1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2023-02-22 51:29

#87 【サルトル雑談】今回の感想/心理学/原罪と自由の刑/実存主義的な子育て

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:00
(♪ BGM)
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、ついになかなか頭を使ったサルトル回、終わりまして、今回はまあゆるくですね、雑談していきたいなと思います。
はい。
どうでした?サルトル、あんな難しいのを調べてアウトプットというか、紹介してくれたんだけれども、手応えはあったかな?
そうですね、やっぱりサルトルって冒頭にも言った通り、まずは小説家として人気になり、哲学者として人気になったみたいな話もあったと思うんですけど、
多分聞いてる方も、マロニエの木がゴツゴツした黒い塊でみたいな話をした時に、どうなるんだろう、ちょっと不安だったんじゃないかなって思うんですよね。
そうだね、確かに。
僕もそういう不安が台本作ってた中であって、これちゃんと伝わるのかなとか、実論主義っていう話にちゃんと繋がるのかなとか思いながら、
やっぱりおさらした通り、サルトルの存在と無、それだけでも大事ですけど、あれもまだまだ若い時のサルトルの話で、それからもいろんな本も書いてるし、いろんな説も出してるみたいな。
なので、やっぱりサルトルが考えてることって、本当に広い中の一部分だけを切り取った中で、実論主義の面白さとかサルトルの凄さが伝えられるだろうかみたいなところは、やっぱり結構難しかったなと思っていて。
なるほど、そうか、小説の話でいうと結構若い頃だから、サルトルの感覚を表現する方法として、本人の中でもうまく言語化とか、伝え方みたいなものがまだ体系化されてない段階で、情熱ばかりが溢れてるみたいな。
結構そういう感じだよな。感情の方が先立ってるみたいな。
そういうのもあるし、やっぱり晩年になればなるほどサルトルの考え方が変わる部分もあるから。
そうなの?
だから、ある種、純粋ではあるんだけど、若い。若いって言っても30代半ばくらいだけど、その時の本の話をすることで、サルトルってすごいじゃん、面白いじゃんって思ってくれるかどうかっていうのは、ちょっと不安ではあったものの。
自分が改めて読んだ時には、サルトルのことは全然知らないなって思ったんだよね。
サルトルが言っている「無」とは何かとか、いわゆる即時存在とか対立存在って、今回でも当たり前のように後半使ってたけれども、それが何かとかもやっぱり全然分かってなかった。
03:03
今でも分かっているとは言い難いけれども、でもある程度意味合いとしては理解できているつもりみたいになった時に、自分はやっぱりそれを知るのが好きなんだなって当たるまで気づいたって感じですね。
要は仕事をして子供を貸し付けて、10時半とか11時から台本を作り出すわけよ。で、存在というのを読んで分からん分からんってなって、論文を読んだり参考書を読んだりして、そろそろ1時とか2時になるわけだよね。
だから本来は苦行というか辛い話だと思ううち、実際体的には大変だったんだけど。
確かに。夜哲学ショーを読むってさ、もう睡眠導入ぐらいの話じゃん。
そうだよね。でも頭を働かせて、こういうことかもしれないとか、こういうことで理解できた気がするってなった時の楽しさとか、やっぱりこれはやってよかったみたいな感じになったから、そういう意味では自分は哲学が好きだし、楽しいからやってるんだなっていうのを改めて感じたっていう意味でも、良かったなって感じはありましたね。
なるほどね。まあじゃないと続かないよね。だってさ、今でこそというかね、こうやってラジオでなんかアウトプットしてるけどさ、別にだってアウトプットする場所もないわけじゃん。
そうね、なかった。
飲み会行っても誰もさ話聞いてくんねえし、そもそもね、何言ってかわからないって言われちゃうみたいなさ、盛り上がる話題じゃないじゃんね。
そうね。
それでもへこたれずに続けるみたいなところ、やっぱ好きじゃないと続かないよね、確かに。
そうだね、だからやっぱそれまではね、自己満足でやっていたものが、台本にうまくまとまったら兄貴も楽しんでくれるんじゃないかとか、聞いてくださってる人たちも楽しんでくれるんじゃないかってやっぱりイメージがあるから、それでよりモチベーションになってるっていうのは間違いなくあるよね。
なるほど、なるほど。なんかいいね、すごい。
でもさっきさ、ごめんごめん、サルトルの若い頃の話とか、あと晩年は考え方も変わるみたいなのがあったんだけど、今回聞いたのは、その晩年の変わった後の話も含まれてたのかな?
いや、今回のほぼ初期の話だね。
ああ、そうなんだ、その「立尊はなんとかに先立つ」を全然覚えてない。
覚えてない、ちゃんと聞いてた。立尊は本質に先立つね。
立尊が本質に先立つか。あと自由の家だよね、人間は自由の家に所持してられているっていう。
その辺りは結構そうなんだ。じゃあ、若い頃の話というか、全然30代40代くらいの話なんだね。
06:02
そうだね、1940年とかかな。今回話した「立尊は本質に先立つ」とか「人間は自由の家に所持されている」みたいな話は、1940年代の「立尊主義はヒューマニズムであるか」みたいな講演を教えるんだよ、サルトルが。
その講演で話した内容に含まれている言葉で、だから初期から中期にかけてくらいの話をメインではやってるって感じでしたね、今回。
なるほど、その後なんか自分の考えを覆すような方向に行ったのかな?ただ深める方向に行ったみたいな感じなのかな?
深めるっていうか、それをそのまま生きたみたいな感じが強いから、めちゃめちゃそこで人が2点3点してるってわけではないんだけど。
わけではないんだけど、というか、わけではないというふうに思ってはいるんだけど。
後半ちょっと話したような、ちょっと話し切れなかったけど、それがどう社会に向かっていくのかとか、現実の社会としてどういうふうに実論主義的に生きていくのかみたいな話は、やっぱり晩年の方が深まっていたみたいな話はあるかな?
ああ、そっかそっか。じゃあちゃんと自分で作った土台の上で、そこから個人だったり、その先の社会とか他人とか、どんどん広げていったって話か。
そうですね。その間どうだった?サウトルの話聞いて。
毎回この人すげえなって思うし、毎回その人に全然かぶれてもいいなぐらいの、やっぱみんなすごい人なんだけど。
今回特にさ、キュウリテンオールやったりとかニーチェやったり、デカルトカントから。
だいぶニーチェで現代的な感覚に近づいたというか、すごく共感。
まだデカルトとかカントとか神みたいなものが前提になっちゃうと、なかなか共感というか、なかなか理解しづらいところがあったんだけども。
ニーチェで行って、現代人が持つ悩みみたいなさ、どう起きるかとかね。
だいぶアプローチしてきたなあっていう感覚があったんだけど、サウトルはもっとさらにそこの解像度というか、もっと今の自分たちの感覚に密着してきたなっていう感覚がすごいあるよね。
やっぱり出発点が、そもそも神って出てこないじゃん。ニーチェはさ、一応神は死んだとか神を乗り越える的な話で、そこのまだ神と対比して、人間とか理性ってものがあるような感じがするんだけど。
もう今回神ってワード出てきてないもんね。
そうだね、サウトルは今回話したように、一応本の中には神みたいなワードも出てはくるんだけど、神をどうこうってよりは、それってもはや神だよねみたいな意味合いで言われるぐらいだから、メインには出てこないんだよね。
09:16
あるのが前提の世界で、あるものはしょうがないと。あとはそれは、ここはニーチェの感覚に近いかもしれないけど、それを自分たちがどう捉えていくかって自分主観で持っていくところをさらに神の動機で突き詰めたというか。
そこで即時存在対時存在みたいな話をされちゃうと、だいぶ自分の認識とか、世界のあり方というか、世界がそうあったとして、自分の認識は確かに、からすると、世界の存在し方は確かにそうとしか言えないし、特に否定もできないし、別にする必要もないしみたいなね。
自分たちが生きていくにあたってね。
という意味で、このサルトの実存主義的な感覚から物事を捉えるとか、人との付き合いを考えてみるっていうのが、結構、だいぶしっくりくる感じがして、もうちょっと自分の実生活とつなげて、この実存主義的な感覚を考えていくと面白いなって。
それこそ前回あったさ、入り口出口にあった時に入っちゃった時に、やっぱり入り口から入っちゃうじゃんとか、車で駐車場を止めようという時にさ、下に矢印書いてるじゃん。
一応、逆走しないでねみたいな感じで順番が書いてある。それを守るか守らないかみたいな。守らないのを見た時にあいつって思うみたいな。守らねえなとか。
細かなことを一個一個どういう風に自分たちは、あの人たちは考えているのかとかね。いろいろそういう一個一個あるんだなっていうね。
そこが本来あるべきで、そういったものを無条件に受け入れているのか、そこに対して無条件に受け入れるってことをちゃんと選択しているのかねみたいなところまで、やっぱ考える必要があるというか考えるのも面白いんだなあっていうのをすごい感じてね。
なんかそういう意味で身近だった。 確かに。世の中がね本当にうまく回っててそれでいいんだって言うならば別にそこって考えない必要もないというか、そういう仕組みでもみんな生きていけばいいじゃんなんだけど。
やっぱり物事をちゃんと考えたいとか考えないとやばいみたいな時はやっぱりそういうそもそもに立ち返るみたいな意味での哲学。
12:05
とかそういう一人の人間とか自分と立ち返る実論主義っていうのはやっぱり意味があるよね。
そうだよね。特にサルトルが生きた時代っていうのはね、話しくれたけどさ、そういったさ、入り口出口とか信じてたらなんかぶっ壊れた世界みたいな話でしょ。
そうそう。 皆暴走しちゃって。 精神に突き進んじゃうみたいな。
その結果、あのルールなんだったんだみたいなさ、ことを皆思ってる時に出てきた話だもんね。
ここから実論主義的な考え方からいわゆる心理学とか実論的な心理学のもので出てきていて、結構コーチングとかはそういう流れなんだよね、本質的には。
一人の中にいろんな可能性があるとか、一人の人間のある種認知の仕方を変えると世界の取り方が変わるみたいな話って、ちょっとコーチング的なんだけど。
そうなんだ。あれなの?なんか今の話聞いて思ったけど、その心理学みたいなものももしかしてその前とかってさ、
その心理学のイデアみたいなさ、その人間一般共通するそのなんとかみたいなものを突き詰めてるような心理学もあったりしたのかな?
難しいんだけれども、もともとは心理学って、ちょっと話全然脱線しちゃうんだけど、もともとは心理学っていえば精神病にどう対応するかってところが始まってるんだよね。
そうなんだ。 へー。
いわゆる転換とかさ、いわゆるヒストリーみたいなもので、当然時代とともにあったわけよ。
それが、これも俗説だったからどこまで確率的に正しいかわかんないけど、
当時はいわゆる魔女付きとか悪魔付きみたいな感じで、そういう例の仕業にされてたんだよね。
はいはい。当時ってどのぐらい?
例えば1400年とか中世の時代とかも含めてなんだけど、それがどんどん時代が暗いにあたって、そういう精神病患者の施設とか、
そういう人たちが治療の対象だとなった時に、それこそフロイトみたいな人たちが出てきて、
どういう風にそれを対処するかとか、改善させるかみたいな症状として扱うかっていうのがまず出てきて、
なるほどなるほど。
そこから、イエングだったり、嫌われる勇気とかで有名になったアドラーだったり、
そういう人たちが出てきて、心理療法をどうやっていくかっていうのがどんどん発展してきたっていうのが、
心理学の始まりではあるんだよね、学問としての。
へー、そうなのね。でもあれなんだよ、そこはやっぱり医療とはちょっとまた違うんだね。
精神科は医療だね、もちろん処方もするし薬もするし。
15:00
心理学も臨床的ではあるんだけど、医学的ではないんだよね。
だいたい、要は再現性はあるんだけど、いわゆる化学的な処方ではない。
ちょっと化学的に難しいんだけど。
何をもって化学とするかね。医学にとっての薬学とはちょっと違うよって話。
そう、薬学とは違う。心理カウンセラーは医師免許は持ってないけど、
臨床心理師じゃない、精神科医はもちろん医師免許持ってるしっていう違いは、一応免許制度的にはあるよね。
なるほど。ちょっと基礎研究には近いけれども、そういった薬学とか、どうしてもどういう風にそれが効くのかとか、
やっぱり人間の心だから、現実の証明しきれない部分があるからみたいな話の分野ってことなのか。
そうだね。この辺りとかは面白いし、ちょっと今日、最近読んでいるフランクルっていう人がいて、
夜と霧って聞いたことあるかな?
読んだことないけど名前はある。
まさに夏の教世主要城とかにいられた人が、どういう風に生きる意味を見出したかみたいな話で結構有名なんだけど、
その人はその人で、フランクルのロゴセラティみたいな心理療法というか、そういった活動をされていた方がいて、
それも医療というか、そういうものには落とし込みにくいけれども、ちゃんと人にとって意味があるとか、
そういう症状変えた人を緩和させるみたいなことはあったりするので、
それは僕が元々心理学を大学でやってて、科学者になりたかったから、なんとかそういうのを知っているとか見ているみたいな話なんだけど、
そこがやっぱり学術的にとか論理的にという話と、まさに言ってくれたような、人の心だからやっぱりそれでは還元しきれないみたいな、
それは心理学のレイヤーでもあるし、哲学のレイヤーでもあるよね。
なるほど、そっかそっか。そこは医学との、またね、線引きしなきゃいけない場所でもあるし、そこはされちゃうところというか。
そう、やっぱり実存とか、一人の人間って向き合ってすごい大変なんだよ、そういう意味で言うとやっぱり。
うんうんうんうん。そっか、心理学もそういう病気として捉えた時に、病気とか治すもの、捉えた時にそうやって出てきて、
18:01
その実存主義的な、ごめんね、そこから脱線したよね。
実存主義的な、心理学にも実存主義的な手法というか、スタンスのみたいな、っていうのはそういうところなの。
いわゆるそういった転換とかってさ、一応病名みたいなのがついたとして、それ一般を治す手法みたいなものがやっぱり求められると思うんだけど、
そういうところじゃなくて、意外とそういう症状、似たような症状、転換っていう言葉で例えば、膨られる症状であっても、
その症状を改善するとか、何が原因ですよ、起こってるかっていうのはすごく個人的な話なんだよ、みたいなのが実存主義的な話なのかな。
まあ、ちょっとそこまであんまり無理やり聞きつけるのは難しいんだけど、あくまでも敵だから、別に実存主義ではないし。
どっちかっていうと、いわゆる処方できる対象としてみるか、その人の在り方としてみるか、みたいな。
やっぱりそういう転換症状とかっていうのはもちろん薬で抑えられるなら抑えた方が例えばいいみたいな前提はあるけれども、
そういうことが起きても人生をある種豊かに過ごすとか、そういう自分とうまく付き合うみたいな話は、やっぱり医療ではタッチしきれなかったりするから、
ある種、そういう症状も病気とかマイナスなものとしてみるんじゃなくて、やっぱり自分の一部としてみるみたいな思想とかがもともと出やすいよね。
それがその医学的にどうかとかはあるけど。
はい、治療とかじゃなくて、そもそもどう捉えるかみたいな話か。
そうそう。
最近だとあるじゃないですか、それこそADHDとかHSD、いわゆる配慮せんしつするパーソンみたいな、やっぱりそれを症状としてみるか特徴としてみるかみたいな話ってあって。
やっぱり授業中落ち着かない子供がいたときに縛り付けてても、やっぱりつけに押さえつけとけっていうのは、やっぱりちょっと古い見方というか。
ある種その個人を見てない見方で、そういう茶道みたいな傾向があったとしても、そういう人を生かす社会って何かとか、その個人が豊かに生きられる世の中って何かみたいな方向も少し出てるっていうのはそういうことだと思うんだよね。
なるほどね。そっかそっか。自分が何かで他の人と違うとかじゃなくて、そこそこ社会側、ハヤト社会側の話もしたけれども、個人側でもね、自分の方も自分はそういう風な特性があるんだねってことをちゃんと自己認識するみたいなとこも、
ハヤトの言うところの実論主義的みたいな話に近いんだね。
今言う多様性みたいな話か。
21:01
そうだね。だから実論主義を広げると多様性になるけど、その多様性はそれぞれ的には豊かなものっていうよりは、あたが乗り越えるものだからみたいな、そういうぐるぐるしゃまになってくるんだよね。
単純に多様性を認めましょうっていう風に、そっちの方がいいよねっていう人がちょっと浅いって思ってしまうのは多分そういうこと。
ねえ、ちょっとあの入り口と出口っていう話で、それって言っちゃってるって話だよね。そこはちょっとその自分からたどり着いた多様性ではないよねって話だね。
じゃあ本当に多様性って言って出口から人がいっぱい入るようになったとか、車である種信号回らない人がいたっていうのは多様性なのかとかね。
はいはい。
それは倫理的に間違ってるって話も当然あるし、そこをちゃんと細かく分けて議論していかないと、なんとなくみんなが好き勝手やっていいよねっていうのは違うみたいな話になってるかな。
はいはい。自由とも違うしねって話だよね。
そうそうそうそう。
なるほど。面白いね。でもまあ結構こういう哲学ってそういうのあるかもしれないけど、無理矢理結びつけられちゃうっていうのは面白いし怖いしみたいな感じなのかな。
そうだね。だからね、あんまりこうなんだろうな、前もちょっとにいちの時とかに言ったかもしれないけど、やっぱりこうにいちはこんなこと言ってましたって言葉だけがあるみたいなのはやっぱり僕はあんまり好きじゃないっていうか。
はいはいはい。
心理テスターみたいになっちゃうから、心理学と心理テスター全然似てひになるものなんだけど、似てない。
そう、似てないんだけど、やっぱりなんかその心理テストって心理学っぽいって言われちゃうとか、そう。
でよくあるのは心理学学んでると、なんかじゃあ俺が今考えてること当ててみてよとか言われて、いやわかるわけないでしょみたいな。
なるほど。
そういうもんじゃないんだみたいなね。
まあいろんな取り方、まあそうだよね確かにね。
やっぱり哲学もちゃんとどこまでは哲学的に語れるけど、ここから先は哲学じゃないよみたいなことを鮮明にするみたいな話は、なんかわかんない、それをどこまでできてるかわかんないけど意識はしてるつもり。
そうなんだ、そうなんだって。そこが多分ね、自分の場合はわかんないからね、鮮明な哲学なのか哲学的なのかってのは結構難しいのかなと。
確かに確かに。それです、ラジオは哲学的なポッドキャストです。
そうなんだね、頑張って哲学っぽくしてるけれども、どこまで行っても素人がやってる以上、哲学にしてる。
そうそう、どこまで行っても本人の人じゃないので、あくまでも哲学に寄り添いたい哲学的なラジオですね。
全然話が変わるんだけどさ、今回サルトル聞いてさ、ふと思った、収録終わった後思ったんだけれども、自由の系話聞いた時に、
24:14
自由の経営じゃん、物事が存在する世界で、自分はそういったものを大事存在として、物事とか他の大事存在の意味付けをし続けなければならない、
という、ある意味カルマを背負ってるんだみたいな話もあったと思うんだけど、それすごい納得もしたし、面白いなって、今回自分の中ではキーワードだったんだけれども、
それってさ、現在?キーストーキョーの現在に近い感覚だなぁと個人的にパッと思って、最初言ったさ、もう神を乗り越えた感じはするんだけれども、
一周回ってというかさ、そういう感覚に戻ってきて、自分は自由だけど責任もあるし、物事を自分の理性で意味付けをし続けなければならない、
みたいなさ、結構現在に近いストイックな感覚?そこはむしろ近いし、一周回って戻ってきた感覚があって、そこってあったりするのかな?
そこを自分の中でまだ深まってないから、違和感というか雰囲気だってちょっとあれ?と思ったんだけど。
なるほどね、そこを繋げるの面白いなって思ったし、現在っぽいっていうよりはどっちもルサンチマンっぽいなって思ったのね。
ルサンチマンはニーチェの言葉の言うところの、いわゆる恨みとか冤魂とかそういうやつだけど、
貧乏人というか、労働者階級が司法者階級を、あいつらは、金を守ってる奴はダメだみたいな話をするんだけど。
そうそうそう、貧しい方がいいんだみたいな奴は逆転してるよねみたいな話なんだけど、それがサルトルの病的なところなんだと思うんだよね。
だから別に自由なんだったら、楽しくハッピーで楽天的でもいいじゃんって言ってもよかったのに、それを敬とか不安とか地獄みたいな感じで言ったりするんだけど、
地獄まで言ってんの?
そうそうそう、他人は地獄だみたいなことを言ったりして、要は自分の宇宙を壊すからね。
マインクラフトが2人プレイだったらみたいな。
27:02
そうそうそう、地獄じゃんそれは。
みたいな話でいくと、やっぱり人間性なのか、人間観、世界観の根本に、そういう恨み、辛み、弱みみたいなものが含まれている感覚が確かに共通するなと思うのね。
はいはいはい。
だから、いわゆるキリスト教的な現在っていうのも、人間は要は罪を犯しているから、その罪を神に対して背負っているんだっていうようなところから始まっていくし、
サルトルの実存主義とか的な人間も、人間っていうその存在が世界を生み付け続けなきゃいけないというか、その世界を生み出し続けなきゃいけない。
逆に言うと、その生み出し続けた世界から自分が縛られるというか、影響を受け続けるっていうような関係にあるみたいなことが、自由の刑っていう話だと思うんだけど。
でも本当に社会と人間ってそういうふうに対峙してるんですか?とか、神と人間ってそんな罪みたいなものでつながっているんですか?
っていうのがやっぱり疑うことができるよね。
なるほど、まあそうだよね。確かにこの感覚があんまり一般的じゃないっていう時点でさ、意外とね、素朴な人間の感性からしたら全然違うかもしれないっていうこともありえるんだもんね、この実存主義。
そうそう、あり得るあり得る。
なんか別に、なんかもっと素朴に、いやでもなんか人間は別に自然と調和して豊かに生きてますよねっていうことも別に言えるし。
うんうんうん。
なんか多分これはやっぱりサルトルの、まあまさにその、これも1回目で言ったけど、サルトル一人の病気だったのか、やっぱりそういう第二次世界大戦とか、高度経済成長期の中で人間が疎外されているとか、
あとは触れてないけどマルクス主義的なやっぱり社会主義的な動きが出ているとかっていう、その自在の不安を得た時の、何だろうな、多数の人が思っていたことなのか、
でもそれも結局自在の流れだったのか、本当に人間の本質なのかみたいなのは、やっぱり今21世紀に生きる、まあ僕らからするとやっぱ反省はできることだよね。
うんうんうん、なるほど、そっかそっかそっか、忘れてたけどそうだよね、サルトルが生きた時代を考えると、そうだよね、ある意味そこにもその、何だろうな、いわゆるその国家権力というか、
振り回された一般大衆というものと、まあそういったものをでもまとめて、何とかこの国が滅びないようにみんなでこう強くしていこうねっていうふうに頑張っていった、その国側みたいなね、
30:06
っていう、なんかそこにこう二つの階層というものがあった時に、とはいえこう振り回されてしまったその民衆がその焼け野原の中に立ち尽くした時に、やっぱりその、そっちが多数だよね、とはいえね、人数だよね、
こういう弱い俺たちが、そのイケイケだったその国の大偉いさんたちと比べて、間違ったじゃないかとあいつら、
やっぱ俺たちがこれから世界を作っていくんだ、俺たちの方が実は正しかったんだ、みたいなのってちょっと俺さん自慢的かも、と思った、確かに。
やっぱりそういう方が多分その、一般の人たちに受け入れやすかったとかもあるかもしれないし、ある種サルトルの実存というかサルトルの世界観的にも正しかった。それがじゃあ本当に全人類に正しいかどうかっていうのはやっぱちゃんとそれぞれはかかわらなきゃいけないよね、みたいな感じじゃないかな。
なるほど。だから現在と違うのは、現在はキリスト教徒は絶対現在を持ってるんだよね。まずはもうそれはそういう宗教というかそういう世界観で生きるのがキリスト教だから。
もちろんキリスト教にもいろんな派閥があるからあんまり一言言えないかもしれないけど、なのでキリスト教徒に対しては現在っていうのはあるものなんだけど、サルトルの実存主義の中でいう自由の系っていうのが全人類にあるかどうかっていうのがちゃんと考えられることとか批判できること。
そうかそうかそういうところか。面白いね。サルトルのこの話は面白いけれども、意外とそういう観点から、素朴に考えるとそうじゃないよねとか、結構ルサンチマン的だよねとかっていう、全然批判はありえるし、
そういう話なんだ。もう両手あえてこの世界観でサルトルついてきますっていうわけでも別にしなくていいよって話だね。
しなくていいよね。
そこすらもやっぱり、まあでも面白いね。哲学者はちゃんと自分にもくりうってるみたいな感じが面白いんだけど、ちゃんとこのサルトルの話とかを聞いた人もちゃんと自分の、自分が大事存在としてサルトルの実存主義にたどり着いてくださいね、たどり着きたいならっていうとこだよね。
そうだね。実存主義的に生きるならかな。
はいはい。
そう、実存主義的に生きることを選ぶなら、自分でそういうふうに考えてたどり着いてくださいねが正しいかな。別に他の考え方もいっぱいあるから。
あるからだよね。ゼロベースで考えてたどり着きたいならたどり着いてくださいねって話だよね。
その目の前に実存主義の扉とキリスト教の扉と仏教の扉があって、俺はこれに行くんだみたいな風になっちゃうと、それはやっぱりちょっとこのサルトル的にもちょっと違うというかね、ちょっと考えてよってなっちゃうっていう話だもんね。
33:14
まあそうだね。
だからそういう風にサルトルも多分困るよね。そういう風に俺についてこらえてもみたいなね。
そう、そこがある。だからね、それは難しいんだよね。
そうなの?
面白いと思う。だから結局僕は人によってやっぱり合う思想とか、そもそも哲学が合う人と宗教が合う人も違うと思ってるし、同じ哲学の中でもどの思想が合うかっていうのが違うと思うね、人によって。
うんうんうん。
だからやっぱり、でも両方あるんだよね。やっぱり宗教もやっぱり統一宗教みたいな、やっぱり世界人類が関われる宗教を作りたいっていう風に考えてる人たちもやっぱりいるし、やっぱり今はね、やっぱり人種と宗教が結構結びついちゃってるから、そういう統一したいっていう考え方もあるし、
でももっと宗教って人によりそうになったら、もっと分かれてもいいんじゃないって考える人もいるしっていう、やっぱりこう、普遍と個というか個別みたいなやっぱりところの行き来っていうのはやっぱり常にあるよね。
それをやるのが次の構造主義でもあったりするから、その辺もね、また面白いと思う。
あ、そうなんだ。そういう話に繋がってくるんだ。
そうそう。構造主義はまさに構造だから、個人がどう思ってるか、それの支配するシステムとか全体性を結構テーマにするんだよね。
面白いよね。でもそうやって哲学からね、哲学というものとか宗教というものが個人にどうなじむかみたいな話は、それはそれでやっぱり面白いし、それもある意味確率論というか偶然というか、
その人がどういう価値観で育ってきたかとか、どういう国で育ったかとか、そういうものに左右されてどれがなじむかみたいな話で、
意外とね、そこをちゃんと取っ払うことができれば、自分にどれがなじむかっていう概念すらもある意味存在しないか、もっとゼロベースでなじむっていう感覚が、
自分の価値観ベースだとゼロベースじゃないとなじまされてるって話じゃん。考えずに、なんとなく入り口から入ってるっていう話で、
それとゼロベースで本当に自分は入り口から入るのか出口から入るのか、ゼロベースで考えた時にやっぱり入り口でした。
また違うもんね。自分の感覚としてもね。多分、かやとがさっき言った人によってなじむものが違うっていうのも、
36:03
そういう二段階があるような気がしてね。
その二段階を克服というか、別に克服というか、それを知ることが別に幸せだったりとか正解ではないんだけれども、
一つの手段として、哲学とか宗教というものは、自分の価値観を突破してゼロベースで考えるスタートになるのかなっていうのは、
このラジオを通じてすごく感じているところではあるよね。
嬉しい。一年近く経って、やっぱり兄貴もそういう感覚になってきたんですね。
今の話は兄貴の話だけど、ハイデ側っぽい話だなって聞いてたので。
ハイデ側、へー、そうなんだ。
ハイデ側。
それもまた楽しみにしていただければという感じなんですけど。
そうなんだね。楽しみにしても。
でもいいよね。面白いと思う。言語化遊びじゃないかな。
何て言うんだろうね。違うな、言語化遊びじゃないな。自分の感覚が。
面白いよね。言語を通じて自分の感覚の存在に迫っていく感覚かな。
これを言うと、元々自分は自分の感覚が存在しないことに悩んでいたんだなって。
そこら辺が見えてきて面白いなと思ってる。
いきなりこの時間からこの話をしたら長くなる。ごめんよ、これは。
でも実はそういう概念とかを得ることで、自分の漠然と思っていることとか、考える言葉がなかったところに言葉を与えてくれるものだなと思うから。
さっき言ったように、自分の存在がゼロベースの存在とそれを受け取っている存在に分かれているという話は普段はしないし、それをどういうふうに表現していくかもわからないじゃない。
それは即時と対時と対他と分けることで考えやすくなるというのもあるし。
哲学者は大変だよね。自分が見つけた発見をどう伝えるかってここまで苦労しているんだよって話だよね。
本当そうだと思います。だからこそ、これだけいろんな哲学者、それ哲ラジオもやらせていただいているけれども、みんな面白いし、みんな聞いたら楽しいと思っていただいているんじゃないかなと思うので。
雑談なんか毎回こんな哲学面白いなっちゃうけど、いいのかな?
哲学面白いのラジオだったからいいんじゃない?面白いですよ。
39:03
面白さの多様性みたいなもの。最初はソクラテスだけ聞いても面白かったけれども、またちょっと味わいが深い感じもするもんね。
はいはいはい。なるほどね。確かに。いろんな人が見えてくると全体像というか、ソクラテスと古代ギリシャが繋がって、中世のキリスト教を通ってデカルトに行ったんだけど、見えてくるとちょっと広がりが出てくるじゃないですか。
そこからデカルトとサルトロも繋がっていて、そのあたりにヘーゲルがあるんだみたいなことが見えてきたりすると、ヘーゲルすごいな、伝承法ってやっぱりすごいんだな、みたいなことを思ったりするし。
ヨウ:確かにね。無理やり今回の実能主義的な話に繋げるとだけど、物事は存在するってあるでしょ。今、うちらが生きている世界が存在している、その存在ってさ、そういう思想とかいろんなものが、世の中的にブラッシュアップというか、どんどん積み上げられてきて、
ヨウ:今回もサルトロの目の前の存在っていうものをさ、石とか川とか、自然物みたいなものとか、谷みたいな、そういう素朴な風景を想像しちゃうんだけど、実際は目の前に満員電車が走ってて、みんな通勤に行っている。
ヨウ:ビルが立ち並んでいる。あともうYouTube、面白いYouTubeとかテレビがいっぱいある。雑誌が並んでいるとか。もういろんな情報、Twitterでいろんな情報が溢れてくる。っていうのも、それと同じ話でしょ。
そうだね、同じ話。 ヨウ:それも、ただあるって話でしょ。自然物の草が生えていると同じレベルでTwitterのタイムラインが流れてくるっていう風に捉えた時に、やっぱりそれを自分がどう捉えさせられているのか、みたいなことを考えた時に、
そういった目の前にあるものっていうものを、この無垢な赤ちゃんみたいなものをバーッと受け取っちゃうと結構危ないみたいな話を今回はされていると感じて、自分のフィルター、さっきのゼロベイスみたいな自分のフィルターを作らなきゃいけない。
作らないと、そういう溢れてくるTwitterのタイムラインとか、面白いYouTubeみたいなものを自分で見つけするって相当難しいんだよね。何千年の積み上げ、思想的な積み上げだったりとか、いろんな集大成みたいなものが自分の目の前に迫ってくるから、
42:01
それを赤ちゃんが受け取ると結構きついんだよね。受け取る側のスタンスというかね、こういったものをきちんと手伝うといった、
目の前にあるものたちは一体何なのかみたいなものを判断するためのゼロベイスのフィルターとして、こういったことをねちねちと、くどくどと考えるとかね、こういう考え方があったんだってことを少なくとも知っておくとか、
そういう楽しみがあるなぁってね。今回、デザインの面白さみたいな感じで見えたかな、このサイトルを通じて。
でもよかった。やっぱりそのフィルターがあるってことは気づくみたいなのがすごい大事だし、あと今ね、兄貴の話を聞いて一個思い出したんだけど、僕娘がいるじゃないですか、娘が3歳くらいになると、
なんかピンクは可愛いから好きってことを言うのね。自分で言うやったんだけど、それまで言ってなかったよ、別に何色でもいい、青とか緑とかも好き好きって言ってたんだけど、突然ピンクは可愛いから好きって言い出したの。
でも考えてみて、ピンクは別に可愛くはないし、可愛いと好きも違うのよ。だから全部違うのね。でも普通に聞くと、確かにピンク可愛いからいいよね、好きだよねって言っちゃうんだけど、
いつうちの子はピンクを可愛いと認識されたんだろうとか、可愛いものが好きって本当に思ってるんだろうかっていうことをめっちゃ気になって、いろいろ聞いたのよね。
聞いたの?3歳児に問い詰めてみたんだね。
ピンクって可愛い、なんで可愛いのとか、じゃあ青は可愛くないのとか聞いたら、やっぱり可愛くないとか、ピンクは可愛いは可愛いなんだけどとか言うから、それは言語ができなくなってしまうかって思った。
そうだよね、無茶な話だよね。
でもそれも人間の本性としてピンク色のものが可愛いみたいな感情と結びつくのか、やっぱり誰か他の人が言っているとか、世の中的にそういう情報が入ってくるから言っているのかっていうのは全然違うんだよね。
違うんだよとか、違うと思ってるんだよね、僕は。
特に保育園とかね、幼稚園みたいなところに行くとそういう情報が入ってくるからね。
だからピンクの服着てると可愛いよねって言われるとかって世の中の方があった時に、別に娘に対してそれを自覚せよとは言わないけど、やっぱりそれが本当に自分が思っていることなのか、思い込まされることなのかは、そのうち大事になってくるだろうなっていうことを思いながら子育てをしているんですよね。
45:09
なるほどー。それはね、子供からすると難しい話だよね。でもね、子供からすると多分本気でピンク可愛いって多分心から思ってたとして、それを親から毎回「それなんで?」って聞かれた時に、
なんかどこかでくれそうな気もするし、あとそれによる感受性?自分の感性みたいなものが潰しちゃわないかっていうところもあるし、だから難しいよね。
だからいつからそういう話をすればいいのかってね。子供に「なんで?」とかって聞いちゃう時もあるんだけど、でもそりゃ言えねえよなって。
結構言うけどね、僕はその感情と行動が違う時に「それって違いよね」とか結構言うんだけど。
寂しい時に怒るのは、なんかちょっとわからないみたいなことを言ったりして。
あとはやっぱり親として、いわゆるステロタイプを植え付けてないかなとか意識するようなしてるから。
なるべくフラットな方にみたいなね。
なるべくね。例えば車ってかっこいいよねって時に、でもこの子は車可愛いと思うかもしれないとか、別にかっこいいと思わないかもしれないから、
こっちがこれってこうだよねとか、ヒーローって強いよねみたいな、そういうフワッとした属性を伝えないようにとかは結構意識してる。
それはちょっとわかる気がする。確かに。
それは怖いよね。自分の無意識の、それは良くも悪くもあるけどね。やっぱり親がここにいるみたいな話とか家庭環境があってのがあるから、
それがね、そのままだったり、それが反面教授みたいな感じで、反抗的に逆でいくかもしれないってのがあるんだけれども、
ステロタイプはなるべく植え付けたくないってのがあるんだけどね、そうした時に、自分がだったらどう伝えようかってのはちょっと考えて、
今なるべくやるようにというか気をつけようとしているのは、子供にとってはそういったさ、車かっこいいとかってさ、やっぱり自分の何かを伝える時ってあるじゃん。
それはあくまで親の感動を伝える。だから、親がステロタイプで思わされていることをただ発するんじゃなくて、
自分はめっちゃこれ好きなんだよねっていう感情をスタートで、言語はその後っていう順番で伝えるっていうのが多分子供にとっては、
言葉がどうあれ、多分その親の感情、感動部分が伝われば、感動って面白い。
48:09
それを自分がどう思うかは自由で、目の前にあるものとか、そういったものに心を自分が動かされることに対して楽しいとか、楽しいというかね、そこに興味を持ってもらえる。
だから嬉しいなっていう意味で、本当はね、かわいいでもかっこいいでもどっちでもよくて、自分が本当にこう思ったっていうところを伝えるように今気をつけている。
いいですね、というか。それはやっぱり実存主義的な書かれ方だね、それは多分。
実存主義的子育ての話ね。
子育てはやっぱり一人の存在に向き合わせるがちだからさ、それを子供A、Bとはやっぱり過認識はしないじゃん、僕らは。
でもそうだね、確かに世界はそうやってある程度一般化してくるからね。
保育園行って帰ってきたら、何かをかっこいいと言い始めたりとかね。
ね、言い始めたりとか、小学校に入ったらやっぱりクラスの規律の方が大事になるとかっていう風に、だからそれがいわゆる没個性とか、個人の未来みたいな批判になっちゃうけど、やっぱり実存に向くのは大変っていう話で、そこはイコールというか、実続きなんだよね。
確かにね、オーダーメイドの難しさだよね。
はい、なんかそんな感じでちょっと子育てというか、子供との触れ合い方にも及びましたけど、でもやっぱりそういうところまで広がっていくのが面白さかなと思うんです。
実存主義って一人一人の人間っていうのはやっぱりすごく密着してるから。
うんうんうんうんうん。
はい、そんな感じで今回実存主義について話してきましたけど。
いやー面白いね。
ただあれだもん、毎回言ってるけど、これがさ、構造主義っていうのが一体どんな感じになっちゃうのかってね。
そうだよね。
こんだけさ、実存主義的に全部さ、子育ても実存主義だとか言っときながらさ、だから次の雑談会では子育ても構造主義だとか言い始めるでしょ。
それも言えるってかできる。
それが怖いんだよね、哲学が。
そうそうそう。
そもそも子育てっていう言葉にどういうものが含まれてますかっていう話はやっぱりあるじゃないですか。
やっぱりそのいわゆる個人、家族のレイヤーと地域のレイヤーと社会のレイヤーと国家のレイヤーとみたいなのがあったときに、
それが全部はつながってるよねっていう構造的につながってるねっていう話も言えたりはするから。
なるほどなるほど。今はね、自分の子供の話をしたけれども、もうちょっとマクロ的に見ていくこともできるって話だね。
それだけが構造主義ではないから、またそこはしっかりお話はしていきたいんだけど。
51:05
次回もお便りでまたゆるゆると話しながら、そっちに向かっていきましょうということで、また次回もよろしくお願いします。
ありがとうございました。
(♪ BGM)
51:29

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