障がい者の方たちも、スポーツをやる権利っていうのがあるわけで、熱い思いでスポーツをしている方たちを見てきたので、そういう人たちにもやっぱり、日の当たる世の中に少しでもなれればなぁなんてことは、この当時からも思いながらですね、こういう大会運営に当たってましたね。
ビルダップローカル ビルダップローカル番組ナビゲーターの常田幸永です。
この番組は30年のスポーツ界でのキャリアを経て、現在は地域金融機関に勤務している私が、スポーツを通じて街を豊かにしようという番組です。
さて、今月のマンスリーゲストは、日本大学スポーツ科学部教授 佐々木達也さんにお越しいただきました。
佐々木先生どうぞよろしくお願いいたします。 よろしくお願いします。
今週はですね、佐々木さんのサラリーマン時代についてお話を伺いたいと思っておるんですが、今大学の先生をやられてるんですけども、これまでですね、いろんなご経験をされて、現在の仕事をされているというようなんですが、いろいろとですね、ぜひ面白いお話をですね、たくさんお聞きしたいと思っております。
ところで、サラリーマン時代なんですけども、広告代理店にまずはじめに勤務されたという話をちょっとお聞きしているんですが、こういった話をちょっとまず最初にお願いしてもいいですか。
あさつDK、今ADKという名前でありますが、広告代理店にですね、勤務をしておりました。
広告代理店に入りたいと思ったきっかけは、父親が富士テレビでスポーツ局に勤務してたんですね。
それを目の当たりにしていて、私自身も将来スポーツの仕事に携わりたいなというのを思っておりまして、
大学時代もですね、人間科学部スポーツ科学科というところに入ったので、何か当時まだスポーツビジネスとかスポーツマネジメントっていうのは全然ない時代でしたけど。
なかった、聞いてないですよね。
広告代理店でいろんなスポンサーシップというような形だったり、広告代理店当時からいろんな大会の運営だとかそういったことをやってたので、そういった形でも何らか携わりたいという思いで、まず広告代理店の勤務を選びました。
浅津DKさんというと、IPビジネスとかコンテンツにすごく強い。アニメなんか結構強いですよね。
そうですね。ドラえもん、クレヨンしんちゃんだとかですね。非常にアニメコンテンツに当時から強かったですね。
そこの中でスポーツということで、関連した業務をしたいということで、最初からスポーツに携わることができたんですか?
最初は営業担当をしていました。大手の自動車メーカーの営業担当をしていて、いろんな自動車メーカーの新聞広告を作ったり、テレビコマーシャルも作るのに携わったりですね。
自動車会社の営業担当というのが最初メインで長くやってましたね。
自動車会社の営業というか、いわゆる宣伝ですよね。結構やっぱり回数も頻繁ですし、テレビとか新聞とかメディアでも大きく取り上げられますよね。かなり大変だったんじゃないですか?
そうですね。特に当時は今以上に日本の自動車会社というのは、世界の中でもかなりそれなりの大きな位置にありましたし、車がやっぱり今なんかよりも全然売れる時代だったんですね。
自動車会社が最も広告宣伝費を使う業種でもありました。
確かに。
トヨタ自動車を筆頭に。そんな中で当時、浅津DKは私が担当していた自動車会社がメインクライアントだったので、そこに携わりながら非常に充実したサラリーマン時代、20代の後半でしたけど、非常に充実した時間を送っていましたね。
はい、2009年にアジアユースパラゲームスというのをですね、東京都が主催したというので、開催した大会にかなり深く携わったんですね。
これは1964年に一番最初の東京オリンピックがありましたね。あの東京オリンピックの後にパラリンピックというか障害者スポーツ大会が開催されているんですが、あまりこれは有名な話というかではありませんけど、開催されていると。
それ以来、ほぼそれ以来国際的な障害者スポーツの大会というのが、東京都では開催をされてなくて、オリンピックを招致をするちょうど段階でしたので、IPC、世界からですね、東京都は障害者スポーツの開催能力がないのではないかというようなことが言われていたそうなんですね。
その後になってわかるんですが、そういう中で東京都は国際的な障害者スポーツを運営する能力があるんだよということを示すための大会として、この大会を担当して、ADKがコンペで勝ってですね、その上に携われたんですけど、
1年半、2年近くかけて準備をして、実際それこそ国立競技場や旧国立競技場だったり、東京体育館だったり、当時タツミのプールだったりですね、そういったところを使用して大会運営をしたと。
これはもう本当にものすごくこういろんな大変な直前なんかは眠れない日々が続くぐらい忙しかったんですが、後になって、この2013年かな招致が決まったのが、その招致が決まったりした時には、自分もこの東京オリンピック、パラリンピック招致に多少なりとも要は貢献できたかななんていうことは、
すごくその時に感慨深い思いをしましたね。
なるほど。浅津DKさんにしても、パラの国際大会を手を挙げると。日本に招致をして、そこに国内に定着できるようにですね、いろんな試合運営競技運営をされていたと思うんですけども、その佐々木先生は中心にながら仕事をされていたと。
2020のオリンピックにつながるんですけども、どんな苦労があったんですか、そのパラ大会というのは。
やっぱり東京都という行政が主催になるので、その要はお手伝いをするのが広告代理店の仕事なんですが、当然東京都の職員の方たちは、スポーツイベントの運営とかそういったことにはあまり慣れていない。
しかも当時は、今は東京都というのは、そういうスポーツに関する部署が定まってあるんですが、当時は障害者スポーツは福祉局みたいなところにひもついていたりして、スポーツ賞も実はそうだったんですが、スポーツ賞になって初めてオリンピック、パラリンピックが一元化されましたが、
それまでは文部科学省の中で障害者スポーツと健常者スポーツというのは全然部署が違った。こういう時代だったので、なかなか福祉局の部門の中にアジアユースパラゲームスの大会運営の本部ができて、いろんな職員の方たちが頭にいらっしゃる中で、当然打ち合わせをしながらいろんなものごと進めていくんですが、
みなさんもそれほど慣れていない。浅津DKもこの規模の大会運営の実績が過去に大きくあるのかというと、それほどない中で、いろいろいがみ合ったりしながら進めていくような時期もあったりして、最後はみんな一つになって、
それこそワンチームのようになって運営成功してすごく感動しましたが、非常にそのあたりのマネジメント、いわゆる非常に難しさを実感した時間がありました。
なるほどね。広告でありて、佐々木先生もそうだし、東京都の職員行政という話がありましたけれども、経験値としても乏しいし、なおかつ体制的にも合理的でないという状況の中で、2009年、アジアユースパラゲームス、これを成功に導いたと。大変なご苦労でしたね。
そうですね。今となってはやっぱりすごくあの時の経験が、いろんなその後のついた仕事なんかにもすごく行きましたし、今ある意味障害者スポーツというのは非常に日本の社会の中にも深く浸透してきて、
普通にNHKのスポーツニュースだとか、いろんなスポーツ番組でも取り上げられるようになってきましたが、当時は全くいろんなメディアに取り上げてほしいというPRのお願いなんかに何度も行くんですが、当時は正直見向いてもくれないような時代でした。
ただいろんなその障害者スポーツの現場に携わっている方、プレイヤーの方、そういう組織の方たちといろんな打ち合わせをしながら、人間関係も深くなりながらですね、障害者の方たちもスポーツをやる権利というのがあるわけで、すごく熱い思いでスポーツをしている方たちを見てきたので、
そういう人たちにもやっぱり日の当たる世の中に少しでもなれればななんてことは、この当時からも思いながらですね、こういう大会運営に当たっていましたね。
なるほど。しかもそれが東京2020につながって、またここでも大きな成果もあげられたということで、やはり振り返られてみるとかなりスポーツの大きな大会にもですね、いろいろ着手されていると思うんですけども、例えばそのアジアユース、パラゲームズ以外に何かスポーツでのお仕事のご経験というその辺はどうでしょうか。