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油絵と日本画の決定的な違いっていうことと、あと、その上で両方やってて、今の自分にとってプラスになっていることって絶対あると思うんですけど、その辺りを教えていただきたいなと思います。
はい、まずもう油絵もやってて、日本画もやってて、もう全部プラスになってます。
全部。
はい、無駄なことは一個もない。で、油絵をやってた時って、例えばリンゴがここにありました。
はい。
もう本当にデスタの段階から考え方と描き方が全く違うんですね。油絵の場合はリンゴがあって、明暗で物を見ていったり、
このリンゴがあると光が当たっている、真ん中に両線って真っ暗いところがあって、下の半分の方は、下が、例えば白い机だったら、白い机の白が反射して、反射光でちょっと明るいとか、そういう明暗でリンゴを見ていくんですね。
で、日本画の場合はリンゴがあったら、まずその輪郭線を丁寧にとって、質感がどういう質感なのか、そのリンゴの波の形がどういう風に入っているのか、そしてそのリンゴがいつ取られたものなのかとか、そのどこのリンゴ、ジョナーゴールドなのか、そういうなんか種類とかを考えたりとか、まあそういう風にして。
画面構成になってくると、油絵の場合は画面があって、リンゴをどこに配置するとかっこいいのかっていうのももちろんそうなんですけど、結構色面で画面を全部塗って、色の面で見せて、あとセンスみたいなものが問われるんですけど、日本画の場合は画面があるとリンゴをどこに配置するのかっていうことよりも、
ありがはうようにリンゴとそこにある花とか空気とか、そういったものを全部描く。もうとにかく見る。見るのが日本画の仕事。そういう感じです。
こういう違いがあるわけですね。
だから油絵から日本画に転向したときに、その考え方と描き方の違いで、ものすごく本当にコンフューズですよね。で、いまだに全然抜け切らなくて、油絵の描き方は結構描いてたりすることが本当にありますね。
やはり振り返ってみると全てプラスになってた。
はい、もうもちろん。
その中ですね、僕、次の質問はちょっと緊張しながらも聞こうと思うんですけども、やはり松井さんというと、私も実際手中も拝見していろんなものを見させていただいて、やはり女性だったり女子かというところにやはりかなり中心に描いていらっしゃって。
男性っていうのは描かないんでしょうか。
はい、そうですね。男性は描かないと決めてます。
ドキドキしながら。
メスしか描かない、女性しか描かないというふうに決めています。
これは笑いながらですけど、ちょっとドキドキなんですけど、これはなぜなんでしょうか。
本当にリアリティがない。
リアリティがない。
はい、私が男性を描いてもリアリティがない。
自分の中に、例えば社会的な女性と男性の立場というのもやっぱり全然違うし、あと要するに世間が思っている男性像、女性というのも全く違うし、もちろん身体的な思っているものも全然違う。
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なのに私が知らない男子のことを描いたとして、一体どこにリアリティがあるんだろう。
なおかつ絵を描いているときに、もちろん予備校とか芸大の中でも男性のヌードモデルを使ってデッサンとかするんですけど、本当にわからないんですよね。
男性のヌードモデルだと、この辺に脂肪がついていて、ここに膨らみがあって、肩の丸みがこうなって、こう入って、ここでちょっと強くなって、抜けがここにあって、そういうのがわかるんですけど、男子の体を見ていると、何これ、ここに何でこれがあるのみたいな、自分で納得できないんですよね。
結局描き上がったものは、なんかフニャフニャした女っぽい、なんか全然見た感じの、要するに多分男らしいと言われる筋肉の形みたいなものは全然描ききれてないんですよね。なんか全体的に脂肪っぽく感じで、私が技術が足りないだけなんですけど、いつか技術ができたり、男性のことがいつか科学でシンクロできたりすることがあれば描きたいなとは思いますけど。
そういう意味では、ちょっと意地悪な質問になってしまうかもしれないけど、絶対男性は今後描かないって100%別に言うというわけではない。
そうですね、いつか理解することができることがあればということですね。男子を描いた時には、あれ、なんか変わったかなと思うかもしれないですけど。
そうするとやはり今の中でもキーワードでリアリティって出てきましたけども、アーティストの方、みんな追ってるテーマなのかわかんないですけど、その辺、当然女性のアーティストの方でも、画家の方でも男性描く方ってたくさんいると思うんですけど、その辺っていうのはやっぱりリアリティとか真実、真理っていうのを追いたいっていうのはずっと持ってるものなんですか?
私の場合は、描いてるものにある程度の理解とか、自分の中に取り込んだっていう意識がないと出力しちゃいけないっていうなんとなくそういう気持ちがあって、その作品を見てくれる人にも誠実じゃないふうに思えちゃうんですね。自分がリアリティを感じていないと。
結構、例えば私が何にも知らないで男の人を描いたとしたら、なんて無責任なっていう感じがするんですよ。そんなに興味、特に興味もねえのに。こういう感じで。
でもすごい、ある意味やっぱり真摯にそれだけ向き合われてるんだなっていうのをお聞きできてよかったです。ちょっとドキドキしながら聞いてるんですけど。そんな中でですね、せっかく皆さん展覧会もご覧になったと思うんですけども。
スライドも実は用意してますので、ちょっといくつかスライドも交じりながらお話し伺いたいと思うんですけど。ちょっとスライドの準備をお願いしたいんですけど。
なめらかな感情を日常的に投与するっていうのをちょっと出していただきたいんです。ヘビですね。今のリアリティというところとも少し繋がるんですけども。
やはり必ずこのヘビなんかもそうですけど、死んでるのにこんなふうに起き上がったことないと思いますけど、必ず実物をデッサンというかされてるんでしょうか。
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ちょっと相当の、これは相当のヘビ、2つの頭を持つヘビなので、ちょっと日本にはさすがにいないので、群馬県にあるダゾク研究所っていうのがあるんですよ。
ダゾクってヘビ。
そうなんです。ヘビばっかり置いてある研究所に行って、そこで黙々と2日3日デッサンして、それをあとは相当のヘビに関してはちょっと資料を見て、
あと内臓に関してはやっぱりネズミとか小動物の解剖を見ながら、あとヘビの模型とかありますよね。
ああいうのを購入して、その心臓がどんなふうについているのかとか、背骨がどうなっているのかっていうのをちゃんと考えながらやっています。
確か子牛のもありますよね。
そうですね。
もしスライドあれば出していただきたいんですけど、これですね。これなんかもじゃあまさにそういう、何とか研究所かわかんないですけど。
こちらは東海大学の農学部にお邪魔しまして、そちらでもう子牛を解剖させていただけるという話になっていたんですけど、
普通解剖というと、まず皮を全部剥いでしまうのが通常なんですけど、私は絵を描くので、絵として構築するために全部皮を剥いでしまうと、
牛の形が消えてしまうんです。耳も全部取れてしまうことなので、そうするともうただの解剖で、技術的なものが全然なくなってしまうので、
皮を残して、耳と目も残して、手の先の方もちゃんと残して、
あばらのこちら表側のあばらだけを切ってもらって、中の内臓がきれいに見えるようにして、それで5日間、これは3日間か、
5日間農学部に滞在して、5日間他の牛も解剖したんですけど、これは3日間ぐらいで制作しました。
最初にこういう、当然リアリティを追いたいというところから入ってらっしゃると思うんですけど、
気持ち悪いみたいな感覚が全く最初から。
すごい綺麗です。
綺麗。
すごく綺麗です。
この今回の展覧会のサブタイトルにもなっている、この世界中の子と友達になれるという作品について少し伺いたいんですが、
これは本当に出発点ともいえるような作品と言ってしまっていいんでしょうか。
はい、そうですね。
これは学生時代に。
はい、東京芸大の学部の4年生の卒業制作ですね。
今までの集大成というか、気合のこもった作品です。
でもやはり何か意味というか思いがあって。
この世界中の子と友達になれるというタイトル、言葉です。
私、静岡県の森町というすごい田舎に育って、あまり人口がいないというか2万人ぐらいの小さな町だったので、
小学校とかも3クラスぐらいしかない。
誰とでも友達になれるような本当に楽しい幼少時代を過ごしていて、
あまりにも楽しいので、世界中の子と友達になれる、このままいけばみたいな。
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結構本気で思ったんですよ。
それがでも大人になるにつれて、高校行って大学行って予備校行って、
友達一人もいないよって思い始めますよね。
世界中の子と友達になれるという言葉がずっと自分の中に残っていて、
少女時代の古代妄想だったとは思うんですけど、
今思うと狂気のような言葉、希望と狂気が入り混じったような言葉だなと思って、
自分の大切な作品にはこのタイトルをつけようというふうに思っています。
そんな中で、絶対にある意味世界中の子と友達になれるというのはありえないことだと思うんですけど、
ただ言葉を聞くとポジティブというかプラスのイメージが僕は感じたんですけども、
そのタイトルとこの絵っていうのが少しギャップというか感じたんですけども、
松井さんの中でこれ当然いろんな思いや意図があって書いてると思うんですけども、
これはあえて解説していただくとどういったものなんでしょうか。
松井 心の崩壊の予兆っていうのが全体的なイメージですね。
心の崩壊の予兆。
例えばこの女の子は目が見えなかったり耳が聞こえなさそうには見えるんですけど、
全然身体は全く丈夫なんですけど、心が病を持っていて、
心がすごく不自由であるということの象徴として描いています。
藤の下の方に群がっている大量のスズメバチっていうのは、狂気の直前のようなものを表しています。
そして赤ちゃんのいないゆりかごというのは、
妲体を示していて、結構日本に限らず世界中どこでもそうだと思うんですけど、
結構女性の妲体の率っていうのはものすごく高くて、
私も何度か友人の妲体の時に何回か付き合っていて、
なんで私が行くのと、なんで相手が来ないんだと、なんでこんなことになってるんだと、
本当に悔しい思いで問題だと思います。
やっぱりそういうメッセージというかは入っているわけですね。