00:06
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 前回は偶然には大きく分けると3種類あるよというような話を見てきたんですけれども、
今回はそれを受けて、偶然と運命というところはどうつながっているのか、運命とは何なのかというところを見ていきたいと思います。
はい、さっそく行こうと思うんですけれども、今回は木田さんの偶然性と運命という本を見てるんですけれども、
ここの中に運命の思想史みたいな話があるんですよ。話というか、章というかね、テーマとして。
運命とは何かというものを直接的に言うというよりも、例えばこういう哲学者がこんなことを言っていたとか、
運命というものには大まかに分けて2つの流れがあるんじゃないかとか、
学者さんらしくそういうことを説明してくださっているんですけど、
その一つがね、いわゆる運命っていうこともすごい皆さん、そもそも定義とか何なのみたいな話もあると思いますし、人によって受け取り方も違うと思うんですけど、
一旦、おのおの皆さんが考えるまず運命というものを想像したときに、
その運命の背後に無意識的な意志というか、特に人間の意志というものがあるよというふうに想定するという立場というものを一個想像するんですよね。
なんとなく言っていることわかる?これ。僕今台本読んでて喋りながら伝わらないかもと思ったんだけど。
うーんと、なんとなくだけれども、無意識的な意志って言ってるから、
運命ってなんとなく偶然、起きたことを後から評価するみたいなものじゃなくて、
起きたことに対して、その瞬間瞬間、自動的に意味づけをさせられるのではなく、
起きたことに対して積極的に自分から無意識的に意味づけをしている、
またはその社会的、地域的、何らかの価値観のもとに無意識的に意味づけをさせられている状態みたいなことを想定するかなと。
ありがとうございます。すごい捉え方は知ってるなと思ってて、もう一歩あれとすると、生きる方向性みたいな言葉が出てくるんだよね。
なので、ある意志自体は無意識なんだけれども、例えばある僕とかが、
03:03
東京じゃなくて地方で暮らしたいというのがあったときに、
例えばそれは背後には多分もうちょっと落ち着いた田舎で、田舎でもないけど京都はね、そういうところで暮らしたいとか、
山と川が好きだとか、そういういろんな方向性というか、馴染む人生の三つ筋みたいなものがあって、
価値観というのがあって、そこにある種紐づくものを選択してるよね、みたいな感覚なんですよね。
それはある種意識的に全部を選んでるわけじゃないけど、もう無意識的に選択はしてるよね、と。
そういうふうに生きる方向性に基づいて、物事っていうのは決まっていくよね、みたいなことを、生の選択、生って人生の生ね、
っていうふうな立場として言われることがあって、そういうふうに運命というものは人間の意思というか、その価値観とか方向性、生きる方向性というものと
結びついてますよね、というものは一個流れとしてあります。
もう一個はね、ちょっとこれわかんない、わかんないっていうか、僕もちゃんとわかってないんで、さらっと流しちゃうんですけど、
運命っていうものを、体験とか実存、いわゆる存在の在り方と運命っていうものが構造的に結びついてるんだ、みたいな話があって、
これは実存哲学の立場なんだ、みたいに言ってるんですよね。
ハイデッカーとか、まだちょっとちゃんとやってないですけど、メルロポンティとかが出てくるんですけど、名前としては。
今回僕がフォーカスを当てたいなと思ったジンメルさんという、ちょっと前回名前だけ出したんですけど、
このジンメルさんっていうのは、前者の性の哲学の方に取り上げられてる人なんですよね。
正直、名前も全然知らなくて、キラさんの方に書いてる内容があまりにも自分の考えにフィットしすぎてて、
思わず図書館で本を借りてきたんですよ。
それぐらい運命とか、世界の捉え方に関して、僕の中で納得感のある話をしているし、
前回の偶然とのつながりっていうのもかなり見えてくるんじゃないかなと思うので、
ちょっと僕が感じた、このジンメルさんすげえ、みたいなことを今日お勧めさせていただくことで、
兄貴とか皆さんにそれに共感するか、あるいはちょっとそれは違うんじゃないかとかね、
そんなことを言ってもらえたら嬉しいなと思って用意してきましたみたいな感じなんですよね。
そんなに良かったんだね。
良かった。すごい、なるほどねって思っちゃったんだよね。
早速、ジンメルさんがどんなことを言ったかって話に入ってくるんですけど、
ちょっとこれも前回触りたくお伝えしたんですけど、
06:02
ジンメルさんは20世紀の前半かなにドイツが活躍した哲学者の人なので、
100年経ってるぐらいかな、多分その活躍されてからぐらいの時代の人です。
彼が書いた文章に、運命の問題っていうまさにみたいな文章があって、
これ10ページぐらいの長くない文章なんですけど、結構書き出しからして面白いんですよ。
どんなものか紹介すると、哲学っていうのは人生とか人間の生っていうもの全体を、
深さにおいて解釈するんだと。
それが哲学っていうものの役割だし、一般的に哲学ってすごい期待されてるはずなんだけど、
人間の生っていうものを構成する根源的なもの、
例えば愛とは何かとか、愛の本質は何かとか、
あるいは人間が何かを体験するとはどういうものか、
あるいは人間が何かを体験するとはどういうことかとか、
そういうことに向き合ってないのは不思議だねっていうふうに言うんだよね。
へー、そうなの?向き合ってないって言ってるの?
向き合ってないんです。
いわゆる認識するとか、例えば物を見るとか聞くとか何かとか、
あるいは芸術とは何かとかっていうのは結構言われてるんだけど、
愛の理論はとか、愛の啓示哲学はとかっていうことは取り組まれてないっていうふうに言ってるんだよね。
そうなんだ、はいはい。
ちなみに検索してみたら、1940年に愛の啓示哲学っていう本が出てました。
日本の学者さんが書いてました。
古代技術者のプラトンはこういう愛のイデーを超えたとかはないのか?
実は言ってて、プラトンとかは言ってるとか、
古代の技術者は言ってるんだけど、そこから発展してなくはないですかと。
へー、なるほど。
っていうふうに言ってるんだよね。
あるいは当時というか今からすると自由滑舌な技術者の側ですとかプラトンとかは
愛について語っていたかもしれないけれども、
果たして我々とかその後の時代の哲学者は
愛というものを深められてきませんでしょうかみたいな、そんな感じなんだよね。
そこから始まっていて、そこからですね、
実はこの愛とか体験するみたいな概念と同じぐらい哲学の中で無視されているのが
運命という概念だっていうふうに話を続けていくんだよね。
運命というものも哲学の中で扱えてきませんでした。
09:02
彼が言う運命って何かっていうと、
これはねちょっと結論を先取りする感じになっちゃうんだけど、
運命っていうのはある出来事ね。
出来事から偶然性というものを取り除いて、
その出来事に高い位置とか価値を与えるものだっていうふうに説明してるんだよね。
おー、はいはいはい。
つまり、運命イコール出来事マイナス偶然性プラス意味みたいな、
そうはジーメルさんは言ってないんだけど、
僕の解釈からすると、そんなふうな数式というか式で表せるよねっていうふうな感じなんだよね。
うんうんうん。
運命イコール出来事マイナス偶然性プラス意味です。
はいはいはい。
それじゃあどういうことっていう話を言っていくんだけども、
あ、ごめん。
もう一個あって、
その出来上がった出てくるものがあるじゃないですか、その式によってね。
それが運命になるかどうかっていうのは、
その域値がいくつかあって、
それぞれ人の人生に固有の域値に対して、
その域値を超えるとその出来事が運命になるんだっていう話をするんだよね。
ほうほうほう。なるほど。運命と名付けられるというか。
運命と名付けられるというか、
まず出てきたものが域値を超えていたと判断されたときに、
それを運命というふうに言おうというふうになります。
うんうんうん。
僕ね、これすごい納得感があったんですよ。
はいはいはいはい。
うん。ただちょっとこれだけだと結論から言ってるので、
もうちょっとその議論というか、
どんなふうにジーメルさんが言ってるかということを見ていった上で、
兄貴にも聞いてみたいんですけど。
うん。
まずその、彼曰く運命というものには構造があるんだって話をするんだよね。
ほうほうほう。
構造を考えれば、まずその運命というものには必ず2つのものがそこにくっついてきますよねというふうに言いますと。
1つがそのいわゆる運命というものを感じるとか受け取る主観とかある種独立した存在ね。
ある種これ人間なんだけど、人間の存在というものがあって、
それプラスいわゆるその人間とかその主観とは関わりを持たない出来事というのがあります。
なのでこの独立した主観と独立した出来事というこの2つの物語があって、
それが関わり合うことで初めて意味が生じて、
その主観と出来事というものがある種こう結びついていきますね。
結びつきがある一定の位置より強いと運命になるし、
その位置が下回るとそれはただの出来事とかあるいは何でもないことになるみたいな。
そんなふうに説明してるんだよね。
12:00
はいはいはいはい。
ここってどうだろう?何か伝わります?
そこは理解できるよね。
例えば人によっては石につまずいて転んだみたいなことがあった時も、
さっきの前回の隕石が当たったじゃないけれども、
何か悪いことしたんじゃないかみたいな。
やっぱりその石につまずいたことにすら運命というかさ、
意味をめちゃくちゃ考えちゃうこともあるし、
石に転んだくらいだったら転んだわー以上みたいな。
ちょっと吸い向いたーみたいな。
じゃあ行こうみたいなさ。
そういう話だよね。
人ごとの位置の違いみたいな話だよね。
そうです。その通り。
そういうふうに主観ごとによってもその意味づけの大きさとか、
どのくらい何に対して意味づけるかってことの方向性が違うっていう話が、
さっき言った生の哲学というか、
人生には方向づけとか価値観があるっていう話なんですよね。
前回した偶然の話で言うと、
例えばある主観というか人間が存在するっていうのはやっぱり偶然じゃないですか。
僕とか兄貴が今ここにいるっていうのは、
やっぱりどこまで行っても偶然でしかないと。
そこに意味づけをしたらそれは必要になるかもしれないけど、
そこに意味づけっていうステップが入るし、
あとはある出来事が起きるっていうのもやっぱり偶然なんだよね。
それは経験的偶然の中のいわゆる因果的な偶然はあるかもしれないけれども、
目的的には偶然ですよと。
前回の話で言うとね。
ただそのある種、偶然と偶然、要は偶然の存在である自分という主観と、
偶然の出来事っていうものが出会うと、
その出会った場において意味が生まれますと。
ジメル曰くここにはやっぱり人間の同化力っていう本質があって、
同化力っていうのは同じにするっていう、
同化、一つにするという力が働いていると言うんだけど、
要はその主観と出来事が出会うと、
そこに人間というものはそこに意味を見出さざるを得ないというか、
それは自分に対して起こった出来事なんだというふうに捉えざるを得ないっていうものが、
もう本心的にあるよねっていうふうに考えるんだよね。
なるほどね。相手のことは自分ごと化しちゃうよと言いますね、出会ったときに。
そう。もっと言うと自分ごと化できないとそれはもう、
そもそも出会ってないから、自分にとっての出来事ですらないっていう話なんだよね。
なるほど。そうか。そういうふうに認識した時点で、
その処理が行われた後だっていう話ですね。
15:02
そうそうそう。そうですそうです。
例えばわかんないけど、派生で今何か石ころが転がったとして、
それはやっぱり僕の中では出来事ではないわけではね。
あくまでもそれはやっぱり出会うとか経験するということは、
自分の方に引き込むとか自分と出来事が同化する、同じ一つになるみたいな、
そういうことが起きているでしょうと。
面白いのが、この瞬間何が起きているかっていうと、
これまでは偶然というか、自分とは無関係だった出来事っていうものが、
自分にとっての意味っていうものを持ちますと。
同時にその出来事っていうものが、
主観、人間の方にまた働きかけてきて、
例えば喜ぶとか悲しむとか、
感情だけでもわかりやすいと思うんだけど、
そういうふうな主観の在り方も変えるっていうふうなことが、
一気に起こるんだっていう話をするんだよね。
なるほど。なるほど。
それまでは全く無関係だった主観と出来事が、
たまたま出会うことによって、
出来事は意味を持ち、
その意味を通じて主観の方は在り方が変わるっていう、
こういうことが起きるんだっていうふうな話を考えますと。
主観の在り方が変わるか。
それまではさ、別にさっき言った石ころにつまずくでもいいんだけど、
そうすると、ころんだっていう出来事によって、
痛み、石というものが邪魔者だという意味を持ち、
その石に対する怒りが生まれるみたいなね。
なるほど。
いうと、それまでは全く無関係だった、
自分というものとその石というものに関係ができるよね。
うんうんうん。
いうふうなことを、僕らは日々経験してますよね。
っていうふうな感じかな。
はいはいはいはい。
さっき兄さんが言ってくれた通り、石につまずくぐらいなら、
別に運命とまでは言わないんだけれども、
運命というものを考えた時に、
少なくともこの二つの要素、
主観というものと出来事という二つの要素というものが絶対に必要だし、
これがないところでは運命というものは起きませんよね、
というふうに言うんだよね。
なるほど。はいはい。
人によってはさっきの通り、
それすらも運命という人もいるかもしれないし、
そうですそうですそうです。
これ面白いのが、人によってはというグラデーションを考えるにあたって、
ジンベルさんは動物と神というのを挙げるんですよ。
動物と神には運命がないという話をするんだけど、
なぜかというと動物には、
ジンベルさんからすると、
まず主観がないんだよね。
ちょっとこれは人によって賛否あるというか、
動物にも主観とか意識とか意味付ける力があると思う方もいるとは思うんですけど、
18:05
彼の話からすると、
出来事があっても、
ある種のそこに積極的に意味を見出すとか、
意味を付与するということが、
おそらく動物であっていないだろうと。
ようにジンベルには見えると。
ように見えると。
なので、そこに関しては運命というものは起きます。
まずは主観というものがないからですね。
逆に神様には主観というのはあるんだけれども、
あらゆる出来事が、
たまたま起きない。
もっと言うと、
神の出前の話を前回もしたと思うんですけど、
神様にとっては、
あらゆる出来事というものが、
全て自分の主観の中で起きる出来事なんですよね。
つまり、
偶然の出来事じゃなくて、
自分の中にある出来事しか起きないから、
そもそも神にとっては、
主観と出来事が出会うということ自体がないんですよ。
要は、石ころも神のものだし、
石ころにつまずくという出来事も、
神の中では当たり前のことだから、
それは神なんですよね。
つまり、石ころも。
はい、なるほど。
そうなっちゃうと、
新しい意味が生まれないんだよね。
なので、
動物は主観がないから運命というものは起きないし、
神は主観しかない。
主観しかないから、
運命というものは起きません。
なるほど。
我々が偶然と呼んでいるものも、
神にとった主観である。
そこに深まっちゃうからってことだね。
そうです。
神によっては予定調和だから全部ね。
それは寂しい気もするんだけれども、
そういう風に言うと、
ある時点でこの両極、
動物という風な主観がないという極と、
神という主観しかないという極があった時に、
その間に生きているのが人間だという話なんだよね。
さっき言った通り、
石に対して躓いたことで意味を見出す、
あるいは運命を見出す人もいれば、
見出せない人もいるっていうのは、
あくまでもそのグラデーションの中の話であって、
別にそれは人間という存在の、
何だろうな、
根本から説明できますよということを言います。
もうちょっとジンメルの言葉で言うと、
二重の層みたいな言葉を言うんだけど、
まさにこれが主観と出来事だよね。
二つの物事に影響されて、
人間というのは生きる意味とか目的、
みたいなものに対して、
どんどんどんどんそれを付与していこうというのは主観と、
単純に人間の意思とかには関係なく、
ただただ因果の関係の中で、
物事が起きては消えていくというのは自然というか出来事と、
この二つというものを関連させながら生きていくんですよ、
というふうな話をしているんだよね。
21:04
ここまで来るとさ、結構さっき言ったような、
運命イコール出来事マイナス偶然性プラス意味みたいな、
そういう式も分かりやすくなったんじゃないかなと思うんですよね。
ということで運命というものを、
ジンメルさんは説明をしていきます。
なるほど。
改めて言われると、
冒頭もあった通りね、
無意識な性の意思って、
無意識ってやっぱ、
定義しちゃってるぐらいだからね。
人間一人一人は、
無自覚的に、
ハヤトが言ったような、
挙動をしてるんですよ。
そういう話は、
ジンメルに人もしてるって話だね。
そうです、そうです。
これちょっとまた後でも言うんだけれども、
無意識を全部解き明かすことができるのか、
みたいな話もあって、
要は完全に自分の意識で、
要は物事に意味を付与していくんだ、
みたいな話っていうのは、
突き詰めていくと難しそうだよ、
っていう話があります。
なので、どこかには無意識というか、
そういったものが入ってくるんだけども、
もうちょっと運命の話を、
分かりやすくというか、
厳正即死とお伝えしていくと、
生き血の話をしたじゃないですか。
生き血バーのあるよっていう。
これも感覚的な話でもあるんだけれども、
例えば石につまずくとかさ、
たまたま友人と駅で会うみたいな、
そういうことはやっぱり、
ある種偶然だよね、奇遇だよね、
みたいな話だと思うんですよね。
例えば道につまずいた石が、
実はよくよく見たら、
例えばダイヤモンドの原石だったとか、
あるいは友人と駅で会ったところから、
話がトントン拍子に進んで、
バンドを組んでメジャーデビューしたとかさ、
そこまでいくと、
結構運命っぽくなってみたいな、
あくまでっぽさでしかないんだけど、
なんとなく人間共通の生き血みたいなものが、
もちろん個人によっても濃淡あるんだけれども、
その中の出来事の意義っていうものを考えるとか、
超えていくと運命になるんだみたいな、
そういうものもやっぱり、
ジンメルさんのアイデアとしてあるんだよね。
へー、そうなんだね。
でも確かに人ごとに聞くと違うだろうけれども、
小さい頃からいろんな絵本とかさ、
物語だったり、
ゲーム教育ではいろんな勉強みたいなのをしただけで、
そういうのである程度、
自分が所属する国とか場所での生き血みたいなのがあるんだろうね。
24:06
面白いのが、
人間の脳科学の話の中で、
人間の脳が何かっていうのはまだよく分かってないんだけれども、
一つの理論として、
人間の脳っていうのは予測装置だっていう話があるんだよね。
つまり物を例えば掴むっていう時にも、
これは無意識的にパッと掴んでると思うんだけど、
脳からすると、
その物と対象の距離とか、
このままの速度でいいのかとかっていうのを常にモニタリングして、
このまま行けばその物を掴めるみたいなのを予測して修正して、
繰り返して物を掴むっていうことを例えばしているとか、
そういうのをある種精度高くやるような装置なんだっていう風な説があるんだよね。
逆に言うと、
予測が外れるっていうのは脳からするとすごい負荷というか重要な情報で、
思った通りいかなかったら、
それを元にまた修正しなきゃっていう風になっちゃう。
それがいわゆるたまたまとか偶然っていう話なんだけど、
その予測とのズレが大きければ大きいほど、
自分にとって重要な出来事になっていくわけなんだよね。
要はそれをちゃんと処理しないと、
何か自分の思いもわけないことが起きるとか、
人生とかもっと言うと生命に関わるかもしれないみたいなことになっちゃう。
だから予測できないものとか、
自分の基準からして、
たまたまの度合いがかなり大きいもの、
要は行き地を越えて運命みたいになるものが、
やっぱり重要な出来事だっていう風に捉えちゃうみたいな、
そういうちょっと脳科学的なというか、
生物学的な仕組みもあるんじゃないか、
みたいなことも言われたりするんだよね。
なるほどなるほど。
物理的なものを掴むだったりとか、
歩く走るみたいな、
そういう挙動だけじゃなくて、
さっき言った主観、物事の体験みたいなものに対しても、
それが働いているとすると、
同じような仕組みで説明できるって話だね。
そうですそうです。同じ仕組みで。
例えば、昔の人が狩りをするときに、
これまでは一切出会わなかったところで、
虎に出会ったとかっていう出来事があったときに、
それってめちゃめちゃ大事な出来事じゃん。
忘れちゃいけないみたいな。
次からここも危険だったりとか、
その出来事、ここで初めて虎に出会ったという出来事は、
運命とは呼ばないけれども、
そのたまたまっていうものを忘れちゃいけないっていう感じで、
凄く出来事として記憶に残るみたいなね。
そういうことがある種積み重なって、
僕らは予想外とか思いも負けない出来事に対して、
やっぱりこれだけ関心とか興味を持ちますよ、と。
いう風な話でもいいかなって思うんだけど、
そういうことがある種積み重なって、
僕らは予想外とか思いも負けない出来事に対して、
27:00
何でもいいかなと言えそうなんだよね。
だから実はじんめるさんも似たようなことを言っていて、
例えばさっき言った出来事とか、
いわゆる因果的に起こることっていうのは、
無数に、それこそ無限にあると思うんですよ。
火星で石が転がるとかさ、
宇宙で星が爆発するっていうこともあれば、
土の中で耳水が動いているという出来事っていうのは、
もういくらでも起きてますよと。
無数に起きた出来事の中で、自分が出会ったとか、自分が意味を付与したものっていうのが、その出来事を区別されて、重要な物事としてポンって生まれてくる、生まれてくるというか、色付けがされていくんだよね。
かなり色付けされた中で、例えばこの出来事があったから今の自分があるとか、この出来事は運命だっていうものはさらに絞られていって、特徴的な出来事というか、貴重な出来事っていう風に意味付けされていくみたいな。
そんな風な、主者選択というかグラデーションというものが主観と出来事の間にもあるんだよねって話をするんだよね。
これ面白いのが、さっきまさに兄貴が言ってくれた通りなんだけど、やりすぎちゃうとあらゆる物が運命で、全ての出来事が運命で、それが主観と関わってくるから、世の中の出来事は全て自分のために起きてるんだみたいな、そういう発想にも陥りかねないよねっていうことも言ってるんだよね。
そうだよね、全て出来ですというか。前回とかにもあったけど、あらかじめ全て決まってるんだって話だよね。この石に転ぶことももう決まっていたんだみたいなね。
決まっていたんだとか、石に転んだというものは何か自分にとっても重要なメッセージなんだみたいなね。っていう風に意味付けもできちゃうよと。
それはそれでいいんだけれども、ジンメルさんが面白いのは構造的に考えると、全ての出来事が運命であるとは絶対に言えないっていう風に言い切ってるんだよね。
おーすごい。
よしよしじゃなくて構造的にそうだって話をしてて、どういうことかって言うと、さっき言った通り運命の構成要素ってある種主観の出来事だったじゃないですか。
そういう時に主観っていうのは当たり前の話なんだけど、売れることができないものっていうのが無数にあるんだって話なんだよね。
これちょっと難しいのは、要は認識ができるできないとかっていう人間の能力の話じゃなくて、
そもそもさっき言った通り、運命っていうのは主観と出来事が一体化するとか同化するっていうとこに生まれますって言ったじゃないですか。
30:02
っていうと要は、あらゆるものと完全に同化できますかっていう問いになってきて、そうするとやっぱりあらゆる物事とか出来事を全て理解してとかその意味を付与し尽くして、
その物事とか出来事を同一化するみたいなことっていうのは根源的に不可能だみたいな話を言ってるんだよね。
なるほどなるほど。
一番分かりやすいのは、それこそサルトルっぽいけど、要は他人と完全に同化できますかみたいな話で。
要は他人っていうのも自分の主観化すると一つの出来事じゃない。
っていう時にその他人を理解し尽くすとか、その他人に意味を付与し尽くすっていうのは、やっぱりそれはできたと思っても絶対にできないことだし、倫理的にはやっちゃいけないことなんだよね。
他人を自分の思い通りにするみたいな話になっちゃうから。
例えばさっきバンドの話をしたと思うんだけど、ある友人と出会ってバンドを組みましたっていう時に、やっぱりお前じゃなきゃダメだったんだよっていう風なことももちろん思うんだけど、
でもふとさ、もしかしてこの人じゃなくてもバンドとして組んで成功したっていう可能性はあるよねっていう風な疑い自体は持てるじゃない。
そうね。
っていう時に、やっぱりどうしてもどんだけ必然だと思える出会いとか、人との関係性でも、でもやっぱりたまたまこの人だったっていう偶然性っていうものは取り尽くせないよねと。
ゼロにはできないよねって話だよね。
ゼロにはできない、そう。
さっきのとおり、運命っていうのは出来事から偶然性を引いて意味を付与するんだって言ったんだけど、この偶然性を引くっていうのは偶然性を完全に取り去るとか、ゼロにするっていうことはどうしてもできないんだよね。
だからやっぱり僕らっていうのは偶然性がゼロにはならないっていうこの事実に向き合いながらも、それをどう乗り越えて意味を付与していくのかとか、ここに意味付けをして自分の人生にとって大事だっていう風なことを、ある種自分を騙しながらというか、偶然性がゼロにならないっていう事実を向き合いながら生きていくっていうことが大事なんだと。
大事だというか、そういう存在なんだっていう風に言ってるんだよね。
うわー、ジンベルすごいね。
ジンベルすごいでしょ。
なんかじわじわと来てるよ。
来たー。
来てる気がする。
確かにやっぱり人によって運命の位置が違う。で、何でもかんでもこれは運命なんだっていう人は、その人自身にとっては、さっきのジンベルの式、ハエトの言ってた式だよね。
確かにその人自身は、偶然性っていうものがゼロであるっていう風に多分勘違いしてるんだよね。
33:04
勘違いしてる。
ただジンベル的に言うと、偶然性がゼロであるっていうのはその人の大いなる勘違いで、意味付けのところが極端に多すぎるんですよ、あなたはと。
あなたの運命の位置を超えるように意味付けを全部しすぎてるでしょと。
そうですそうです。
そこに気づけやみたいな話ってことだよね。
そうだね。
例えばそのバンド組むのは誰でもよかった、この人じゃなきゃダメだった、もしくは他にも候補がいたっていうときに、
一般的な出来事、誰か人と出会うってことを一般的な出来事として捉えると、この人じゃダメだったっていう、絶対この人っていうのはありえなくて、
世の中にはこんなに人がいて、もちろん自分の生活圏内にもある程度この年齢の音楽をやってる人は大抵くらいいて、
考えていくと、もちろん偶然、例えば500分の1の確率だったかもしれないけれども、
500分の1の確率ってことは、他の1に当たる可能性ってのは全然あったわけで、
そこを1分の1に勝手にするなよと、話だよね、そこは。
それをしてもいいんだけど、それは原理的には本当はできないことなんだよとか、それは無茶を言ってるんだよってことは自覚しましょうねっていう話だし。
さっきの構造的にっていう人名のね、構造的に無理っていうのは、その運命、これは絶対運命だって言ってる人は、さっきの500人。
例えば500人全員に会った上でこの人しかいなかったみたいな錯覚に陥ってるけれども、構造的にそれは無理だよと。
全員に付き合った上でこの人が運命だったっていう区切りは不可能だから、あらゆるものが運命と定義してるのはさすがに無理あるよねっていう。
そうです、そうです。ほんとそんな感じ。
じゃあセブスなんて501じゃなくて500と言えるのかっていう問題も出てくるだろうしとか。
っていう風に考えていくと、別によしよしというよりは構造的に無理なんだと。
逆に言うと、ジェンベルはそこまで言ってないけれども、ある種、たまたま500分の1だったけれども、
だからこそそれを選んだか、そこに対して自分の意思を持ってあなただと決めたっていうことに、
ある種自分、人間の自由というか、やっぱり価値観的なものっていうものが幕前でくるよねっていうことは言えると思うんだよね。
36:02
逆に、あれも僕面白いなと思ったのが、人間のいわゆる人生というか現実、偶然性はゼロにはならないんだけれども、
そこに向き合って実はそれを感情的に克服したのが、いわゆる芸術としての悲劇だっていう風に言ってるんだよね。
芸術としての何?
悲劇。悲劇っていわゆる劇だね。演劇の中でも喜ぶ劇と悲しむ劇で、悲劇と喜劇ってあるじゃない。
その中の悲劇、悲しむ方が、いわゆる偶然性がゼロにならないっていうものを克服してるっていう風に言ってるんだよね。
そうなんだ。
これどういうことかっていうと、悲劇の主人公、シェイク・スペアとかでもあると思うんだけど、
親が子を殺すとか、子が親を殺すとか、ある種誰が聞いてもそれは辛いみたいな話してるじゃないですか。
悲劇の主人公であれ、ヒロインであれ、彼ら彼女らっていうのは、その辛いこととか、めちゃめちゃ聞くにも絶えないような出来事に陥るっていうのを、ある種もう定められてるというか、
そういう人生の方向づけの中で生きてるよねっていう風にジーメルは言うんだよね。
つまりその主観、要は運命の構造で言うと主観っていうものが、そもそももう悲劇に陥らざるを得ないような、そういう風な生き方として描かれていると。
そうなると、ある出来事っていうのは、ただ単純に辛いこと、要は母親が死んだみたいなことが考えた時に、それは辛いことじゃなくて、
この母親が死んだという出来事が、彼の人生に同化して憑依して、彼の人生をある種破滅し尽くすみたいな。
そういう風に出来事と主観を完全に同一化するっていう風なことを、悲劇では描くことができるんだよね。
なるほど。ある意味神の視点というか。
そう、神の視点。やっぱり物語だから。
そこには偶然性とか曖昧性ではなくて、冷徹なまねに人生が崩壊するっていう、そういうある種のすがすがしさというか、必然的に破滅するみたいなことのカタルシスってやっぱりここにあるよね。
悲劇のヒロインとか主人公はやっぱりたまたま辛い目に遭っちゃダメだし、たまたま助けられるということも遭っちゃダメなんだよね。
必然的に助けられるんだけど、それも悲劇の一環であるっていう風に徹底されてるみたいな。
なるほど。
このような、誰かに親の両親の死っていうものがその人の人生を覆い尽くして、自分は両親の死と共に生きてるみたいな、そういうことを描き切るっていうのが悲劇だから。
39:11
はいはい。
そこには偶然性がないし、そもそも偶然性がゼロじゃないと悲劇っていうのは起こらないというか、表現できないんだっていう風な感じで書いてるんだよね。
面白いね。だからこそエンタメタリウルって話なのね。
そう、エンタメタリウル。
こんな風に芸術の話とかも拾いながら、運命と何かとか偶然性っていうものと運命っていうものを関係するというのを書いてるとめちゃめちゃ面白いなって思ってるんだけど。
最後の方で改めてまとめてるんですけど、運命っていうものはこういう風に言ってるんだよね。
うん。
ちょっと読むんだけど、要するに運命っていうものは一方の主観っていうカテゴリーが、もう一方の出来事って周りは自然だね、これは。
っていうカテゴリーがあったときに、それをある種、同一化して意味付けして主観とか自分の方に取り込んでいくっていう関係の中に成立していきますと。
これは繰り返しの話だね。
はいはいはいはい。
そしてその、出来事っていう方がないっていうものは、神様の没運命性を運命っていうものがないっていう風なことを示してるし、
主観っていうものがないっていうのは、動物の没運命性というものを表していて、
人間の存在の在り方っていうのとか、あるいは活動範囲っていうものは、この両極端の間に接してあるっていう風に言うんだよね。
んー、接してるんだ。ほうほうほう。
接してるから、つまり人間っていうものは運命っていう観点においては、動物にもなれるし神にもなれると。
ふんふんふんふん。
でも動物のようにある種主観ってもう完全に放棄して、出来事に流され尽くすみたいな言い方っていうのもなくはないし。
ふんふんふん。
あるいは神みたいに、ある種全ての出来事に挑戦として、自分は自分で、あれ出来事は俺のものだっていう風に言ってしまうことも別にできなくはない。
だからその間の中で、自分がどこにいるかとか、どういう風に生きていくかっていうことなんだよって話をするんだけど、
でもね、これが最後面白いのが、一番最後、今回お伝えした運命の問題っていう文章の締めくくりの言葉がこんな感じで、
我々人間っていうのは一定の限界を感じるんだけれども、それにもかかわらず、人間の性っていうものはこれらの限界の両端を超えて羽ばたくんだと。
42:00
事故の限界を超えている一切のものすら自分の内に含んでいるということが、性の最も包括的な意味であると言えるかもしれないっていう風に言ってるんだよね。
ほうほうほうほうほう。
さっき神とか動物でもなれる、それが限界だって言ったんだけど、人間っていうのは動物以下にも神以上にもなれるかもしれない、そういう存在なんだっていう風にジメル様言ってるんだよね。
なんでだ、すごいね。
すごいでしょ。
うん。
だからその運命の構造を考えると、神と動物っていう両極端が生まれるはずなんだけど、人間のもしかしたら自由とか、これはジメル様が言ってることではないけれども、
もしかしたら自由とか、あるいは意味付けしていくっていう力とか、逆に言うと両方にもなれないがゆえに両方を超えていけるみたいな、
そういう風な可能性っていうものをジメル様捉えてるんだよね。
なるほど、はいはいはいはい。
だからここまで来ると何がいいとかって一言では言えなくて、要は動物はダメだから神に近づきましょうとか、
でも神にも行き過ぎちゃうとダメだから人間は人間の分を分けまいましょうとか、そういう話じゃなくて、
やっぱり自分の主観と世の中っていうものがあった時にどう生きていきますかっていう、本当にそのぐらいの根底的な問いになってくるんだよね。
そうだね。
ある意味そうだよね、人間が作った人工AIが人間を超えるじゃないけれども、
神が全部出来事っていうものも、そういった主観の中で生きていた運命というものがないとすると、
それはそれで運命っていうものを、その驚きを持っている人間で確かにそれを超える可能性があると言われると、それもわかる気がするよね。
だからこそ超えられるもの。
だからこそ神が作った世界だったり、必然っていうものの外にさらに新しい必然なのか偶然を作る可能性があるっていう恐ろしい存在でもね、その視点からいくとね。
そうです、そうです。
逆もは確かに、動物がどう捉えるかっていうのは今回は一旦置いておいて、
ある意味動物以下にもなれる、虫キャラ以下にもなれる、微生物以下にもなれるみたいな。
そうです、そうです。
上を見ても上というかね、限界を超えるみたいな。
ジンベル何者なんだこの人は。
ジンベルさんね、本来的には社会学者でもあって、
人と人が要は相互世話したときに、社会というもの、そういう共同体がどんなふうに考えられるかみたいな、そっちが専門というか扱えることが多いらしいんだよね。
45:08
なるほど、なるほど。
やっぱりその根底にはこういう人間理解というか、そもそも人間とはどういう存在かというところがあったんだろうなと思うんだよね。
いやーすごいね、確かにこの動物神チャートみたいなのの間のどこに自分はいるのだろうかみたいなことって、
想像したこともないけど、すごくね、ふかんでというか、数値化しそうで、コアオンもすごい。
そうそう、構造って実は言ったけど、そういうふうに捉えられるよねっていう話もあるし。
やっぱりゲームとかだとよくありがちなんですよ、神を超える。
最近奥さんがテイルズオブディスニー2っていう昔のゲームやってるんですけど、
懐かしい、面白い。
多分やったことない方の方が多いと思うんですけど、ネタバレしたらいいと思っているんだけれども、
ラスボスは神様なんだよね、その世界における。
神様が神を否定するというようなこと、要は人間ごときが神が作った秩序っていうのを壊すのかみたいな話をして、
カエルって男の子の主人公が、俺らはそんな秩序とかじゃなくて、自分たち作っていくんだ的なことをやりとりしながら倒していくっていうふうなラストになるんですけど、
そんな感じで神を超えるとか、神の秩序の中で生きるのがいいのかどうかっていうのは、
ストーリーとか物語的にはすごくあるというか、何かを考えさせる場面だと思うんだよね。
なるほどね、ジンメル読んで作ったのかな、テイルズオブディスニー2は。
ジンメルだけじゃないと思うけどね。
やっぱりいわゆる物語、SFとかでも神が支配するかというとちょっとディストピア的というかさ、
やっぱり人間の可能性が失われているみたいに、ある種そういう文脈で言われがちだとは思うんだけど、それも一つのパターンだとは思うんだけども、
やっぱりそういうふうな発想ってこのジンメルさんからも引き出せるし、運命を演出するというのができて、
偶然っぽく見せたら運命っぽくなるわけじゃない。
これ詐欺とかでよくあるんだけど、とにかくランダムに連をかけまくって、
例えばこの番号の人に商品を当てます。
あなたがたまたまその番号でしたみたいな話がある、そういうことがあるんだって。
あなたの電話番号がいわゆるくじ引きの検証の番号みたいになって、
48:02
当選したからこういうふうなものをあげたいので送り込んでくださいみたいなね。
明らかに話だけ聞くと怪しいんだけど、でも本当に偶然抽選の結果あなたの番号が選ばれたんですって言われちゃうと、
そのラッキーが起きるってことは、そういう良いこと、
ようは物がもらえるとか景品がもらえるっていうことが起きても、
釣り合うかもしれないみたいなふうに人間は思っちゃうんだよね。
それをある種運命を演出するみたいな言い方を今僕はしたんだけど、
っていうふうに悪いことに使われちゃうこともあるよねと。
なるほど、なるほど。
そんなぐらい僕らが運命とか偶然とか、
いわゆる物事の起きやすさみたいなことに意味付けをしちゃってるっていう話だと思うんだよね。
なるほど、なるほど。
なので今回まで偶然と運命って見てきたんですけれども、
まさに今言ったようなどのぐらい意味付けするかとか、
どのぐらいレアだと見積もるかみたいな話って、
これ第1回でお伝えした確率の話なんですよね。
はい、はい、はい。
さっき言った500分の1の確率って言ったときに、
それって多いの少ないのとかさ、
どのぐらいあることなの無いことなのって、
やっぱり僕らは実は感覚的に分かってないんだよね。
あー、感覚的に分かってないんだね。
実は分かってないんだよね。
分かってるつもりってことかな。
分かってるつもりになっちゃってる。
さっき言ったと、さっきじゃない、ごめん。
第1回のときに言ったとおり、
要はじゃあ、例えばガチャを僕引くって言ったと思うんですけど、
スマートフォンのアプリゲームのね、
ガチャを引くって言ったと思うんですけど、
例えばスーパーレア確率が3%のガチャがありますと、
これ何回引いたら出てくるの?みたいな話だったときに、
考えたら33回かな。
要は30回ぐらい引いたら1回出てくるのかな、みたいな感じで思うじゃない。
思わない。
思わないでしょ。兄貴、どんなふうに思う?
えー、それって300回ぐらいじゃない?多分。
まあ、必要そうだけどな。
はいはいはい。
これですね、計算すると、
大体95回回すと、
95%の確率で当たります。
へー、そうなんだ。
じゃあ300はちょっと…
300はね…
分かってないんだね。
少なく見積もりする。
99%くらいかな。
当たらないと思いすぎてる。
思いすぎ。
思いすぎ。
逆に30回引く仮にね、
どのくらい当たりますかって言うと、
6割の確率で当たります。
逆に言うと30回引いても4割の人は当たらないってことなんだよね。
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10人もし全員同じようなガチャを回したとして、
6人は当たるかもしれないけど、
4人は外れてる。
つまり、結構半々じゃん。
6対4って。
ということは半分くらいの確率では当たらないんだよね、30回引いても。
みたいな感じで、
要は確率ってすごく多く見積もったり、
少なく見積もったり、
すごく稀な出来事を、
要は宝くじみたいに、
人生で一回当たるか当たらないかみたいなことを、
当たると思うこともあれば、
絶対当たらない。
例えば、
それもさっき言った、
そう言ってたら、
石につまずいて転ぶかもしれない、
みたいな確率を恐れて、
外出できないとかって言う人ももちろん世の中にいるわけだよね。
別に確率が、
確率の話はまた違うんだけれども、
そういうふうに確率っていうものを正しく知らないとか、
分かってないがゆえに、
僕らってそういうものごとの言いみづけは、
間違っちゃってるんじゃないかみたいな。
もう間違ってるもんな。
300回はそうね。
みたいなことを思ったっていうのがあるので、
第1回の時に言った確率と哲学っていう本が、
まさに今手元にあるので、
それは元に確率って何?って話をしながら、
今みたいなことをお話ししていくと、
この偶然と運命と確率っていうものがつながって、
綺麗に収まるんじゃなかろうかと。
そんなふうな話ですね。
なるほど、確かにここまでで運命イコール、
出来事マイナス、
偶然過去確率だよね、今の話でいうと。
プラス意味という話でいうと、
確かにその偶然確率か、
性をどう捉えるかっていう話は、
確かにちゃんとしてないから、
逆に言うとそこをちゃんと勘定できないと、
おかしなことになるもんね。
さっきの100分の3みたいな確率があった時に、
300円くらいないと当たらないだろうから、
ガチャ1回100円としても、
そしたら3万円、
じゃあ今回は見送るかみたいな、
1万円くらいだったら欲しいと思ってるのに、
3万くらいを想定してミスミス逃すみたいな、
それは本当に自分がそれを欲しいと思ってたら、
損でしかないというか。
その通りですね。
っていう残念なことが結構起こってるよと。
そうです。
逆もしっかり3000円くらいできると思ったら、
1万もかかって嘘じゃんみたいなことも起きますよね、
というふうな話だね。
楽しみだな。
そこをセンスがないということが分かったので、
ぜひそこは聞いときたいな、次回。
54:00
確かに。
今自分ごと化したね、姉貴の中で。
したしたした。
そうなんです。
やっぱり意外とこれ全然分かんないんで。
これと次回お話ししていって、
おそらく偶然回はこんな感じかなと、
次回か次次回かぐらいで終わろうかなと思ってます。
というふうな感じですね。
分かりました。
ちょっと異国も早く、
自分の人生の運命を正しく把握するために、
異国も早く確率の話を聞かなきゃいけないので、
次回ですね。
早く聞いてみたいと思いますので。
楽しむというか、ちゃんとやっていきたいと思います。
学ぶようになったね、急にね。
次回も引き続き楽しんでいきたいと思います。
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。