トラさんとの会話
「まったくもってありえん。」
そういうなり、トラさんは、生ビールを一気に飲みほした。
水曜日の午後五時すぎ。ハッピーアワーを迎えたばかりのファミレスで、さっそくアルコールを飲みはじめたお客は、僕とトラさんしかいなかった。
「おかわり、たのみますか?」
そうたずねたら、トラさんににらまれた。
この銀髪の紳士は、同業の翻訳者だ。
二十歳年上。翻訳会社が主催した懇親会で知り合った。
それ以来、好きに一回こうして会うようにしている。翻訳者になったばかりの僕にとって、トラさんは頼れる存在だった。
怒りっぽいことを除けばの話だけど。
「なんでそんな質問をする?」
「ああ、その、蒸気が空になったから、もう一杯飲むかと思って。」
「ふん。いいか。よく聞け。今、私たちはハッピーアワーという戦場にいる。むしろ、どんどん頼まなきゃだめだろう。」
トラさんはどこもかしこも戦場にしたがる。きっと、自宅の仕事部屋も戦場だと思っているのだろう。
まあ、落ち着いて下さい。
「落ち着けだ。あんな語訳を見せられてか。」
「語訳したのは僕じゃありませんよ。とにかくおかわり頼みますから。」
注文の邪魔をしているのがほかならぬ自分自身であるということにようやく気づいたトラさんは、少しだけ静かになった。
「で、どんな英語だったんですか?」
メニューを広げておつまみを精査しだしたトラさんは、ぶっきらぼうに三つの英単語をつぶやいた。
チャレンジ・ザ・リクエスト
チャレンジ・ザ・リクエスト
どれもよく見かける単語だ。
原文はシンプルですね。どんな訳になってたんですか?
要求を受け入れる。
まるで忌まわしい呪文でも唱えるような口調で答えた。
要求を受け入れるですか。
なあ、ひどい訳だろう。
うーん、いきなりそう言われても、ひどいかどうか、ちょっと…。
そんなこともわからんのか。一体何年この仕事を。
きんきんに冷えた生中にすくわれた。
定員がジョッキを置くと、トラさんはおせっきをそっちのけでかぶりついた。
初めて会った時、僕は翻訳者としての経験年数が一年そこそこであることを伝えたはずだ。
トラさんはそのことをすっかり忘れているようだ。
山盛りポテトフライひとつ。ちょいましでな。
やれやれ。
ハッピーアワーの戦場で孤軍奮闘しているトラさんを、僕は翻訳の戦場へ引っ張り戻した。
チャレンジザリクエスト。問題はないように見えますけどね。
とんでもないご役だ。
要求を受け入れるという役の、どこがとんでもないのだろう。
戦場を行き来しているトラさんはともかく、僕の翻訳者魂にはすでに火が灯っていた。
一年目の新米は、とにかく翻訳がしたくて仕方ない。
考えてみる価値はありそうですね。
これだけは覚えておけ。翻訳者に一番大事なのは、チャレンジ精神だ。
決め台詞を吐いたトラさんは、すぐさま二皿目の精算に戻った。
僕とトラさんの翻訳ゲームはいつもこんな風に始まるんだ。
翻訳ゲームが始まるなり、僕はこう切り出した。
ヒントをください。
トラさんの眉間にシワがよる。
チャレンジの訳
ハードボイルド小説顔負けのコアモテである。
にらめっこ勝負にもつれ込んだら、とうてい勝てそうもない。
ほら、状況がわからないと、訳しづらいじゃないですか。
コンテキストが必要ってことか。
そうです。前後の文脈が必要なんです。
Please provide more context.
世界中の翻訳者がお手上げの時に使う常トークだ。
将棋の伏せ目にも似ている。
クライアントに質問する時は、言葉を慎重に選ばなければならない。
なんでそんな質問をするんだと、
トラさんのように怒り出すクライアントも中にはいるからだ。
テーブルをトントン叩いていたトラさんは、状況を説明しだした。
ある店に一人の男がやってきた。
その男は、数日前にその店で靴を買ったという。
手下袋の中から長方形の箱を取り出し、
蓋を開けると、一足の靴が入っていた。
靴のサイズが合わないから返品したいと申してた。
そこで店員は、チャレンジザリクエストしたわけだ。
なるほど、そういうことですか。
状況がなんとなくわかったぞ。
このリクエストは、お客さんから返品を求められたことを指している。
それならば、原文のザ・リクエストを要求と訳している点については問題がないはずだ。
これでおしまいか?
あともう一つ。辞書を使ってもいいですか?
虎さんの眉毛がピクつく。
これは経験上、危険なシグナルだった。
翻訳者は辞書を引くのが当たり前の職業だ。
けど虎さんの目は、
翻訳者としてのプライドがあるなら、今この場で辞書は引くな、
と訴えている。
仕方ない。辞書は引かず、状況から正しい訳を導き出すことにしよう。
まず整理しておこう。
原文はチャレンジ・ザ・リクエスト。
訳文は要求を受け入れる。
お客さんから返品を求められている状況にあり、
ザ・リクエストは要求という訳で間違いない。
このことから言えることは、
わかりました。
わかったのか。正しい訳が。
はい。
元気よく返事したものの、自信は全くない。
それでも僕は、この屋会で行われる翻訳ゲームが好きだった。
だから、全力で虎さんにぶつかっていこうと思う。
じゃあ、説明してくれ。
問題は、チャレンジをどう訳したかです。
どうしてそう思う。
リクエストの訳語となっている、要求に間違いがない以上、
チャレンジしか間違える箇所がないのは、自明のことだ。
でも、そう答えるのは、虎さんの問いかけに反すると思う。
だから、僕はこう答えた。
チャレンジは、ネガティブミーティングにもなります。
それは、どういうことだ。
チャレンジという動詞に対応する日本語は、挑戦する、です。
このため、多くの人が、チャレンジをポジティブな言葉だと認識しています。
多分、その役者も、ポジティブミーニングとして、要求を受け入れると訳したんだと思います。
ですが、英語のチャレンジは、ちょっと違います。
英語では、ネガティブな意味に使われることがあるんです。
そうなのか。
もし、この原文のチャレンジが、負の意味で使われているのだとしたら、
受け入れる、ではなく、受け入れない、というニュアンスで訳さなければなりません。
ということは、どういう役になる。
要求に反対する。つまり、要求に異議を唱える、という役語になります。
なるほど。
トラさんの小姉は、ちっとも納得していない感じだった。
翻訳者の訳の役
それがラストアンサーか。
僕は静かにうなずいた。その後に続く短い間が、
途方もなく長い沈黙に感じられた。
トラさんには言っていないが、僕は技術系の翻訳者になるまでに十年かかった。
技術分野なら、三年くらいで翻訳者になるのが普通だ。
僕は花見客が帰った後につぼみを開いた。
遅咲きの桜だった。
等身大の生活を手放すか迷いもしたし、翻訳者になるのを諦めかけたこともある。
でも、ある時に覚悟を決めて、サラリーマンを辞めた。
だから、もう後戻りはできない。
トラさんは無表情を決め込んでいたが、その顔はアルコールのせいでほてっていた。
それとは対照的に、さっきまで僕の除気から滝のように流れ出てきた水滴は汗ばむのを止め、
黄金色のビールの中で明滅を繰り返していた気泡は、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。
トラさんの口元が、かすかに動きを取り戻す。
Exactly!
一瞬、何を言われたかわからなかった。
トラさんの険しい表情がほころぶのを見て、ようやく理解した。
この翻訳者が検討違いの役をしていたことが、やっとわかったか。
と言って、かか対照するトラさん。
アプローチは違うが、たどり着いた答えは同じだ。さすがだな。
誰よりもしんなつなトラさんのほめ言葉は、誰よりも心に響く。
クライアントの問い合わせ
まあ、しいて問題があるとするなら、ハッピーアワーにもかかわらず、ビールを飲んでいないことぐらいか。
そう言って、からかうように笑う。
僕はジョッキを手に取り、ビールでのどを潤した。
名詞のチャレンジには、難問という意味がある。
難しい問題を乗り越える行為が、チャレンジという動詞になるんだ。
ずっとほっとらかしにされていたビールは、炭酸が抜けて生ぬるかったが、
翻訳がうまくいったときの味わいは、最高だった。
原文がもし、「受け入れる。」ということを示しているなら、
たとえば、アクセプトのような、もっとわかりやすい単語を使っていたはずだ。
ところが、ここではそういう単語を使っていない。
翻訳者なら、そこで引っかかる。
チャレンジを受け入れると訳していいのだろうか、と。
チャレンジに受け入れるという意味はあるんですか?
ない。
少なからず私の辞書には見当たらなかった。
だからこの訳者は考えて、自分なりに訳したということが推察される。
まあ、考えただけマシだ。
中には辞書に載っている言葉を機械的に使う輩もいるからな。
トラさんは落ち着きを取り戻していた。
それにしても、なかなかやるじゃないか。
それでこそ、長年翻訳を続けてきた甲斐があるというものだ。
生中おかわりするのは、今度は僕の番だった。
トラさんの中の僕が、
若葉マークのついた翻訳者ではないということが、何よりも嬉しかった。
もしかしたらこの人は、僕の翻訳経験が長いことに気付いているのかもしれない。
でも怖いですよね。
内容次第では正反対の役になってしまうなんて。
翻訳者の普段の努力にもかかわらず、真逆の役になってしまうことが何と多いことか。
帳簿の中に忍ばされたノットやノを見落としただけで、とんでもない語訳につながってしまう不幸を、これまでに何度も見てきた。
だから、翻訳をするときは、重々気を付けねばならんのだ。
翻訳者たるもの。
慎重にして大胆。
公室にして柔軟な役ができるようにだな。
日々計算を積んで。
テーブルの上にある携帯電話が振動している。
細長い筐体をつかみ、液晶ディスプレイに目をやるトラさん。
どうしたんです?
クライアントから翻訳会社へ問い合わせが入った。
問い合わせって、訳本についてですか?
返答なし。
さっきまでアルコールであからんでいた顔が、みるみる青じらんでいく。
大丈夫ですよ。きっとそんな大した問題じゃありませんって。
ほら、ハッピーアワーだし、どんどん飲みましょうよ。
トイレに行ってくる。
心なしか、立ち上がったトラさんの背が、いつになく縮まっているように見えた。
トラさんは果たして、クライアントのChallenge(異議申し立て)を受け入れることができるだろうか。