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2024-09-22 07:55

#88 ドストエフスキー3 カーニバル

サマリー

今回のエピソードでは、ドストエフスキーの作品におけるカーニバル文学の概念とその特徴について語られています。特に、登場人物の思想や行動がカーニバル的に絡み合い、複雑な内面的対立を描くことで、ポリフォニー構造が生まれることが強調されています。

ドストエフスキーとポリフォニー
ストーリーとしての思想哲学
【思想染色】がお送りします。
前回、ミハイル・バフチンの言うポリフォニー構造の話をしました。
補足として、バフチンへの応答というのがあるので少し紹介します。
バフチンの主張にですね、応答した人にはルナ・チャルスキーがいます。
ルナ・チャルスキーは1個前の献身主義の回で話した人ですね。
ルナ・チャルスキーはバフチンに補足する形で、ドストエフスキー的なポリフォニー構造を
ドストエフスキーよりも前にやっている人たちがいて、それはシェイクスピアとバルザックであると言いました。
特にシェイクスピアのポリフォニーについてはこう言っています。
思想的傾向性を持たない、少なくとも非常に長いこと思想的傾向性を持たないとみなされてきたシェイクスピアは極度にポリフォニー的である。
シェイクスピアは自分自身とは関係のない人物像を想像する能力を持ち、
その人物像が信じられないほどに多様であり、それぞれの人格が驚くべき内的な論理性を備えている。
これは本当言ってるそのままなんだけど、めちゃくちゃ砕けて言うと、
作品の登場人物がみんなリアルすぎる、人物設定の作り込みがマジですごいって言ってるってことです。
ただシェイクスピアに関しては、その儀曲が何らかの命題を証明することに捧げられたものだとは言えないとも言っているから、
ルナチャルスキー的にはドステフスキーの方をより評価しているようです。
作品がポリフォニー構造であるということに加えて、
登場人物がみんな思想を持った内的な論理性を備えた非常に高度な思想小説であるっていうのがいいです。
ドステフスキー小説は、それぞれの思想を持ったキャラクターたちがカーニバル的にお祭り騒ぎをして、
で、状況をですね、ますます悪くしていくみたいなプロットなんだけど、
キャラクターたちはあくまで真面目にそれをやっています。
大真面目に個々人の思想に基づく言動をして、思想に基づいてるからみんな譲れなくって、
それでお祭り騒ぎみたいにドタバタになって、結果破滅していくという一種の喜劇なんですよね。
作品のテーマ的に暗いといえば暗いんだけど、喜劇だから明るいみたいな、
暗いんだけど明るいみたいな奥深さがあるから、読んでてシンプルに面白いんですよね。
はい、カーニバルという単語を出しましたが、前回の冒頭でドステフスキー作品の特徴の2つのうちの1つは
カーニバル文学であるということだと言いました。
カーニバルとは祝祭のことです。
お祭りと言ってもいいですが、祝祭の方がより適切かな。
まず祝祭とは何かというところから説明します。
祝祭やお祭りって、古今東西を問わず普遍的にあるじゃないですか。
この普遍的な存在である祝祭の特徴は何かっていうと、逸脱が許されるってことなんですよ。
祝祭やお祭りは、自発的な混乱と興奮を作り出します。
その混乱の中では、様々な境界線が曖昧になります。
カーニバル文学の特徴
普段我々の生活や人生の中にはっきりとある境界線が曖昧になるから、
例えば若者も老人も関係なく一緒になって騒ぐし、
身分や収入などの階級格差もお祭りという場の中では曖昧になります。
めっちゃ昔の時代を想像するとわかりやすいと思うんだけど、
例えば普段だったら、子作人が地主漁師の前で大声で騒いでたら、
無礼なやつだっていうことになります。
でもそれが祝祭の中でだったら、お祭りだから仕方ないなということになるわけ。
この無礼行的なお祭りだから仕方ないなの感覚がつまり、逸脱が許される境界線が曖昧になっているということです。
境界線という言葉がキーワードになります。
話をドステフスキー小説に戻すと、
ドステフスキー小説の中にはしばしば境界線を踏み変えるという行為が見られます。
主人公の貴族が貧民街をさすらうとか、
戸敷が貴族と結婚するとかいった、
実に様々な境界線の消費が本当によく出てきます。
あとは殺人や窃盗などの犯罪や、
大きなスキャンダルなんかも超えてはいけない線を超えたという意味で、境界線の踏み越えに当たりますが、
そういった犯罪やスキャンダルなどによって引き起こされる大騒ぎがカーニバルになるんです。
だからカーニバルには境界線のあちらとこちらがあるわけで、
常に良儀的なんですよ。
境界線の踏み越え、逸脱によって境界線のあちらとこちらという良儀性が生まれ、
その良儀性がそのまま人物の中で分裂した2つの声っていうのがあったじゃないですか。
この分裂した2つの声っていうのと、境界線のあちら側こちら側っていうのが対応しながら、
小説のポリフォニー構造へと回収されていく、還元されていくと、こういう仕組みなわけです。
あとは細かいことですが、カーニバル要素が生み出す副産物もあります。
登場人物の多くが、まるでお祭りの時みたいな感じで、
すごく明けすけで陽気な語り口で語るんですね。
何を語るかっていうと、そういう明けすけで陽気な語り口で、
めちゃくちゃ真面目な宗教論とか、人生とは何かみたいなクソ真面目なテーマを語るから、
それがシンプルに読みやすいし面白いとか、そういう副産物もあります。
あとは場面のカーニバル化のおかげで、通常の日常生活が営まれている条件下では、
なかなか明るみに出されることのないような、
本当に混乱と興奮の中でようやく出てくるような人間の性格や行動を明るみに出せるとか、
こういうプロット状の副産物もあります。
まとめると、カーニバル文学のキーワードは境界線である。
そして境界線を踏み越える行動、逸脱によって境界線のあちら側とこちら側がはっきりする。
そのあちらとこちらっていう量儀性が、
そのまま登場人物の内面における分裂した2つの声になり、
さらに2つの声に外部からの他者の声というのが加わり、ポリフォニー、多声合唱に昇華されていくと。
この形式が人間の意識そのものに非常によく似ていて、
人間の意識そのものをよく表していて、すごいと言われているという話でした。
今回はここまでです。まだ次回に続きます。
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