1. 東京ぶどうの木教会 メッセージ
  2. 「共に働くことの大事さ」2024..
2024-07-21 35:36

「共に働くことの大事さ」2024年7月21日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2024年7月21日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書) マルコ2:1-12数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2. 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3.四人の男が中風の人を運んで来た。4.しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5.イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。6.ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。7.「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」8.イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。9.中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。11.「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」12.その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

メッセージ題 : 共に働くことの大事さ(マルコ2:1-12)
*先ず私の経験から。大学時代、神様に誓った誓約通り、会社を辞めて神学校に。しかしその後徹底的に駄目に。そのとき知っていたら良かったと思うこと!「神の働きは共同体の働きであることを」神は三位一体?夫婦は一心同体?教会は2-3人が御名で?使役もマルコ6:7,使徒13:2・二人
1.信仰を見られる神様(マルコ2:1-5)
*イエス様がカファルナウムの家にいると?2節、大勢の人が集まった、イエス様は教えた。なぜ?*そのとき、3節、4人の人が中風の人を運んできた。中風の病?脳出血などで半身不随、麻痺イエス様に出会いたかったが?人に阻まれて!イエス様に出会おうとするとき?邪魔が、信仰が#4人の人は以外の行動を!他人の家の屋根を剥がして寝床をつり降ろす?とんでもない!なぜ
1)4人共に、この人を必ず癒してあげたい。ガラテア5:6=愛によって働く信仰があった!
2)4人共に、イエス様に出会うなら必ず癒されるという信仰があった。さもないと屋根を剥がすか?
3)方法論まで一致する4人の信仰。「真の協力」の為には、ビジョンだけでなく方法論まで。例?
<-大事なのは、どうすれば!こんなに素晴らしい同労者を得ることが出来るのか? ローマ16:3,4とルカ10:2収穫の為に働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。人本主義では駄目!#サムエル上16:7イエス様はご自分の前に進めて来る人に一つだけ見ますが?信仰。人は何を?
2.罪の赦しの権勢者であるイエス様(マルコ2:5-12)
*5節、癒しが必要な人に・なぜ罪の赦しを? 罪と病の関連性?霊的ー>精神的ー>体の問題‐では、中風の人はどんな罪?他人に迷惑ばかりかけている自分自身に自己憐憫?創世記1:28*その話を聞いて、律法学者の議論、7節。イエス様は、10節人の子は地上で罪を赦す権威を。

・覚えておきましょう、ヨハネ5:21‐22,28‐29。 ・知っておきましょう、キリストの3重職、王、祭司長、預言者
#11‐12節、罪の赦しの権勢を、病気の癒しを通して示された。「あなたにいう、起き上がり床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った!#4人の美しい信仰の協力を見られ・・・イエス様は、御自身の罪の赦し、病の癒しの権勢を示された!
3.まとめてみましょう!
1)人生の問題は?(すべてがそうだということはできますが)罪から来ます。 創世記3章の事件
2)罪の問題の解決がなければ、真の癒しはありません。全人的な癒し、霊的―>魂的―>肉的
3)イエス様だけが罪とサタン、呪いから私たちを救われるキリスト。3重職、王、祭司長、預言者
4)イエス様に進み出るのには・・・信仰が必要!それは、自分自身の信仰?同労者たちの信仰でも
@私たちが、マルコ2章の4人のお友たちのように「真の協力」をすることさえできるなら、イエス様は私たちを通して、この世のすべての人を救われ、癒されるでしょう。その意味で、今日の聖書は中風の人に信仰があったのかは書かれてなく、お友たちの信仰だけを強調されたのでは・・・

00:00
今日は、「共に働くことの大事さ」についてメッセージを分かち合いたいと思います。
事実、このメッセージは先週、結成マナー会の木先生の前で分かち合ったメッセージです。
しかし、これが私たちにも非常に大事だと思って、これを私たちの教会で分かち合うことをしました。
これを聴いてくださり、今日のこの共に働くことの大事さ、それを一緒に考えていただければと思います。
まず、私の経験から申し上げましょう。 私は大学生の時に神様の前で献身しました。
そして、「主よ、私を世界に使える宣教師として使ってください。」 神様に私を捧げました。
ところが、献身はしましたけど、宣教師の道はなかなか開かれなかったんです。
40歳になるまで全然道がなかったところですね。
40歳の時に、日本で駐在員として命令を受けて日本に来ました。
その時に、やっとこの宣教師の道がこれから開かれるんじゃないかという期待感を持っていました。
駐在員の生活が終わったところで、韓国に帰るべきですけど、私は帰りませんでした。
それで会社を辞めて、福岡の新学校に行きました。 その時まで私の心の献身さ、
神様に対する思いをしっかり保って献身して福岡に行って、
初めに不倫先である北九州のところに行って、そこで今田さんに出会ったんですけど、
その時まで私の思いは強かったです。 それで私は主のためにこれから私の人生を捧げるんだと思って、一生懸命頑張りました。
ところが、なかなか日本宣教の働きはうまくできないんですね。
難しい、難しい。 とにかく一人ぽちで熱心に命がけて働こうとしても、なかなかできない。
北九州で5年目に家族みんなのためになって、家族も病気になったと言いましょうかね。
これ以上続けることができなく、業界の人たちは韓国に帰ったらどうですかと言われて、追い出された気持ちで韓国に戻りました。
なぜ私は神様のために私のすべてを捧げて働いたのに、それができなかったのかということが私の反省点でした。
なぜでしょう。 その時今日のメッセージを知っていたらよかったなと思うんですけど、
03:05
皆さん、神様の働きは 一人で熱心にやる働きではありません。
神様の働きは共同体の働きです。 私はこれを今になってそれをそうだと思うんですけど、当時はわからなかった。
とにかく私の熱心で、これを日本のために何とかやりたいと死の覚悟までして、それで頑張ったんですけど、できませんでした。
家族みんな日本に対して酷い思いをして、妻は日本が怖いと思いましたね。
それで今アメリカに行っているかもしれませんけど、その時知っていたらよかったということが、
神様の御業は共同体の御業だということです。 一人ぼっちで頑張る働きではないということです。
じゃあまず神様は三味一体の神様と言います。 なぜ神様が三味一体で存在されるんですか。
神様でしょ。なぜ共同体として存在されますか。 神様は共同体の働きです。
神様が一番大事に思っているのは家庭です。 家庭は夫婦が一心同体で愛する。
そのところに神様の恵みがあります。 夫婦は一心同体。
また教会は私の名によって集まる二人まだ三人。 二人まだ三人が私の名によって集まるところが教会で、
その教会に神の御臨在があります。 神は共同体を愛しています。
また神様が私たちに命令をされました。 祈りなさいと言いました。
それで馬太の中八書、二重説ですが、それを見てますと、
あなたたちの中で二人が心を一つにして祈ったら、 何でも私はあなたたちのために成し遂げてあげようと。
祈りの答えの条件が二人心を一つにしてということです。
皆さん、二人が心を一つにすることほど難しいことはありません。
教会で二人また三人が心を一つにすることほど難しいことはないということを 皆さん感じておられるでしょう。
共同体の働きですけど、そこに心を一つにするという条件があって、
もうそれは三位体の神様は、父なる神様、子なるイエス様、聖霊様、 心全く一つになっています。
これを見てますと私たちは一つになること、 共同体、これを大事にしなきゃいけません。
イエス様が人たちを天道に使わされるときに、 二人ずつ組を作って使わせます。
また大選挙を命令に従って、 それで人たちが選挙に立ち寄されるときに、いつも二人、
06:04
パウルとパルラバ、パウルとシラス、 そしてペトロとヨアネ、いつも二人が一緒に行きます。
共同体です。 皆さん、一人で働くことは聖書で表れません。
でもなぜ私たちは一人でやりたかったのですよ。 私も九州に行ったときも徳子に行ったときも自分一人で頑張ろうとやりました。
なぜ共同体として働くことをなかなかしていなかった。 それが私の失敗の大きな原因ではないかと思います。
それを当時私も分かったらどれほど良かったのかということを考えるんですね。
今日は聖書で神様は私たちに共同体の働きをされるなら、 何でも叶えてあげるという約束が出ています。
これを一緒に考えていきたいと思います。 マルコニューション1節から12節は今日読んでくださったところですね。
イエス様はカプラーヌに戻られたときにその噂が知れ渡って、それで大勢の人々が集まりました。
そこでイエス様は彼らを教えられたと言います。 これが福音書の記録パターンですけど、イエス様が徳子に行かれると大勢の人々が集まります。
そしたらイエス様は教えられたと言います。 これが徳子の聖書を読んでみても記録パターンで同じことです。
じゃあなぜイエス様が行くところに人が集まるんですか。 問題が山積しているから。
当時はみんな貧困でした。 また病気もありました。 悪しき霊の働きも強かった。
そしてローマの植民地時代でみんなが当地の中で苦しんでいました。
もう人々が苦しんで苦しんで、どこか逃げる道がないから、助けがないから、
みんなが死ぬほどの苦しみの中でいたから、イエス様が行くところには人々が集まったんです。
もともとイエス様の役目を行うべき人はどなたですか。 宗教使徒者たちではありませんか。
でも宗教使徒者たちはその信徒たちを助けると思わないで、
いつも立法とか神殿を通して自分の利権、また経験、それを確保するために精一杯頑張りました。
人々に対しては関心が全くありませんでした。 だから民たちはどこに行って助けをいただきますか。
そこでイエス様が現れたら、おびただしい人々がイエス様のところに集まってきました。
ところがイエス様は人々が集まってきたら、彼たちが今、癒しを求めて悪霊を追い出してくださる、
また今日、教会学校のメッセージが素晴らしかったですね。
09:01
5千人を食べさせる奇跡を起こさせたんですが、みんなが何か助けを求めてくるのにイエス様は何をされるんですか。
教えられるんです。 マジ癒されるんじゃなくて、悪霊を押し出すから先じゃないんですか。
皆さん、神の御言葉がなければ、神の国は始まらないからです。
神の国は御言葉の種を蒔いてから始まります。 だから神の御言葉は非常に大事です。
ですからイエス様が人たちに集まったら、教えて、それから癒したり、悪霊を追い出したりされたことがわかります。
私たちの今の教会も同じです。教えること。 種を蒔くところから神の国が始まるんだということを考えるときに、
御言葉を大事にすることが私たちに必要でしょう。 そこでイエス様は人々を教えておられるのに、ある人たちが来ました。
おびただしい人たちがいる中で、少し遅かったかもしれません。
4人の人が、左の中部の人の患者を寝床に担いだまま、ここに来ました。
彼たちが来てみれば、人々が大勢いて、イエス様はそっと中にいるんですけど、イエス様はどこまで行くことができない。
だからこの人たちが悩んでいる場面が聖書に現れています。
じゃあここで皆さん大事なのは、イエス様に出会おうとしていくなら、必ず邪魔者があるんだ。
これぜひ覚えてください。
この4人の人の前に邪魔者は何ですか? 人たちでした。
皆さん何かをやろうとしたら、人が邪魔になります。
私たちの教会に皆さん来られるとき、何が邪魔だったんですか?
ああ、小さい家庭教会じゃないかと思われたんですか。
でも教会に通ってみれば、何か人が邪魔になります。
それで、この人が嫌で私はこの教会に行きたくないなという気持ちになるかもしれません。
それを乗り越えなければなりません。
イエス様に出会おうとしたら、邪魔になる人を乗り越えなきゃいけないことをぜひ覚えてください。
これが大事です。
この人たちは、OJの人々が邪魔になってイエス様へどこに行くことができませんでした。
だから彼たちは何をしたんですか?
いきなり屋根の上に登って、何かこの屋根を剥がして、それで中部の人の寝所を吊り下ろしたと言います。
これは本当にどんなことでしょう。
ここで皆さん、中部の病気ということはあるんですか?
私は九州である伊加大学の学生とこの勉強をしたんです。
この学生は私に、中部の病気ということはありませんと言って、私は戸惑ったことがありました。
12:06
中部の病気ということを、日本の他の薬で、リビングバイブルの薬で見ますと、
胴臭血などによって、半身風水の状態、そして体が麻痺の状態で動けない、
そのような人がこの中部の病気だと言っていますね。
とにかくこの人を助けたいということで、4人が運んできたでしょう。
人が阻まれてイエス様のところに行っていない。
だったら皆さんはどうしますか?
いや、今日はダメだな。
今日は帰って、明日来よう。人々がいないときに静かに来たらいいんじゃないかと言うかもしれません。
しかし彼らはそうではなかったと。
そして屋根を剥がして吊り下ろしたんですけど、ここにこの4人の人の素晴らしい信仰があったということです。
じゃあ皆さん、ぜひ私たちもこの信仰があればと思います。
まず大事なのは、4人みんな一緒に、この人は必ず助けなきゃいけない。
この人は必ず生かしたいという愛が込まれている心が4人一緒だった。
この人は助けなきゃいけないという心があったんです。
だから明日やろうということじゃなくて、今日この人を助けなきゃいけない、生かさなきゃいけない、4人がみんな思った。
じゃあこれが大事なんです。
例えば、私たちは親でしょう。
親の一番辛いところ、弱いところ、アキレス腱ということは子供です。
だったらたびたび天道寺さんに皆さん電話するでしょう。
私の子供が痛いです。
天道寺さん、教会に連絡して皆さんにお祈りをさせてください。
もしやったと思いましょう。
天道寺さんが皆さんに誰々の子供のために祈りましょうと言ったとき、
皆さんは大抵どんな気持ちになりますか?
親のような切なる心になりますか?
教会にこの子供が痛いのか、祈ってあげよう、その心までいいかもしれないけど、
親のような切なる心でこの子供のために祈らなきゃと涙をポロポロ流しながら祈るような気持ちありますか?
ぜひ私たちの教会がそれができればと思います。
そのような切なる心がみんな共有できれば、私たちの教会は素晴らしい教会になります。
親は切なる心だけど、みんな祈ってあげますよ、いいですよ、祈りますよ、でも忘れちゃった、
いうような状況ではなかったということです。
ぜひ私たちもこれを学んでいきましょう。
4人ともにこの人は必ず生かさなきゃいけない、助けなきゃいけないという心が、
15:03
みんな同じ切なる心を持ってきたということです。
まずこれが初め。
2番目にこの4人が同じように、イエス様に出会うなら必ず治るんだという確信があった。
だからイエス様に出会えば治るのに、人が問題だったらどうするのか、イエス様に行けばいいのに、
だから屋根を剥がして釣り下ろしたんです。
じゃあここで大事なの。
屋根を剥がして釣り下ろすまで、この人はイエス様に出会えば必ず治るんだという確信を持ってきた。
このような信仰、1人はいいけど、4人みんながそのような信仰を持つことはできますか?
これができればと思います、私たちは。
イエス様に出会えば必ず治るんだ。
私たちの中で今病んでいらっしゃる方、難しさを持っていられる方がいるでしょう。
この方がイエス様に出会うなら必ず治るんだということを私たちが確信的に持っていたら、
イエス様に出会わせるために何かいろいろな考えをされるんじゃないでしょうか。
ぜひともこのような信仰がしっかり与えられることを祈ります。
3番目にこの人たちの素晴らしさは、方法論まで一つになる信仰でした。
ある人が屋根を剥がして釣り下ろしましょう。
私は反対。私は屋根じゃなくて、ここで何か大声で叫んだらどうですか、とか。
そうじゃなくて、どうだったらどうですか、と。
このように方法論が間違えたら、4人が一生の同じ行動ができないでしょう。
ここが難しいことです。
みんな世界選挙をやりましょう、日本選挙をやりましょうと思って、
海外から選挙主たちが日本に来ています。
しかし、選挙主たちが協力できるのか、なかなかできないんです。
なぜできないんですか。
行団が違うから、使うトゥールが違うから、やり方、方法論が違うから、できません。
日本で選挙主の数も少ないのに、1億3千万人を助けていかないのに、
助けに来る選挙主たちの力が一つにならないことは、本当に神様を見られるのは残念です。
トゥールが違うんです。
以前、私が言った選挙団体を言ってみますと、
キャンプスクールでは4つの例の法則を使います。
レビエイトというところはブリッジ伝導を使います。
また、他のところでは他の伝導のやり方があります。
伝導のやり方が違うだけで協力はできない。
だから、みんなバラバラバラバラでやりながら、実りがない。
このような難しさがあるんですけど、事実この4人は方法論まで同じでした。
屋根を剥がして吊り下ろそうと言って、そうだ、やろうとやっちゃったんです。
すごいではありませんか。
18:02
事実、この4人の登楼者は素晴らしい人です。
私たちの働きも同じです。
私たちは伝導士も選挙をやっていますけど、
選挙士の働きもこの登楼者が必要です。
私たちも他の方たちはみんな会社を勤めながら今働いていらっしゃるでしょう。
私たちも事実、この登楼者が必要です。
お仕事に対しても会社の仕事に対しても登楼者が必要ではありませんか。
登楼者を得ることほど大事なことはありません。
どうすればこの4人のような登楼者を得ることができるか。
皆さん、聖書はこう言っています。
またローマの中6章3節4節に、
ローマの中6章にはパウルのローマまで伝導するのに助けられたこの登楼者の名前がちゃんと書いてあります。
そこで3節4節とこう書いてあります。
イエスとイエスに結ばれて私の協力者になっているプリスカとアキラによろしく。
命懸けて私の命を守ってくださったこの人たちに私だけではなくてイオージン全ての教会が感謝しています。
パウルを助ける人がいろいろいるんですけど、命懸けて助けてくれる人がいる。
命懸けて。
命懸けてこの人を支えてくれ、助けてくださった人がいたからパウルの自分の世界選挙の働きができたということです。
パウルは登楼者がいました。
だからパウルの世界選挙がこんな力がある選挙ができたんですね。
私たちは登楼者がいますか。
ただ今保証人を何か家を借りるときに保証人を建てようとしても保証人がいない。
だから何か先生保証人誰かやってくれませんかという電話したりする場合は度々ありますけど。
保証人一人やってくれる人がいないほど自分一人ぼっちで働いているなら人生難しくなりますね。
私たちは登楼者が必要です。
どうすれば登楼者が与えられるのか、ルカの出書二節にこう書いてあります。
収穫は多いが働き手は少ない。
だから収穫のために働く手を送ってくださるように収穫の主に願いなさい。
私はこのルカの出書二節を持ってたくさん祈りました。
なぜ?一人ではできないことを分かってきたから。
だからたくさん祈って祈ってそれで神様から送ってくださった方が皆さんです。感謝しています。
本当に私たちの協力によって今教会が6年目続いていることは私はこれは奇跡だと思います。
これからも皆さんよろしくお願いします。
21:02
何より松池に本当に感謝しますけど、このような協力者、登楼者、皆さん協力者を得るために大事にしてください。
また、登楼者を追い出したり割り口をしたり喧嘩したり絶対ダメです。
登楼者を大切にしていかなきゃいけない。
私は天国に行くまで私たちの登楼者が一緒に行くものですから、ぜひとも皆さん登楼者を大切にする。
この中部の人は他のことができなかったかもしれないけど、4人の登楼者がいました。
だから自分の命を4人が命がけて助けてくださるんじゃありませんか。
この人が必要です。ぜひとも覚えていただきたいと思います。
じゃあイエス様はこの4人の友達がついてきました。
イエス様は他のことを大勢の人が集まるんですけど、
大勢の人がその日全部癒されたり病気が癒されたり何か問題が解決されたりすることはありません。
この日の記録だけでは中部の人だけが癒されました。
どうしてですか。
怯たない人が来てイエス様に近くに来たかもしれないけど、その人には信仰が見当たらなかった。
来るかもしれないけど信仰が見当たらない。
だったら何にもないんです。
ついついイエス様のどこに行ったかもしれないけど、信仰がなければ何にもありません。
ぜひとも信仰がこんなに大事だということをぜひ覚えていただきたいと思います。
じゃあイエス様は屋根を剥がして釣り下ろし、
またその周りの人たちが大勢で叫んだりこんな悪い奴がいるんだろうかと言われたでしょう。
しかしイエス様はその人たちに悪いこと、何かその行動に対して文句をされないで一言言いました。
およ、あなたの罪が許された。
イエス様はその人の信仰だけを見るんです。
イエス様がどこに行くのに立派な背びれを着て立派な姿をやっていても意味ありません。
イエス様のところに行くときには信仰を持って行かなきゃいけない。
信仰がなければ神を喜ばれることはできません。
神様が存在しておられること、神様が私たちを報いてくださる方であることを信じなければいけないという信仰が大事です。
この信仰を見てイエス様がおよ、あなたの罪が許されたと言いました。
じゃあここで罪の許しと病気の癒し。
この人は今病気が癒されるべきなのになぜ罪の話をするのか。
罪と病気は関係があるということはここで教えてくださるのではないかと思います。
24:00
この中部の人の病気は、罪は何だろうかいろいろ考えられますけど、
まず大事なのは自己憐憫ですね。
皆さん、私みたい人間、どう生きる理由がないとか。
なんとか自分を自己憐憫ということ。
また私のために、私がもう麻痺の状態で何もできないから、
周りのことがこんなに苦しんでいるのか、私が早く死ななきゃ、早く死ななきゃ。
これも全部自己憐憫です。これは罪です。
またユダヤ人だから、またイエス様、神様が創世紀1章28節、
うめよふえよ、地に満ちて地を従わせよ。
これは命令をされたのに、彼自分自身は何もできないから、
神様に対する申し訳ない心もあったかもしれません。
いろいろな理由で、彼が罪が心の中でいっぱいあって、
早く死ななきゃ、早く死ななかったと思ったかもしれません。
だからイエス様が、あなたの罪が許されたと言われたかもしれません。
ここで立法学者たちは、暴独だ。
自分は何で罪を許すのか。
神追い取りしかできないんじゃないかと言いました。
そこでイエス様が、人の子は地上で罪を許す権威があることを知らせようと言いました。
イエス様はこの世はどのようにこれができたのか、
皆さんこれはいつか聞いたでしょう。
キリストという名前が油注がれた方。
王、最首長、預言者の役目をされる方ということを皆さんご存知だと思います。
このようないろいろな力によって、イエス様はその人の病気も癒され、
罪を許される力がイエス様にはありました。
ここでイエス様がこの人に命じます。
とこを担いで立って起きなさい。
とこを担いで歩きなさいと言いました。
その人はもう病気になって横たわれていて何もできなかった人なのに、
すぐ立ち上がってとこを担いで歩いていた。
それを見て大勢の人がびっくりして、それでイエス様を信じるようになったということです。
今日はイエス様はこの4人の信仰の協力の素晴らしいことを見て、
イエス様が自分が持っている病気を癒す権威、罪を許す権威を全ての人に知らされ、
この人を癒されたということです。
イエス様の働き、イエス様の病気の癒しは、働きは全人的な働き。
まず礼的なこと、罪による問題を解決し、その次に精神的な問題を解決し、
それから体の問題を解決してくださること、これが素晴らしいことです。
中部の人は自分自身としてイエス様に出会ってこの問題は解決できないけど、
周りの4人が助けてくれて、イエス様によってこの人の病気が癒されたということを今日記録です。
27:01
私は大学生の時に、中部の人を4人の友達に運ばれてイエス様に来たように、
私は大学生の時に先輩たちに誘われて、それで私が行った先教団体の春の修練会に参加するようになりました。
修練会に参加したいということは、自分が行きたくて行った人は誰もいません。
行きたくないんだけど、周りから誘われて導かれて、それで参加するんですね。
私が参加したこの修練会で、今日の同じメッセージを私は教えてもらいました。
今日の聖書の本文でメッセージをもらって、それで聖書を勉強して、それで書簡を書く時間がありました。
その時、私の心の中でこの罪は発表しなければいけないんじゃないかという強い思いがあって、
当時大学生の時にみだらな何かがありました。
それは恥ずかしくて言うことができなかったんですけど、
それをわずかな学生がいる時に、私はそれをこんな罪はありますということで発表しました。
そうしたら、それは僕先生のところに報告されて、
僕先生が私に夜、みんなが集まるところで、みんなの前に発表してくれと。
書簡を発表するように、私はもう発表者になりました。
夜になって、二、三百人の大学生が集まっているところで、
私はこんなことがありますということで、私はこの悔いを改めますということで、
私のみだらなことを発表しました。
そうしたら、驚くことが起こりました。
みなさん、今日のマルコ二章五節、あなたの罪が許されたと、
私はそのような声を聞いたような気がします。
また、その時驚くのは、その話を聞いてから私の涙が出て、
3日間くらい、ずっと修練会が終わるときまで、
私が礼拝に参加したら涙が出るし、メッセージを聞いたら涙が出るし、
もう涙をたまらない状態でした。
また、その選挙、私が悔い改めを発表したその後に、
集まった学生たちが先生、私もこんな罪があります、こんな罪があります、
みんな前に出て、全部悔いを改めることによって、
この選挙団体にリバイバルが起きた、と。
精霊が大規模で来られて、みんなが発表することがありました。
その時、私は感じました。
こんな素晴らしい福音の述べされるのに、神様、私を使ってください。
私はこれから世界に出て、選挙主として働きたい、と。
私はそこで、白神と選挙主として献身をして、
30:02
それで、私はその献身の思いをずっとこの方を持っていました。
私はそこで感じたことがあります。
第一ヨハネの一書九説、これは他の訳ではそうではないですが、
神共同訳だけはこのようなことがあります。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
罪を許し、あらゆる不義から私たちを清めてください、と。
他の訳を読んではこんなことはないですが、
神共同訳だけは自分の罪を公に言い表すなら、
神様はこの人の罪を許し、全ての不義から私たちを清めてください、と。
私はその罪を一人ぼっちにいる時に何回も悔いをあらためました。
それがなかなか断ち切れなかったんです。
しかし、王陣の前に発表したところで、それがパーンと断ち切れられて、
それから私は生活がぐるっと変わったんですね。
やっぱり聖書は素晴らしいなと思いました。
じゃあ、今日のメッセージをまとめてみましょう。
人生の問題は罪から来ます。
皆さん認めますか。
創世紀3章以来、人生の問題は罪から来ます。
全てが罪の問題だということではありません。
まあ、食習慣の問題もあり、過ちもあり、いろいろなことがあってから問題があることもあるんですけど、
ほとんどの問題は罪から来ます。
ですから、罪の問題解決なければ、まことの癒しはありません。
癒そうとする時には、必ず罪の問題解決が必要です。
イエス様だけが罪の問題を解決してくださるキリスト、メシアであります。
また、そのイエス様に出会うためには信仰が必要です。
ここで大事なのは、病気を持っているこの人の信仰が必要なのか、周りの助ける人の信仰が必要なのか。
とにかく信仰が必要なんですけど、今日の聖書が私たちに教えてくださることは、
中部の人が信仰があるかないかは教えてくれません。
中部の人の信仰は教えてくれない。
4人の友達の信仰を教えてくださいます。
この意味は何でしょうか。
私たちの中で助けるべきある人がいます。
この人は必要ありません。
その人を愛する周りの人の信仰によって、
この人はいくらでも癒され、救われ、そして問題解決ができるということです。
だから、私たちは共同体の大事さはここにあるんです。
皆さん考えてみてください。
私たちの周りに今問題ある人がいますか。
その人の信仰がありますか。
もし信仰がないと言っても、その人を愛する私たちが信仰があるなら、
33:03
その人をイエス様に連れて行くことができるし、
その人を私たちの信仰によって助け、癒すことができるんだということです。
そのことを考えたら、
共同体の私たちの信仰によって、
いくらでも人を助けることができるんだということです。
問題は、私たちがその人を愛しているか。
私たちがその人を愛して、
その人のために神様に切なる心を持って、
鳥なしに祈りをし、その人を導こうとし、
その人を助けようとする心があるのかということです。
もし私たちはそのような心を愛するか、
もし私たちはそのような心、愛する心、信仰を持っているなら、
これから私たちの周りに大勢の人々を助けることができるでしょう。
世の中は問題だらけです。
ある家庭に問題ない家庭がないし、
よく見ていますとみんなが悩んでいるし、
またいろいろな病気によって悩んでいる方たちが大勢います。
大勢いらっしゃるのに、見ても助けようとする心がない。
愛する心がない。
その人のためにイエス様に祈る信仰がない。
これが今私たちの問題ではないかと思います。
ぜひとも共同体の4人の友達のような信仰を持って、
これから私たちの周りの方々を一人また一人助けていく、
救っていく、癒していく私たちになりましょう。
お祈りいたします。
主よ、今日の聖書を通して、
共に働くことの大事さを知らせてくださってありがとうございます。
しかし私たちはいつも自分一人ぼっちで、
自分のスタイルで自分がやろうとする時が大勢あります。
ぜひともこれからは、
これからは自分一人で全部やろうとする考えを下ろして、
教会、共同体、皆さんと共に一緒に分かち合い、愛し合い、
そして力を合わせてお祈り、またお祈りを助けていく私たちにならせてください。
このような私たちの働きを通して、
大勢の人がこれから癒やされる、助けられる、救われる、
このような教会になるように導いてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン。アーメン。
35:36

コメント

スクロール