遊びの重要性
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
今回は、遊びとはなにかという話をします。
僕たちはみんな遊びをします。
人間にとって遊びは大事なことです。
全く遊ばずに生きていくなんて耐えられないことだし、
生きていくために遊びは言うまでもなく必要不可欠だと言えます。
では、遊ぶって何なんでしょうか。
直感的にはなんとなくわかります。
楽しい活動のことですよね。
僕たちの直感というのは優れているから、
例えば同じ野球でも、
休日にやる草野球は遊びであるが、
甲子園を目指す高校球児たちの野球は遊びとは言えないとなんとなくわかります。
では何が遊びで何が遊びではないのか、
どのようにそれを瞬別しているのか、
考えてみるとかなり深いテーマなんだけど、
それを言語化している人というのがいます。
遊びというテーマについて語るなら、避けられないのがホイジンガという人です。
ヨハン・ホイジンガというオランダ人で、1872年に生まれて1945年まで生きていました。
ホモルーデンスという本が有名で、この本は1938年に出されています。
もう100年近く前ですね。
ホモルーデンスとはホモサピエンスをもじった言葉で、遊ぶ人という意味です。
人間とは遊ぶという点に大きな本質を持つ生き物である、みたいなニュアンスが込められています。
ホイジンガ以前は、ヨーロッパでは遊びというのは低級で低俗な行為として真面目に扱われていなかったんだけど、
ホモルーデンスは遊びというものにきちんと真面目に着目して分析を加えた、いわば金字塔的な本です。
聞くところによると、この本の内容は保育士さんの保育士試験にも出てくるようです。
確かに子供にとっての遊びってめちゃくちゃ大事だし、そうだよねって思いました。
ホモルーデンスによる遊びの定義というのが5つあります。
6つあるという考え方もあるんだけど、ここでは5つでいきます。
後でまとめるので覚えなくてもいいんだけど、まずは定義その1。
自由な行為であること。
遊びとは、参加が自由であり強制されたものではないということです。
逆に言えば、もし強制的にやらされているのであれば、それはもう遊びではない。
ゲームでもスポーツでも、強制されると楽しくなくなってしまいます。
遊びの定義
次に定義その2。
虚構の世界に入り込むものである。
あるいは、非現実的な虚構の世界に入り込むものであるということ。
虚構の世界、すなわち遊びの世界で起きたことは、現実世界とは関係がないということで、
遊びが終わったら状態がリセットされます。
つまり、日常的な世界を侵食しないということです。
次に定義その3。
時間的にも空間的にも限定されたものであるということ。
時間的に限定されるとは、終わりがあるということです。
終わりがない遊びは、もはや遊びではないということです。
また、空間的に限定されるとは、バスケがバスケットコートの中で行われるとか、
カルタがカルタ台の上で行われるとか、そういうことです。
次に定義その4。
規則や秩序を持つということ。
これはわかりやすいと思うんだけど、遊びには必ずルールがあります。
サッカーは手でボールを触ってはいけないわけですが、
このルールが守られないと遊びとして成立しません。
みんながサッカーを楽しんでいるときに、
いきなり手を使い出す人がいたらしらけてしまうし、
しらけてしまったらもう楽しくないから、
遊びとして成立していないということになります。
最後に定義その5。
非確実性や非確定要素を持つということ。
ゲームがどう転ぶかわからない、
先に結果がわかっているのではつまらないので、
遊びの有儀性が損なわれてしまうということです。
はい。どれも言われれば、
まあそうかなという感じがするかと思います。
あと定義を羅列されても正直よくわからないと思うので、
一旦ここで切って、次回別の角度からまとめます。
次回に続きます。