1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #196 日本の哲学者、九鬼周造..
2024-03-13 45:35

#196 日本の哲学者、九鬼周造が発見した「偶然」の正体


「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。
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サマリー

九鬼周造は偶然の三つのタイプについて解説しています。一つ目は論理的偶然であり、一般的な概念と具体的なものを区別する偶然性です。二つ目は経験的偶然であり、日常の出来事や因果関係に関する偶然性です。三つ目は刑事上的偶然であり、偶然の偶然のような偶然性です。経験的偶然の中に因果的偶然と目的的偶然があり、その目的的偶然は別の目的にとどまる話や、神の意思によって起きる神の偶然が存在します。九鬼周造は哲学者であり、「偶然」の正体について考察しています。日本の哲学者、九鬼周造が発見した「偶然」の正体について、運命や生きる意味という観察を通じた出来事を探求しています。

論理的偶然
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は最初の方から結構名前が出ていた、九鬼さんかな、九鬼周造さんという方について、ついに掘り下げていくと。
なんか名前だけ出てて、内容よく分かってなかったもんね。
そうですね、偶然、偶然性といえば、九鬼さんですぐらいしか言ってなかったんで。
今回、九鬼さんの内容というよりは、偶然という言葉というか概念、これをもうちょっと解像度高く見ていきましょうというふうに思っておりますと。
はいはいはい。
これまでも、それ哲ラジオあるあるだと思うんですけど、やっぱその言葉をさ、偶然なら偶然というものをなんかうまく考えようと思っても、やっぱ難しいんですよね。
偶然というものにいろんな意味が含まれすぎたりとか、いろんなケースで使われちゃうから、なんかよく言うと、いわゆるその偶然ってどの偶然みたいなね。
なるほど、はいはい。
っていうのがあるので、ちょっと今回九鬼さんが偶然と三つのタイプに分けてくれてるんですよ。
それをどんなタイプがあるのとか、どんなふうに分けたのっていうことをちょっとお話しして。
今回はね、ごめん、もしかしたらちょっと抗議的というか、ちょっと知識的な話になっちゃうかもしれないんですけど、それに基づいて次回ね、運命とはっていう話をちょっとしたいんですよ。
うんうんうん。
偶然と運命ってちょっと関係あるよねって話を前回とか前々回もちょっと思うんですけど。
なのでちょっと今回はその準備というか、そこに至るそもそも偶然って何よみたいな、そもそもというかどんなふうに捉えたらいいのよっていう話をしていきたいですというような感じですね。
なるほど、確かに前回までね、2回使って偶然って何だろうねという話をしてきたけれども、面白そうだねっていうところまでやっとたどり着いて、
今回やっと偶然とは何かみたいな話を少し出て始めるよと。
そうです。
前提というかね、みんなの偶然、あまりにもやっぱり身近だからね、こういう言葉とかってね。
そういった2回かけてフラットに持って行ったところでやっと積み上げますよっていう、ちょっと懐かしの哲学パターンって感じですね。
そうですそうです。
でも前回ね、やっぱり偶然っていうのは必然っていうのと、ある種対になってるよというか、そういう概念だよとか歴史的な話をしつつ、じゃあ今回偶然とはって話をしていくんですけど、
その岸さんの話をする上であって、これもちょっと前回名前出したんですけど、木田玄さんっていう哲学者の方がいて、この人が偶然性と運命っていう本を書いてるよって話をちょっとしたと思うんですけど、
それがすごくまとまって分かりやすくやっぱり書いていただいてるので、それをちょっと頼りにご案内をしていきたいなと思っていますと。
なるほどなるほど。クキさんクキさんって言ってるけれども、そのクキさんをさらに参考に分かりやすく書いてくれてる木田さんの本を、はやとは今回元に捨てるっていう。
そうそうそう。なので孫引きみたいな感じなんですけど、やっぱりそうやってこうある種知識が繋がっていくっていう感じがありがたいというかね、分かりやすさというか、あるかなと思うんで、
ちょっとそこもですね、お伝えしつつやっていこうと思っているんですけど、ちょっと早速ね、じゃあ3つに分けるよって言ったんですけど、どんな3つなのって話をしていきますよと。
刑事上的偶然
最初名前だけなんだけど、なんちゃら的偶然っていうのが3つあって、1つが論理的偶然。論理ね。もう1つが経験的偶然。最後が刑事上的偶然。
本来はもうちょっと固い言葉なんだけど、インベースが固いんだけど、本来はもっと固いのよ。
これは木田さんが簡単にしてくれてるって話ね。
そうそうそう。まあこんな風に言ってもいいよねみたいな。
本当は定律的偶然とか加減的偶然とかって言ってらしいんだけど、変換できないじゃん。もう1個は理説的偶然。
いや無理だね。勘弁してほしいわ。
無理でしょ。理説的偶然とはみたいな。無理だから。
なんか鬼の名前みたい。
だしだしだね。それを多分ね。
なので、論理、経験、刑事上っていうのが3つにちょっと分かりやすく伝えていきますよと。
木田さんありがとうございます。本当にね。
本当にそう。じゃないとやっぱ我々みたいだね。無理ですよ。本当に。入っていけないからね。
確かに確かに。はやとがあえて木田さん、原点じゃなくて木田さんの方を読んだらもう分かるよね。
そうね。そこを理解いただけると嬉しいなっていう感じです。
別にサボったわけじゃないですよ。
サボったわけじゃないです。理由になります。
なのでね、1つ目の論理的偶然とはっていうところからいくんですけど、
これは論理なので、いわゆる抽象的な概念ですね。
要は、舞台と抽象とかってあると思うんですけど、
物についてじゃなくて、その物一般とか抽象的な概念みたいなものを考えましょうっていうときに問題になる偶然ですよっていう話をするんですよね。
なるほど。
例えば三角形っていう図形を考えてみましょうと。
実は三角形の物少ないなっていうのを考えたんだけど、台本作りながらね。
おにぎり、三角形だけどおにぎり型じゃんとかさ。
屋根も三角屋根って言うけど三角じゃないの最近多いじゃんとかちょっと思ってて。
なんだ三角の物って。とりあえず三角形っていうものを考えてみてくださいと。
サンドウィッチの方が角はシャキッとしそう。
サンドウィッチあったね。
コンビニのサンドウィッチ。
こういうものを考えていろんな三角形の物を言えると思うんですけど、
それをすごく抽象化すると要は三角形っていうのは3本の線に囲まれた平面というか図形だみたいな。
そういう風に言えますよねと。
つまりこれは三角形っていうものの概念っていうものが3本の線に囲まれているっていうものは欠かすことができなくて、
これが崩れるとそもそも三角形じゃないよねみたいな話だよねと言えますと。
これは前回お伝えした筆前って話なんだよね。
これは論理的筆前とかっていう言葉が元々あるというかそういう風な発想があって、
そこから論理的偶然っていうのを考えてるらしいんですけど。
まずは略から考えてみましょうみたいな話ですね。
そうですそうです。
そもそもやっぱり西洋の歴史って筆前のことしか考えてないから。
論理的に3本の線で囲まれたものは三角形であるという筆前があるって話なんだけど、
そこに対して筆前っていうのを裏返すと偶然だから、
論理的偶然っていうものもあるよねっていう風な発想の道筋なんだよね。
大丈夫?
OKOK。論理的偶然の今逆というか、論理的筆前の話を今してたわけね。
今は筆前の話をしてますと。
逆に3本の線で囲まれたものがサンドイッチなのかおにぎりなのか、
あるいは大きいのか小さいのかみたいなことって、
それはもう三角形という概念化するとぶっちゃけどうでもいいですよねと。
あとはそれはたまたまそうであるだけで偶然的なことなんだっていう風に言うんですよね。
なるほど。はいはい。
だからその三角形っていうものに対して、
例えばそれが緑色であるっていうのは論理的な偶然であるっていう風に言えますよと。
これを西洋哲学の文学に持っていくと、
いわゆるその概念、例えば3本の線で囲まれたものみたいなものは、
イディアに近くなるんだよね。
うんうんうん。
三角形のイディアっていうものがあって、
それに対して世の中にはいろんな三角形があるんだけど、
それは本当にたまたま偶然というよりは、
今あるかもしれないけど明日はなくなるかもしれないし。
うんうんうんうん。
という意味ではいわゆる個々のものと、
イディアって一般者みたいな感じになってくる。
はいはいはい。
例えば人間のイディアがあったときに、
人間には多分皮膚はあるだろうと。
でもそれが、例えば白か黒か、別に赤か青かみたいな、
赤青はないかもしれないが、
別にそういうのは偶然に過ぎなくて、
別に抽象的なとか論理的な観点化すると、
どっちでもいいですよ。
うんうんうんうん。
だからイディアには必然性があって、
個々のものには偶然性があるっていうふうにも言えるんだよね。
うーん、なるほどね。
そういうふうな理解をするってことね。
そうですそうです。
この論理的偶然っていうものを指しで見ると、
そういうふうに一般者、抽象的なものと個別の具体的なものっていうのが分けられますよね。
っていうふうな話になる。
というのが、その論理的偶然性っていうのはものです。
うーん、なるほど。
概念としての三角形は、
論理的必然性で表現されていて、
そうです。
コンビニに売ってる一個一個のおにぎりとかサンドイッチ、
そういうものは、
論理的偶然性の産物というか、
そういうものだよっていうふうに捉えると。
この話では。
この話では、その通りです。
うーん、なるほど。
はいはい、わかりました。
これが偶然の一つ目ね。
うん。
はい。
経験的偶然
次ね、2個目の経験的偶然性っていう話なんですけど、
これはね、たぶん一番わかりやすくって、
要はその、経験っていう僕らが日々生きてる現場というか場面、
で起きる偶然性のことなんですよね。
ふんふん。
さっきのは論理っていう抽象的な場面で起きたことだけど、
今回は具体的な生活とか経験の場面です。
例えば前回話したような、そのまあ10年ぶりにね、
例えば友人と街でばったり再会しますみたいな。
これも偶然ではねって話なんですけど、
これをね、くきさんがどんなふうに分類したからには考えていくのかっていうことを
ちょっとお伝えしていきたいんですけど、
うん。
言われてみればね、その通りではあるんだけど、
この経験っていう出来事じゃないですか、
何かを経験するって出来事だと思うんですけど、
これを因果、原因と結果っていう関係と、
あと目的と手段っていう、
またちょっとね、別の2つの関係に分けて考えるんだよね。
ふーん。
これで実は同じコインの裏表みたいな話ではあるんだけど、
因果の関係っていうのは、
ある種の原因と結果が対応するというか、
この出来事が起きたら、
次にこの出来事が起こるはずだっていう、
ある種予測みたいなものを含むんだよね。
ふんふんふんふん。
例えばこれも必然の話でいうと、
朝になれば太陽が昇るみたいな。
そういうのが経験的必然ですと。
ふんふんふんふん。
で、偶然って何かっていうと、
実際こんな例が本で出てくるんだけど、
例えば屋根の瓦が落ちて、
下に歩いてる人に当たったみたいなケースが挙げられてて、
ふんふんふん。
これが経験的偶然だっていうふうに言うよね。
なんでかっていうと、
ある種その瓦が落ちたことは結果じゃないですか。
ふん。
あるとその結果に対しては、
例えば風が強かったとか、屋根が古かったとか、
いろんな原因はあると思うんですけど、
その原因がちゃんとあれば、
原因から結果っていうものが必然的に導かれているので、
屋根の瓦が落ちるっていうのは必然なんですよね。
ふんふんふん。
で、逆にある人がその屋根の下を歩いていたと。
これもちょっと原因は分かんないですけど、
例えば道が混んでたとか、
日差しを避けてたとかってあった時に、
その原因から屋根の下を歩くっていうふうな出来事が起きたので、
それも必然なんですよね。
ふんふんふんふん。
でもその必然と必然が合わさった時に、
たまたまその瓦の屋根がその時に落ちて、
因果的偶然と目的的偶然
その瞬間その人に当たったっていうふうなことが起きますよと。
つまり屋根の瓦が落ちたっていう原因から、
人に瓦が当たるっていう結果っていうのは、
すぐには導けないじゃない。
ふんふんふん。
そこ同士は。
ちょっと感覚的になっちゃうけどね、そうそう。
もちろんね、人によってはさ、
身長だから屋根の下歩きませんとかっていう人もいるかもしれないんだけど、
一般的な感覚で言うと、
強い風が吹いて屋根の瓦が落ちるっていう原因と結果よりも、
瓦が落ちてきて人に当たるっていう原因と結果の方が、
身長起きませんよと。
まあそうだね、だいぶ薄いよね。
だからこれって偶然と言えるよねっていうふうな感じなんだよね。
わりと感覚的なんだね、そこは。
ちょっと本の説明ではっていう感じかな。
多分きさんの本ではもうちょっとちゃんと説明あると思うんだけど。
今の因果の話だよね。
因果だね、うん。
それがある程度、多くの人がそうだねって思えるぐらいの必然性があるもの、さっきのように。
風が吹いて、瓦が落ちるみたいな。
それはあれか、じゃあ別の必然ではね、人が歩く。
外を人が歩くとか必然だから、道だからね。
それが必然Aと必然Bが重なったときに、
たまたま起こっちゃうようなことは偶然だよね、みたいな認識。
それとも因果がいまいちわからないなーみたいなやつは全部偶然と言っちゃうのか。
そこ定義はなんかあるのかな。
めっちゃわかりやすく言うと、
そうであるはずっていうのが言えなくて、そうなっちゃったみたいな、
思い分けないことっていうのはやっぱり偶然的な、なんだろうな、
ものを含むよねっていう感じはあるんだよね。
なるほど、じゃあその必然Aと必然Bがたまたま重なった場所みたいな。
そういうイメージで表現されることが多いのかな。
そうですそうです。
わかりました。
もちろん風が吹くみたいな話も当然原因は遡ると台風が来てとかって、
いろんな原因までは遡れたりするじゃないですか。
ある種どこを切り取るかっていうのはすごく主観的な話ではあるんだけれども、
あくまでも経験っていう日常の感覚からすると、
自分が歩いていて瓦に当たったっていう出来事を聞いたときに、
例えばすごく偶然のハプニングだっていう風に言えるよねっていうぐらいでOKかな。
OKOK、わかりました。
さっきその因果の関係と、
もう一個目的と手段の関係があるよっていう風に言ったと思うんだけど、
ごめん、さっきの因果の話は因果的偶然っていう風にこれも言われますと。
その瓦が当たったことね、人に。
経験的偶然の中に因果的偶然と、
もう一個目的的偶然って言うんだけど目的と手段っていう関係もありますよと。
これは何かっていうと、ある目的ですね。
それに対して何々すべきだみたいなことが当てはまらない状況だっていう風に言うんだよね。
これも例から言うと、
例えばちょっと体重を落としたくてダイエットしようみたいなことを考えたときには、
例えば運動すべきとか、あるいは食事を制限すべきみたいな手段っていうのが基本的には当てはまるじゃないですか。
はいはいはい。
体重を落とそうっていう目的に対してはね。
例えばさ、でも日常生きてると風邪ひいて寝込んじゃって、
気がついたら痩せてて、なんか目標体重クリアしたぜみたいなさ、そういうケースもあったりするじゃない。
そうね、はいはい。
これはどっちかっていうと偶然で、要はダイエットとか痩せるっていう目的に対して、
たまたまその風邪をひいたっていう手段が有効になったっていう話なんだよね。
おお、なるほど、目的的偶然。
目的的偶然、そう。
だから別にダイエットするには風邪ひいた方がいいよとはやっぱりならないと思うし、
風邪をひいてもさ、絶対に痩せるわけじゃないじゃん。
もちろん風邪をひいたから、
例えば胃腸の調子が悪くてご飯を食べられなくて痩せたみたいにすると、
ある種因果というかそれがくっついてくるから、
ある種因果的には必然ではになっちゃうんだけど、
でも目的的には別に痩せるために風邪をひいたわけじゃないから、
そうね、たまたまですよとやっぱり。
痩せるっていうことは必然なんだけど、
痩せたという結果とか、そういう目的に至ったことは偶然であるみたいな、
そういうふうな違いが出てくるんだよね。
なるほど。
経験の領域だと、因果というものと目的というものの中で、
どっちかは必然だけど、どっちかは偶然だみたいなことが起きますよと。
なるほど。
今の風邪ひいて結果、ダイエット成功してるとは自分は思わない。
体重が減っただね。
筋肉減って脂肪残ってそうだけど。
間違いない。
体重という目標が達成したとすると、
さっきの因果の方だと、さっきハイトが言ったように、
風邪ひいた結果、食事ができなくて痩せたという因果的には全然必然なんだけれども、
その目的的には偶然だよねと。
2つの軸じゃなくて4つのマトリックスみたいになってるって話だね。
そうだね。
全部丸じゃないと必然とは言えず、どこかが×だと割と偶然っぽいよねみたいな。
そうそうそう。
今お手伝いしてくれたのは、因果的必然、因果的偶然と目的的偶然、目的的必然という4つがあって、
そこに丸×をつけるとっていう話だね。
いい感じだね。
これも本の中の例だと、たまたま植木屋さんだったな、
そういう仕事の人が庭を掘ってたらサツタポを見つけたみたいな。
そんな例を挙げていて、
要は別に植木屋さんは木を植えるために穴を掘っていたのではなくて、
お金を見つけようと思ったわけじゃないですと。
だから目的は木を植えることなんだけど、
そのために穴を掘っていたら、お金を見つけるという別の目的にとどり着いたみたいな。
そういうことも目的的偶然だみたいな話をしているんだよね。
はいはいはい、なるほど。
それは別の視点から見ると、
例えば泥棒が後で回収しようと思ってそこに埋めていくみたいなものがあったときに、
そういう出来事が、別の出来事が重なったときに、
その瞬間偶然というものが起きるというか、
偶然だというふうに捉えるみたいな感じがあるんだよね。
うんうん、なるほど。
ある木屋さんの本の中では、
なんでこれを区別したのかとか、
これを区別することで何がいいのかって、
ここまでは明確には書いてなかったんですけど、
あ、そうなんだ。
でも個人的には、これは次回以降の話で、
運命とか、あと自由みたいな、
そういう概念を扱う上で重要な区別になるんじゃないかなと思っているよね。
ほうほうほう、なるほど。
さっき言ったみたいに、要は因果的には必然、
要はAをしたらBになるみたいな感じなんだけど、
でも目的に対してはとか、自分の主観的にはそれは意味があるんだとか、
自分がやったことなんだ、自由意志の結果なんだみたいな。
ああ、はいはいはい。
そういうことってあるじゃないですか。
なるほど、うん、あると思う。
だからそういう意味では、
ちゃんと区別してそれぞれ考えていきましょうよっていう話はすごく大事だと思うし、
実際木田さんのこの経験的偶然というものが、
木田さん自身が考えようとしている運命というものとは
密接に関連しているぞみたいな。
そういうことをやっぱり書いてらっしゃるんだよね。
なるほどなるほど。
確かにありそうだよね。
目的的偶然
誰かとやっぱり状況を共有するときに、
自分はこれは必然だと思っていて、
他人からはそれたまたまでしょ、運良かったねって言われたときに、
お互いどうそれを証明するかだったりとか、
もしくはその具体的な状況を、
万人が共有できる、納得できる状態で、
説明していることができるのだろうかと。
これは必然なのか偶然なのかという答えを出すことができるのだろうかっていう状況があったときに、
確かにこういうふうに切り分けていかないと、
どこまで行っても議論が噛み合わないということが起こりそうだね。
そうそうそう、そうなんだよね。
よくあるのは努力みたいな話で、
やっぱり本人はこんなに頑張ったから、
例えば受かったとかうまくいったんだけど、
周りからしたらそんなに努力したなら、
必然的に成功するよね、みたいな。
あるいはその努力の価値をどう捉えるかみたいな。
なるほどね、大谷の成功は必然なのか偶然なのかって。
あー確かにね。
あの存在がね。
大谷翔平という存在自体がね。
だからある種その天才みたいな話って、
文明に愛されたとかって言うけどさ、
やっぱりそれは自分は天才じゃなくて、
仕草や努力の賜物ですみたいな話もあるだろうし、
あとは正しい努力をしたんですって話もあるだろうから、
まさにそれが因果的なものとか目的的なもの、
そういった考え方をすると、
結構見えやすくなるかもしれないなとは思うよね。
なるほどなるほど。
2つ目の漢字が経験的偶然なんですけど、
3つ目最後が経時常的偶然っていうものがあります。
これ何かっていうと、
いきなりねこれ抽象度がより爆上がりするんですけど、
言っちゃうと神の別名みたいな感じなんだよね。
神様。
そんなに違うんだこれまでの話と。
違う、三角形とか。
神が出てくるんだね。
神なんですよ神。
前もちょっと話したと思うんですけど、
要は僕らの目には偶然、
大谷翔平とは偶然か必然かみたいな話があると思うんですけど、
もし世界を作った神がいたとしたらさ、
この時このタイミングで大谷翔平という人間を日本に生まれさせようみたいなさ、
そういう意思がもしあったとして。
パラメータいじっちゃおうみたいな、
すごいの作っちゃおうみたいな。
作っちゃおうみたいな。
野球界のスター作っちゃおうみたいにすると、
それ必然じゃないですか要は。
そうだね。
神視点で言うと、
作った人視点で言うと必然だね。
もし神が世界を作ったとしたらっていう前提ですね。
仮にそれを神の必然だとすると、
神は神なんだけど、
必然と偶然は対立というか、
一つの追概念だから、
神の偶然ということも言葉としては考えられるよね。
ありそうだね。
神の偶然が何かはわかんないんだけど、
そういうものを考えようとした時に、
ある意味その神を形状的に置き換えたのが、
この形状的偶然なんですよ。
まだピンとこないね。
そうだよね。
要はあらゆる物事が必然だと考えたとして、
神がいるからね。
でもその原因を遡っていくと、
大谷翔平という存在を世の中に作ろうとか生ませようとした時に、
何かの原因とか何かのきっかけがあったと想像するじゃないですか。
神様は何で大谷翔平を作ろうと思ったのだろうか。
神の意思かもしれないし、
もしパラメータでのものがあるとしたら、
たまたま本当にパラメータがそこにあったというものかもしれないけど、
何かしら神がパラメータ調整をしているという事実が、
その原因になるみたいな話はあるわけだよね。
という風にどんどん原因を遡っていくことができるとすると、
でもこれってよく哲学でありがちな無限に遡っちゃうみたいなやつなんですよ。
無限になるんだ。
哲学者九鬼周造と彼の発見
無限になるか神になるかどっちかだね。
なるほど。神の先に何かあるのかなと思ったけど。
神の先にはない。
神にたどり着くイコール無限に遡れるって話なんだけど、
無限に遡れた神っていうものを、
刑事上的なものだ。
要は人間の経験とか理性が及ぶ範囲とは違うものだという風に置き換えたものが、
刑事上的っていう言葉です。
ここで言うところね。
刑事上的偶然っていうのは、
これ以上遡ることができない何か始まりみたいなものとか、
もし仮に一つの資源、
冒頭でも言った西洋哲学って始まりとか根源みたいなものを追求するから、
その根源を追求していって、
いろんな物事が起こる一番最初の点がもしあるとしたら、
それは刑事上的な偶然としか言えないよねっていう。
これはちょっと難しいというか、抽象度が高いからいきなりスッと入ってこないと思うんですけど。
入ってこないね。刑事上的必然は何なのかな?
刑事上的必然は、その一個の始まりを、
必ずあるものとして捉える人が使う言葉っていう感じなんだけど。
刑事上的偶然は、
例えば神っていうものを想定しない状態で、
あるものを何でだろう、何でだろうって何回も深掘りしていった時に、
ある意味これ無限に行くじゃんっていう風にして、
しゃーない、なぜなぜってたどり着いた場所がたまたま偶然、刑事上的偶然にたどり着く場所みたいな。
そうです。
場所というか、そこにたどり着いた場所が偶然。
刑事上的偶然にも必然的にたどり着くんだけど、
要は無限に遡るから、無限に遡った時に必然的にそういう場、そういう始まりの一点にたどり着くんだけど、
そこを表現するにあたって、
それを必然ではなく偶然という風に表現せざるを得ないっていう風にクキさんは考えてるっていう方が正しいかな。
なぜなら、例えばその始まりの一点も必然だとすると、
必然っていうのは必ずそうあることだから、必ずそうあるための原因がさらにあるはずってなるじゃない。
そうね。
そうなると、形状的必然のさらに原因っていうものを考えると、
それって要は始まりの一点じゃないじゃんって話になっちゃうんだよね。
そうだよね、分かる分かる、それは。
なので、それを禁止するために、形状的偶然という風にすると、
偶然だから別にその後ろとかその背後に何か原因がなくてもいいし、
たまたまそこにあるだけとか、たまたまそこから始まっただけっていう風に考えることができる。
なるほど。
これ結構難しいのは、その根拠がないわけじゃないんだよね。
根拠とか始まりがないわけじゃなくて、
偶然から始まったとか、偶然が根拠であるっていう風な話ですよと。
これよくある無とか、それも近いんだけど、無があるとかさ、
無から始まるみたいな言葉って時々使うじゃない。
一般的な感覚からすると、無がないんだからそこから何か始まるわけないじゃんってことなんだけど、
そういう場とか、遡って遡ってたどり着いてしまったそこを表現するときに、
そういう無とか偶然とか、そういうものが言葉として出てくるっていう感じなんだよね。
はいはい、なるほど。
刑事状の時、偶然っていうところが、たまたま神みたいなものを想定するってことがあるって話だよね。
そうですそうです。
あそこに偶然性ってものをつけるんだったら、神という存在になるっていう感じかな。
さっき別のところで言ったように、刑事状的出前っていうのは何かで逆話っていう順番じゃなくて、
これに関しては刑事状的偶然っていうものが、ある程度人間が深掘りしてたどり着いた、
これ以上いけないっていう点を表現するものとして、この概念が存在するみたいなイメージでいいんじゃないか。
イメージとしては大丈夫らしい。おそらくその理解、そういうことを言いたかったんじゃないかなと思ってる。
じゃあ刑事状的出前って言葉は多分ないんだね。
そうだね。もともとはないし、多分それイコール神なんだろうね。
刑事上的偶然とは
ちょっと待ってね。
さっき言ったことを繰り返しになっちゃうかもしれないけれども、
人が何でだろう、何でだろう、この世界何でだろうってやってくるときに、神みたいなものを想定したとして、
そこでクキさんとかキダさん的には、そのたどり着いた神みたいなものを刑事状的偶然と表現してるんだけれども、
たどり着いた本人がもう神しかいないだろうと。
だからそれに従って今後社会を形成する、自分も生きていくっていうふうに確実なものとして固定した瞬間、
それは刑事状的に必然とその人は捉えているというような意味合いなんだよね。
やっぱり表裏一体なんだよね、そこは。
あとはうちのビッグバン的な話だよね。ビッグバンの前何があったのっていうのと同じでってことだね。
そうだね、そうそうそう。
もちろんそういうふうに遡っていくことはできるし、始まりを見つけにいくこともできるんだけど、
そこの一点に対してでもそれってもう偶然だよねっていうふうにするのがこのスタンスで。
なんとなくわかってきた気がする。
ちょっと偶然の第一回に言ったんですけど、そもそも始まりとか根源なんてないんじゃねっていう発想が、
なんとなく空的な発想というか。
そうだね、確かに感覚的には難しいんだろうね、そこに辿り着くのが。
やっぱ神みたいものを想定した方が楽だからね、確かに。
そうだね、楽だし人間ってそう考えがち。始まりがあって終わりがあって考えがちなんだけど、
そもそも始まりも終わりもないのだみたいな。
よくウロボロスみたいな蛇が自分の尻尾を噛んでるようなことがあると思うんですけど、
あれもいわゆる円環構造みたいな感じで始まりも終わりもなくグルグルしてるみたいな。
そういう世界観はどっちかっていうと根拠とかはないみたいな感じだよね。
意外と形状的必然とか神とか何かこの世界を作った原因があるっていう話と、
それはあるかもしれないが偶然であるっていう話と、
そもそもそんなものはないっていうこの3つを割と区別するのはめっちゃ大事なんじゃないかなって最近個人的に思ってるんですよね。
なるほど、確かにね。
しかもある理論がどこを前提として創立されているのかっていうのを分かっておかないと、
やっぱり噛み合わないよねっていう話になりそうだね。
意外とこの辺って何だろう。
もちろん僕らは普通に来てると何らかの影とか始まりもあるよねって思うだろうし、
それがじゃあなぜかとかってことまでは普段考えないと思うから。
ここまで考えるといろんなものが見えてくるなっていうか、
誰とでも仲良くなれる気がしてくる。
そういう人の価値観が大きいから、対話ができるから。
どこを土台にこういう人は話してるんだろうなっていうのが想定できるし、ある意味会話の中から引き出すこともできるということが理解する。
まあまあそんな感じでね、形状的偶然っていう話はすごい面白い概念なんですけど、
今お話したとして面白いって伝わってたら嬉しいと思うんですけど。
偶然と運命の関係
ちなみにね、この形状的偶然っていうのは空木さんが、
ある種理解しやすくしてくれた木田さんの言葉ではあるんだけど、
このシェリングっていうね、多分聞いたことないよね、名前として。
ないない。
こういうの結構有名な人で、ドイツで活躍した19世紀ぐらいの人。
ヘイゲルとかかな、そのぐらいの時代の人なんですけど、
この人の言葉に原始偶然っていう言葉があるんだよね。
原始、まさにいわゆる源とか始まりの偶然っていう言葉があって、
それも同じようなことを表していると。
なるほど。
だからその、空木さんだけのオリジナリティはあるんだけれども、
やっぱり似ているようなことを考えている人はいるし、
突き詰めていくと近いところに行くよねみたいな。
はいはいはいはい。
それがすごい面白いなって思うんですよね。
まさにあれか、形状的偶然にみんなたどり着いてるじゃんっていう話だね。
みんなたどり着く人もいるじゃんっていう感じだね。
神という存在から離れて物事を考えると思った時に、
そういうたまたまとか、そういうものと向き合わざるを得ない。
そういう怖さがあるよねっていうふうに思うんだよね。
みたいな感じで3つの偶然について考えてみましょう。
論理的偶然、経験的偶然、形状的偶然ね。
ここまで聞いていただいた方からすると、
もちろん言葉としては取り付けにくいけれども、
ある程度理解はできるというか、なんとなく分からないみたいな感じはあると思うんですよ。
でもやっぱり偶然というものをこんなふうに細かく分けて考えるとか、
その区別とか種類があるって思うことってなかなかないと思うんで。
そういう手続きを知っていただくという意味では、
皆さんとも一緒にできたんじゃないかと思っているんですけど、
これでですね、やっと次のステップに進む準備ができましたと。
今回僕ら偶然というものを掘り下げたじゃないですか。
ここにきてやっと僕らは運命というものをもっと解像度高く扱えるようになりますよと。
なんでここで運命が出てくるのかというのも、
1、2回ちょっと話したような気がするけど、どう繋がるんだろうというのがあるね。
運命って実は偶然性というものを必然性に置き換える働きだみたいな話があるんだよね。
どういうことかというと、例えばさっき言ったように大谷さんが野球で世界的に有名になっていると。
あれをたまたまそうなったという人もいれば、
彼の努力は必然的にそこまでスターに押し上げるものだという人もいれば、
野球の趣味があるし、大谷を選んだんだ、それは運命なんだみたいな人もいるよね。
これ全部表現できると思うんだけど、何が違うの?というときに、
いわゆるたまたまさの度合いと、それがどれだけレアかというこの2つの基準で変わってくるはずなんだよね。
要は希少性みたいな話なんだけど。
というふうに運命というものは、要は偶然的でしかない出来事をどう必然と積も付けるかとか、
どうそこに必然性という意味を付与するかみたいな話なんだよね。
なるほどね。
さっきの今日の例でいうと、屋根から瓦が落ちてきて当たるというときに、当たったときに周りが必然だと。
あいつは昨日何か悪いことをしていたからその罰が当たったんだという必然性を付与したと。
そのレアさと、普通に道を歩いてたら直径1センチメートルの隕石に当たって死んだみたいなのが頭を貫通して死んだときの。
あいつが昨日、例えば駄菓子屋でチョコを盗んだからこんなことになったんだというのはちょっと罰としては強すぎるんじゃないかな。
そういうレアさみたいなところの意味の付与度というか、一般的にみんなはどれくらい付与するんだろうねという話ってことなのかな。
まあ両方で死んじゃったら運命とは言えないかもしれないけど、
例えば瓦に当たったことで怪我をして、その後火災に巻き込まれずに命を取り留めたとかがあったとしたときに、
それは瓦に当たったことはあなたの人生を救うための先祖からのメッセージであるみたいな意味付けることもあったりするじゃないですか。
何でも言えちゃう。
というふうに、意味付けの問題と運命というものと偶然とか必然というものは絡まってくるんだよね。
なるほど。
なので第一回のときに、やっぱり僕は意味というものをすごく大事にしてますとか、物よりこととか根拠がないからこそ自由に物事に対して関われるみたいな話とかいろいろバラバラしたと思うんですけど、
運命という概念が偶然というものと意味付けるとか、自分の人生に意味を持たせるということの間に出てくる概念だなと思っているんですよね。
なるほど。
九鬼周造の「偶然」の発見
なのでちょっと確かに当然ね、なんで偶然と運命というものがいきなり出てくるのかっていう話を感じるかと思うんですけど、
そこには僕の中には必然性があるというか、偶然というものを通して運命というものにたどり着くとそこに生きる意味というものを観察するような出来事が起きてくるって思っているので、
次は運命というものに対して、今回掘り下げた偶然というものを手掛かりしながら話をしていきたい。
特に探す中で言うと経験的偶然、日常的な世界における偶然というものを軸にして話していきたいなと思っています。
形状的偶然で神とか宇宙の意思みたいな話もあるとは思うんだけど、あんまりそこまで言っちゃうと悪い意味でのスピリチュアルというか、
俺は神に選ばれたみたいな感じになってしまうので、それというよりは日常的に、さっき言ったように隕石が当たるのか河原が当たるのかみたいな話とか、
あるいは誰かと会う人に会った時にそれが昨日会った人なのか、30年分に会う人なのかによっても変わるとか、
そんなところの話をテーマにしつつ、いろいろとお話ししたいというような感じを持っております。
はいはいはい、なるほど。確かにハイアト的には偶然と運命というのは即必然な関係だという話はしていたし、
実際にそうだもんね。今回の木田さんの参考にしている本のタイトルも偶然性と運命というまさになタイトルだよね。
そうです。まさになタイトルで。
そこはかなり一般的にもというか、そういう物事を考える人からすると、もう全然普通につながるとこだよと話したんだね、ここはね。
もちろんね、普通に誰もが合意しているかわかんないけれども、言われてみれば確かにつながっているねという話はあると思っていて、
それを次回ちゃんとお伝えしたいなと。ちょっと名前だけ出すとジンベルさんという人がいて、
ジンベル?
ジンメル。
ジンメル、はいはい。
僕もこういうの知らなかったんだけど、この木田さんの本で初めて知ったんだけど、
なんかめちゃめちゃいいこと言ってるなと思って。
なので次回はジンメルさんという人の言葉を頼りに、運命と偶然というものの関係というか、運命とはどういうものかみたいなことを見ていきたいというような感じですね。
次回への予告と話の展開
はい。
今回はちょっとね、ハヤトも言った通り、ちょっと講義、その偶然とは何か3つあるんだみたいな知識的な話になっていたので、
ここを土台に次回運命について聞き込んでいくというところで楽しんでいきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
45:35

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