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2023-03-15 29:12

第323回 鈴木義幸氏(株式会社コーチ・エイ 代表取締役社長執行役員)【前編】

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今回は、株式会社コーチ・エイの鈴木義幸社長にお越し頂きました。

日本の広告代理店を退職後、渡米。アメリカで学ばれた臨床心理学を活かすために設立したコーチング会社を上場に導いたお話から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

■経営者インタビューメディア「経営ノート」
https://keiei-note.com/

■WizBiz社長塾
https://www.youtube.com/channel/UC16VkcI4PaUISDD4UL7pFvQ




00:04
社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、株式会社コーチ・エイ代表取締役社長鈴木義幸様でいらっしゃいます。
まずは経歴の方をご紹介させていただきます。
慶応大学文学部卒業後、株式会社マッキャン・エリクソン博報道に勤務。
その後、都米ミドルテネシー州立大学の大学院に就労されていらっしゃいます。
帰国後、1997年にコーチ21の設立に参加。
そしてその後、株式会社コーチ・エイ設立と同時に取締役社長に御就任。
その後、取締役社長に御就任に当たっていらっしゃいます。
そして、2022年には東商スタンダード市場に上場している上場企業の社長様でいらっしゃいます。
鈴木社長様、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まずは最初のご質問なんですが、ご出身はどちらでいらっしゃるんですか?
静岡県ですね、静岡県の伊豆半島の伊東市が出身です。
いや、温泉町を出身でいらっしゃるんですね。
そうですね、はい。
小さい頃から家のお風呂をひねると温泉が出るっていう環境だったので。
ちょっと羨ましい環境でございますね。
はい。
伊東での小学校時代はどんな少年でいらっしゃいましたでしょうか?
基本的に、自分で言うのはあれですけど、とても勉強ができて成績が良くて、
小学校1年生からずっと学級委員長で、絵に描いたような優等生だったんですけれども、
スポーツもできて、ところがですね、よく覚えてるんですけど、
小学校3年生の後半ぐらいからムクムクと太り始めまして、
太り始めると足が遅くなる。
大体小学生って足が遅いとですね、ちょっと下にだんだん降りてくるんですね、ポジションがね。
お尻が大きくなって、ケツ二人分とかってあだらがついたりとかですね。
勉強はできましたけれども、だんだん足が遅くなって、いじめられるということはないですけれども、
なかったですけど、ちょっとポジションが弱くなってきて、というような後半でした。
そうですか、今を体験すると大変お痩せになってらっしゃるんですけど、それはもう途中からすぐお痩せになったんですか?
中学に入って、中学から男子校、男子寮で地元から離れて、静岡市というところにある私立の学校に行ったんですね。
そこで寮生活を始めて、しかもラグビー部に入ったので、これもよく覚えてるんですけど、1月に7キロ痩せました。
一気に痩せて走れるようになって、それから体は月はあまり変わってないですね。
今年55歳ですけど、あまり変わってないです。
高校3年生の時から体重もほとんど全く変わってないので、ずっとこの体型を維持してます。
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女道教の社長様らしい感じでございますね。ありがとうございます。
その中学時代はどんなことして過ごしたなと思いでございますでしょうか?
スポーツは、とにかくラグビー部に入って、静岡で優勝するんだ。
6カ年一貫教育なので、高校でもとにかく初めて静岡県で優勝するんだ。
かなりラグビーに力を使って、朝から自分たち仲間で、部員で自主的に練習、言われてではなくて自主的に練習に出たりとか、
集まったりとかやってました。
すごく興味深いのは、監督がラグビー未経験者なんですね。
ラグビーをやったことが本人としてはないんです。
なんですけども、私が中学1年で入った時に、絶対にお前たちを高3になった時に優勝させたいと。
いきなり部員をたくさん集めて、ところが彼は教えられないわけですね。
教えられないので、どこからたどってかよくわからないんですけど、有名なコーチとか有名な選手を連れてくるんですね。
たくさん連れてきて、我々にとっては刺激になって、結果的には全く未経験の監督、ラグビーを教えられない人が率いたチームが初めて、私は高3の時に静岡県で優勝したんですね。
なので、人を育てるとか育成するという現体験にすごくなってますね。
なるほど、ありがとうございます。
じゃあ、花園も入り換えれたんですか?
正確に言うと、中学で県で優勝し、東海大会で優勝して、関西大会というのがあるんです。
中学校3年生で花園に行きました。
高3の時は、高校総体というのが5月にあるんです。その大会で静岡で優勝しました。
新学校だったので、当時は夏でラグビーは引退というようになったので、花園の大会は当時は出なかったんですね。
なので、高3の時は花園には行ってないんですけど、初めて静岡県で優勝しました。
なるほど、じゃあすごいラグビーも上手だったんですか?
上手かどうか。一応、静岡県の代表の候補とかに選ばれましたけれども、大学が慶応に受験で受かった時に、
静岡県の理事長から、慶応に行くんだったら俺が推薦書を書いてやるから、絶対大会に入れって言われたんですね。
ところがですね、私が慶応大学に入った4月に入りますよね。
その前の1月に豊田自動車に勝って、慶応大学が日本一になったんです。
多くの部員が文句を叩いて入ろうとしたために、見せ練って言うんでしょうかね。
見せ練って、要するに見せる練習?
名前優しく入れるような部じゃないんだっていうことを示す。
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当時ですね、冗談で、世界中でアメリカ海軍と北朝鮮の特殊部隊に次いで厳しいのが慶応の集球部、ラグビー部って言われてたくらい、練習実際見に行ったんですけども、
人が倒れるんですよね。辛くて厳しくて。倒れると当時の夜間の水っていうのをですね、頭の上からジャーッとかけて、かけるだけで別に後は何もしないっていう。
バタバタと人がもう辛くて、そこに倒れるみたいな。
その光景を見てですね、せっかく1年間受験勉強して頑張ったのに、これだと私の青春はどうなってしまうの?っていうことで、体育会に入るのは諦めてというかやめて、
大学の時はラグビーは同好会でやりました。
42歳まで、社会人のクラブでラグビーを続けたので、
30年間、結果的にはラグビーを12歳から42歳までやりました。
ありがとうございます。ポジションはどちらだったんですか?
スタンドオフという10番で、一応司令塔と言われているポジションですね。
花形選手っていらっしゃって、表にもなったんじゃないですか?
なんかあれですね、自分で言うと闇っぽいですけど、一応中学高校は多少勉強ができたので、
勉強ができる人間をスタンドオフに感動化するんですよね。
だからといってスタンドオフが向いていたのか、今振り返るとよくわからないですけどね。
運動神経を向いて頭を打ってということだと思うんですけども。
一応そういうことにしています。
リサーノさん方はラグビーをご存じないかと思いますが、年代的に言うと、
当時だと早稲田慶応明治あたりが強い。
そこで慶応でトヨタ自動車に勝つなんて、今の時代だと考えられないんですけど、
大学が社会人に勝つ時代だったとき、大学ラグビーの方が人気で、花形でという時代だったんですね。
よくご存知ですね、その通りです。
たぶん鈴木社長さんは相当お上手だったと思います。
そんなことないです。
でもラグビーは今でもとても好きなので、今はリーグワンというのをやっていますけど、
週末は結構テレビを見たり渋谷の宮に観戦に行ったり、今でもしていますね。
ありがとうございます。
大学は慶応を選んだのはラグビーをやろうという感じで選ばれたんですか?
いや、すごく具体的な話で話すとですね、一応田舎の学校で高校で勉強ができたので、
一応東京大学を目指しておりました。
東京大学、当時共通一時試験で、最初が数学の試験だったんですけども、
数学は満点と取るつもりで行ったんですが、1問目で緊張してたんですね。
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1問目が解けなくて、ラグビーは土地までやってたので、理科とか社会は勉強の時間が足りなくて、
あまり取れないと思ってたので、絶対数学で満点取るんです。
1問目引っかかっちゃったので、1問目絶対解けるまでと思ったので、これでパニックっちゃったんですね、解けなくて。
でも共通一時がボロボロで、当時の足切りというので、二次試験に進むこともできず、
失意の中、慶応大学と早稲田大学を受け、文学部なんですけども、早稲田大学も落っこち、
ギリギリ慶応だけ受かったという感じです。
なんで文学部かというと、当時は実は演劇をやりたいと思っていました。
塚康平さんに憧れていて、自分で劇曲を書いて、劇団を作って世の中に出ていきたいと思っていたので、
塚康平さんが慶応の文学部の哲学家なんですけど、それに憧れて文学部を志望して、劇団を作りたいと思っていました。
なんで演劇にご興味をお持ちになったんですか。
いい質問ですね。中学校2年生ぐらいからずっと思っていました。
きっかけは小学校4年生の時に、クラスで劇みたいなのをやった時に、自分で考えてやった劇がすごく受けて、
演じて人の称賛を浴びるっていうのはこんなに楽しいんだっていうふうに思った。
それが大きいきっかけですよね。
中学校2年生ぐらいから、塚康平さんの劇曲とか、
マセテ・チェーフォブっていうロシアの劇作家の桜の園とかですね、そういうのを読み始めて、
高校1年生で静岡からわざわざ新宿まで出てきて、キノクニアホールで文学座で、
住村春子さんと高橋越さんという方の芝居を見たりとか、こういう演劇の世界に入るんだっていうふうにずっと思って。
だから大学でラグビーをやらなかったっていうのも、基本的には演劇をやるために大学を選んだんだっていうのがあったので、
ラグビーを選ばなかったっていうのもありますね。
なるほど。ありがとうございます。そうしましたら、慶応大学時代は演劇部なんだったんですか。
ラグビーのどこかに入って、後は演劇をやる足しにしようと思って、日本舞踊をまず習い始めたんですね。
花江戯流の日本舞踊っていうのを習いました。
なんで花江戯流の日本舞踊、自分の芸の足しと思ったんですけども、私の父親が着物の染め職人、悠然氏なんですね。
いわゆる着物を買われる方に知り合いがたくさんいて、花江戯流先生っていう方を紹介してもらって、日本舞踊を習いました。
結局それから6年間日本舞踊を習うんですけども、ちょっと日本舞踊にはまりまして、
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小山藤娘っていう踊りがあるんですけども、振袖を着て大田区区立何とか会館みたいなところで小山の踊りをやったりとか、結構日本舞踊にはまりまして、
日本舞踊を習いに来る、一緒に習っている落語家さんとかいるんですね。
そいつとも仲良くなって、日本の伝統芸能に結構はまった大学時代だったんですね。
ちょっと先に聞いていたご質問の中に日本舞踊とか演技から出てこなかったので、ちょっと驚きながらお聞きしていますが。
ありがとうございます。
大学時代は日本舞踊を中心にお過ごしになったと思ってよろしいですか。
そうですね、ラグビーと日本舞踊ですね。
大学実は3年生終わった時に、これもまた友人がアメリカに留学するって話を聞いて、何だそれって思って、俺も留学したいって思ってですね。
1年間休学してアメリカに行くんですけど、アメリカでもフランス人と一緒にラグビーチームの中田大学でフランス人と一緒にラグビーチームを作ったり、
それからインターナショナルスティューデントナイトみたいなのがあった時に、日本から持ってた浴衣を着て踊ったりとか、
そういう意味でもラグビーと踊りっていうのが結構自分のコアになってましたね、大学時代。
なるほど、加菜でらっしゃったんですね。
その2つですね。
慶応大学卒業後は、マッキャン・エリクソン・ハクホードでらっしゃるんですか?
そうですね、外資系の高校でらっしゃるんですね。
そちらを選ばれた理由は何かございましたでしょうか?
大学の時、最終的には結局自分が勉強というか、興味を持って学んでいたのが社会心理学という学問だったんですけども、
誰かが発したメッセージというものが世の中にどういう影響を与えていくのかっていう、
例えば今でも覚えてますけど普及学という授業がありまして、
それは例えばアフリカの地に新しい何か製品を持っていった時に、
それをどうアナウンスしてどう国に広まっていくのかとか、こういうのを研究している社会学の学問があるんですけど、非常に興味を持っていました。
なので広告にすごく、当時広告代理店って結構華やかな憧れの業種で、
電通、白報道、こういうところを受けまして、電通も白報道も最終面接で落ちまして、
白報道に至っては3回最終面接で落ちてるんですね。
3回ってどういうことかというと、青田狩りって当時言われたもので最終面接に行きました、落ちました。
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ところが最終面接に挙げてくださった、
たぶん神社の課長さんとかなんですかね、神社の部長にもう一回直談判して、絶対あいつを取った方がいいかなって。
もう一回チャンスをくださって、もう一回最終面接を受けました。
これでもまたダメで、正式な青田狩りではない、正式な面接も最終に行ったんですけど、
それでまた起こってよっぽど縁がなかったんですね。
なので結構ショックでしたね。
一番白報道に行きたかったので、3回起こって、
でもマッキー・エネクソン白報道という、
マッキー・エネクソンというアメリカの当時2番目だった広告代理店が51%株式を持っている外資ですね。
社長も外人だったので、そこに入れてすごくいい会社ですし、楽しい2年間を過ごしました。
なるほど。そちらでの思い出なんてございましたでしょうか。
まず、媒体本部というメディア、広告代理店って営業、媒体、それからクリエイティブ、プロモーションという大体4つに分かれる中で、
媒体というところに配属されました。
そうするとですね、媒体というのは各民放の番組が全て本部の中で映っている。
テレビがいくつですか、その8つもここに詰まって、全部テレビの番組が映っているんですね。
それで夕方の4時ぐらいになると各テレビ局の営業の方々がですね、例えば毎日放送の方とかTBSの方とかですね、
ケネキソンの媒体本部にやってきて、宴会が始まるんですね。
バブルのギリギリ最後なので、もう4時、5時ぐらいから飲み始めるんですね、会社の中で。
新人なので、ビール買ってこいとか、つまみも買ってこいなんて言われて、もう5時ぐらいから飲み会ですよ。
それが楽しくて、ほんのり会社って楽しいんだっていうふうに思ってですね。
それから局の招待旅行ってあるんですね。
要するに自分の局にたくさんのバジレットを振ってもらうために、新人1年目、2年目ぐらいの自分を、
どこだっけ、新潟放送さんなんかが招待旅行、要するに新潟に呼んでくださって、接待してくださるんですね。
で、館船で局のお釈を受けながら、花火を見てみたいなんですね。
ちょっとこれ人間がダメになるんじゃないかと思いましたけど、まあでも振り返ると楽しい思い出ですね。
やはりバブルの頃だからこそ出らせますよね。
そうですね。思いっきりバブルの頃でしたからね。
今は広告代理店そんなことやってないですよね。
やってないですよね。怒られてます。テレビ局が湯水のようにお金を使ってた時期じゃないでしょうかね。
なるほど。テレビ局前世時代ですね。今はインターネット時代になってしまいましたけど。
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はい。
ありがとうございます。で、その後ですね、アメリカの大学ですが、ミドルテネシー州立大学に行かれてらっしゃるんですよ。これ何か経緯とかあられたんでしょうか。
選んで開いた広告代理店だったんですけども、2年目ぐらいからですね、ちょっと気持ちが離れてきました。
それは、例えばある商品のプロダクトを雑誌に広告展開しようと、じゃあAという雑誌とBという雑誌がある。
どっちの雑誌の方がいいだろうかってこういうことをプランして、顧客に提案するっていうようなことをやってたんですけれども、正直Aという雑誌かBという雑誌かでそんなに違いって起こるんだろうかとか、
だから、人に影響を与えたいとかっていう思いがあって入った会社なんですけれども、すごく簡単に言うと、まだまだ浅はかな自分の理解が故に、
影響力というものをあまり実感できなかったと当時は思いました。
1対マスではなくて1対1で人に影響を与える、そういう仕事をしたりすることに関心が向いてきたんですね。
そんな時にやっぱり友人がですね、アメリカに大学院に行くんだと、しかもその大学で、アメリカの大学で学部生に日本語を教える代わりに、
タラで大学院に行ける、そういうプログラムがあって俺は受かったんだと、その5期生で行くんだと。
そういう話を聞いて、何度も俺に紹介しろって言って、で僕も次の年それを受けた。そしたら6期生としてその試験に受かって、
当時アメリカで日本語の熱が結構まだ盛んだったので、かつ南部の大学は、
州立大学は正規の日本語の先生を雇えないので、グラジエイトティーチングアシスタントという大学院に行きながら、
アシスタントとして先生をやってくれる人っていうのを探してるんですね。そこに、
ハマってアサインされて、あなたはテネシーに行きなさいということで、テネシー州というところのナッシュビルの少し南にあります
マーフリスボローという町に行って、大学でアメリカ人に日本語を教えながら、大学院でクリニカルサイコロジーって言いますけども、臨床心理学というものを勉強するという風になりました。
大学院時代では何か思い出とかございますでしょうか。
臨床心理学、クリニカルサイコロジーでそのマスター、修士を取るためには、2年間、どこかのインスティテューション、施設でインターンをやらなければいけないんですね。
ネイティブのイングリッシュスピーカーではないので、なかなか大学病院とか雇ってはくれません。
唯一私をインターンとして採用してくれたのが、テネシープリズンフォーミメント、テネシー州の州立の女子刑務所だけが来ていいよということで、
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2年間、毎朝ボロボロの20万マイル以上走ったボロボロのボルクスワーゲン、黒いんですけど、それを運転して、
ナッシュビルの郊外にある女子刑務所に行って、助手さんのカウンセリングをするんですね。1日2人3人ぐらいでしたかね。
当時FBAのコンピューターにデータベースにアクセスできて、自分がこれからカウンセリングする女性のクリミナルヒストリー、犯罪史っていうものをデータベースで調べて、
それからカウンセリングする。あるとき調べてたら旦那を独殺したって書いてあるわけですね。旦那を独殺した人にこれから出会って話を聞くと、何聞いたらいいんだろうみたいな思いますよね。
全然浮かばなくてですね。時間になってしまって彼女がやってきて、思わず口をついたのが、
Did you kill your husband? 殺しちゃったの?みたいな。そしたら彼女がですね、Noって訳です。やってないわと。
That's what Mary did. あれはメリーがやったことなのよ。I'm Joanne now.って始まって、意味がわからないと。
あとになってもう一回FBIのデータベースを見たら、要するにMultiple Personality Disorder、多重人格症なんですよ。
彼女には21つ人格があると。だから私じゃない時の私が旦那を独殺したんだって、私には責任がないと。こういう話なんですね。
そういうことを実際にインターンとしてやっても、どうにもならないっていうことですね。直すなんてことはできないですし、結構重たい。
やっぱり仕事なんだなっていうふうに。ああいうことを続けられている方って本当に尊敬しますし、素晴らしいなと思うんですけど、ちょっと自分には難しいなっていうふうに思って、
だけど、自分が培ったコミュニケーション技術みたいなものは活かしたい。でもカウンセリングじゃないなって思いながら、3年経って日本に帰国したっていう、そういう流れなんですよね。
3分コンサルティング。WizBizが社長の悩みを解決。
本日の3分コンサルティングは、英知様でいらっしゃいます。
新退社員はじめまして。英知と申します。
全国15エリアに美容サロンを展開しております。また関東を中心にレンタルスタジオを10店舗を運営しております。大半大きな企業さんですね。
既存の2つの事業をある程度伸ばしてこれたため、今後成長を早めるため、M&Aで事業を拡大していきたいと考えております。
しかし事業買収の事例を見ていく中で、社内の雰囲気が悪くない、業績が悪化した、や顧客が罹犯した、買収先の事業員が自主退職したり、取り先が契約を打ち切られた、
これまで会社が持っていた強みや良さが抜けられた、紛失決算のが見つかり、予期せぬ損失が発生した、買収によって自社のイメージが悪くなった、などの失敗例を多く見かけます。
投資対効果が目安で投資金額を回収できないということは避けたいですが、それ以上に既存事業の売れが下がってしまうということ自体は避けたいです。
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買収事業を成功させるためのヒントやトラブルを解決するために抑えておくべき点などをぜひともご教授いただけますよう幸いです。
M&AでG・ゼネレトリックはクレードの徹底だけを考えるそうです。
クレードがちゃんと浸透しそうな会社しか買収しないそうです。
かつ買収したとクレードの徹底だけをするそうです。
そういう意味ではクレードというのは日本語で言うと経営理念とか企業理念とか、誤訓とか架訓とか考量とかこういう言い方をしますが、
理念の徹底をちゃんとするんだと、理念が合いそうな会社だけを買収するんだと、こういうことを言ってらっしゃるのがG・ゼネレトリックさんです。
そういう意味でいくと私もそれなりに大変強化しますので、
まずは御所のカラー、企業文化や組織風土、企業理念に合っている会社だけを買収するというのが第一じゃないでしょうか。
もう一つはビジネス的に言うと、勤職決算してないかとか利益は出せるかとか、
もし思った通り計画通りいかなかったとしても、何かしらのことでうまくできるんだったらOKなんじゃないかとか、こういうことを考えることも必要です。
私が昔買収した、約1,000万か2,000万で買収した事業は、その後そのサイト自体は全然うまくいかなくて利益を出しませんでした。
むしろ赤字。だけども実を言うとその裏側にリストが付いていたので、使える人は200万リスト中40万リストしか使えなかったんですが、
そのリストで2,000万の売上が固め、ある意味利益が出ているくらいまで持ってきました。
実はそれが分かったので買収しに行ったんですね。
この事業がうまくいかなかったら、こういう保険策からこうやれば多少損しても全然かまわない、みたいなことが見えるかどうかというのも大変大切なんじゃないでしょうか。
そういうビジネス的なカバー策的な、保険の策的なことを考えておくのが2つ目に必要なことなんじゃないかなと思います。
3つ目は理念の徹頭ですね。職員の方々のカラーが御社にH様の会社に合っているならば浸透を徹底するし、
ある意味新規事業、エマンドウェア新規事業と一緒ですので、社長様もしくは右腕左腕の御社でいうエースの方々が入っていって色を染めていかなきゃいけない、こういうことになります。
そして理念の徹底、クレドの徹底、そしてカラーを染めていくための企業風土、組織風土をH様の会社に染めていくためのエースの方が社長様自らが毎日のように行って、
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ある意味朝礼をやる、みたいなことをやる、みたいなことが3番目に必要なんじゃないかなと思います。
もちろん途中段階で辞めていく社員も出てくると思います。もちろん新しく入れていく社員も入れると思います。
それでも徹底をしていくべきだと思います。経営人員の徹底ができさえすれば同じ色になって、先ほど言ったような失敗例はかなり少なくなるんじゃないかなと思います。
ぜひそういったことを考えていただければと思います。
もしエマンドウェアでお悩みの方、他にもいらっしゃいましたら、何なりと経営相談に乗りますので、無料で経営相談に乗りますので、何なりと皆さん方はおっしゃっていただければと思います。
本日の3分コンサルティングはここまで。また来週。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆さんの会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長肉インウィズではここまで。また来週。
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