今日の午後、大学の会議があったのですけれども、そこで、よくあることなのですが、こんな話がありました。
今の学生はこんなこともできない、こんな簡単なこと、こんな基本的なことができない、という話です。
そこからですね、大学に入ったら、まずこういう基本的なことをきちんと教えてください、という話になるわけですね。
その基本的なことを教える先生は、いや頑張っています、ということで、話が進むわけですが、
先生は頑張って教えていると思うんですけれども、でもなかなか学生がついていけない、そういう話なんですよね。
これは理科系の話なんですけれども、基本的な数学とか、あるいは英語もそうでしょうか、
さらには日本語もちょっと問題だ、なんていう話も出てきまして、ともかくそういう話になると、できないこと探しがどんどんと続いていくわけです。
で、学生には、その学生ができないと言われていることを、ともかくできるようにするための様々なカリキュラムが作られ、授業が設けられ、また必修になって、それをみんなが習得しなければいけないという話になるわけですけれども、
そうすれば問題が解決するんでしょうかね。私、大学時代、理科系の分野に入ったんですけれども、やっぱり数学がわからなくて、きちんと理解せずに問題の解き方だけ勉強して、
それで何とか試験をクリアして単位を取っていった、そして卒業をしたわけですけれども、今の学生も似たような感じで、十分な理解をしないままに、ともかくテストで点が取れるような勉強をして、それで卒業していく、そういう学生が多いんだろうなというふうに思いながら話を聞いていました。
それで、この問題は、なんかですね、ちゃんと考えられていないなというふうに思うわけですね。
一番僕が問題だと思うのは、学生が小手先の対応で何とか単位を取って卒業しなければいけないという、そういう状況ですね。
つまり、学生が勉強すべきことが多すぎるんじゃないかと思うんですね。
そのために、もうキャパシティを超えている分量をやらなければいけないので、ともかく決められた4年間でですね、ともかく卒業したいということで、単位を取るためだけの勉強になっていく。
ということで、この問題をきちんと解決するには、学生がまず自分のペースで学べるような環境を作らなきゃいけないですよね。
そんな小手先の勉強ではなくて、きちんと本質的な理解をしながら進んでいけるような、そういうゆったりとした学びができる環境が必要です。
理解の遅い人にはそのペースに合わせられるような、そういう進度の自由なども必要でしょうね。
半期間でこれだけのことを勉強しなければいけないというふうに決めてしまうこと自体が問題だろうと思います。
また、おそらく学生は自分が学んでいることの意味がよくわかっていないわけですよね。
なんでこれをやらなければいけないのかということがよくわかっていないので、興味もわかない、やる気も起きない、だから勉強が後回しになってしまう、ということで理解が進まないわけですよね。
もしそのことがわからないとしても、どうしても知りたいと思えば、頑張ってやると思うんですね。
その頑張りの力が湧いてこない、そういう状況なんだろうと思います。
やることが多すぎると、もうそれだけで疲れてしまって、やる気が起きないということもあるでしょうね。
ですので、自分がやっていることの意味がわかるように、それを本当にやりたい、あるいはやらなければいけないということが理解できるような、そういう余裕と、それからそれをやろうと思ったときに自分のペースで学んでいける、そういう余裕。
そういったものが今の大学にはない。これが一番大きな問題じゃないかなというふうに思うんですね。
やはり私も学生のときにそうでしたが、わからなくなったときに相談できる身近な人というのがとても大事だと思います。
わからない人同士でグループを作ってもいいと思うんですね。
自分だけがわからないというのは非常に孤独で、落ち込んでいくパターンになりがちです。
わからない人が何人か集まれば、まずはちょっと安心できますね。自分だけじゃない。
そして、じゃあどうしようかということで、自分たちよりも少し理解が進んでいる人から教えてもらう。
あるいはもちろん先生とか、あるいはその他の教育スタッフ、今は授業担当者以外にもいろいろと教えてくれる、そういう立場の人がいますので、
そういう人に聞きに行くとか、そんなこともできるでしょう。
あるいは今だとインターネットにいろんな解説動画がありますから、これを見たらわかったというようなですね、そういう動画を教えてもらうとか、
そんなことでもいろんな困難をクリアしていけるだろうと思います。
そういう学び方が多分できていない。そこがですね、こんなこともできないのかと言われる学生が結構多いということの背景にあるんじゃないかなと思うんですね。
それから基礎的なことが分かっていないというのは、そうだと思うんですけれども、基礎的なことが分かってから何か応用的なもの、発展的なものが分かるという、そういう順序性というのを、大学の教員は重視するんですけれども。
でも基礎的なことっていうのが本当に分かるのは、やっぱり応用的なものをある程度できるようになってからじゃないかと思うんですね。
ですから、まあ、基礎が分かることは大事なんですけれども、まず基礎をやらなければいけないという、そういう思い込みはなくしたほうがいいんじゃないかなと。
基礎がよく分かっていなくてもまあそれなりにやっていけて卒業できて就職もできるんだったら、まあそこそこできているというふうに言っていいんじゃないでしょうか。
もし本当にもっと基礎をきちんと知りたいという場合は、もう一度その基礎が学べる機会があるべきだと思うんですね。
大学を卒業した後にもう一度自分が大学1年の時に学んだことを学び直せるような、そういう機会があっていいんじゃないでしょうか。
そうするとその時には、あの時あんなに分からなかったけども、そういうことだったのかというふうにして改めて感動できるんじゃないかなと思うんですよね。
そういう機会を提供するのも大学の役割かなと思うんですけれども。
そんな話は全然なくて、ともかく大学に入ってきたらば基礎的なことを教えてほしいという、そういう話になるわけで。
大学の教員、基礎を教えている教員もさらに基礎があるわけで。
こういうことはもっと高校までにやってきてほしいなんて話になり、高校の先生は今度はこういうことは中学でやってきてほしいというふうに、
中学の先生はこういうことは小学校でやってきてほしいというふうに言って、どんどんどんどん下に降りていって。
小さい時から基礎的なことをずっとやらされていく。そこで多くの子どもたちがドロップアウトしてしまう。
そういうことになっているんじゃないかなと思うんですけどね。
それはあまり良くないんじゃないでしょうか。
ともかくやりたいことを思いっきりできるような、そういう学びの環境を整備することが大事で。
もし自分で基礎が大事だと思ったらそこでやればいいんですよね。
基礎ができていないからよくわからないという場面に出くわすだろうと思います。
その時に初めてこの基礎をちゃんとやろうというふうに思うんで、
そういう機会もないままに先生からこれは大事だからと言って、なんだかよくわからないものをやらされるということほどモチベーションが湧かないことはないだろうと思います。
そしてこんなこともできないのかと言って、
なんていうかな、劣等感を味わわせられるような、そういう環境っていうのは本当に良くないなと。
これ基礎科目なんだけども成績Dで単位取れなかったからまたもう一回再履修だ。
また落ちてしまった、また再履修だっていうふうになったらですね、
もう本当にやる気なくなりますよね。
そういう学生が結構いるという話で、ちょっと気の毒だなというふうに思いました。
ということで、ちょっと今日の会議からいろいろ考えましたので語ってみました。
これで終わります。
(了)