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みなさん、こんにちは。この番組は、誰もが知っている名作から、あなたの知らない日常すぎる本まで、ゆるいトークで紹介する、読書系ポッドキャストです。
改めまして、こんにちは。的文子です。 こんにちは。梶原コーヒーです。
よろしくお願いします。 よろしくお願いします。
では、今回は小説の紹介ですね。 アルゼンチンの作家のマヌエル・プイングという人が書いた、
『蜘蛛女のキス』という本を紹介します。 読んだことないです。
これ、タイトルだけ聞くと、なんかB級ホラー映画にありそうな感じのタイトルではあるんですけれども、
B級ホラー映画のような内容ではないです。
でも、映画になった話ですよね。 そうですね。映画にもなってますし、映画の話がよく出てくる作品ですね。
いいですね。映画つながりですね。 先回と。
しかもB級映画ばっかり喋ってるっていうような話ではあるんですけれども、
なんていうんですかね、ちょっとロマンチックなシーンもあったり、でも、これって結局どうなんだろうなっていうようなミステリーではないですけれども、
読んだ後にすごく余韻が残るようなお話にはなっております。
その作者についてなんですけれども、ちょっと今回作品にも絡んでくるので、まずはその作者どういう方なのかっていうのを簡単にお話しようかと思うんですが、
マニュエル・プイグっていう人はアルゼンチンの生まれの作家です。
ただこの方なんですけど、もともと作家になりたくて作家になったというわけではなくてですね、
物心ついた頃から映画館に通うぐらい映画が大好きな人で、監督になりたかった人なんですね。
20代になってからイタリアに渡って映画学校に行って、その映画の作り方を勉強して、いろんな監督の助監督をするまでになったんですけれども、
いろいろあって、ちょっともう映画の世界は挫折したと。
その後またいろいろあって、作家に転身するっていうような経緯のある人なんですね。
そうなんですね。
今回のクモ女のキスもそうなんですけれども、この方の作品って会話とか手紙とかそういった字の文よりは、
もう本当に人との言葉のやりとりが中心になっていて、本の内容もなんていうか、書き方はシナリオみたいな書かれ方をする作品が多いんですね。
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なんかこう、登場人物の会話をそのまま聞いているような。
会話で物語が進んでいく感じの。
そうですそうです。
映画が好きっていうか、もうマニアみたいな方なので、作品内にその映画の引用もたくさん出てくるっていうのが特徴ですね。
このクモ女のキスなんですけれども、これは書かれたのが1979年に発表された作品で、日本語訳は、今現在は収益者文庫から出版されていますね。
文庫本でだいたい400ページぐらいで、そのほとんどが会話っていうような作品になっています。
でも会話多い文だと、400ページぐらいだと読みやすいですよね。
そう、意外と最初はちょっとでも戸惑うんですけど、読んだこういう形式の本を読んだことがないと、ずっと会話してるし。
ずっと会話してるし、そのなんていうか、字の文があれば、ここがどうでとか、この喋ってる人はどういう人たちでっていう説明が出てくるかと思うんですけど、そういう説明も一切なくいきなり会話が始まっていて、
だから最初はこの会話をひたすらなんかこう、脇から聞いているような気持ちで、この人たちはまずそもそも登場人物何人なのかっていうのが、しばらく読まないとわかんないっていう。
そこまで?
本当にそのぐらい説明がなく、唐突に映画の話をしてるシーンから始まるんですよ。
わかります、なんとなく。
で、もう100ページ以上、200ページぐらい読んで、やっとなんでこの2人がここにいるのかっていうのが、客観的な情報としてやっと出てくるんですけれども。
あ、でも面白いあれですね。仕組みっていうか、構成。
本当にこの登場人物の話をちょっと離れたところから聞いてるっていうような、進み聞きをしているようなちょっと雰囲気もある作品になっていますね。
ちょっと変わってますね。
そうですね。あとは途中にすごく長い注釈が唐突に挟まれたり。
途中に?
そうです。で、あと会話の途中に、その多分会話をしながら考えているんであろう思考の流れみたいなのが挟まれていたり、結構実験的な、ただの小説を読むっていうのとはまたちょっと違った体験ができる小説でもあります。
で、どういう話なのかっていうのをこれからちょっと具体的に話していきますと、まず登場人物は2人ですね。
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で、このお話の場所なんですけれども、舞台はアルゼンチンの刑務所の官房の一室です。
で、登場人物はその官房に入っている囚人が2人ですね、出てくるんですけれども。
1人は映画が好きな中年ぐらいのゲイの男性のオリーナっていう人で、
もう1人がテロリストというか政治革命を行っているバレンチンっていう20代後半ぐらいの男性ですね。
で、この2人が主に出てくるというか、大体この2人しか出てこないですね。
あとはちょっと他の登場人物が出てはくるんですけれども、ほぼ全編に渡ってこの2人の会話だけで構成されているというような話ですね。
なんかお芝居チックでもありますね。
そうです。本当にお芝居っていうか、これミュージカルにもなってはいる作品なんですけれども、
舞台で演じる時もひたすらその2人しか出てこない、役者が2人しか出てこないっていうパターンがほとんどらしいですね。
最初のその話の始まりがですね、モリーナが昔見た映画の話をずっと話をしてるんですよ。
昔見たこういうホラー映画があってね、みたいな。
登場人物の特徴をまず、少し変わっている女の人がいて、ちょっと顔が猫みたいな感じでっていう話をずっとしてるんですよ。
その人が動物園に今いて、その動物園の檻の中には黒ひょうがいて、その黒ひょうのことをデッサンしてるんだけど、みたいな話をずっと話してるんですね。
時々その会話に、その女ってどういう感じの面してるの?とか、その動物園に客とかいたの?みたいな話を、バレンチンがあんまりやる気ない感じなしゃべり方で突っ込み売れてくるんですけれども、それに応えながら映画の話をずっとしていくんですね。
バレンチンいいやつですね。
このバレンチンいいやつなのかどうなのか、ちょっとこの時点ではわからなくて。
モリーナもやることはないし、一緒に入ってるバレンチンも自分と性格がちょっと全然違いすぎて、話し合いってとしてはちょっとなっていう感じだったみたいで、
暇つぶしにじゃあ映画の話でもするわ、みたいな感じになって、昔見た映画の話をしてるんですけど、それになんとなく付き合ってるバレンチンっていうような話なんですよ。
で、最初に黒表女っていう映画の話をずっとしていくんですけれども、簡単にあらすじを言うと、自分はその表の生まれ変わりなんじゃないかと信じている女の人が主人公で、
一応恋人と出会って結婚するんですけど、結婚した後に夫と関係がうまくいかないってなって、やっぱり私は黒表女の生まれ変わりだから、夫のことを食べてしまうんじゃないか、いつかっていう、食い殺しちゃうんじゃないかっていうのを本当に本気で信じていて、なかなか親密になれないっていうのを悩んでいて、
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夫は夫で、奥さんと仲難しく暮らしたいけど、なかなかそれがうまくいかなくて、結局同僚の女の人と愛人関係になってしまったりとか、主人公は主人公で、カウンセリングを受けに行くんだけど、カウンセラーにちょっと迫られ気味になったりとか、
なんかそんな話になりつつも、最終的にちょっとホラーな終わり方で終わるっていう、なんともB級チックなお話なんですよ。ただこれも話なんですけど、たぶん実際に映画を見たら、そんなになんか面白くないんじゃないかなっていうような、すっごいB級テイストな映画なんですけど。
そう。でも、モリーナが語ると、よくそんなとこまで覚えてるなっていうぐらい、こう、こまごまと喋ってくるんですよ、映画の話を。で、なんかこう、人が見た映画の話を聞くって、結構あの、実際見るよりなんか、やたら楽しく、面白く思えるものってあるじゃないですか。
うん、ありますね。
実際見たらそんなでもなかったみたいな。
うんうん。
思ったよりじゃないなみたいな、あるじゃないですか。
ありますね。
なんかそんな感じなんですよね。モリーナの語りがすごく上手すぎて、若干あとなんかこれモッテんじゃないかなっていうぐらい、魅力的にこう、映画の話をするんですよ。
あー、なんかいい感じのネタバレサイトみたいな感じですかね。
そうそうそうそう。そんな感じでこう、で、それをこう毎晩にバレンチンに話を聞かせるんですね。
うん。
で、バレンチンもその話を聞きながら、でもなんかその設定ってさ、なんかちょっと矛盾してんじゃない?とかこう、ツッコミを入れてくるわけですよ。
うん。
で、それにまたあんたはなんかそういうしょうもないツッコミを入れてくるわね、みたいな感じでこう、私この映画気に入ってるんだから、もうなんか気にならないで黙って聞いてなさいよ、みたいな感じで怒ったりとかするわけですよ。
やっぱりバレンチンイギアスじゃないですか。
そう、多分こいつそんなになんか嫌なやつではないんですけど、なんかちょっと理屈臭いんですよね。
あー、まあテロリストですからね。
そうそう。
ちょっと二爪で考えると、なんかあんまりそれ合理的じゃないよね、とかなんかちょっと説得力ないよね、とか言ってくるんですよ。
で、モリーナはどっちかっていうとその合理とか、なんか現実的かどうかっていうよりは、なんかこのやっぱりシチュエーションってすごく素敵よね、みたいな感じの、まあエモーショナルをものすごく大切にするタイプ。
うん。あれ?モリーナってなんで捕まってるんでしたっけ?
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あ、で、モリーナは未成年の男の子とちょっと性的な関係を持ってしまって、そういったような罪で入ってますね。
ワイン接剤っていうことにもなるんですかね。
なるほど。やっぱりワイン接剤とテロリストの違いっていうか。
そうなんですよ。だからだいぶその性格的にもそうですし、関心も、バレンチンはお話には付き合ってはくれるんですけど、昼間はもう俺は政治学の勉強しなきゃいけないから話しかけるなとか言われるんですよ。
勤勉、勤勉ですね。
すごい真面目なんですよ。で、でも夜は眠れないときとかに、今日ちょっと眠れないから映画の話してくれない?つって。
で、モリーナはモリーナで、あんたその映画好きじゃないんでしょ?とか言って、どうせつまんないって思ってるんでしょ?とか思いながら、ねだられて毎日映画の話をするっていうような関係が続いていくんですよ。
で、この話しているうちに、映画の話だけではなくて、なんかそういえば私の好きなあの人は今どうしてるかしら?みたいな話になって、あんたの好きな人ってどういう人なの?みたいな話になったりとかするんですよ。
その映画を通じてお互いの外での生活とか、何してたの?っていう話とかをちょっとずつしていくようになるんですね。
それがまあちょっと背景の説明になるって感じですか?お互いの人間性とか。
たぶん映画の話とかしなかったら絶対こんな話するきっかけってなかったと思うんですけど、映画の話をする合間にこうちらっとそういう話が出てきて、
で、なんかその互いの好きな人の話とかになるんですけど、で、モリーナが好きなのは妻子持ちのウェーターが好きで、みたいな。
で、ずっと片思いなんだけど、絶対叶わない片思いなんだけど、なんだかんだでそのウェーターとちょっと仲良くはなって、たまになんか食事行ったりとかするぐらいの仲にはなってるんだけれども、
なんかこう、モリーナの話を聞く限りでは絶対それあの、利用されてるんじゃないかなっていうような。
なんですよ。でもモリーナはもう男性のことが好きで好きでたまらないので、なんかあの絶対叶わない夢だけど、今の奥さんと別れて私のとこに来ないかしらみたいなことをずっと言うんですけど、
なんかバレンチンはバレンチンで、なんか本当にそいつあの働き気があるのかみたいなこととかを喋ってくるんですよね。
人の恋の、恋に水をさすなという感じはね。
そうですよね。そういうなんかこうね、余計なこと言うからまたなんか仲悪くなるんじゃんって思うんですけれども。
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で、バレンチンはバレンチンで、その大学の時に付き合っていた彼女の話して、でもその彼女とはもう別れて、
で今はその別の、今一緒にその政治活動をしているリーダーの女性と多分付き合ってるのか、それともその女性から好意を持たれているのかっていう感じなんですけど、
でもやっぱり実際に好きなのはその前に別れた彼女の方が好きだっていう風に思うんですよ。
ありがちな。
かなわないけれども、やっぱりあいつのことが忘れられないんだみたいなことを言ったりとかするんですけど、なんかそういうところがちょっと普通の人っぽいような。
そうそう、バレンチンって決してその冷徹なテロリストにはなりきれない普通の男の部分はあるんだなっていうのを映画の話をしながら、ちょっとずつちょっとずつお互いの話をしていくんですけれども、
で、ちょっといい雰囲気になってきたなというところで、その次にそのモリンナが語る映画って6本ぐらいあるんですけど、その中でもキーになっているのは最初の黒標女の話と、もう一つナティスの権利映画として作られた映画があるんですよ。
これは本当にあった映画なのかわかんないですけど、本当にあった映画を元にして作った架空の映画みたいな感じの話なのかなって感じなんですけど、その内容がナティス政権下に置かれたフランスの舞台で、主人公はフランスに暮らしている人気歌手の女性なんですけれども、その歌手とナティスの将校が恋に落ちるんですよ。
でもその人気歌手の人は、レジスタンスの人たちにですね、お前ナティスの将校から情報を引っ張ってこいっていうふうに脅されて、スパイみたいなことをさせられるんですよ。
で、私はフランスの自由のためにはレジスタンスに協力したいけど、そのレジスタンスもちょっと、まあこれナティスの権利映画なので悪いことしか書かれてるんですよ、そのレジスタンスのこと。
結構手段を選ばない悪い連中みたいな感じで書かれていて、この人たちに加担するのも嫌だみたいな。で、私は確かにナティスは憎いけれども、あの将校のことは愛しているみたいな。そういう矛盾に葛藤して、最終的には愛に準じて死ぬっていうようなストーリーなんですよ。
で、またバレンチンは、「え、そんなナティスの宣伝映画とか見るの?」みたいな感じで、「どこが面白いのそれ?」とか言って、またチャチャ入れて。でもモリーナは、「いや、なんかそういうんじゃなくて。」みたいな。
映画はすごく意味合いはあれだかもしれない。書き方芸術的なのよとか、このセットが素晴らしいのみたいな、そこにすごく重点を置いて見てるんですよね。なんかその辺もまたちょっと映画の見方っていうか、実際こう映画見るときって、なんかストーリー見る人と作り方見る人とかっているじゃないですか。
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はいはい。いますよね。
あと、出てる俳優が素敵とか。何に注目して映画見るかって結構人それぞれだよなとか、デビューサイトとか見ててすごく思うんですけど、ストーリーは確かにちょっとこれしょうもないなっていうので、映像はすごい素晴らしいですよねみたいな映画ってあるじゃないですか。
すごいわかります。そういうの好きです。
真っ二つに意見が分かれるような映画なのかなっていうような感じなんですけど、ただこのストーリーが後々ちょっとこの2人の関係を暗示してるんですね。
で、そのモリーナは何かにつけてバレンチンにお話をしたりとか、あとそのバレンチンが途中ちょっと具合悪くなっちゃったりしたときにすごく献身的に世話をしてくれるんですよ。
すごく優しいんですけど、実はですね、その優しさには理由があって、モリーナは刑務所所長からバレンチンからその政治活動の仲間たちの情報を聞き出してくれれば仮出所させてあげるよっていうような取引を持ちかけられてるんですよ。
ありがちな。
辛い。
その優しさには裏があるんですよ。
で、時々その所長とモリーナのやりとりっていうのが出てくるんですけれども、そういうちょっと見つめを、あとその自分の利益のためにバレンチンに優しくするっていうね、実は裏があるっていうところなんですけれども。
さて、この二人の関係はいかにっていうような感じでお話が進んでいきます。
真ん中あたりで、実はそういう裏がありっていうような話が分かってくるんですけれども。
よくルパン三世でありがちじゃないですか。
ルパン三世なんですか、そこの例えが。
ルパン三世とか何だろう、恩光系とか。
なんでさっきのナチスの献殿映画の歌手の立場みたいな感じなんですよね。
でもモリーナは、それを知った上で、今度モリーナとバレンチンの関係を見ていくと、
モリーナのこの優しさって、どこまでが縁で、どこまでが本当なのっていうようなことを考えながら、私たち今度読んでいくわけですよ。
そうですね。つらい作業ですよ、それは。
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つらい作業ですけれども。
でももしかしたら、ただ本当にモリーナはすごくいい人で、バレンチン尽くしているように取引のところを読むまでは思っていたけれども、
取引のあとような時には実はそういう裏があったとなると、このモリーナの優しさっていうのがちょっと怖かったりもするんですよ。
でもこれってもしかしてバレンチンのことを油断させて情報をポロッと漏らすような感じの関係に持っていくように仕向けているのかなとか思うとちょっとつらいなって思いながら、
バレンチンってあんまりそこ気づいてないっていう。意外とこいつ単純だなーとか思いながら。単純っていうか真っ直ぐなんですよね、バレンチンってね。真面目なので。
テロリストですからね。
そうですね。テロリストだけど、こうなんていうか、すごく猜疑心に駆られているとか、全員疑うみたいな感じじゃなくて、優しくされるとちょっと弱いみたいなところ。
政治犯。政治犯だからな。
ちょっとあるようなところもあるんですけれども。ただですね、だんだんそのモリーナも演技のために私の親が差し入れしてくれたっていう体で、食べ物の差し入れをしてほしいって言って、食べ物とかを差し入れしてもらって2人で食べたりとかしていって、さらに親密な仲になっていくわけですよ。
でもそれはモリーナが仕掛けた罠かもしれないじゃないですか。
でももうほら、そういうのに慣れている読者は、でも最終的にはモリーナって、どっかで期待もするわけじゃないですか。
そう、期待もするわけじゃないですか。
そうそう、その優しさが本物になっていくんだろう、モリーナっていう風になってもいくじゃないですか。
そうなんですよ。
そうならない?
最初は多分演技でその優しさを演じていったモリーナなんですけれども、これ役者さんでもよく聞く話だと思うんですけど、演じているうちに自分の感情なのか演技なのかわかんなくなってくるっていうような話って聞くじゃないですか。
はい。
役が自分の中に入り込みすぎて、役から抜け出せなくなっていくっていうか。
もうそれであってほしいですよ、この話を聞いているだけで。
そうなのかなっていうような感じにだんだんなっていくんですね。
だからモリーナも優しさを演じてたんだけれども、それが演技なのか自分の素なのかはわかんなくなってくるっていうか、区別がなくなってくるんですよ。
で、バレンチにちょっと情が映っちゃうっていうか、映っちゃってるのかなっていう。
でもそれを最後まで読んでもわかんないんですよね、これ。
そうであってほしいような気がするけれども、でもやっぱり違うかもしれないっていう、ちょっとモヤッとしたような、モヤッじゃないですけど、本当にわかんないんですよ、これ。
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そこでリリースされちゃうわけですか、ドクターは。
そう、本当にモリーナがどう思ってたのかなっていうのが、最後の最後までわかんないんですよ。
で、これ第2部になっていくと、さらにこの2人の関係っていうのは、いろいろおいしいもの食べたりとかしながら、さらに親密になっていくんですよ。
で、バレンチにも本当に今までは自分の弱みっていうか弱さについて語るのがすごく、それは男らしくないから話したくないみたいな、話すべきじゃないんだ、そういうのはとか、
俺はもっと強くならなきゃいけないんだ、みたいなことを言って話そうとしないんですけれども、だんだん心が開いてくるようになって、自分がこういうことが辛いんだっていうのとか話すようになってくるんですよ。
思うツボじゃないですか。
思うツボなんですけれども。
思うツボですよ。
思うツボなんですけれども。
で、最終的にですね、ちょっとこの2人はですね、一線を越えてしまうんですよ。
お、なんと。
そう。
そうなってくると、モリーナがどうなるんでしょうね。
で、またこれモリーナの状況っていうのがですね、どんどんまた複雑になっていくんですけれども、さっきその所長はモリーナに対しては、バレンチンから仲間の情報を引き出せば仮出所させてあげるよっていう話を持ちかけてはいるんですけど、
モリーナはモリーナでなんだかんだ理由をつけて、あともうちょっとです、もうちょっとと思うんですけれども、今まだ早いですとか言いながら、その機会を伸ばし伸ばしにしてるんですよ。
で、なんかそれに痺れを切らしてきた所長が、モリーナこのまま使えないんじゃないか、このまま情報を引き出すのは難しいんじゃないかみたいなことを思い始めたっていうのがあって。
まずい。
今時点でバレンチンから情報を引き出すって難しいのかなとか思いつつも、でも、もしかするとモリーナの性格を考えるとバレンチンに情報が移って、バレンチンのために何かできないかみたいなことを言い出すんじゃないかと。
それは今度狙い始めるんですよ。
で、モリーナに急にお前出所させてやるよって言ったら、モリーナの方からもしかしたらバレンチンに何かアプローチを仕掛けてくるんじゃないかというようなことを考え始めて、実際そのようにもうバレンチンじゃない、ボリーナに明日出所させるからもう自宅しなさいと。
モリーナはモリーナで、そんな話は聞いてなかったみたい、嬉しいんだけど、こんなに急にそういう話になるとは思ってなかったっていうような感じで、やっぱりすごく気持ちが揺れるんですね。
そうだね、もう恋しちゃってますからね、モリーナ。
で、思う都合になっちゃうんですよね、その所長の。
そして最後にモリーナは。
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あ、じゃあそこはストップしておきましょうか。
というようなところでお話が終わるんですけれども。
超もやっとしますね。
ストップって言いながら超もやっとします。
もやっとしますよね。で、これそこのモリーナがっていうシーンで終わるんじゃなくて、その後もちょっとお話が続くんですよ。
今度バレンシンの見た夢っていうので最後お話が終わるんですけれども、これがまたもやっとするポイントにはなってくるんですね。
結局この2人はどうだったのっていうような、どっちとも取れるようなお話の終わり方で終わってるんですよ。
これ日本人苦手なタイプですよね。
こう白黒つけたくなるじゃないですか。
それ多分もう一生つかないなって私は何回も何回も読んでも一生つかなそうって思いながら、毎回こうかな、んーでも、んーとか思いながら読むんですけれども。
なんかそういう本って読んでる時の自分自身のメンタルで結構変わったりしません?
それもあるとは思いますね。
なんかすごく前向きにきっとこれは終わるだろうって思える時と、なんかこれはちょっとバッドエンドなんだろうなって思っちゃう時と、
まあそれこそね作者の思う都合なんでしょうけど、そこら辺はそこら辺で。
でも本当にこれってさっきもお話ししたみたいに、これすごくやっぱり映画的な話なんですよ。映画そのものを書いた話なのかなっていう小説でもあって、映画ってみんなで同じものを見るじゃないですか。
同じスクリーンに向かって見るけれども、でも同じものを見てるはずなんだけれども、その見たものに何を感じるかって本当に人それぞれじゃないですか。
それってたぶん小説とかとはまた違った体験だと思うんですよね。同じ話を見るっていう、物語を見るっていうにしても。
言葉ってある程度意味を限定的にできるところってあるじゃないですか。
言葉の表現って。でも映像的な表現って結構その辺が曖昧なのかなと思うんですよ。
もちろんこれを記号的にこういうふうに、これの象徴でっていうような見せ方をすることもできるんだけれども、でも目で見たものがどういうふうに受け取るかって結構人それぞれなのかなっていうふうなところがあって、
映画って意外とそういう曖昧な、目に見えるからすごくわかりやすいのかなって思いきや、実は違うものを見ている可能性があるっていうところを示唆していて、
それがずっとモリーナが映画の話をして、バレンチンとここはこうなんじゃないかじゃないかって話し合うっていうのは、
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同じものを見てるわけじゃないんですけれども、同じような話を見聞きしたとしても同じようには絶対人は撮らないんだっていうところを表現しているのかなっていうふうに毎回読むために思うんですね。
もうその話全体がね、そういうふうに、モリーナとバレンチンだって違ったでしょっていう。
だからあなた方だって捉え方は人それぞれよっていう感じ。
そうですね。だし、同じものを同じふうに感じてたというふうに思ったとしても、もしかしたら違うことを考えてたかもしれないけど、
同じ気持ちにこうなっていたかのように見えてすれ違ってたみたいな、そういう悲しさみたいな。
だからラストになるのかなと思ったり、でもそのラストシーンって悲しい話でもないような気がするんですよ。
なんとなく救いももしかしたらあるんじゃないかなっていうようなところは残しつつのラストシーンで、
なんか結構上手い終わり方したなってこれ思うんですけれども。
そこらへんもちょっと映画的なんですよね。
そう、すごく映画的だと思いますね。
本当に映画監督になりたかった人が書いた小説っていう感じですよね。
なんかその最近生まれた時からほぼ全毛の人が、目が見える人と美術館を巡って美術館食するっていうノンフィクションを読んだんですけど、
なんかそれも一緒に見に行った人に、今どういう絵を見てますかっていう、この絵はどういう絵なんですかっていうのを聞くんですよ。
で、その同行者が一人だけだったら、今これは誰々っていう画家が書いた絵で、この真ん中は明るい風景がありますねとか、
なんかすごくキラキラした風景で、みんな見ていて爽やかになりますっていうのを、
しかもその人は実際の風景を見たことがあって、その風景を思い出しながら、自分のその時の心境を思い出しながら、そのことを話すんですよ。
でもそこにもう一人同行者がいると、え、でもなんかその真ん中にすごく暗い顔をした幽霊みたいなぼやっとした顔の女の人がいて怖いっていうようなことを言い始めて、
あ、そんな人いたっけ?あ、いたわみたいな。私何見てたんだろうみたいな。
同じ絵を見てても全然違うものを見てるみたいな話が出てきて、絵もそうですし、映画とかも、え、そんなシーンあったっけみたいなのってあるじゃないですか。
同じ映画見た時の感想とかを聞くと、え、そんな話ってあったっけみたいな。
泣くポイントとかも全然違ったりするじゃないですか。あ、そうですよね。映画とかで、私結構映像がすさまじく綺麗になると泣いちゃうんですよね。
たぶん最近思うのは、自分の脳がきっともう、なんていうのかな、キャパオーバーになる。美しすぎて。もうお手上げですってなると、たぶん涙が出るのかなって思うんですけど、
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やっぱりストーリーで悲しい時に涙する人もいれば、主人公が最高にハッピーな時に泣く人もいるし、やっぱり感じ方とか捉え方って一つの映画でも全然違ってくるし、小説もかな。
だいたいね、ここのポイントが好きっていうのはみんな違うじゃないですか。あ、そうですよね。逆に、え、そこなんか泣くとこあったっけみたいな話とか、友達とか、あれめっちゃ泣けたんだけどとか言われても、一個も泣けるシーンがなかったよみたいな。
あるある。どんなのあったらいいな。で、何の映画か忘れちゃったんですけども、見終わった後に、友人はすごく感動していて、私はすごく怒ってるっていう時があったんですよね。もう怒りしかないみたいな。
あとなんか、映画ってそういうの結構ありがちじゃないですか。よくカップルで見に行くとこれ別れるよとか、いう映画とか。ありますね。小説とかもそうかもしれないですけど。小説もそうかもしれないですけど、なんか映画の方はよりそういうのあるよな。
まあ、情報量がやっぱり多いからですよね。いろんな風に撮れるっていうか、どこに注目するかっていうか。そうそう、それこそさっきの盲目の人に絵を説明するのと同じで、やっぱり自分が体験したことがあるのと、オーバーラップした人と、そういう体験をしたことがない人ではやっぱり映画でも、泣くような恋をした人と、そういう恋は別に避けて撮ってきたっていう人ではやっぱり違うと思うし。
恋だけじゃないですけど、その話も10人読んだら、まあ10通りの解釈があるんだろうなっていう感じはしますよね。
そう、なんかレビューとかも読むんですけど、そういう解釈っていうような、やっぱ最後の終わり方って結局みんなどう思った?みたいなやつがすごく気になって、いろいろ読むんですけど、そういう解釈かみたいな。そう読めるんだみたいな。
すごくこの作品は本当にいろんなレビューを追っていくと、本当にいろんなことを書いてる人がいて、なるほどっていうふうに思いますけれども。
なんかでも、アルゼンチンか、アルゼンチンのはわからないけれども、昔のフランス映画とか、意外とそういう終わり方多くなかったですか?
なんかどっちとも撮れるっていうか。
撮れるっていう、結構苦手で。もう純日本人なので、やっぱりそこの感性が。後ろからはっきりつけてほしいっていうのがあるんですけど、今見れば、まあそういうものだろうっていう、フラットに良くも悪くも撮れることができるようになったんですけど、
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なんか意外とやっぱりそういうふんわりとした終わり方って苦手ですよね。なんか全体的にレビューとかそういうのを読むと、私はこう思った、俺はこう思ったっていうのの他に、原作に対してすごくこう、こんな話の終わり方はないんじゃないかみたいな怒りをぶつける人とかもいて。
いやいや、でもそれは作品を作った人の思考だからって思うんですけど、原作の終わり方に対して厳しいっていうのがすごく多いような気がします。そういう映画に対してのレビュー、映画とか小説に対してのレビュー。
私、これクモ女のキスの映画を見たんですけれども、悪くはないんですよ。むしろこの、なんていうか、役者もすごく豪華というか、主演がウィリアム・ハート、まあモリーナ役をウィリアム・ハートがやっていて、バレンチン役はダウル・ジュリアンがやってるんですけど、ダウル・ジュリアンってパッと出てきますから、皆さん。
ワダムスファミリーのお父さんやってた人ですね。お父さんの若い時に、ダウル・ジュリアンの若い彼氏の時の作品なんですよね。
そうなんですね。野生的な感じの魅力がある感じで出ておりましたけれども、イメージとしては、あってるかなっていう感じで見てはいたんですけれども、ただモリーナが語る映画のシーンも、もちろん映像で出てくるんですけれども、
なんかあれを映像で見させられると、すごくチープだなっていうふうに思えちゃうんですよ。あれってあくまでもモリーナが語って聞かせてるのを、私たちも多分バレンチンもそうですけど、あのお話を元にあれこれ想像するのが楽しかったんだなっていうのに気づかされて、こうじゃないんだよ、これじゃないんだよっていうのがすごく強くて。
そういうのを映像化するの難しそうですもんね。
だから本当にこの小説って、映画の話ではあるんですけど、映画にしちゃって途端に面白みが半減しちゃう部分。その仕掛けとして、お話を聞いてその映画を想像するっていう仕掛けが働かなくなってしまうっていう致命的な問題が発生してしまうっていうのかなってちょっと思ったりはしたんですね。
映画としては面白かったんですけど、なんかそこだけはそれじゃないっていう感じが強くて。
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やっぱり小説だからこそ、表すことができる。
そうですそうです。お話を想像するからこそ楽しさっていうか。
だってほら普通の小説に比べて想像する箇所がもう一段階多いってことじゃないですか。
そうですそうです。全部会話でしか成り立てないので、どういうところに2人いるのかっていうのも、その会話からしか読み取れないっていう部分があるので。
漫画を映画にするみたい、実写にした時のシリーブさにちょっと似てるんじゃないですかね。
そうですね。
なんかね、やっぱり空白の、余白の部分が多いから、普通の小説より、その説明とかが圧倒的に情報が少ないものを誰かの脚本で、誰かの思いだけで作ってしまった世界に閉じ込めちゃうから、やっぱりチープさは出ちゃいますよね。
映像にした途端にチープになっちゃうって、なんかであったなと思って、なんか思い出したんですけど、私、今年の初めぐらいに、やたら淀川さんの映画解説してる、日曜映画劇場の解説してる動画をYouTubeでひたすら見るってことをしてたんですけど、ご飯食べながら。
なんか淀川さんってものすごい勢いで喋るじゃないですか。流れるように、もうあれ一つの和芸だなっていうぐらい感性されたものだと思うんですけれども、結構日常映画、洋画劇場って本当なんていうか、今見るとB級もいいとこの作品とかいっぱいあってるんですよね。なんか巨大イカと戦うみたいなやつとか。
淀川さんも見たのかなとかいうような、本当にくだらない映画を毎週日曜日やってた素敵な番組があったんだなっていう、とても平和の時代だったなって思うんですけど、あれでも淀川さんの映画が始まる前に、なんか今回はこういう映画でこういうことやりますよみたいなことをひたすらぶわーっと喋るんですけど、その話を聞く分にはすごく楽しそうなんですよ。
でも多分本編見たらくだらねーとか思いながら見てると思うんですよね。なんかそれに似てるなって思って。あれか、淀川さんの日常洋画劇場かって思って。そう、あまりにも淀川さんの語りは魅力的すぎて。
本編の方が追いついてこないっていう。そう、追いついてこないんですよね。そう、なんかそれと同じ現象だなって思いますね。
なんかまあ難しいって話ですよね。そうですね。ようやくしちゃえば、小説をうまくできた小説ほど、映画化するのは難しいから、やめてくれっていう感じ。そうですね。
うまくできた小説が何がうまくできてるかっていうと、やっぱり小説として完全にうまくいってるからってことですよね、書き方が。だから他の表現の仕方に置き換えるのがすごく難しいんでしょうね。小説だからできることが完璧にできすぎてるってことかもしれないでしょうし。
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そうなってくると、もうお話のうまさとかストーリーの良さとかだけじゃないんでしょうね、きっと。まあ、読み手含めての小説みたいな。読み手含めてのミステリーっていうか、謎っていう部分まではやっぱりね、映像とかには仕切れないですからね。
たまに奇跡が起きて、小説、原作を越えてきた映画とかあったりするのかもしれないですけれども。難しいですよね。
だからミュージカルとか、舞台とかになった方がまだ受け取り側の想像の余地があるっていう感じはしますけどね。まあ、映画とかドラマとかそういうのってすごく親切に細かい設定までやっぱり映画化、映像化か映像化されるじゃないですか。
そうですよね。
だけど、ミュージカルなんかは歌になっちゃうし、また想像とは別の、歌にみたいな、違うテンションを求められるから。
確かに。違うものとして見れるのかもしれないですよね、それはそれで。
だから、これも本当に映画の話だけれど、映像化が難しいってすごくかがゆいというか、ぜひ映画にしたいって感じだったと思うんですけど、だからといって必ずしも上手くいくわけじゃないんだなっていう。
私が上手くそう思ってるだけではあるんですけど、結構レビューとか見るとすごく良かったって書いてあったので。映画としては面白いんですけど、原作を知った上で見ると、うーんってなっちゃう部分はちょっと。
そのクモ女のキスを書いた原作者が撮った映画だったらまた違うかもしれないですよね。
そうですね。一応クイングさんも映画を見てるみたいなんですよ。ギリギリ間に合ったらしいんですけど、まあいいんじゃないみたいな感想の顔してるみたいですけど、どこまでそのまあいいんじゃないのかちょっとわかんないっていう部分はありますよね。
それこそ自分自身もかつて映画監督を目指せたぐらいの人なので、もしかしたらその映画見ながら自分だったらこう撮るよねみたいな感じで思ってたりとかは絶対したと思うんですよね。
ねえ、実際見てないかもしれないしね。もしかしたら悔しいしイラっとしちゃうといけないから見ないみたいな。
そうですね。もしかしたらそれはあるかもしれないですけど。
で、まあ聞かれたら良かったよって言うか、あとほら誰だったかな、映画化されたのを見てどうでしたかみたいなこと聞かれて、もう手が離れてるから関係ないみたいな別の作品だと思って見てるから面白いって言う人もたしか。
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でもなんか聞いたことありますね、それ。誰だったかな。
でもいますよね、そういう。もう全く別のものとして見てるからいいんじゃないですかみたいな。
心が広い。大人。大人ですね。
でもね、難しい。やっぱり良い小説は小説ままにしてほしい。
そうですね。
もう柏コーヒーカーのお願いですって感じです。
やっぱりこう想像して楽しむ部分っていうか、それに何か足すっていうのは、っていうのもあるし、
その小説と映画、まあ映画もそうなのかもしれないけど、小説の面白さって結局人それぞれが想像して楽しむ部分っていうか、書かれたものを元にして想像して楽しんでいくっていうところが大きいでしょうから、
それがやっぱり上手くいってる小説ほど、映画にするとなんだこれみたいな感じになるんだろうなっていう。
もうほんとお金をかけた二次創作ですもんね。
そうですね、行ってしまえば。
行ってしまえばあればもう。
胃も蓋もない。
もう壮大な二次創作オタク仕事ですよ、あれは。
そうですね。
このまあちょっとクモ女に戻ってくると。
そうですね。
まあ前も話したかもしれないんですけど、たぶん実際見たらそんなに楽しくないんだろうなっていう臨急映画をなんでこんなに面白く聞いてしまうかっていうのは、このモリーナが本当にこの話私めっちゃ好きなのよっていうのが、読んでてすごく伝わってくるんですね。
バレンチンにチャチャ入れられてブチ切れながら話すんですけど、なんなのよとか言いながら。
でもバレンチンも結局聞いちゃうんですよね。
引き続き引き続き聞いなって聞いちゃうんですけど、やっぱりこの話好きなのよっていうのって人に何か不況したりとか、お話をこの話読んでほしいとか見てほしいとか聞いてほしいっていうのを伝えるときに一番大事なものなんだろうなっていうのを、ほんとスクスク思うというか。
おたくがたりですよね、これ。
おたくが早口で細々と設定とか言うじゃないですか。細かすぎて伝わってこないみたいな感じ。
でも本当にこれも設定を細かくずっと喋って、そのなんか迫力に圧倒されるっていうところもあるんですけど、ただ本当にモリーナがこの作品を私は本当に愛してやまないっていうのがビシビシ伝わってくるっていうのが、
なんか読んでてすごく好ましくて、わかるその気持ちわかるっていうのが、おたくとしてよくわかるよみたいな。
なんかその強弱もつけたくて、そういう文体なんですかね。
そういうところもあるかもしれないですね。
なんかこれ普通の小説、と書きとかある小説だとこのリズムってなんかできないんですよ、その作品についてずっと喋ってるとか。
だからもうその情報をギュッと詰めたいから、他のところを削ったっていう感じがあるかもしれないですよね。
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その強調したい、おたくがたりを強調したい。できれば太字にしたいぐらいの勢いで、ここはもう大事だから、一回言うみたいな。
なんかそのなんていうか、映画をすごく愛するっていう気持ちと、あとまあ変に言ってしまえば、映画に準じたのかなっていうふうに、なんかこの最後見ると思っちゃうんですよね。
なんかバレンチンのためにとかじゃなくて、やっぱり役から、演技から抜けられなかったっていうのが、自分が多分一つの映画の中の主人公として動いてのあの結果だったのかなっていう。
だから自分の中で多分カメラ回ってたのかなって思うんですよ、頭の中で。
なるほど、超オタクってことじゃないですか。
きっと最後はこのシーンで終わるっていうのを、なんとなく思い描いてたのかなっていう感じはするんですよね。結構ネタバレ的な話ですけど。
なんかそういう感じがするんですよ。だから本当に映画になって終わったんだなのりになって思って、オタクの鏡だぜって感じがするんですけど。
そうですね。クモーナのキスはちょっとオタクの鏡っていう。
オタクの鏡。まさかの結論。そんな話だっけって感じですけど。
今日の我々のまとめとしてはみたいな、のりなはオタクの鏡みたいな。
そんなんでいいのかな。怒られそう、ファンに。
ちょっと最後だけこう読んでみようと思います。
本当に私はこのお話の中で、小説の中で出てくる登場人物でトップ3に入るぐらい好きなキャラクターですし、この本自体も私のオールタイムベストベスト3に絶対入ってくる作品ですね。
そうですか。
やっぱりもりなの徹底したオタクぶりというか、あとはロマンに行きたり、その男やめといた方がいいよっていうダメンズにしかはまらないもりなとか。
そこら辺で。
なんかちょっとあのもりなとお茶しに行きたいなって感じですよね。
本当にもう愛してやまないキャラクターですね。
ちょっと読んでみようと思います。この年末に向けて。
私のその熱意が伝わったでしょうか。
はい、もうオタクがたき的な感じで伝わってきました。
布教していきたいと思います、これからも。
そうですね。
そんなわけで、ぜひこのお休みというか、まあ年末とか、あと外に出たくないときに監獄に閉じ込められたバレンチになった気分で、もりなの話を聞くのもいいんじゃないでしょうか。
そうですね。今日もちょっと面白い話でした。
ありがとうございました。
とんでもございません。
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みなさんからのお便りお待ちしております。
それではまた次回までさようなら。
さようなら。