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2021-09-27 57:17

第4回 廊下の雑談に心は宿る〜『心はどこへ消えた?』

今回は『心はどこへ消えた?』(東畑開人/文藝春秋)を紹介しながら、Twitterで個人的な悩み事を見なくなったのは何故か、ライブとオンラインの良し悪し、無駄な物に触れる効用について、会議後の立ち話のような雰囲気でお送りします。

番組の感想、おたよりはTwitterのDMまたはメールにてお送りください。
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00:14
みなさん、こんにちは。この番組は、誰もが知っている名作から、あなたの知らない日記すぎる本まで、ゆるいトークで紹介する、読書系ポッドキャストです。
改めまして、こんにちは。的文庫です。
改めまして、こんにちは。梶原コーヒーです。
よろしくお願いいたします。
今回取り上げる本は、今月出たばかりの本ですね。
童畑海斗さんのエッセイ集で、『心はどこへ消えた』です。
この本は、まず3日に出て、私がその日に買いに行きまして、次の日にはもう読み終わっていたという。
早い。仕事が早い。
この方の本を以前2冊ほど読んでいて、
『のの医者は笑う』という本と、その次に『いるのはつらいよ』という本を読んでいるんですけれども、
この方は臨床心理師の方で、普段は大学で授業を教えながら、
カウンセリングルームのご自身に開かれて、クライアントのお話を聞いたりも実際されているんですけれども、
前2冊については、実際に自分が臨床心理師として沖縄で働いていた時の経験をもとに書かれた本で、
その2冊の本当に、今まで読んできた臨床心理学の本とは全然経緯が違う内容、書き方をする人が出てきたなっていうので、
驚いたのと同時に、こういう書き方、すごくライトな書き方で、こんなに深い話を書ける人がいるのかっていう、
驚きとともにちょっと読んで、もう次の新しい新作が出たら絶対買うっていう、待ち望んでいた本だったんですね。
そうなんですね。お若い方なんですね。38歳。
そうですね。私と同い年ですね。なので読んでいて、結構世代も同じなので、見ている風景とかも似たような風景を見ていて、共感できるところはあるんですけれども。
今回のこの「心はどこへ消えた?」なんですが、週刊文春で連載されていたエッセイをまとめた本なんですね。
なんでまた文春で連載するんだろうなっていうのは、結構不思議だったんですけれども。
いや、これはこの遠畑さんのいつもの独特な視点で、芸能ニュースとかをメタリーにしていくのかしらっていうような期待を持って待っていたんですけれども、
03:00
実際に蓋を開けてみた連載開始がですね、確か3月か4月ぐらいだったんですかね。
2020年の5月7日、14日後から2021年の4月29日後まで連載されていたそうなんですけれども、
もうその時期、4月の頃と言いますと、もう世の中でコロナパニックになっていた頃だったので、芸能ニュースどころではなかったと。
そうですね。
蓋を開けたらコロナだったっていうような状況だったわけですね。
なので最初の頃はコロナ禍で性格がどうなったかっていうところをしばらく書いてはいるんですけれども、
コロナの話も夏ぐらいになってくるとだんだんネタがなくなってきたと。
そうですよね。
なので最初の頃しかコロナの話って具体的に書いてることってないんですよね。
たまに、後になってからもコロナの話は出てくるんですけれども、
だんだんコロナの話からですね、ちょっと昔の思い出話に入ったりですとか、
あとは禁煙をしてそして失敗する話ですとか、
なんか連載をずっと書いてるのが辛いとか、
そういうとてもさまつない話ですけれども、
こういった話とともにですね、
これは最初の頃からなんですけれども、
遠畑さんが普段カウンセリングルームで聞いてきたお話ですね。
いろんなクライアントの方の話を元にして、
こういったことで相談をしに来ることが人の物語って言うんですかね。
短いお話が挟まれているんですね。
最初の頃はコロナの話がメインになってくるので、そんなに書かれてはいないんですけれども、
後半のカウンセリングルームで語られてきたお話について、
お話を元に個人の個人的な話を人とすることについて語っていく、
個人的な小さなお話ですね。
もうその人にとってしかもしかすると意味がないかもしれないような話を語っていくこと、
それを誰かが聞くことの意味を探っていくような内容になっていきます。
最後と言いますか、これは実は一番この本の中では一番最初にですね、
収録されているんですけれども、
個人的な話をすることと、ただ今そのコロナの話もあるように、
大きな世界的規模でとか社会全体で語られるような大きな話を対比させて、
個人の声が聞こえにくくなっている時代なんじゃないかっていうところも、
ちょっと考察していくっていうような。
最後の最後にやっぱりドキッとするような、
06:02
やはり少し怖いなと思うような話を書いていくっていうような構成になっております。
なんかちょっとずれるかもしれないんですけども、
ついこの間、以前私が住んでいた東京の江戸川橋っていうところで、
ガス管が破裂したのかな。
土地ガスの管が不具合があって、
どうやらガスが1週間から2週間ぐらい使えなかったらしいんですね。
それって意外にお風呂とかにしてもガスを使うところがあったりとか、
一堂の台所とかもガスで沸かすところとかもあるので、
パイプラインっちゃパイプラインですよね。
いくら電気化されてるとは言っても。
それで知り合いも住んでたので、
大丈夫ですかって一応お伺いをしたときに彼女から、
でも今東京はコロナがすごく大変なので、
ガスが出ないぐらいはとってことないと思いますっていう返事が返ってきたんですけど、
ちょっと似てるなって今思いながら。
その人だってガスが1週間も2週間も出なかったらすごく大変なはずなのに、
一番大変な時だったんですよね。
毎日すごい感染者数が増えてっていう時だったので、
そこで自分が大変だっていうのは、
ガスが出ないぐらいでは言えないっていうような返事が返ってきて、
ちょっと切なくなってたんですけど、
そんなことないよって思いながら。
ガス大切だからねって思ったんですけど、
でもそういうことですよね。
大きいことに対して個人の心の個人的なことが、
小さいこと消されてしまうっていう。
個人的にその本を読む前からですし、
あとはそのコロナになる前からずっと思っていたんですけど、
Twitterを私10年以上やってるんですよ。
2010年の6月ぐらいだったかな。
記録を見ると。
そのぐらいからやっていて、
当時から私は本の話をしようみたいな、
個人的などうでもいい話とかをつぶやく場としてアカウントを作って、
今に至るまで大体似たようなことをずっとしてるんですけれども、
最初の頃って友達をフォローしたりとか、
Twitterで知り合った面白そうなアカウントをフォローしていったりとかしていて、
最初の頃ってやっぱりみんな結構個人的な話を、
見ず知らずの人の個人的な話を一本的にタイムラインで見るっていう、
09:00
本当に皆さん面白いなと思って使っていたんですけれども、
走行しているうちに、その時に一番大きい事件としては震災ですよね。
Twitterで初めて半年後ぐらい、
1年経たないぐらいに震災が起きて、
私も仙台にその時から住んでいるので、
タイムラインが全部震災の話題になると。
そうなっていくようなっていうのはあって、
本当に1年全部流れてくるタイムラインが、
本当に震災関連のツイートしかほぼないっていうのはずっと続いていたんですよね。
流れてくるのは本当に深刻な話ばかりで、
もしくは頑張ろうみたいな感じの。
そうですね。
しばらく1年、いやもっとですかね。
それが最初に、みんなが同じ話、話題をしているっていう体験だったと思うんですよ。
そこから徐々に個人的な話もするけれども、
社会で起きている話を話し始めるっていうのが出てきて、
でもツイッターでそういう個人的な話をする場ではなくて、
今起こったニュースについて反応したりとか、
自分の意見を言ったりっていうのは、もちろんそういうメディアだと思うんですけれども、
その比率の年々の方が増えていっているような気がするんですよね。
個人的な話と社会起きている問題とか、
こういうのはどう思いますかとか、こういうのは良くないんじゃないですかとか、
何々するべきじゃないかとか、問題提言をするようなツイッターとかっていうのが、
年々増えてきているなっていうのは感じているところで、
個人的なつぶやきっていうのが昔に比べてどんどん少なくなってきているような気がするんですね。
気のせいか、私が気にしすぎているだけかわからないですけど、
何かこう個人的なことをつぶやくよりは、
社会で今起きていることについての意見を言うべきなんじゃないかっていうような雰囲気を感じることもたまにあるんですよ。
あれ、こういう場だったかなツイッターっていうのをちょっと思うことがあるんですよね。
多分なんですけど、使ってる人の年代が変わってきているっていうのと、
もっとプライベートなことを発信するんだったら、
インスタグラムとかになってしまっていて、
どっちかっていうと、
今日ここに来ました、これを食べました、これを読みましたっていうのは割とインスタの方に行っていて、
どうなんだろうな、今年齢、結構昔そういうの好きで調べてたんですけど、年齢の比率っていうか、
12:01
それに対してもしかしたら個人の楽しみとかをつぶやく年代の人が、
今ユーザーに少ない年代になってきているかもしれないですよね。
あー、ツイッターが。
そう、ツイッターが。
なんかツイッターの立ち位置がちょっと難しいのかもしれないですね。
個人的な話をする場としてはということですかね。
そうですね。
あと鍵がかけられているから見えないのかもしれないですけどね。
そうですね。
でも前だと、タイムライン談に、他の人がどうでもいい話に行ってしまうとあれなんですけれども、
どうでもよくない話もあるんですよ。
結構深刻に悩んでて、本当につらいんだっていう、今こうこうこうで、
自分はつらいんだっていうような話とか、こういうことで悩んでるんだっていうような話を、
よく目にすることがあったんですけれども、
それがその社会がこうだからつらいんだっていうよりは、
本当になっていうか、今置かれている状況がつらいっていうのを、
ただただつぶやくっていうようなふやきってよく目にすることがあって、
ただそれを見て、私も自分もそういうのあるなっていうのを読んで慰められるじゃないですけれども、
共感できる部分はあったなっていうのがあって、
知らない人のアカウントをフォローするっていうのが昔はよくあったんですけれども、
今あんまりそういう個人的な悩みとかを見ることって、
昔ほどなくなってきたなっていうのを感じていて。
それはありますね。だからなんか逆に、
意図的に書くときはあります。
自分のプライベートなアカウントと、
あとは商業的なアカウントを持っているんですけれども、
そんなに区別はしてはいないんですけれども、
もしかしたら同じように悩んでいる人がいるかもしれないなと思って書くことがあります。
昔だったら悩んでいるから悩んでいるっていうのをそのまま書いてたんですけれども、
ちょっと書き方が変わってきてるかもしれないですね。
あとさっき的さんがおっしゃったどうでもいいことっていうのも、
意図的にどうでもいいことを探して書くことも増えました。
それもでも私もありますね。意図的にじゃないですけど、あえて書くっていうか。
でもその社会的なことに対して、
言いたい年頃っていうのもなんかあったような気がして、
私もちょうどツイッター始めたのが2010年の一番最初にやったのは、
15:03
たぶん2010年の初めぐらい。
それで今ちょっとプライベートで使ってるのが2010年6月から使ってるのがあるんですけども、
でもなんかすごい、社会に対していろんな怒りを言う場所っていうのがなかったじゃないですか、今まで。
友達同士で話すことはあっても、
そんなにせっかくお友達同士でお茶とかしてるときに、
今の政治がさーとか、そんな話を切り出しにくいので。
そういうのを結構ツイッターとかに書くことがあったんですけども、
なんかあれもそういう年頃だったのかなって思います。
特に私は全然そういうのをSNSで書きたいって思ったことあまりなかったので、
そういう人も確かにいますよね。
でも確かに的さんがおっしゃったみたいに、
個人的な小さい悩みとかを呟く人はすごく減りましたよね。
なんか紙を書けてるから見えなくなってるのかわかんないですけど、
なんか昔に比べて見なくなったなっていうのはよく思いますね。
そしてタグでいろんな意見が取り掛かってるなっていう、あとリツイートですかね。
だからこう、なんか見たことがあるツイートがタイムラインによく並ぶなっていうのは、
この何年かは思うところではありますね。
あとリツイート機能って、確かに賛同しますっていうことなのかもしれないですけども、
自分の言葉で語ることが少なくなっちゃうんじゃないですか。
そうなんですよね。
だからあれって、自分の言葉で語ってほしいって思う時がありますよね。
本当にそれは思うんですよ。その人をフォローしてるって、
結局その人の語ってることが面白いから、また読みたいなと思ってフォローしてる部分もあるんですけれども、
リツイートばかり流れてくると、いや、それをあなたの言葉で聞きたかったんだけどなっていうような。
そう、それはすごく感じます。
せっかくね、あんな文字数が限られている中で、一生懸命言葉を選んだりして発信できればなのに、
リツイートだけだともったいないのにって思ってしまうのは、やっぱり本好きだからなんですかね。
そうですよね。本当にそれはもったいないし、すごく寂しいところでもありますね。
18:02
言葉を選ぶ楽しみが、結構みんな詩人になれるわけじゃないですか。
確かにバブったり、すごくフォロー数の多い、注目されているツイッターのアカウントの方は、
確かに宣伝された人の心を捉える言葉選びがすごく巧みだなとか、センスがあるなと思ったりはして、それはそれで面白いんですけれども、
別に全員が全員そんなに、そんなものを整った読みごたえのあるツイートの文章を私は求めてはいないですし、
そうじゃないんだと、そういうところに良さがあるわけではないので、
あなたの言葉で語られるからいいんですよっていう、ただ読ませるために書いているわけではないっていうところもあるので、
あんまり他人にそこを求めすぎても、こちらのわがままなのかなと思うことはあるんですけれども、
ただ、この本を読んでいて、小さいお話を語るって、語ることって何なのかな、
語りたいと思うのは何なのかなっていうのを何回も繰り返し、この本では書かれていて、考えさせられるんですけれども、
本の中で、遠畑さんはよくタクシーに乗って、タクシーの運転手の人に、何か怖い話ないですかって聞くのが中間になっているらしいんですよ。
タクシー運転手だと階段の一つや二つないかなって聞くと、東京だといやそんなないよ、あんまり怖い話には運転手の方は食いつかないらしいんですけど、
お金の話だったら、お金の話とか経済の話だと、いろんなネタが出てくると。
逆に沖縄に行くと、お化けの話っていうのは、結構鉄板でみんな持ってると。
でも深夜タクシーでいろんな話を聞いていると、物語というのはどこからやってくるのかが少しわかると。
例えば沖縄の運転手さんたちは濃厚な怪談をした後に必ず言い添えると、あの辺りはいっぱい死んだからよって。
その怪談の元になるっていうのは、戦争体験とか、人がたくさん亡くなったっていう大きな傷の物語があるからだっていうふうに書いていて、
東京でお金の話にまつわるお話がいろいろ出てくるっていうのも、東京で暮らすっていうのはそれだけお金にまつわる苦しいお話がいっぱいあるからだと。
物語っていうのは、傷ついたことっていうのは確認して生まれてくるものだっていうふうに最後に書いているんですけれども、
結局人は自分のお話をするっていうのは、物語、今の辛さとか傷つきを元にしてお話をしていくんだと。
21:08
この方はカンセラーなので、人の悩みとか、悩み未満、悩みとしてまだ認識されていないところのお話。
なんか調子悪いんだけど、なんで調子悪いかわかんないんですみたいな話を。
微妙的なね。
そうそう。なんか自分はそんなに大変だと思っていないんだけれども、でも身体に症状が出てしまうとか、眠れないとか。
なんで自分がそうなってしまうかわからないんですっていうのを切り口からお話を、その対話を重ねていくうちに、実は前にあったこの出来事がとても心の中ではやっぱりまだ、
傷が癒えていないとか納得していないとか、悲しいまま、まだ悲しみが実はまだ心の中にあるんだというような話がわかってくると。
でもこれって結局何回も何回も語っていくことで、自分の中でそのお話としてまとまっていくというか形になっていくことで、
自分はこのことに傷ついていたんだなとか、このことがずっと悲しかったんだなっていうのを受けられるようになるんだっていうふうに書いていて。
やっぱりお話を語るっていうのは、一人でそのツイッターと、これツイッターもそうですし、そのツイッターに入る前にブログとかでも、
苦しみとか愚痴とかをかき散らすと、私もいまだにちょっとツイッターで調子悪い時になんか愚痴書いちゃったなっていう時とかあるんですけども、
そんなのって、そんなの、そういうなんか後で、あーなんかでもこんなのツイッターに書くんじゃなかったなーとか人を見てるしと思うんですけど、
でもツイッターに書くことって多分意味があるんですよ。やっぱり人の目に触れる、誰か読まれるかもしれないっていうところにそういうことを書くっていうのはおそらく意味があると思うんですよね。
じゃなかったらおそらく一人で日記帳とかに書いておけばいいって話だと思うので、そうじゃなくて、人の目におそらく触れるであろうネットのどこかに書くっていうのが、やっぱ誰かにお話、語りたい、
わかってほしいとかじゃなくて、とにかく誰かに知ってほしいとか語りたいっていう、物語たいっていうところにもしかすると関係あるのかなっていうふうには思ったりするんですよね。
なんか承認要求とはまた別の何かですよね、そういうのって。
承認のことはおそらく違うと思うんですけど。
そうそう。大きく作れば承認要求なのかもしれないですけど、ちょっと違うんですよね、それと。
あーでもなんだろう、ほんと口をこぼす、こぼれるものを書き綴るっていう感じはしますね。
24:06
溢れ出るものでもなくて、ほんとこぼれ落ちたものっていうか、ため息くらいのノリっていうか。
まさにつぶやきですよね。
ほんとうまい日本語を当てましたよね、つぶやきって。
そうですよね。
その本のなんか紹介とかに書いてありましたけども、ほんと個人的なことなんですよね、大概は。
だけど、大概の悩みって、ほんと個人的で、人が聞いたら、「え、それで?」っていうようなこと。
だからみんな書かなくなっちゃったんですよね、きっと。
こんなことで悩んでるなんてっていう、真面目っていうか、もっと弱くなってもいいって私は結構思うんですけれども。
我慢強い、自分でなんとか消化させようっていう。
昔でも自分がどうにか消化させようって思ったツールの一つがツイッターだったりブログだったりした気がするんですけども、
今の時代だとブログとかツイッターとかに対してまで気を使うっていうか。
そうなんですよ。
本当にあれっていう風に思うのはこの何年かなんですよね。
確かにそうかもしれないですね。
でも、そっか。もうちょっとくだらないこといっぱいあふれてましたけどね、昔って。
そうなんですよ。よくも悪くもくだらない話がたくさんあったなって思うんですけれども。
精査されたといえば精査されたんですけどね。宣伝された。
これはやっぱりあまり書かない方がいいなっていうようなこととか。
いろいろ炎上物件を見てきて。
炎上物件と特定版といろいろいらっしゃるので。
あとは個人的な話と合わせてこの本での話としては大きい話ですよね。
社会の問題、それ自体は問われる話ではあるんだけれども、
それがあまりにも次々と個人に対して出てくると。
社会はこうであるべきなのか、これはもっと直されるべきではないのかと。
ただそれって個人が一個一個自分はこう思います、自分はこうしたらいいのかなっていうのを
次々と考えていくっていうのは、これはなかなか大変なことだなっていうのを
あまりにもちょっと重荷ではないかって思ってしまうことがあるんですね。
こんなにあれこれ次々とやつみばやに求められても、考えましょうって言われてもちょっとパーですみたいな。
27:04
なんかそもそもそれは私たちが手を挙げるべきことなのかっていうこともありますしね。
それ私たちの問題でしょうか。問題なんでしょうけども。
なんかそこまで求められる時代になってしまったのかなっていう時もあります。
さっきのガスのお話、ガスが出ないでもコロナだからそんなこと言ってる場合じゃないっていうのも、
本当は個人のすごく生活が大変、ガスがなくて生活が大変なんですって結構切実な話ではあるんですけど
一方にやっぱり大きい話があると、それでその比較で個人の話とでかいコロナの
個人にはどうにもならない話ですよねこんなのは。
記憶して、いやでも向こうの方が大変だからってなってしまうっていうのは、ちょっとこれはどうなんだろうなと。
そう、でも。
あまりにもちょっとそれは、国の時代になってきたなっていうのを日々思うんだけどね。
個人の悲しみとか悩みがないがしろにされる時代っていうか。
そうなんですよね。
どうしてもこの最初の本ですと、コロナの話になってしまうところはあるんだけれども
やっぱり私は去年1年、学校でちょっと仕事をしていて、学校で仕事をしていると
去年の夏過ぎぐらいから対面授業に切り替わったんですけど徐々に。
それまではもう完全に学生はもう学校にほぼ入れないというような状況は3、4ヶ月ぐらい続いてはいたんですけれども
それもなかなか異様な状況ではあったんですが、
学校に入れますよ、いざ学生を大学に入れて授業しますよってなった時に
あれもするなこれもするなが出てきたんですね。
まずはちゃんとマスクはしてください。それはしょうがないにしても、
しもはするな、雑談はするなと。
あとは学食でご飯を食べる時もしゃべるなと。
感覚はとって並びなさいとか、席に座りなさいとか、
あとは施設を使ったら、使った時に使ったものはちゃんときれいに拭いてから出なさい。
あとは施設を使う時も毎日体調管理をして、
体調が悪くないかどうかを確認していますっていうのを報告しなさいっていうのもあるんですよ。
すごいですね。
学校に行く時も今日授業があるから学校に行きますって申請をしないと入れないとかそういう状況だったんですね。
こんなのを毎日学生にやらせるのかっていう、
それを私たちに管理しなきゃいけないのかっていうのが、
本当に辛かったんですよ。
30:04
でも、ただ感染予防としては、
どうしてもまだどういう状況で感染するのかっていうのが不確定なところが多かった時期だったので、
できるだけ感染予防に努めるっていう、
感染をさせないっていうのが学生を守ることでもあるっていうもとに、
それをやってたわけですね。
ただそこら辺で学生がおしゃべりしてると密にならないようにとか、雑談はしないでくださいとか、
そういった使い物はちゃんと拭いて帰ってくださいというのを毎日毎日喋ってたんですけど、
あんまりだろうと思って、
確かにそれで感染は防げるかもしれないけれども、
生活するってこういうことじゃないよなっていうのを、
毎日すごく思ってしまって、
トイレでちょっと泣いてたりしたこともあるんですよ。
辛くて。
マットさん。
私こんなのやりたくて、この仕事に詰んだんじゃないんだって思って、
学校ってもっと楽しいところじゃなかったのかって思いながら、
こんな警察みたいなことしたくないって思って、
ちょっとトイレでひっそり泣いてたこともあるんですけれども。
大きい出来事のもとで、
そういう小さい鮮やかなものたちっていうのは、
本当にない場所にされていって、
それについてのケアってあったんだろうかっていうのは、
今もすごく後悔ではないですけど、
何か本当にできることってなかったんだろうかっていうのは思いますね。
学生の方々に対してのケアっていうのは、
一番ない部分かもしれないですよね。
小学生から大学生まで含めて、
学生に対しての何かっていうのは、
たぶん一番日本が苦手とするところじゃないですかね。
もともとってことですかね。
もともと人権的なところとか、
ちょっとまたそれも話が違うかもしれないですけど、
いじめとかに対してもすごくダーバスというか、
消極的じゃないですか。
まあ確かに、当事者が悪いんでしょみたいなところもあるわけですね。
よく海外と比較されますけども、
海外だといじめた側がまずカウンセリングに通うように促されるって、
いじめられた方じゃなくて、
いじめる側にたぶん心に何か問題を抱えているとか、
悩みを抱えているとかあると思うから、
いじめたあなたがまずはカウンセリングに行きなさいっていう風に促されるらしいんですよね。
そうですね、そういう話は聞いたことありますね。
でも日本ってそういうのもやっぱりなくって、
33:01
何年も何年も私たちが幼い時から今までやってる対策法もそんなに変わっていないし、
それを考えると、こういう突然やってきたコロナっていう大きいものに対して、
学生さんたちのケアをするっていうところまでは到底追いつかないっていうか、
いじめ一つに対してもまだ全然そういうのは確立されていないのに、難しいですよね。
だからといって、今大学とかだとカウンセリングルームとかあったりするんですかね。
私が働いていた大学は、もともと学部としてそういった、
臨床審議士の要請するようなカリキュラムを組んでいる大学だったので、
カウンセリングルームっていうのがあったんですね。
外務の方も通ってくるような設備としてはありましたね。
あとは大学も結構今カウンセリングルームとか、
カウンセラーが常駐している場合もあれば、大学とかでカリキュラムのある大学であれば常駐している先生がいたりとか、
あと常駐していなくても非常勤で週何回かカウンセリング受けられますよっていう大学とかも結構あったりはするみたいですね。
でも本当にZoomで授業をオンラインで受けられるのもよしやしだなってちょっと思ったりはしますけどね。
元々人と対人関係があまり得意でない人にとっては逆に今天国だっていう話を聞いたりはするんですけど、
授業だけ受けられるからやったーみたいな話も聞いたりはするんですけど、
やっぱり人と友達と同じ教室で何か授業を聞いたりとか、
授業を受けるだけだと確かにオンラインでも全然足りてくる部分はあるのかもしれないですけれども、
心はどこへ消えた中でも、例えば授業が終わって動画で雑談する時間とか、
あとは会議で終わった後に今日で教語の話しなかったなっていうようなぼやきを他の同僚と共有することの大切さというのを、
ズーム会議になってからズームだと会議終わるとすぐブチって切れるじゃないですか。
ブチって切れて一人部屋にポツンみたいな。
あの味気なさっていう。余白がないっていうところにこの味気なさなーっていうような。
人とのつながりって余白のところで生まれてくるんだっていう話を書いてて、
あーもうなるほどなっていう。
でもそうやって授業が終わった後の長かったっていう口だったりとかにしてもそうですけども、
36:04
そういうほんと余白の部分で理解が深まるってことってあるじゃないですか。
ありましたよー。
そうですよね。だから染み込んでいくもの、自分の感性とか環境とかに染み込んでいくことが、
確かにズームとかだと手軽ですごく便利ですけども、そこの部分はすごく浅いかもしれないですね。
余韻とか。
余韻とか、余韻全然ないですもん、ズーム。
ないですね。
読書会ズームでやってるんですけど、読書会対面で、対面でって言い方もすごくコロナ以降って感じはしますけど、
実際に会って話した時って、会が終わった後に使った部屋を片付けながらまたなんか喋ってるじゃないですか、いろいろあれこれ。
実際にその部屋から出て建物から出て、じゃあまたーって言うところの間までやっぱりまだ続いてるんですよね、何か。
その場から帰っていって、家に帰るまでが遠足じゃないですけど、やっぱり余韻っていうのがあるんですよね。
これはやっぱりズームに切り替わった時に、確かに移動時間がなくなったのですごくそこは楽にはなったんですけど、
タイスボタン一つ押すだけで、さっきまで楽しかった場がパッてなくなって、一人部屋にポツンっていうのが、あの寂しさたるやって感じですよね。
余韻のなさ。
そうですね、余韻。そうそう、でも本当帰るまでが遠足だから、帰っている道中もすごくそれを思い出したりとか、
あの時あれを言えばよかったなとか、あれを聞いておけばよかったなとか、そういうのがまた実感につながったりするんですけど、確かに。
これがないね。
そうですね、ズームはズームで結構好きなんですけど、でも染み込み具合、深度、感動とかなんだろう、それはすごく薄くなった気はしますね。
だからあまり記憶に残らなくなっちゃいました、いろんなことが。
全体的にそうなんですけど、映画館とかに行って映画を見たら、やっぱり帰ってくる間とかに反芻するっていうか、
でもそういうのも、お家でアマプラとか見て終わった時っていうのはあまりその時間が取れないから、
あんまりなんですよね、昔ほど余韻に浸るっていうのはなくなっちゃいましたね。
39:03
なんかそれ言ったらちょっと学校から離れちゃうんですけど、それこそ今ライブも配信で見れるじゃないですか。
確かにそれはすごく、コロナで亡くなったとしてもおそらくそのサービスってニーズはあると思うんですけれども、
地方に住んでいる人とかにとっては、移動しなくてもライブ会場の配信を見れるっていうのは結構メリットが大きいと思うんですけれど、
ただ実際に行ってみて良し悪しあるなと思ったのは、やっぱり配信だと集中して見ないなっていう。
ライブの会場に行くと、もうその場所にいるので見たら得ないというか、その場所に身を置いてるので、そのライブに身を投じてるから、
もうその公演中はずっとそれを見てるっていう状況になるんですけれど、配信だとずっと画面を見てるっていうのはなかなか集中力が続かないものだなと。
そうですね。大抵片手にiPhoneを持ってますからね。
そうなっちゃうんですよね。見逃しなっていうか、今配信だとチケットにもよるとは思うんですけど、後から見れますよっていうのって結構あるじゃないですか。
見れちゃいますね。
全部集中して見るっていうのは実は意外とないと思って。
ライブ会場の体験とはやっぱり別なんだなと思いますね。
今の的さんのお話聞いてて思ったんですけど、やっぱり学生時代に身を投じてないんですよね。今のたぶん学生さんたちって。
投じる機会を失っているっていうか、学生さんだけじゃないですけども、いろんなところでそういう自分の身を、良くも悪くもですけども、ライブみたいにそれしかないっていうところに身を預けるっていうことが体験として少なくなってきているから、
それが今後どういうふうになっていくのか、ちょっと興味深かってしますよね。大人になってきたときに何が足りなくて、逆に何が良い面。良い面も出てくると思うんですよね、きっと。
大体悪い面が出たら良い面も出るし。だからたぶんこれからそういうのがわかってくるんですよね。
デジタルネイティブの。
そうそうそう。すごく合理的になるかもしれないし、あとはやっぱり人とのそういうコミュニケーションが弱くなるところがあるから、団体での仕事っていうのはなくなっていくかもしれないですね。
そうですよね。
個人主義っていうか、もう会社っていう形態がどんどん薄れていく気は、何となく時代の流れでありますけども、もう既に。でもそれが加速するような気もしますしね。
42:13
そうですね。またこの本に戻っていくんですけれども、この本の一番最初の方にまとめというか用紙みたいなのが書いてあるんですけれども、この20年間ぐらいで失われていったものって何だったのかっていうのは、中間共同体が消滅していった時代なんじゃないかと。
あとは町の何か繋がりとか緩やかな繋がりっていうんですかね。それこそ会社とか何かに所属するっていう所属していた共同体みたいなものがどんどん薄れていって解体していって消滅していって残ったのが個人っていう。
共同体、会社なり学校なり町のとか村社会的な共同体っていうのがあった頃は、やっぱりそれがしがらみになってよくない部分があったから、これからは個人の自由な時代があっていいんだっていうふうな話が出てきてはいたけれども、いざそれがなくなってみると、
大きな物語に対して個人が個人でそれに対応しなければなくなってくるっていう大波に小舟が放り出されるっていうような、これはそれでまた大変な時代になってしまったっていう話があって、自由はもちろんいいことなんですけれども、自由な個人で対応できるような世界は実はもうなくなってきてしまっているんじゃないか。
そこに行きづらさとか、あとはその不安感とかっていうのがあるんじゃないかっていうのは書かれてましたね。
自由ってすごく、個人ってすごくいいものかもしれないように、昔は思えてたけれども、今その寄るものがない、でもそれはもしかすると寄るものがあったからまだ言えた人たちだったんじゃないかと。
もしかしたら、今今はまだ個人がいいっていう時代が続くかもしれないですけど、もっと先50年ぐらい経ったら、また共同体がいいってなるかもしれないですね。
そうだと思いますね。
人間ってそんなに賢いわけじゃないから、同じことを何度も繰り返しては文句を言って生きていく動物なので、もしかしたら50年ぐらい経ったら突然村最高みたいな。
共同体最高みたいな。
共同体最高みたいな。みんなと同じ最高っていう。
個人の時代としても、今それこそシェアするとか、締め付けの強い集団ではないにしても、自分とちょっと似たところのある人たちでまとまりを作っていくっていう動きもやっぱりあったりするのかなっていうのは思うので。
45:13
何の縁、例えば支援がないとか決戦関係とかそういうのはないにしても、自分と似たような考えとか感覚の目的を持った人たちで繋がりを持っていくっていうような時代でもあるのかなっていうのは思うんで。
完全にやっぱり個人でバラバラだとさすがにもう立ち打ちのいかない時代だと思いますので、まとまりを求めるところはあると思うんですけど、ただちょっと怖いなと思うのは、すごく不安定な時代にそのまとまりを求めるっていうような欲求っていうのが強くなっていくと、それはそれでやっぱり全体主義とかに繋がりかねないというのがあったりするかなっていうのは思うんですよね。
強いまとめ役は欲しいっていうような。
だから時代は繰り返すんでしょうね。
そうですね、本当にまさにそう思いますね。
あの時それで失敗したじゃんみたいな。
ほんと懲りないなっていう。
これ書いてあったじゃん、歴史の教科書にみたいな。
そうなんですけど、どこ読んでたっていう。
ほらね、平和は何でしたっけ、200年続かないとか言うじゃないですか、100年でしたっけ。
だから、もしかしたら。
でもね、さっきのツイッターの話じゃないですけども、大体フォローとかフォロワーさんとかいるじゃないですか。
あれだって、なんだかんだ言って繋がりを求めてることになりますね。
まあそうなんですよね。
結局あれ誰もフォローしない、誰からもフォローされたくないっていう風にやっていくのは結構覚悟がいるものだなって。
やっぱり一人ぼっちっていうのは結構耐えられないようにできてるのかもしれないですね。
そうですね。
あとそれこそポッドキャストやり始めてっていうのもあるんですけれども、
やっぱり去年、音声配信をし始める人たちが爆発的に増えたっていうのは、
やっぱりさっきのなぜ愚痴をツイッターに書くのかっていうのとちょっと似た部分はあったりするのかなと。
誰かにやっぱりお話を聞いてほしいっていう欲求って、
なんか人ってあったりするんだろうなっていうのは、
ポッドキャスターいきなり増えた話を聞いてちょっと思ったんですけれども。
収益化がどう残るのっていう部分もあったりすると思うんですけど、
それを抜かしたとしてもやっぱり自分のお話を聞いてほしいっていうのもあると思いますし、
あと、私リスナーの立場からしても、なんか知らない誰かが話してるお話を聞いたいなっていう欲求もあるんですよ。
48:06
誰かの話を聞きたいっていう。
でも今なかなかその誰かの話を直接聞くっていうのは難しいので、
ポッドキャストにそれを求めているのかなっていうのはありますね。
昔で言えば説法とかね、そういうのに近いかもしれないですね。
説法を聞くみたいな。
行動に集まって。
そう、行動に集まって。
で、説法を聞くみたいな。
でもそれ言ったら、そもそも本が下でないのってそこですよね。
人が書いたものを読むっていうのって、それですもんね。
そうですね。
自分のお気に入りの作家を見つけて、その人が書いた文章を読むっていう。
お話を読むっていう中で、さっきのタクシーの話じゃないですけど、
やっぱり何か自分の中にある何かをその物語に読むことによって形を作っていったりとか、
振り返ったりできるのかなっていうのもちょっとありますね。
そうですね。
全然楽しむっていうのもありなんですけれど、
ちょっと悩んでる時とか落ち込んでる時にこの本を読むみたいな。
そうそう。やっぱりね、人ってちょっとどう求めるっていうか、なんだかんだ言って。
なんだかんだ言ってとそれは。
人に聞いてもらいたいっていうね。
そういった。
助言はいらないっていう。
助言はいらないけど、ただただやっぱり共感もいらないかもしれないですけど、
ただその場に行ってお話を聞いてほしいと。
そう。だからツイッターってすごいですよね。
いいねって別にすごい共感したよって、そういうのがいいねではあるんですけども、
あのいいねだけで救われる人もいるわけじゃないですか。
そうですね。いいねに狂わされる人もいるかもしれないですけど。
まあね、狂わされる人もいるけども。
いや、でも本当に救われる。
自分の話が聞かれたんだっていう。
そうそうそうそう。
目に留まったんだっていう。
そういう。
それが慰めとかを得になることっていうのも、それがツイッターのいいところかもしれないですよね。
心はどこへ消えたってツイッターの中に消えていったんですかね。
本当に消えていった。
そういう本をそうやって若い方が書いてるのっていいですね。
どんどんそういう世代になっていくのかなと思うんですけど、
そんなに偉い人に話を聞いてもらいたいわけじゃないから、
カウンセリングの先生がどんどんそうやって若い人が出てきてくれると、
若い人も相談しやすくなるのかなってちょっと思います。
51:04
この方はまだ確かに若いですし、
やっぱりすごく読んでて、本当にこれがすごいなと思ったのは、
前の雑談の時もお話ししたんですけれども、
本当に書き方がすごくライトなんですよ。
確かに臨床心理の本を書いてのことについて書いた本ってたくさんあるんですけれども、
やっぱりこれは専門の知識がないと読めないような、
高い言葉で書かれた本っていうのはたくさんあるんですけれども、
そこまでライトな書き口で、
普通のエッセイと同じ感覚で読めるような文体で、
ただ書いてる内容はかなり深い、臨床心理とか哲学の話までいくような、
人と人がいるっていうのはどういうことなのかっていうようなことを、
本当に日常の言葉で書けるっていう人っていうのは、
本当に今までいたかなって思うんですよね。
本来多分、人と人がいることの意味とか、人と喋ることの功用とかって、
多分大げさな言葉だとすごく余裕らしくなってしまって、
逆になったら嘘嘘しいような話になってくると思うんですけれども、
ライトな言葉だからこそ救い取れるような話なんだろうなっていうのを、
この人の本を読むとよく思いますね。
ライトな話の書き方だからこそ気づかせてくれるというか、
そこに問題があるのかとか、そこにそんな意味があったんだっていうのを、
気づくことができる。
日常の話だから日常の言葉で書かれることだったんだろうなっていうのを、
遠畑さんが本を読んで、すくずく思わされたっていうところはありますね。
これは41ペンもあるんですね。
そうですね、習慣で書いているので、
もう習慣誌に繊細するのも嫌だって泣き言をしょっちゅう書いているぐらい、
締め切りがダメになったっていう。
そうですね、地獄のようだったって書いてますね。
だから細かい話、一つの章は本当に短い、4、5ページぐらいで終わる話なので、
寝る前とかにちょっとずつ読むにはちょうどいい長さとちょうどいい内容なんですよね。
ただやっぱりうーんって考えて、ただそこまで深刻に考えずに、
なんかいい話読んだなって終わるような。
ただのいい話で消化するには結構深い話を書いている。
またいい本を読まれましたね。
いやー、もう待ち望んでいた本だったので。
文春。
そう、まさかの文春から出るっていう。
そう、文春ね、結構いいの載せるんですよね。こういうぽつぽつと。
ゲスなのとこういうのとのラマンスが絶妙っていう。
絶妙なんですよね。たまにちょっと買わなくちゃいけなくなって買っちゃうんですけど。
54:04
文春って、今それこそもうネットニュースに追いやられる一方みたいなとこありますけど、私とかですけど、
雑多な感じっていうのはやっぱり雑誌のいいところですよね。
そうですね。
しょうもない記事から結構しみじみに読ませてしまうようなものまで、同じ紙の束の中に入っているっていう。
そうなんですよ。エッセイとかはいいんですよ。連載は結構いいの載ってるんですよね。
雑誌って、買ったからにはとりあえず全部読もうかってなるじゃないですか。
雑誌はなるんですけど貧乏症なので。
そうすると自分の特集が気になって買った雑誌とかでも全然違うページに面白いものが載ってたりとか、
そういう何か思いも揺らない発見みたいなのは雑誌のいいところだったよなって思ったりするんですよね。
好まないものとかも目にするので、そこで初めて自分の新しい好みを発見するとか。
そうですね。これあんま好きじゃないなっていうとか。
そうね。そういう世界が広がるものですよね、雑誌って。
そうですよね。知らないものを知るがけになるっていうか。
いらないものが入ってるっていうのは逆に良かった。
そうそう。いるものだけじゃないっていうのはいいことですよね。
今はやっぱりネットで何か情報を探すといるものしか目に入ってこないことが多いので、
そう。
寄り道とかっていうのはなくなりつつあるのかなって思ってしまうんですけどね。
だからこの番組がそういう寄り道になるといいですね。
いいですね。各地点に。
ようございました。
寄り道の多い、大体無駄なことしかためになることはほぼない。
でもちょっとあるかもしれない。
そう。ためになることだけが全てじゃないので。
そうですよ。ためになることだけが全てではないので、そういうのは他の番組に聞いていただければいいと思います。
そうです。
こちらはもう雑誌的な感じで。
そうですね。少しでも何か引っかかるものがあれば嬉しいですね。
教室の授業じゃなくて、廊下での雑談的なところを目指していきたいので。
そうしましょう。
今回はこんなところでしょうかね。
本の名前をもう一度お願いします。
本の名前は「心はどこへ消えた?」
著者は東波多海人さんで文芸春秋から出ています。
はい。ありがとうございます。
ありがとうございました。
番組へのお便りは、つんどくざんまいツイッターアカウントのDMか概要欄に記載のメールアドレスにて受け付けております。
皆さんからのお便りお待ちしております。
それではまた次回まで。さようなら。
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