2023-11-29 29:01

#145「逗子とわたし(学生時代編)」

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

Podcast番組「ズシレコラジオ」は、

逗子出身&在住,鎌倉勤務の編集長と

葉山在住の保育士&ライターの2人が

2019年から逗子・葉山・鎌倉エリアの魅力をお伝えしている

声のローカルメディア。


心地よい波音のBGMにのせて

毎週水曜の週1回ペースで配信しているので

ぜひインスタとPodcastのフォローをお願いします!

@zushireco

↑↑↑

PodcastのフォローはInstagramプロフィール内の

URL(linktree)からお願いします

https://linktr.ee/zushireco


番組の感想やお便りもお待ちしています♪


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/


こんにちは、ズシレコ編集長のキジマです。

今回はひとりトーク回。


幼少期から逗子で育って早30余年。


幼稚園、小学校、中学、高校…とすべて逗子で、

卒業後から社会人になるまで、

ほぼ逗子エリアで過ごしてきた自分がみた

逗子のイメージや思い出について

語らせていただきました。


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

▼次回予告(12/6)

次回はMC2人回で、

2023年の配信45回を振り返ります。


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

▼MC


來島 政史(ズシレコ編集長)

@zushireco

https://instagram.com/zushireco/


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

#逗子市 #葉山町 #鎌倉市 #逗子暮らし #逗子ライフ

#逗子カフェ #逗子ビーチ #ズシレコ #逗子レコ #逗子レコラジオ

#逗子子育て #葉山子育て #逗子旅 #逗子で遊ぼう

#zushi #hayama #kamakura #逗子海岸

#ポッドキャスト #ラジオ #ラジオ番組 #ラジオのある暮らし

#ラジオ好きな人と繋がりたい

サマリー

神奈川県の葉山・鎌倉エリアの魅力について語られる回です。柳雅一さんは高校卒業後、音響専門学校に通いながらバンド活動をしていました。しかし、卒業後の進路に悩んでいたところ、地元でイベントを手伝う機会があり、地域の文化や音楽シーンに触れる中で、バンド活動に対する考え方が変わり、再びバンドを始めることになりました。今回の話では、柳雅一さんが逗子で過ごした小学校、中学校、高校、専門学校時代の思い出や図書についてお話ししています。また、名古屋で活動しているバンド「ギャップ」のメンバーとしても活躍している柳雅一さんの学生時代を振り返ったお話も聞くことができます。

ズシ葉山・鎌倉エリアの魅力
こんにちは、ZUSHIレコ編集長の木島雅史です。この番組は、神奈川県のズシ葉山・鎌倉エリアの魅力をお伝えしている声のローカルメディア、週1回、毎週水曜日の17時頃に最新回を配信しています。
今回はですね、ちょっと一人回ということなんですが、最近のZUSHIレコラジオね、ちょっとローカルのことあんまりも喋ってないなと、ちょっと反省しまして。
一人回なんですけれども、ちょっとね、ズシローカルのことについて話していきたいと思っております。
私自身はですね、地元がズシ出身、横須賀生まれなんですけども、幼少期からね、ズシ幼稚園から高校まで全部ズシと、はい。
と言ったことがありまして、今ちょっとね、僕40歳なんですけども、34年ぐらいかな。
34年ぐらいズシのことを見てきたっていうところで、そのような立場の人間が、ズシのことを最近とね、昔と比較してとか、どのようなことを思っているかみたいなところをね、ちょっと深掘りしていきたいなとは思っております。
そんな回なんですけれども、最後までどうぞお楽しみください。
今回はね、ズシの昔の話から今までとつなげるような話をしたいなと思っているんですが、そんな話をするにあたってちょっとね、やっぱり時系列順で話さないと、僕も話組み立てづらいなと思っておりまして、
僕のね、老いたち的なところもちょっと含めたエピソードになるのかなと思っております。
僕自身はですね、ズシで生まれ育った、生まれでは横須賀なんですけれども、母方の実家がズシにありまして、
幼少期からね、ズシに住んでいて、本当に社会人になる手前かな、高校卒業してからね、ちょっと都内の方の学校に行ったりとかはしてたんですが、
本当は、高校生ぐらいまではですね、卒業までは本当にあのズシとか横須賀とか横浜とか、その辺を主な生息地として暮らしていたわけなんです。
僕はね、1983年生まれ、今年40歳になりましたので、本当に今から30年以上前とかっていうところからのズシを見てきたわけなんですけれども、
そこの当時から考えると、ズシというエリア、本当に20年ぐらいですかね、元々はね、僕のおばあちゃん世代とかおじいちゃん世代の方では、
ズシといったらリゾート地というかね、広山庭園住宅とかね、ちょっとしたお屋敷があったりみたいな、そういったね、ちょっと高級住宅地みたいなイメージがあったそうなんですが、
僕が幼少期の頃のイメージとしては、もう本当によくある田舎、幼少期、横須賀とズシぐらいしかね、比べるあれはないんですけど、自分の中に基準としては。
でもね、何かちょっとおしゃれな街というよりかは、もう至って普通の街だなっていうふうに思ってました。
ただね、今思い返せば、なんかやけに友達の家すごい広かったなとか、なんでこんなに迷路みたいな家なんだろうって思ったら、
あのズシ市新宿にある小庭園がお住まいの友達がいたりとか、小庭園とちょっと離れみたいなところで遊んでたりとかしてたりということで、
同級生、僕はズシ小学校出身なんですけれども、ズシ幼稚園、ズシ小学校、ズシ中学校、ズシ高校と、全部オールズシって感じなんですけども、
ズシ小学校の友達とかね、ズシ小学校の学区で言うと、ズシ市新宿っていうね、割とズシの中でも鎌倉寄りと言いますか、海沿いですね、ズシ海岸沿いのエリア、人気のエリアですよね。
だったり、ズシ市、ズシのところ、ズシ市桜山の一部だったりね、ズシの何かおへそと言いますか、ズシ市役所だったり、亀岡が丘八幡宮っていうね、今京急、ズシ葉山駅とJRズシ駅、あの辺を周辺一帯とした学区の小学校エリアだったもので、
いろんな同級生の友達のうちに遊びに行くときに、結構ね、いろんなエリアに自転車とかで行ってたなって思うんですよ。
それこそね、広山の近くまでね、自転車で行ったりとか、昔あの辺にね、第二ズシ幼稚園の近くに八風堂っていうね、プラモデルとかね、ミニ四駆とか使ってるお店があったんですよ。
これ地元民だったらちょっとわかるかなって思うんですが。
プラモデル屋もね、もうなくなっちゃいましたね。
札幌県も高検堂も、八風堂もありましたね。
昔のお店がどんどんどんどんなくなっていきつつも、それは抗えないね、世の中の流れだったりするなと思いつつも、
僕のズシ高校、母校ね、ズシ高校もね、ズシ葉山高校に統合されましたけども、旧津陽高校のね。
そんな感じでね、新陳代謝と言いますか、そんなことが他のエリアと同じように起こっている街ではあるという感じですね。
コロナ禍の前後とかでも、やっぱり飲食店がね、いろいろ変わったりとか、新しいお店オープンしたりっていったことがあったんですけども、
僕が10代20代の頃っていうのは、やっぱり小学生目線とか中学生目線とかでね、ズシっていう街を見るわけですから、
その時、ズシに対してどんな思いがあったかっていうと、ちょっと先にお伝えしたように、横須賀とか横浜とかそういったところも、
僕のね、生息地としていたっていうふうにお伝えしましたけども、やっぱね、ズシと横須賀と横浜比べると、
ズシって圧倒的にね、子供だったり学生目線で見ると遊ぶ場所少ないんですよ。
ズシの昔と現在の変化
今でこそね、僕も子育て世代でね、小学生の息子がいたりっていうところだったり、お酒も飲んだりとか、飲食店でご飯食べたりとか、
ある程度自由にできるお金があるからも、いろんな美味しいお店とかね、ワインとか日本酒とか、たしなむようになって、いいお店いっぱいあるなーなんて思うんですが、
今、このズシでね、高校生とか中学生、大学生とか、そういった皆さんの立場から見て、ズシってどんなふうに映ってんだろうなっていう。
ズシに魅力を感じて、何かズシで地域の活動に取り組んでくれている学生さん以外の、もともとズシで生まれ育った今の10代、20代、
どんなことを考えてんだろうなって、ちょっと最近気になったりしてます。興味本位というかね。
僕自身当時どうだったかっていうと、そんな感じで横須賀とか横浜にやっぱり遊びに行ったりしてたわけなんですよ。
やっぱり映画館もないし、ボーリングとかね、中学生とかのグループで遊びに行くような場所っていうとあんまなかったので。
それこそ、ズシ海賀の浄水管理センターあるんですけども、そこの裏のところで釣りをしている友達について行ったりとか、
いろいろな自然のアクティビティーとかもしていたんですけど、それよりかはやっぱり流行り物だったりとか、刺激を求めてね、ゲームセンターとかね、
東ズシにね、まだ今ヨークマートになってますけど、それが装鉄老舗っていう時代とか、
2階にゲームセンターコーナーがあったりして、プリクラとかね、あった時代、それこそ僕が95年ぐらいですか、
小学校5、6年の時とかねぐらい、95年って言ったらあれか、もっと前ですね、中1とかね。
90年代小室哲也世代の人間なんですけど、小中学校時代は。
ゲームセンターって言ったらプリクラとかね、本当にそういったところしかなかったので、東ズシまで自転車飛ばしてプリクラ取りに行ったりとか、取りに行くと、
あのね、同級生の女の子たちが手を取ってたりとかね、なんかそこで会うと男子グループ女子グループそれぞれ別々で遊びに来てたけども、
なんかあいついるよみたいな感じでね、その中の子がちょっと気になっている子だったりすると、おいあいついるぜみたいな感じでね、
お互いに男子グループの中でもなんか付き合ったりとか、そんなね、懐かしいですね、そういうの。
皆さんにもなんかそういう時代ってやっぱりありましたよね。なんか中学生時代どこで遊んでたとか、高校時代とか。
そんな感じでね、中学時代は主に横須賀に遊びに行ってました。横須賀で言うとね、景品急行をよく使ってたんですけども、
新寿司、当時はね、寿司早間駅が新寿司という名前だったので、ローカルな人で言えば未だに新寿司って呼んでいる人はね、愛を込めて呼んでいる人多いですけども、
新寿司から乗って神武寺から池子の友達、池子小学校とかね、寿司中学校の友達が乗ってきて、よし、じゃあ金沢八景で乗り換えて横須賀中央とか潮入り行くかーっつってね。
潮入りが今、潮入り駅前におりますと、今、高須賀っていうショッピングモールになってますけども、イオンと一緒のね。それが当時、ショッパーズっていう名前だったんですけども、
ショッパーズの上でね、ボーリングをしたり映画を見たり、みたいな感じでしながら、ちょっとね、上の世代の横須賀の中学生に勝ち上げされるとか、高校生に勝ち上げされるみたいなことがありました。
寿司市民としてはね、あまりヤンキーっぽい人は本当に希少種というかね、本当に少なかったんです。同級生の中でもね。横須賀に行くと、やっぱりそのヤンキーっぽい人っていうんですかね。
みたいな友達だったり、人が多いなーなんてことを、子供ながらに、中高生ながらに感じていたりしました。
中学生の時代、僕は寿司中学校でしたけども、そんな感じで、結構のほほんとした田舎のような学生時代だったんですけども。
高校生に上がった時に、僕の当時ですね、偏差値的に言うと、県立横須賀高校がね、学区内でトップで、その次が大浜高校、そして大津高校、横須賀の大津高校、そんでちょっと下に寿司高校ってあったぐらいなんですね。
僕、第一志望的には大浜高校だったんですけども、高校受験のところでちょっと手を抜いてしまったっていうかね、頑張りきれず、寿司高校でいいかっていう形で寿司高校に入学したんですけども。
当時、同級生の間では、寿司中学校に通っているメンバーはですね、寿司高校って寿司中学校の奥にあるんですよ。
同じ京急の神武寺駅から歩いて、寿司中学校が徒歩10分ぐらいなんですけども、その奥まで歩いていく神武寺ロードというね、中学生とか高校生呼んでいる道があるんですが、そこを通って行く通学路。
寿司中生も寿司高生もそこを通ってたんですけども、さすがにその道、通学路を6年間同じ道を歩くのはちょっと嫌だよねっていう空気がなんとなくあって、中学校から寿司高校に進学したいと思う人よりも、頑張って大浜とか大津高校に行きたいって思う人の方が多かった気がします。
そんな中で僕は諦めてと言いますか、近いしいいかってことで寿司高校に行くんですが、結構結果的に寿司高校に行ったことで、地元に対する愛着と言いますか、地元からやっぱり寿司の中でも骨母だったりヒサギだったり、そういったところからヒサ中ですね。
学生時代の思い出
ヒサギ中学校から寿司高校に通った同級生とかもいたので、同じ寿司市内出身の友達がまた高校に入ってから増えたみたいなところがあったり。
意外と寿司高校を同じ通ってたメンバーの方が最近でもよく仲良かったりしますし、寿司にまだ住んでいるとか子育てだったり、結婚をきっかけにこっちに戻ってくるみたいな同級生もいたりします。
そんな世代でしたね。8・3世代は。
そんな感じで寿司高校に通って3年間通ってたんですけども、その後、僕は大学に行くか専門学校に行くかでちょっと迷ってた時期がありまして、
結果的には音響専門学校、東宝学園音響専門学校に通ったんですけども、それまでは何となく理系に進んで、バンドも中学校の時に始めて、今でも仲良いんですけどメンバー。
そこでバンドをやりつつ、音楽のことを仕事にできたらいいな、裏方で、レコーディングエンジニアになりたいななんて、そんなことを思いながら高校生の時に、いろいろ自分たちのバンドのレコーディングをしたりとかしてたんですけども、やっぱり大学に行って理系のことを学ぶよりも音楽のこと、自分のやっているバンドをうまくプロデュースしたりとかレコーディングしたいなっていう目の前のことっていうかね、
やりたいことに専念したいなって思って、大学受験の予備校とかもちょっと辞めまして、音響専門学校に行くんだと、っていうような風に考えてたのが高3の受験シーズンでしたね。
なので、僕の中でコンプレックスじゃないんですけど、やっぱり大学に行ってないとか、大学行きたかったなとか、今からでも行こうと思えば行けるんですけども、そういった思いがあったりします。
その後、図志高校を卒業しまして、東京法学園の音響専門学校というところに通い出したんですけども、それがですね、いきなり図志から飛び出て、東京の新宿にあるんですよ。
新宿、しかも西新宿の方とかにある東法学園の音響専門学校というところでレコーディングPAコースですね。
というところに通いまして、どんなレコーディングとかバンドとか音楽のスキルを持ったもさがいるのかと思って、鼻息荒くしてたら、意外とみんな大学も行きたくないし仕事もしたくないし、とりあえず来てみました、みたいな友達がめちゃめちゃ多くて、
めちゃめちゃ勢い撒いていた僕は、ちょっと片透かしにあうんですね。
でもそんな中で、同級生の中でね、めちゃめちゃ音楽オタクだったりマニアな友達ができたりとか、先生とか講師で来てた有名なレコーディングエンジニアの方とかね。
吉田珠津さんとかですね。
自分たちのバンドのデモテープを聴いていただく機会をね、無理やりというか声かけて、これ聴いてくださいってお願いして職員室で聴いてもらったりとかね。
そしたら、ドラムのクローズドリムが音大きいねみたいな、すごい具体的すぎるアドバイスしかいただけなかったみたいな感じで。
そんな感じで、もやっとしながらもバンドで活動していたと。
図志中学校から続けていたメンバー、プラス新たに入ったメンバーでバンドやってたんですけども。
そんな専門学校に通いながら、バンドでインディーズでCDを出させてもらったりとか、
契約とかね、そういったところでいろいろモヤモヤとか。
インディーズバンドを食い物にした、いろいろな事務所みたいなのがありますけども。
そういったところに手を出しつつ、そんなことも社会経験として組みながら専門学校を通っていたわけです。
地域のイベントとの関わり
その時はね、専門学校に通いだした頃というのがですね、大体2002年頃だったんですけども。
ちょうど新宿に通わなきゃなーっていう時に、湘南新宿ラインっていうものがJRで生まれまして。
なので1本で行けたんですよ。60分、70分ぐらいで新宿まで、図志までですね。乗り換えなしで行けるって、通学できるってね、最高でしたね。
だったのでその頃はですね、本当にバイトしながら楽器とか機材とかね、集めたりライブ活動のね、宛にしながらみたいな。
形で実家住まいで、新宿まで通学をしながら暮らしてたって感じです。
当時どんなバイトしてたかっていうと、バイト編歴とかもね、ちょっと合わせて説明しましょうか。
ちょっと話は逆戻ってしまうんですけども、高校1年になった時にね、僕、早間の森戸にありました。
もう今は亡き早間森戸デニーズですね。デニーズ早間森戸店でバイトしてたんですよ。
お天気の達人と呼んでね、天竜さん。フジテレビでおなじみの天竜さんと一緒にキッチンとか入ってたんですけど。
そのエピソードはね、なんかいろいろ面白い話あるんで、僕と会った時になんか聞いていただければと思うんですが。
僕とよく知ってる友達だったらね、笑い話で知ってると思いますが。
そんな感じでデニーズとかでバイトしていて、図書店を選ばなかった理由、デニーズ図書店。
今はね、渚橋コーヒーっていうね、寿司海岸の太陽の季節の記念碑のね、すぐそこにあるところの渚橋コーヒーの元場所ですね。
デニーズ図書店でなぜバイトしなかったかというと、近すぎて友達も来そうだから。
高校生ってね、バイト先選ぶ理由って結構そういうのはありますよね。
なので自転車で早間森戸までね、本当に家から20分以上かかってるんですけども、それで行ってね、高校1年から2年ぐらいまでバイトしてたんですね。
で、その後やっぱり近い場所がいいし、何ならね、同じバンドメンバーがね、バイトしてたっていうところを回りだして、
寿司小学校の近くのセブンイレブン、そういうセブンイレブン、寿司駅前店かな。
で、結構長らくバイトしてました。
で、その時はね、本当に家の近所とかだったので、実家のですね。
だったので本当にバイト、昼のパートのね、おばちゃんとかは、僕の同級生のお母さんだったりとか。
それこそね、専門学校時代とかは、そのセブンイレブン、寿司駅前店で深夜バイトとかもしてたので、結構楽しかったですよ。
深夜バイトをね、大体夜10時から3時までか、もしくは10時から朝6時まであるんですけど、朝6時までぶっ通しで夜中バイトをした後に、
ちょっと家に帰って1時間仮眠をして湘南新宿ラインに乗って専門学校に通うみたいなね、結構ハードな生活してましたね、当時。
まあ相変わらず寿司とね、新宿の通学先ぐらいしかね、世の中を知らないっていう感じだったんですけども。
で、その専門学校を卒業した頃、年号で言いますと2004年頃ですね。
専門学校は卒業して学生ではなく、社会に出るわけなんですけども、当然ながらと言いますか、
自分のバンドのレコーディングとかプロデュースがしたいっていう理由で専門学校に入って、なんとなくレコーディングエンジニアになりたいなと思ってたんですが、
バンド活動の方を中心で暮らしてたので、就活とかあんましてなかったんですよ。
バンドがうまくいけばいいかなっていうね、それで自分の仕事が生まれればいいかなっていう、結構ね、短絡的なことを考えていたので、
卒業してからバンドを続けながらできる仕事ってなんだろうなっていう考えていたときに、たまたまうちの母親がですね、
葉山でウェブの仕事だったりデザインの仕事をしている知り合いがいると。で、音楽もやっているみたいだから、ちょっとなんかその人のもとでアルバイトとかさせてもらえるといいんじゃない?
ってそんな話をしてたんですね。で、その人に実際にね、初めましてって感じで会いに行って、
マック使ってんの?みたいな、パワーボックスG4の12インチじゃん、すごいねみたいな話で、マック話で盛り上がって、
で、当時レコーディングとかも、プロツールスっていうツールがあったんですけど、プロツールスのLEとかね、MBOXとかね、そういうのは持ってて、
レコーディングで僕機材使ってたりしてたので、音楽もやっている方だったので、なんかデザインとかもホームページですね、
ウェブサイトでHTMLとかね、自分で書いて、自分のバンドのホームページ作ってたってこともあって、ちょっととりあえず、
僕の仕事で手伝ってくれない?みたいな形でアルバイトで、ちょっとね、葉山の方で、それも自転車通勤だったんですけども、その方のお宅にお邪魔してアルバイトをしてたんですよ。
その頃にね、今で言う、葉山にあるブルームーン、海の家ですね、石器海岸の。
で、ブルームーンで当時働いていた長島玄さんとも出会ったりとか、
そのアルバイトさせてもらっていた方がですね、葉山とか寿司の方で、いろんな地域のイベントの方に関わっていたりっていうことがあったので、それこそ亀川岡八幡宮寿司市役所の隣にあります。
この神社でね、心の祭りという、結構オーガニックをね、テーマにした飲食出店とかライブありきとかね、ワークショップ雑貨販売とか、結構そういったイベントをやってたんですね。
で、それを手伝うことをきっかけに、地域のイベントでも面白いのあるんだなーとかっていうことに目覚めていくわけです。
それが僕の中での地域活動じゃないんですけども、そういったことに対する減体験だったんですね。
それが30代とか手前になるぐらいになった時に、地元で何かしたいなーって時に、そういったイベントのことを思い出して、
その当時イベントをやってた30手前の時ぐらいとかね、20代後半ぐらいの時にイベントをやってた方々に声をかけて、門を叩いて、
なんか寿司でイベントやりたいんですけど、みたいな形で、寿司コミュニティパークとかね、そういったその前身となる神の市っていうイベントがあったんですけど、寿司のマルシェとか。
そういったところに関わり始めていくわけです。
バンド活動の変化
当時ね、本当に20歳から21、22とか、それぐらいの年だったんですが、仲良い友達はね、小ぞってと言いますか、みんな大学に行ってたので、
一旦実家離れたりとか、横浜都内に住んでたりってことで、結構ね、仲良い友達以外は相手になったんですよね。
高校の友達とか中学の友達。僕は結構寿司の方で、そういった地元で活動されている方のイベントを手伝ったりとか、
そういったとこで、地元ってなんかちょっと、今まで小学校、中学校時代見てこなかったけど、見れてこなかったけども、
こんな善意的な考えをしている方がいるんだなとか、葉山のね、アーティストの方々とか。
それこそ、当時まだロハスって言葉がなかったけれども、そのロハスとか、そういったことを地で、ロハスだからとかっていうことで、
ライフスタイルを変えるわけではなくて、地でね、もともとロハス的な生き方をされている方とかね、オーガニックなものを選んでとか、
ちょっとなんかヒッピーっぽい感じのね、生き方をされている方っていうのが、葉山とかにもね、結構いっぱいいたので、
そんな人いたんだな、僕の地元っていう風に、結構カルチャーショック的な感じだったっていうのも、当時の時代ですね。2004年ぐらいかな。
結構ね、2004年から5年、6年ぐらいにかけての、2005年が激変した年だなって思ってるんですけど、個人的にね。
図志に対するイメージが変わったというか。なぜなら、2005年にですね、音霊ですね。
海の家の音霊、当時はクラビーチハウスカノンっていうね、海の音と書いてカノンというね、ライブハウス海の家ができたことで、
図志のイメージだったりね、図志の名前が全国区になったりしたんですよ。
紅白にも出演したキマグレンがね、いたりとか。で、その立ち上げにちょっと関わっていたりっていうことがあって。
図志の中のミュージシャンだったりとかに、すごく出会うきっかけもなりましたし、
その当時ね、そら屋というね、葉山の音輪の森の近くにあったんですけども、そら屋という伝説的なスペース。
ある企業の保養所をベースにした、今で言うとシネマアミーゴとかね、そういった雰囲気に近いような場所があったんですよ。
ライブをしたりとか、カフェ営業してるんですけどバーがあったりとかね、
そういった20代とか30代の若者がね、地元のそういった場所をクリエイティブに活用していくみたいな。
なんかそういったそら屋の存在だったり、音霊とかね。
あとは、そこで知り合ったミュージシャンたちが横浜とか都内とかでね、セッションしていたりみたいなことで、
自分が関わっていた、もともとやっていたバンド以外にも、音楽業界のつながりっていうのが個人的に増えてきた時期なんですね。
そういったところがあって、バンドに対する音楽関係というかね、スタンスの違い、活動の違いというか、
バンドで成功するためにはこういう風にしなきゃいけないだろうっていうところの意見の食い違いみたいなところで、
僕はもともとやっていたバンドを一人脱退するわけなんですね。
そういった脱退したんですけども、その後ね、いろいろあって仲間と合流して再びバンドをやり始めて、
逗子での学生時代
今ギャップっていうバンドをやってるんですけど、3人でやってるんですけど、もともとのオリジナルメンバーでね。
やってるんですけど、その当時は中田街みたいなことがあって、いわゆる音楽性の違いで解散じゃないけど脱退ですよ。
皆さんこれ本当にあるんですよ。活動の方向性の違いとかね。
そんなことがあって2005年が結構僕の中で起点というかね、きっかけだったなぁなんて思うんですね。
仕事についてもアルバイトでやってたところから、音楽活動をしながらバンドもちょっと脱退して、
ウェブの世界がちょっと面白いなぁなんてことがあって、そのウェブの世界でちょっと仕事を本格的に好きにも磨きたいなってことがあって、
早間でやってたアルバイトを卒業させてもらって、都内のウェブ会社の方に就職すると転職するっていうふうなことがありました。
そこからはね、ウェブ業界にどっぷり使って、趣味で音楽をやりながらみたいな形でね、
そこからまたさらに転職をして、もうちょっと面白い会社に入りたいなと思って、今のカヤックという会社に流れ着いたわけなんですけども、
その流れ着いてからもう16年7年経つんで、それは自分も年取るわけですよ。
今一言でね、24から40ぐらいまで16年間を総括しちゃいましたけど。
その16年の間もね、すごい図書との関わり深くなっていくわけなんですけども、
年で言ったら25、6ですかね。25、6、7、そして30代を迎えて、そして結婚して、子供が生まれて、知識活動をしてみたいな。
その辺についてはね、ちょっとまた次の機会に話したいなと思います。
ちょっとね、今回振り返りますと、自分の幼稚園、小学校、小学校、中学校ぐらいの時から高校、専門学校、自分の見た視点からの図書についてのイメージだったりとか、
ほとんど自分史語りですよね。自分の歴史の語りになっちゃいましたけども。
普段パーソナリティやってる編集長、図書・レコ編集長の木島の老いたちの会でしたと。
こんな中からね、今の図書だけじゃなくて、昔の図書っていうのはこんな感じだったんだなーっていうことをちょっとでもイメージね、
していただけたら嬉しいななんて、そんなことを総括として今回の回を締めくくりたいと思います。
図書・レコラジオは週1回、毎週水曜17時頃に最新回を配信しています。
SpotifyやApple Podcastで見つけてくれた方、ぜひ番組のフォローもお願いします。
公式Instagram、アカウント名、ずしレコでは収録時に撮影した写真が見られたり、
ストーリーズではずし葉山鎌倉での日常を投稿していたりします。
そちらもぜひフォローしてください。
番組へのお便り、感想、リクエストもインスタのDMなどでお待ちしています。
最近ね、公式サイト、ずしレコーズ.コムってあるんですけども、
ちょっとそれがね、なんかGoogleドメインのサービス停止に伴いまして、
なんか上手いことドメインの移管ができなくてね、公式サイト見れないんですよ、最近。
お気づきの方はいるかもしれないですけどね。
公式サイトを持つ意味みたいなこともちょっと最近、いろいろありますけれども、
ちょっと見えないままで申し訳ないんですが、公式サイトもうクローズしようかな。
そんな感じをちょっと思ってます。
なので、最新の情報はですね、引き続きインスタだったり、
Xですね、Xの方と、あとnoteの方でもSpotifyと同じような感じで番組毎回配信しているので、
そちらのSNS系のアカウントをフォローしていただければなと思っています。
そんな感じでね、今日はですね、小学校、中学校、高校、専門学校時代と、
僕の自分史がたりだったんですけども、
図志の市民活動、地域活動だったり、イベントに関わるようになったきっかけとか、
それにどっぷりはまっていく回というね、
図書との関わり
ディープ図志回をちょっとね、次の機会にまた収録してお届けしたいなと思っております。
そんなわけで、大変なご了承ですけれども、
今日も最後までお聞きいただきましてありがとうございました。
お相手は、図志レコ編集長の木島雅史でした。
それでは、また来週。バイバイ。
29:01

コメント

スクロール