市場競争と権力闘争
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回、この社会において、趣味という武器を使ってお互いを否定し合うのが、現代の権力闘争だという話をしました。
そもそもの話として、この権力闘争という概念について説明します。
僕たちが最も慣れ親しんでいるのは、資本主義市場における市場競争だよね。
企業同士が競争し合い、より多くのお金を獲得しようとする競争があります。
僕たちは西側諸国の国民だから、市場競争が最も身近な競争です。
一方で、共産主義国家を目指す社会主義国においては、自由市場における市場競争というのは原則ありません。
でもね、そうすると今度は市場競争がなくなる代わりに、国民は権力闘争をし始めるんですよ。
なんでかっていうと、資本主義社会においては、お金を持っていれば資源配分を受けられるじゃないですか。
家とか車とかいいお酒とか、お金を持っていれば物資の配分を受けられますよね。
でも社会主義国ではみんな同じ収入だから、お金にあんまり価値がないんです。
みんなが同じ程度の収入でしかないから、家とか車とかいいお酒とかを、贅沢品を手に入れようとしてもお金じゃ手に入らないんです。
じゃあお金じゃなくて、何によって資源配分を受けられるかっていうと、身分権力です。
物資の配給、配分を実際に行う上級公務員なんかはもう最高ですよね。
社会主義国において、広い家、いい車、贅沢品なんかは、普通はお金を払ってもなかなか入手ができないんだけど、
物資の配分を決める権限を持っている人だったらなんとかできちゃいます。
だから上級公務員みたいな権限を持っている人には、みんな賄賂を渡すようになるし、自分の家族にも広い家とかいい車とかを融通してあげられます。
これって自筆的にお金持ちってことだよね。
社会主義国だから、名目上は収入は他のみんなと同じなんだけど、その権限が自筆的に貨幣のような振る舞いをして、自筆的にはお金持ちみたいになっている。
だから国民はこぞって、上級公務員やらなんやらの権限を持っている職業や身分を目指すようになります。
この身分権力を嗜好するというタイプの競争のことを権力闘争と言います。
権力闘争は構造上、社会主義国で特に顕著に現れてくるんだけど、資本主義国にもないわけではありません。
資本主義国にも資源配分はあるからね。
例えば、ハイカルチャーに多額の補助金が投下されるのも、権力闘争に勝利したことに伴う資源配分の結果と言えます。
このように、僕たちの社会にも権力闘争は見えづらいけど普通にあって、前にも言ったけどそれは無意識的に行われています。
美学上の不寛容から来る権力闘争
特に趣味という切り口からの権力闘争は美学上の不寛容から来ている。
つまり異なる生活様式への嫌悪感から来ているということでした。
この辺ちょっと本から引用します。
趣味というものがすべて皆そうであるように、美的性向もまた人々を結びつけたり切り離したりする。
えっとね、人は結局のところ、自分と似た者同士で集団を形成するんです。
学者だったら学者らしさ、芸術家なら芸術家らしさ、上流階級らしさ、労働者階級らしさというものが存在します。
このらしさがあると集団に自然に溶け込んでいけるが、らしさがないと弾かれやすいということです。
こうしたらしさ、その集団の主流派が備えているべきだと感じている美的性向を備えていないメンバーは周辺的な地位へと追いやられてしまうことになります。
要は美学の話なんですよ。
美学が同じような条件から生まれた人々すべてを結びつける一方で、他のすべての人々から区別するということをします。
主流派が生まれ育つ中で自然に身につけた美学が、主流派ではない人々を区別してしまうんです。
最初にディスタンクシオンとはフランス語で区別だという意味だと言いましたが、区別とはこのような意味です。
はい、ということで以上でブルデューの回は終わりです。
僕はブルデュー、すっごいエグい爆弾を投げ込んだなと思いました。
こんな分析をされて、当時のフランスの上流階級とか知識層の人々はどう思ったんでしょうね。
僕はこういう爆弾を投げ込む系の思想哲学が一番面白いと感じます。
ではまた次回もよろしくお願いします。