員資格を持たないと入れないという。
僕も実は今年今回初めて参加したんですけど、そういったクローズだが面白い学会があるんだなという。
なるほどですね。特にどれが印象に残っているとか、どれも多いかもしれないですけど、どういうトピックがとか何かありますかね。
まずその推論学会、ある種宣伝も含めてになっていくと思いますけど、今回第2回の理学療法推論学会を愛媛の道後温泉リハビリテーション病院というところでやってきました。
大会長が島原先生といって道後温泉リハビリテーション病院のスタッフなので、そこで会場を書いたと。
場所が場所というところもありまして、現地参加自体は全部で結局25、30行ってないぐらいだと思うんですけど、学会としては非常にこじんまりとしたものですが、
その分とにかく議論議論という形で、実際に土曜日の昼から夕方、そして日曜日の朝から昼までという形のことをやってますけど、
ほとんどのメンバーがそのまま飲み会にまで行きますので、だいたい12時ぐらいまで議論するという。
なるほど。
非常にたくさん喋ったなというような学会でした。
その中で、とにかく理学療法推論は何かというところを僕がテーマとしてやっているというところもあり、そこに一つ興味を持っていただきたいというところ。
あとそのワークショップとかを通して、いわゆる小学者の人たちというのがどういうふうに論理的に考えていくかとかということをやってきたんですね。
実際に皆さんにいろいろ言われた、僕自身が言われたことが、去年第1回で僕がいろいろ最初の基調講演で提唱した内容があって、
その内容を引用して皆さんプレゼンを作ってくれたのに、僕がその話をもうしなくなっているというところで怒られました。
それが一番印象的でしたね。
なるほど。自分はちょっと現地参加できなかったんで、オンラインで視聴する形でしたけど、本当に堀先生の話は昨年から結構発展しているところもありますし、
その中でも活発に議論している部分もあったところもあるんで、堀先生の思考がどこまで今後も進んでいくのかというのと、
その学術周回どういうふうにしていくかというのは今後も重要になってきそうな気がしましたね。
まさにそこで、変わっているっちゃ変わっている。だけども、その思考が発展して進んで新しいところに行っているというとそうではなくて、
拡散したものを集めてきているっていうところの僕の印象なんですね。
前回は非常に拡散していたものが今回もう少しより具体的になったっていうような僕の捉え方で、
このさらに26年度を使ってこれを本当に体系化して、そしてその体系化したものを第3回でさらに説明して、
それ以降はそれをベースにっていう形になるのかなというふうに予測してるんですね。
確かに。
昨年とかだと、ワークショップだとフィッシュボーンチャートみたいなのを使ってやるとか多くて、
そこでも十字モデルみたいな話も少し触れてたと思うんですけど、あんまりそこの説明になって、
今回結構その十字モデルとフィッシュボーンチャート、あと三角ロジックっていうところがまた組み合わさって話されて、
なので完全に新しくなってるっていうよりは本当に深まったというか、より具体的になったなみたいな印象は自分もありますね。
さすがです。そうなんですよ。思考ツールをより具体化してやってることは似通っているんですけども、
前回はどちらかというとフレームワークっていうフレーム自体をかなりぼやけてたんですけど、
今回はフレームの部分をかなりきっちりさせたというところで、思考の可視化に向けて進めたって感じなんですね。
ただそのワークショップそのもの自体が今僕の中で10時間分ぐらいの一つのセットになっているものですから、
その10時間のワークショップのセットの2時間分ぐらいの提供なので、やっぱりどうしても分かりづらい部分はあるよなというのが実施者としての課題です。
そうですね。また来年学術集会あると思うんですけど、そこはまたさらに深まるかなと思いますし、
とはいえ結構次回になるとだいぶ核の部分は固まってきそうな印象ってところですかね。
そうですね。次回が東京開催なので、参加される方っていうのが完全に新規になると思うんですよね。
だからご新規さんに対してどういうものを提供していったら。
ワークショップは必ずやるので、ワークショップ自体をどういうふうに提供できるかなというところは個人的な課題でありつつ、
簡単でもある程度のお土産が持っていけるものが作れたらなというのが今回その推論学会を受けての自分自身のテーマであり、
結局この理学療法推論をやっていくことの必要性とかっていうのが、どこまで説明できるかなというところも一つの課題で、
結局理学療法推論っていうことを言っていますけども、なんとなくみんな必要であるというのはわかると。
だけどもすごく必要であると思っていないっていう感じですね。
2つぐらい園内が出てたんですね。その2つぐらいの園内を聞いてみると、
1つは臨床実習でどういった学生を育てたい、あるいは学生はどういった理学療法士になりたいみたいなアンケートをベースに考えていたときに、
その中に学生はわりとシステマニックな臨床推論みたいなのを知りたいと思っているが、現場で実習に求めているものってほとんど態度なんですね。
知識技術っていうのは、現場に来ればどうにかなると思っている人たちが多すぎるってことなんですよ。
だけど、管理者に聞くとそれがどうにもなってないっていうところが問題なんですね。
管理者はできていない、でも多くの理学療法士はなんとなくできている。
結局、本来僕らが20何年間現場をいろいろ見ていく中で、ベーシックな理学療法推論の固定ができていないがゆえにうまくいっていないというのが僕の仮説なんですけど、
そこにはなかなかそういうわりと大きめな調査をやっても、そこの調査の結果は理学療法推論だとか知識だとか技術じゃなくて、
とにかく態度だっていう、とはいえ態度という表現ではなくて上位という表現を使うんですけど、
この上位という表現もよくわからない理学療法の教育の中ではかなり古くから使われるこの言葉なんですね。
上位面と言われて、その上位面の成長というものが実習において重要だというふうに捉えられると。
広くよく言えば、ある種プロフェッショナリズムの基本ではあるわけですね。
だけどそこが重要だってなってくると、これ理学療法の実習じゃなくて、別にいろいろな営業をさせたりだとか、
飲食店で働いてもできるじゃんって話なんですよ。
だからなんとなくやっぱり現場が求めているものというのが進化していないというか、という感じだったなというところと、
あともう一個の円台で、より良い臨床推論において動作分析の研究だったんですね。
動作分析をカメラで捉えて、10人ぐらいの理学療法師に動作分析をさせたときにどういう違いがあるかみたいな研究で、
すごいその中で主張として、その動作分析っていうのは理学療法師の基礎的な能力としてすごく重要だと。
それは僕すごくよくわかるんですね。
ただでもそれが理学療法の業界を壊しているのも、僕はそう思うんですね。
いまだに目視でそれを、こんだけ価格が多く広がっている中で、目視の評価っていうものを最大の評価項目に置いてるっていうこと自体はやり直さないと、
これはいつまで理学療法って成長しないっていうふうになるんですけど、それを科学的に検証しようとしている現代で。
面白いが、いつも質問でそういうことを言っておきました。
なるほど。
そうですね。前半部分の上位的な接遇とかコミュニケーションみたいなところは、もちろん必要だとは思うんですけど、
さっき言われた通り、飲食店とかホテルのサービスとか、そういうところでより相手の気持ちに寄り添ってみたいなところは学べるところもあるかもしれないですし、
どちらかというと、やっぱり本当に効果が出せるかどうかとか、プロフェッショナルなところが重要かなと思ってますし、
自分もどちらかというと科学的なことを勉強してきたのもあるんで、
あまり人の感覚だけに寄りすぎずに、ちゃんと説明できるような、正しさがあるようなものはやっぱり追求しないといけないなとは思いますよね。
本当そこで、あともう一個、前理学療法士協会の会長の半田先生が、その理学療法士の法律の歴史の話を講演してくださったんですね。
その時にすごくクリティカルな考え方だなと思ったのが、もともとは理学療法の法律の中に評価という言葉を入れる予定だったと。
その評価というのがあるとき、いろいろな業界団体の関係で取られたと。
最終的に決定的だったのは、当時は盲学校が文科省がやると。
理学療法の教育は労働省がやるっていう流れだったんですね。
文科省からすると、ここに評価という言葉があったときに、盲の人は見えんだろうと。
だから評価ができないから取れって言われて取らされたんですね。
それが実はものすごく理学療法の職域に大きく影響して、評価という言葉がついたら評価に医療点数がつくんですよ。
だから例えばレントゲンとか血液検査に医療点数がついているように、理学療法評価そのものに点数がつくはずだったと。
その評価というのが外されたもんだから、理学療法の実施に点数がついたと。
そうすると評価しなくてよくなったってことなんですね、究極は。
なるほど。
で、評価に点数がつくとそこに科学性だとか責任だとか専門性だとかっていうのが向いてたはずなんですよ。
だから例えば6段階で判断するMMTとか5度刻みで測るRMだとか、そういうのがのさばることはできなかったはずなんですよ。
例えば筋力といってもサイベックスだとかいろいろな機械を使って評価して、そこにお金がついて、その上でプログラム立案のはずだったんですよ。
ここのやはり文科省と労働省のせめぎ合いというところ。
でも労働省じゃないかな、厚生省かな。
当時は厚生労働省、文部省なので、そこのせめぎ合いの中で評価が外されたっていうところがすごく影響したんだっていうことを言ってて。
動作分析とかっていうのも結局分析じゃないんですね。動作感想を言っているってことなんですね、あれは。
だからそこは根本的に元を正せば評価という言葉が取られたからだというところにつながってきます。
なるほどですね。
いずれもその医師の指示の下で行うというのも、毛の方が言ったからっていうのもお話であったと思います。
やっぱり最初の段階でそこはやっぱり今にもかなり影響しているなとは思うんですけど。
例えば海外を見ていくと評価みたいなものにしっかり点数なのか価値がつけられているとか、
理学療法士以外の職種で国内だと何か評価的なものが制度の中で行えるって何かあったりするんですかね。
これはもう完全に理学療法士、医者のみですよね。その評価が許されているのは。
いったんの指示によって、例えばレントゲンを取るということでコストが発生する。これが評価ですよね。
あるいは血液検査をする臨床検査技師の人が血液の分析をする。これが評価なんですよ。
治療は、例えば薬剤師が治療、あとは理学療法士が治療というふうに分けられているわけですけど、
だから医者の権限が強いというのがそこだということ。
理学療法士海外の場合というのは、そこまでものすごくきれいに分けられているわけではないですが、
評価をしてプログラムを立てて、それでお金をもらうということになるので、
その評価をするということ自体は、予後予測を含めてちゃんと患者さんに提供して、
その予後予測が外れた場合は訴訟対象だということになるわけですね。
そこが責任というところなんですよ。
なので、その責任を取るまでしっかりと評価をするというところで、
小さなクリニックでもかなり筋力機器とかが置いてあるそうですね。
筋力測定をちゃんとしてこの筋力をつけてみましょうというところが、
特にアメリカの開業型クリニックとかでは、それがベーシックな考え方だということでした。
なるほど。
日本国内でいくと、その責任を医師の方に強く持っていて、
それで理学療法士の責任の範囲は狭くて済んでいるというのもあるかもしれないですし、
それによってできないことも増えているというトレードオフがあるのかなと思いましたね。
理学療法士全てにそれをさせてくれと
言っているわけじゃないんですよね。
そういう位置筋を作ってもらって、
そこに行く理学療法士がいてもいいじゃないかというのが、
その法律というかの改定になってきて、
理学療法士の資格を取った瞬間に
開業していいとかということではないことだと思います。
例えば最低収支の条件をつけるとか、
あるいは教会に入って認定理学療法士を持って、
教会からその資格を出せるようにするとか、
これは実際の弁護士がそうですからね。
弁護士バッジは弁護士協会が出すわけですから、
そういう形のある種の変更はやっぱり
行っていかなきゃいけないだろうなと思いますね。
確かに。
その中でまた子どもの数も減ってきて、
学校側の教育も難しいところがあったりとか、
国立大学とかで理学療法士もしかしたら減ってきちゃうか
みたいな話もあったりするんでしたっけ。
そうなるとまた難しくなってきますかね。
これもちょっと文脈を全部理解しているわけではないんですが、
国立大学というのが研究大学としての立ち位置というのは
どこも強くしたいと思っているわけですね。
教育大学というか、それ以外の一般的な仕事に就くという場合は
それ私立でいいじゃんというふうに
結構文科省は捉えているわけですよ。
そうなった時に、
じゃあ研究大学である国立大学の立ち位置とした時に、
専門職教育をやる必要があるのかという問い立てをされているんですよね。
なるほど。
医学部は医学研究をやっている研究機関としての付属病院を持っているので、
医学部は何かOKらしいんですよ。
専門職だけど。
そうです。おそらく看護は看護学という独自の学問を持っているんですね。
看護以外は医学なんですよ。
理学療法、放射線も薬学。
でも薬学も薬学というふうに言った方がいいのかな。
理学療法は理学療法学ではなく医学カテゴリーなんですよね。
だから医学部である程度研究していたら、
他の介入というかサブカテゴリーはいらんだろうというふうに思われているわけです。
なるほど。
だから放射線とか検査技師とかも多分そうだと思うんですけども、
いらないとというのが国立大学の考え方として出てきている。
これはなくなるよと言っているんじゃなくて、
階層の中で本当に必要かというような問い立てをされた時に、
ちゃんと答えなければいけないというところのターンに入ってきているんですね。
なるほどですね。
それがうまく答えられないと、
現場の専門職とかは違う学校で要請されて、
大学院だけ残そうかとか、そういうふうになる可能性もなくはない。
これは学部がなくなったら院もなくなると思うんですね。
実際に理学療法、作業療法に関しては国立大の院があるんですよ。
学部があるんですよ。
だけど言語聴覚師は国立大に学部も院もないんですよ。
確かに。
でも言語聴覚師できてるじゃんって言われたら、
じゃあなんであんたたちは国立にいるの?
言語聴覚師の国立を作ればいいじゃんの発想にならないんですよ。
なるほど。
そうなるとまたより深めていくのが難しくなるかもしれないんで、
難易度が上がりそうだなと思いましたね。
本当にその中で理学療法というのが一体どういうものかっていうのを、
ディープに研究していこうとすると、
これは僕のある種の持論になるんですけど、
学問が成熟すると哲学と歴史学に進むというふうな持論があるんですね。
だからその哲学とか理学療法の歴史というものをしっかりと残していきつつ、
科学というものと合わさっていくっていうのがすごい重要なんですよね。
だけど哲学の部分、歴史学の部分っていうのが非常に甘いというのが理学療法で、
その歴史に関しては先ほど言った半田先生がですね、
本当に非常に深く考察されているというか、
いっぱい調べておられるので、そのデータをいただきましたので、
こういうのを受け継いでいかなきゃいけないんだなというところで、
僕はそれをさらに調べていこうかなと思っています。
なるほどですね。
自分の中でもどっちかというと、結構科学的な勉強を大学院ではよくしてましたけど、
ちょうど30代中盤ぐらいになってきてから、
ちょっとその限界も感じて哲学を勉強しないとなみたいな感じで
堀井先生でやったっていうのもありますし、
どっちかというと大学院の中では歴史とか哲学みたいなことを学ぶ機会が少なかったのもあるので、
その辺はもうちょっと広げていけるといいなと思います。
実際その科学であっても、どんな実学であったとしても、
足跡が残っていない学問は学問じゃないんですよね。
だから足跡の部分っていうのをちゃんとしっかりとデータを残していって、
どういう流れで今ここにあるかという通過点っていうものを見ていくことは、
必ず学問はやらなきゃいけない。
そこがおろすかになってるなというのが今の理学療法学だと僕は思ってます。
そうですよね。
もともと自分は京都大学なんで、
本当は学問の時はもっと学んでおけばよかったなと思うんですけど、
改めて京都学派みたいな哲学とか西崎太郎さんとか、
いちかわ博士さんとか岩沢康夫さんとか、
結構身体論みたいなことを話して書いてる方も結構探してみるといるんで、
最近結構読んでるんですけど、面白いなと思いますね。
なので学派というのでももちろんいいですし、
あえて広く医学史の中から身体の歴史を取り込んで、
そしてなぜ理学療法士という職種が、
例えば1820年代にスウェーデンで生まれて、
そして日本では1965年に法制化されて、
というような一例の流れをもう少しディープに、
要は事実関係だけではなくて、
歴史学というのはそこにどういう意図があったかというのを見ていかなきゃいけないので、
先ほどの毛の関係で評価というところがなくなったとか、
文部省と厚労省、労働省のせめぎ合いというのがすごくあった。
そしてそれに医師会というものの存在もあった。
さらに当時はWCPTですけど、
WCPTからの助言、あるいはWHOからの圧力、
いろいろなことが起きているわけですよ。
結果だけ見るとこういう法律ができました。
だけど何でこの法律になったかを調べるのが歴史学なので。
そうですね。多分その法律を変える必要性があるとか、
今の現代だったら変えてもいいじゃないかっていうのを、
根拠を持って言おうと思ったら、
歴史みたいなことは絶対必要になってくると思いますし、
テクノロジーの進化も起こっているところはあると思うので、
現代の技術だったらできるんじゃないかというような
説得力を持って言おうと思うと、
まさにその歴史みたいなところは必要かなと思いますし、
その哲学みたいなところは改めて深めていくと、
どういうところで効果を発揮していきそうとか、
堀先生の見立てはあるんですかね。
先ほど国立大学の中で、
理学療法学をやるべきかっていうような問いを
まさに哲学がやるわけですよ。
我々理学療法という、あるいは理学療法学という存在というものが、
どういうもので、どういうところに立脚していて、
そしてどういうところに向かおうとしていくかっていうのを
明確にするのが哲学の仕事なんですよね。
存在意義だとか、あるいは過去からの流れで
どういう方向に行こうかというものを見るっていうのが哲学なので、
あるいはどういう人が関わってきたかっていうところですよね。
それを科学は言えないんですよ。
だから国立大学で必要ですかって言ったときに、
それは物理、例えば理工学とかロボティスクスでできるじゃんとか、
それ医学でできるじゃんって言ったときに答えれないんですよ。
そこが弱さです。
確かに先ほどの話でいくと、医学がありつつ、
看護学っていうのはちょっと別だよねとか、
薬学も独自のものはあるよねみたいな感じで、
例えば理学療法だったらやっぱり
理学療法学っていうのは医学と看護学とも違って、
独自に探求する必要がある学問分野なんですよみたいなことを根拠を持って言えると、
そういう理学療法は残そうかみたいな議論として言いやすくなるって感じですかね。
まさに一番最初に立ち位置として、
教会を見る。教会っていうのは理学療法教会ではなくてボーダーですよね。
ボーダーの教会を見たときに、
じゃあ理学療法士10人、100人でいいと思います。
連れてきて柔道制服と作業療法士と理学療法士の違いを明確に答えなさいって言ったときに、
法律という言葉を使わずに答えなさいってどれだけ答えられるかなんですよね。
多分あんまり答えられないですよ。
確かにそこの教会もありますし、
例えば医学の中でのリハビリテーションとか、
リハビリテーションの医学とまた理学療法も違うんですよみたいな、
その辺の教会も見ていかないといけないって感じですかね。
でもこの前それこそ羽田先生とかはリハビリテーションという言葉が悪いんだという言葉も言われてましたけど、
僕もアンチリハビリテーション派なんですね。
だから今までこの放送の中でもほとんど僕はリハビリテーションという言葉をポジティブに、
あるいはリハビリしなきゃとかっていう言葉を多分使ったことがないと思うんですよ。
それは僕はアンチリハビリテーション主義者なので、
リハビリテーションというのはあくまでも目的であってというところで、
この理学療法は手段だから、その手段としての理学療法の存在意義を話しましょう。
例えば先ほどの重症師、理学療法師、作業療法師っていった時の目的はリハビリテーションの方に向けれるんですよ。
でも基本的に手段が違うんですよ。
そこのものが説明できないからリハビリリハビリって言ってみんな歩かせてると。
その歩かせるということ自体の手段が違うのに、
そこが分けれない、境界が見えないっていう人たちが結構多いなという。
そこはその状況によって境界審判して、境界が混ざり合うところはあるんですけども、
その核となる概念が何かというところを考えるのはやっぱり哲学ですね。
確かにリハビリテーションは社会に再び適する状態にするとか、目的かなと思うので、
本当に個性が違うかなと思いますし、
そうなると理学の中でリハビリテーションみたいなことを探求するのは、
他の内科とか外科とかとはちょっと違った位置づけになってそうな感じを受けましたね。
なのでリハビリテーションを一旦横に置いて、
そうですよね。こういう風な流れで聞いていくと、
黄色医学とか漢語学や医学とかとも違った
理学療法として探求する領域はやっぱりあるなみたいなことは思うので、
そういうロリ的な筋道を作っていけば
全然説得はできそうだなというのは思いましたけどね。
そうなんですよ。だから僕はそこで言われたら、
説得できるかどうか分からないけど説明はできると思います。
確かに。
これはそういう学問じゃないですかっていう。
だから生態力学でもありますし、バイオメカニクスでもあるしっていうところプラス、
あとは最近はやはりフィジックスだけではなくて、
フィギュアロジーが入っているわけですよね。脳だとか心臓だとか循環器っていう。
フィギュアロジーって生理学か。生理学を踏まえた物理学、バイオメカニクスという、
それが生態力学であり生態学ですから、これをやっている学問って他にないんですよ。
医学の中でも突出してやってないですし、スポーツの中ではそこに病理は入らないんですよ。
だから理学療法という学問は絶対必要だというところの説得になります。
なるほど、例えばの話なんですけど、今その理学療法学っていうか、
理学療法を学ぶっていうと医学の中の理学療法だと思うんですけど、
逆に理学部の中の理学療法とか、違う学部とか学問体系の中に位置づけられるみたいなこともなくはないのかなと思ったんですけど、
大学院の中でだと基本的にはもう医学の中の理学療法しかないって感じですかね。
今は学部構成あるいは大学院構成になると、医学部の中で保健学科という形を持ったり、
保健学部という中でのところだとか、あるいはリハビリテーション学部というところの中でやってますので、
理学療法学部がないんですよ。
僕は理学療法学部作ればいいと思うんですけど、文科は許さないみたいですね。
なるほど、将来的にはというか、理学療法学部ができるぐらいの説明ができると、長く残っていく可能性は高まるなっていう感じですかね。
本当にそこがまさにその通りで、医学部、看護学部、薬学部があるんですよ。
理学療法学部がないってことが問題だと僕はずっと主張しているってことです。
なるほど。
国際的に見ると、理学療法学部的なものがあるような国もあるんですかね。
リハビリテーションの学部とかってないですよ。
アジア一辺とはあるかもしれません。ヨーロッパとかアメリカにないことはないでしょうけど、基本的にはリハビリテーションの科学部門じゃないんですよ。
リハビリテーションを学びに来たっていう言い方はしないですよね。
例えばワールドフィギュアセラピーと言いますけど、ワールドリハビリテーションセラピーみたいなところはないですから。
これは間違ったリハビリテーション概念の理解なんですよ。日本の。
学際領域としての理学療法というのをちゃんと作っていかないといけないと。
例えば、コーナン女子大学看護リハビリテーション学部理学療法学科という形になりますけど、だいたい学部までしかみんな見ないわけですよ。
学部見れたらファカルティーオブナーシングアンドリハビリテーションなんですよ。どこに理学療法があるんだな、外国人から考えたら。
ナーシングアンドリハビリテーションを飛んでフィギュアセラピーを前に出さないと分かってもらえないんですよ。あなた何やってる人なんですかが分からないってことです。
自分の場合だと、京都大学で理学療法を学んでっていう感じで、学部どこですかっていうと、一応理学部ですっていうと。
すごい人みたいな感じで見られやすくはあるんですけど、そういうわけでも、理学療法学なんですって言って、
そうなんですねってちゃんと理解してもらえるような、社会の中での理解も必要だと思いますし。
まさにその通りなんですよ。すごいのはすごいんだが、田代さんの方でも違和感があるわけじゃないですか。
でも4年間で医者の免許って取れるんですねって言われたときにまた説明がめんどくさいじゃないですか。
それが京都大学理学療法学部っていうのがあれば、すごいスムーズなんですよね。
かといって、保健学部って言われたときに、何やってるんですかってまたなるんですよ。
いいじゃん、理学療法を前に出せばと思うんですけど。
同様に、違うところで言うと、哲学部っていうのが今ほとんどなくなってるんですね。
文学部か人文学部の階部門にされてしまったってことなんですよ。
本来は学問の素である哲学で、むしろ哲学の中に人間科学とか文学入れりゃいいのに、哲学は階部門にされてしまいました。日本の学際領域の中では。
なんか不自然な感じがしますけどね。全体を読めるのが哲学な気がするんですけど。
哲学をやってる人間からそうなんですけど、それは哲学者がお前ら何の役に立つんだっていう言葉に対して、ちゃんとコミットしてこなかったんですよね。
役に立つ学問ではないって言い始めたら、それが強く出始めちゃって、役に立たないんだったらお前ら必要ないじゃん、後ろに下がれよっていうところで、もう肺立つま飲めんくなってるわけですね。
哲学も理学療法も厳しい立ち位置にありますね。