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ストーリーとしての思想哲学
【思想染色】がお送りします。
前回は刑罰というものについて、新体系と自由系というものがあるという話をしました。
それで、新体系から自由系に移行していった理由などについての考察を紹介しました。
資本主義が成り立って以降、商品経済っていうのが成り立つようになりましたから、
要するに無意味に体を痛めつけてもしょうがないから、
だから刑務所の中でただ働きをさせるようになったっていう、そういうロジックだったわけですけど、
ただ、ミシェル・フーコーっていう哲学者がいてですね、
この人は、これは違うでしょうって言いました。
はい、このフーコーっていう人は、
そもそもの話として、
新体系っていうのが、いわゆる公開処刑とか、
そういう広場でなされる刑罰であったよねっていうところから話を始めます。
そもそもその広場で行われる公開処刑って、
あの、庶民にとってのエンターテイメントだったんですよ。
これは割と有名な話でもあるので、ご存知の方もいるかしれないんですけど、
昔は広場で行われる公開処刑っていうのが、お祭りという側面がかなりあってですね、
一般庶民は仕事を休んでまで見に来るっていうものでした。
だから、お祭りであるっていうことは、
これはいわゆる非日常の空間、時間であって、
人々がこういう非日常のお祭りの時って刃目を外すんですよ。
それで、この処刑っていうのは、一応その王様の名の下に取り行われているものですから、
この場でその王様がやっているもののところなんだけど、
お祭りだから刃目を外せるっていう性質があるために、
王様を公然と批判したりとか、
また王様に対する暴動みたいなのを起こすっていう絶好の機会になっていったんです。
特に何でもないような日常の時に暴動を起こしたとしても、
こんなものすぐ鎮圧されて捕まってしまいますけど、
ただ公開処刑みたいなお祭り騒ぎをみんながしている時だったら、
その限りでないというか、
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その暴動がすごいでっかくなるから、
こういう動きが歴史的にあったから、
だから王様の名の下に刑罰を執行するっていう行為は、
今までは公開の広場でなされてたんですけど、
広場でやるとなんかだんだんやばい感じになってきたから、
だから非公開の場へと移されていったと。
つまり公開処刑から監獄での懲役に、
刑の執行の場が移されて隠されていったっていうことを言ってます。
言い換えると、
広場に人を集めて刑の執行をやってるから、
だから暴動へと発展する余地があるんですけど、
これを全部非公開の場でこっそり見えないようにやっちゃえば、
暴動を起こしようがないと、そういうわけです。
だからこういうロジックで、
身体刑から自由刑になっていったんだと。
別に無意味に体を痛めつけるインセンティブがどうとか、
そういう話じゃないんだよと、
こういう考察をしています。
この論点について、もう少し詳しく説明していきますけど、
そもそもこの風光って人は、かなりそもそものところから話を始めるんですけど、
そもそも産業革命っていうのは、
都市化とセットで起こるものなんですね。
そもそも産業が起こるためには、
次々と農村部から都市部に対して流入してくる大量の労働者が必要ですから、
だから人が都市に次々と流れてきて、
人口がすごい急激に増大するっていう現象が、
その場では起こっていました。
そうすると、形成された大都市、都市の住民っていうのは、
そこで産業は確かに起こっているんだけど、
同時にそこにいるのが不満を抱いた群衆で構成されているっていう、
こういうことが起こっていることになります。
この不満を抱いた群衆っていうのが、
いつ暴動を起こしてもおかしくないわけですから、
これがブルジョア人にとってすごい恐怖だったんですね。
ブルジョア人にとって一番怖いことは、
群衆が暴動を起こして工場の機械とかを打ち壊しして、
商店を襲撃するとか、
そういう行為を行われるっていうことがすごい怖いから、
さらにそれより怖いことっていうのがあって、
こういう打ち壊しとか商店の襲撃とかの暴力行為が、
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悪いブルジョア人を打倒するための正義の行いであるっていうふうに、
こういうふうに見なされるということが一番最も怖いことでした。
つまり、暴動が単なる暴力行為ではなくて、
政治的行為であったりとか、
英雄的行為であるというふうに見なされるということ、
暴動が正当化されるっていうことが最も怖いことだったんです。
はい、このように、
労働者が反逆するのは、
そもそも抑圧されて搾取されたからだと、
だから、もとはといえばブルジョア人が悪いのだから、
だからこういう暴動は正当なものであり、
この暴力に対して罰則も与えられるべきじゃないよねっていうふうになると、
ブルジョア人は財産とか権力を全部一気に失いますから、
ブルジョア人の要請によって、
労働者が団結しないようにね、
分断工作が仕掛けられていくことになります。
この分断工作っていうのが、
良い労働者と悪い労働者っていう、
こういう2つに分けることなんです。
良い労働者っていうのは、暴力に訴えることはしないし、
ちゃんと真面目に働く人だし、
で、悪い労働者っていうのは、
もうすぐ暴力に訴えかけるような、
もうこんなのは悪い犯罪者だっていうふうに、
こういうふうにね、
グループを2つに切断するということをするわけです。
で、それらがお互いに対立するように仕向けるっていうのが、
これがいわゆる分断工作ということになります。
このような分断工作をするための道具、ツールとして、
自由刑っていうものが、
その悪い犯罪者、悪い労働者たちを、
監獄の中に隠しちゃう。
このようなことをするために、
道具としてこの自由刑っていうのが、
すごいよく使われるようになってきたんだっていうのが、
これが不幸の分析です。
一応、別の言い方でもう1回言いますね。
監獄に入っている犯罪者は悪いやつ、
逆に監獄に入ってない一般人はいいやつっていう風に、
こういう風潮にすることで、
いい具合に群衆を2つに分断させられたんです。
しかも監獄の中って外から見えませんから、
不可視化されてるから、
だから分断工作にはうってつけだったんだというわけです。
ちなみに、この風光っていう人の思想の特徴として、
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すごいね、
氷のように冷たいような鋭い分析を加えるっていうのがあります。
ものすごい冷たく鋭い分析だから、
初めて聞く人は結構びっくりするようなことも言うんですけど、
そこが風光の面白さでもあるわけですね。
この話の続きとして、
犯罪とか暴力っていうのはどんな理由があってもダメだっていうイデオロギーは、
フルジョアジーが作った統治者に都合の良い道徳だっていう風に彼が言ってます。
これってどんな理由があっても、
暴力に触れちゃったらもうダメだよねっていうのは、
これって結構僕たちからしても常識じゃないですか。
めっちゃ当たり前だし、
なんか小学生でも守っているような道徳ですけど、
この道徳の起源は、
犯罪から政治職を取り除くための、
犯罪を絶対正当化させないためだっていう分析がされてます。
悪い金持ちを暴力でやっつけるっていうのは、
すごい政治的なイデオロギーがある行いなんですよ。
だから、犯罪は犯罪だからダメだっていう風に道徳にしちゃって、
それで犯罪と政治が結びつかないようにするこれらを分離させることで、
犯罪とか暴動とか暴力という手段に訴えた行いを正当化されることを防ぎたがっていたブルジョアジーの要請があったよねっていう風に言ってます。
で、最後にここが最も重要なポイントだと思うんですけど、
これ決してブルジョアジーの陰謀じゃないんですよ。
なんかこれ聞いてるとすごいブルジョアジーが悪辣な陰謀を巡らしてるみたいに聞こえるかもしれないんですけど、
あくまでもそういう社会の空気が醸成されて、なんとなくその社会の雰囲気に押されて、
そういう刑罰システムが自然発生的に生まれたんだって言ってます。
つまり、誰かなんかすごいズル賢くて悪いやつがいて、
そのような道徳とか社会システムを作り上げたみたいな、そういう単純なことでは全くないって言ってるんです。
そうじゃなくて、もっと複雑な社会の舞台裏、見えない構造みたいなのを明らかにしようっていう思想なわけですね。
厳密な定義はちょっと置いておきますけど、こういうタイプの思想のことを構造主義とかポスト構造主義とか呼びます。
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この構造主義的な考え、思想ってものすごく面白いので、いずれもっと紹介したいと思います。
というわけで、今回はここまでです。
次回もよろしくお願いします。