1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #270 「すべてはアートマン」..
2024-11-27 41:54

#270 「すべてはアートマン」。ウパニシャッド最高峰の哲学者、ヤージュニャヴァルキヤの思想

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

今回のエピソードでは、ウパニシャッドの哲学者ヤージュニャヴァルキヤの思想を探求しています。彼が提唱する「すべてはアートマンである」という考えは、ブラフマンとの関係を新たに捉え直す機会を提供し、愛や存在の本質についての哲学的な議論が展開されます。参加者たちは、アートマンが認識の対象にならないことについて議論し、その深層的な意味を考察しています。ヤージュニャヴァルキヤの思想を通じて、アートマンの概念がすべての存在の基盤であり、神と人間の違いが消える様子が語られています。また、アートマンの理解がなければ生きる苦しみや倫理の問題が生じることについても触れられています。

ヤージュニャヴァルキヤの思想
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続きウパニシャッドということで、今回はヤージュニャヴァルキヤさんというところでした。
そうですね。これもね、ちょっと満を持して感はないんだけど満を持してなんですよ、と。
ウパニシャッド最大のって言ってたもんね、哲学。
そうなんですよ。ウパニシャッドも分かんないからさ、最大のことも分かんないよね。
ただ、ソクラテスレベル、プラトンレベル、そういう人たちを今やってるのかなっていう感覚ではある。
そう思ってくれると嬉しいですね。
って感じなんですけれども、ここまで来るとかなり哲学っぽくなってくるんで、
1回以上は終わらないと思うんですけど、一緒に楽しみながらファブレしていきたいと思っておりますよ、という感じなんですけど。
時代的には、前回もお伝えしたんですけど、
ウッドアラガサンとしてだよって言われてるんだけど、
紀元前650から550年頃に生きたって言われていて、
ブッダと同じくらいの世代、ブッダも幅というか広がりがあるんで、いつか特定されてないらしいんで、
ちょっとあれなんですけど、なんとなく同じ世代くらいかなっていう感じなんですよ。
彼の思想がどんなふうに伝わってるかっていうと、これも実は対話なんですよね。
前回もウッドアラガサンも息子との対話でいろんな教えを伝わってますよっていうふうなことを言ったと思うんですけど、
面白いのが、ヤージンやバルキアさんの時代になると、
そういう討論会、王様が主催して、
どんなバラモンが一番知恵があるバラモン会を競わせる大会みたいなのをやったらしいんですよね。
そうなんだ。
知恵比べみたいな。
そこにヤージンやバルキアさんが登場してきて、相手と議論をするんだけど、
それで相手を言いまかして黙らせるみたいな、そういうお話がいっぱいありますよっていう感じなんだよね。
アートマンの意味
面白そうだね。
ちなみにこれ余談なんだけど、この王族主催の哲学者討論会ってなんじゃいみたいな話だと思うんだけど、
これも面白くて、前回もインドの人が少し誇張しがち問題あるよみたいな話をしたと思うんですけど、
王様を言えば集めるわけじゃん。盛り上げたいから商品があるよとか言って集めるんだよね。
その商品がなんと、莫大な黄金と牛銭湯っていう。
銭湯?
銭湯の牛を与えますよと。
規模がすごい。
維持費すごいことになりそうなんだけど、牧場じゃんもはや。
どう世話するのみたいな話があるんだけど、資産としてすごい価値があったんだと思うんだよね。
それで買ってば、それをもらえるぐらいすごいというか、それ欲しいって言って各地からバラモンが集まってきて、
一大バラモン大会ってなっていくわけなんですよ。
それはそれとして、じゃあヤージャーヴァルキアさんが語ったことは何かっていう話なんですけど、
一言で言うとね、ちょっと混乱するかもしれないんだけど、
すべてはアートマンであるって言ったんですよ。
なんか変わったね。
ここまでブラフマンとアートマンは同一なゲームをしたわけじゃないですか。
それはシャンディアさんがやってきたんだけど、ここからブラフマンも消えちゃって、アートマンがすべてだっていうふうになったんだよね。
これどういう発想かっていうと、
ヤージャーヴァルキアさんによると、僕らが普段生きていて、人間中心というか、自分が観察したことを元に話してるんだけど、
僕らが経験できるすべてのものっていうのはアートマンに他なりません。
前回、うったあらかさんの話で、純粋な言うとか、いろんな元素とか要素の奥にあるものっていうふうな話をしたと思うんですけど、
それはどうしても人間の認識を超えちゃってるんだよね。
それを概念として考えることはできるかもしれないけど、やっぱり見えない、わかんないよね、というときに、
アートマン、認識しているものの奥にあるのはアートマンだから、
アートマンのことを知れればある種この世界のことはちゃんとわかるよねと。
その限りではブラックマンっていうものも想定しなくていいんじゃないかっていうようなことを言い出すんだよね。
わかる気がするね、確かに。刑事上の話じゃなくて、現実の話をしようよみたいな。
なんだけど、ただ現実の話には収まらないのは結構恐ろしいところで、
これを今日ちゃんと掘り下げてくるんですけど、
全てはアートマンであるって話になったときに、結構面白いことを言っていて、
夫婦の会話、ヤージナ・バルキラさんは特徴的なのが、奥さんと哲学的な会話をしてるんですよ。
愛の哲学
当時はやっぱり、前もちょっと言ったかもなんだけど、
女性ってどうしても時代的に地位が低いとか、哲学的なところから遠いみたいな話があったんだけど、
スパリシャットのヤージナ・バルキラさんにおいては、女性の人と、
さっきの討論会でも対話をしたりとか、奥さんと対話するという場面が結構残ってて、
ある種身分とか性別とかも超えて、哲学的な話をしてたっていう、
当時の時代背景があったんじゃないかっていう話もあるんだよね。
ヤージナ・バルキラさんだけじゃなくて、当時の社会的にというか、
対話ではそういう感じに少なくともなってたかもねっていう。
そうですそうです。
奥さんとの話の中で、
別に、夫を愛するがゆえに夫が愛しいのではなく、
アートマンを愛するがゆえに夫が愛しいのだっていうふうに言ってるんだよね。
同じことを妻とか孫とか富とかにも言ってるんだけど、
これは前回の話が続くんだけど、
夫とかを含む一切の存在っていうのは、アートマンの現れだったじゃないですか。
ファンの流行って人間がいるんじゃなくて、
ただアートマンが何か現れたときに、ファンの流行って名前がつきましたっていうふうな話。
奥にある本質としてのアートマンを愛することが大事なんだというようなことを言うんだよね。
ここってイメージ分かるかな。
だとちょっと分かりづらいけど、
例えばアートマンの一つの現れとしてのリンゴが、
うちらは全部リンゴリンゴリンゴって気になってるリンゴ一個一個しか認識しないけれども、
人間も実は同じで、人間人間人間っていっぱいいる中で、
他にリンゴにイチローとかジローとかって名前をつけたときに、
やっぱイチローうまいわーみたいなさ。
ジローの方がうまいわとかって話をしてるんじゃなくて、
ちゃんとリンゴそのものを実はあらゆる人間というか、
お互いイチローを感じてるわけじゃなくて、
実はリンゴそのものを感じていて、そこに好意を持っているみたいな。
ちゃんとそこを感じましょうみたいな。
言ってて意味わかんないんだけど。
あのね、私、実はちょっと違うんだよね。
なんかね、意味わかんないもんだね。
喋っちゃってる、何言ってんの。
だってないと全部同じリンゴになっちゃうからさ、
イチローのリンゴを愛する理由がなくなるじゃん。
そうなんだよね。しかもね、やっぱりリンゴそのものって言っちゃうと、
やっぱりイデアっぽくなっちゃうんだよね。リンゴのイデアみたいな。
じゃなくて、リンゴを構成しているそのポンポンとしての
アートマンっていうものを愛しましょうっていうことなので、
リンゴっていうものに囚われてもいけないんだよね。
なるほど。
そのなるほどは。
まだわかんないんだよね。そうすると、
別にさ、別の人でもいいじゃんってなっちゃうじゃん。
僕とじゃなくて、
その奥さんとかさ、あなたじゃなくてもよかったのみたいな話になった後に、
ちょっと意味がわからないというかさ、
なんか全員同じに見えちゃってたら誰でもいいじゃんって。
まさにね、そうなんだよ、実は。
どういうことだ。
っていうのはね、話してくるんですけど、まさに兄貴が今言ってくれた通りで、
それってなんでもよくなるじゃんとか、
そもそもアートマンを愛するってどういうことなんだってなるわけじゃない?
なる、うん。
もっと言うとさ、愛するは全くわかるとかして、
じゃあアートマンって何なのってなるじゃん。
っていう風にここに来たら難問が現れてくるわけなんですよ。
これまではブラフマンとアートマンが一個だとか、
ブラフマンっていう究極のものがあって、
それが個々のものに入っているとアートマンと呼ぶよっていう風に、
なんとなく意味付けてきたから使ってきたんだけど、
ここに来て初めてアートマンってなんだよっていう風な問いが出てくるわけなんだよね。
いやーね、難しいじゃん。
例えばさ、ピーマン嫌いな時にさ、
ピーマンのアートマンを嫌いなんですってなった時にさ、
でもアートマンって全部一緒だからさ、
人間のアートマンもピーマンのアートマンも一緒だった時に、
そこに愛すると嫌いっていうのがもう、
どういうこと?ってそこでステージに移動したみたいなさ。
ダメなんだよ。
だからピーマン嫌ったらアートマンが嫌いって言わなきゃいけないんだよ。
人間も嫌いにならなきゃいけないっていう。
だからそう、意味わからん。
なのでここからは認識を切り替えるぐらいの気持ちでまた聞いてほしいんですけど、
ヤージナ・ヴァルキアさんは、
そういう風に言うんだけど、
実はいろんな矛盾することをめちゃめちゃ言ってんのね。
例えば、アートマンを愛せって言うんだけど、
それと同じ人が、
アートマンっていうものは実は認識できないものなんだっていう風にも言ってんだよね。
認識できないものを愛するってなんじゃよみたいになってくるじゃん。
よく言えば東洋の味わい、
悪く言うとぼんやりするなみたいな感じなんですけど、
ヤージナ・ヴァルキアさんは確かにアートマンを認識せよ、
アートマンを認識するときに一切のものを知るみたいなことも言ってんですよ。
同時にアートマンは内もなく外もなくて、
言葉でも表せないし、認識できないとも言ってんだよね。
これ同じ人が言ってるの?
同じ人、ヤージナ・ヴァルキアさんが言ってる。
どっちだよって話じゃない。
認識できないって言いながら、
認識したら全部わかるとも言ってんだよね。
アートマンの概要
っていう感じなんだけど、
一応ね、例え話を出してくれていて、真実だと思うんだけど、
アートマンを知るってどういうことかっていうと、
例えば太鼓あるじゃないですか。
包みでも太鼓でもいいんだけど、
そういうのを打つときに音が出るじゃないですか。
でも音を捉えることはできないよね。
音を掴んでくださいって言われてもできないんだけど、
外視は太鼓を打つ人を捉えると、
その音も捉えたことになるっていう風に言ってるんだよね。
これは結構難しくって言えば、
でも音がアートマンだとしたら、
音を捉えたらいいのになると思うんだけど、
でも音がアートマンというよりは、
太鼓を打ったら音が出るという、
その働き全部がアートマンみたいな感じなんだよね。
そうすると確かに人を捉えれば、
音が出る出ないとかっていうのはコントロールできるじゃないですか。
みたいな感じで、アートマンって理解できるんだとかって言うんだけど、
まあまあでもよくわかんないよね。
まだわかんない。
まだわかんないよね。
アートマンと認識
ここから今日の後半戦なんですけど、
アートマンとは何かって今問いをしてて、
それに向かおうとしてるんだけど、
このアートマンが何かっていう問いは、
おそらく普通の人には一生わかんない問いなんですよ。
なぜかっていうと、さっきもお伝えした通りね、
やっぱりアートマンって認識の対象にならないんですよ。
わかるってさ、要は何かの対象、
ある概念のものでもいいんだけど、
対象があってそれを捉えて、
それを他のものと比較して、
例えばリンゴとみかんを比較してリンゴを理解するとかさ。
そういうふうな働きじゃない。
そうしたときに、そもそもアートマンって対象にもならないし、
何かと比較できるものでもないんだよね。
そうするとひるがえると、
アートマンが何かっていう問い自体が間違った問いでしたね、
っていうふうになるんだよね。
これがある時点で理性とか頭で理解できる実学と、
悟るというか、降りてくるしかない、
みたいな東洋実学の差がありますっていう感じなんだよね。
あのさ、
はい、どうぞどうぞ。
ヤージニア・バルキアさんさ。
ヤージニア・バルキアさん、はい。
前半、今日の最初にさ、
前回のウッダ・アルニさんの話で言った純粋な言う。
はい。
これはないじゃんと。
認識できないから認識できるものから始めましょうって言ってなかったっていう。
何か認識できないものに辿り着いてないんですか?
認識できるリンゴとか人から始めて、
やっぱり認識できないものに行っちゃったっていう感じだね。
そこは行っちゃってるんだね。
行っちゃってる、そうです。
スタート地点があくまでさっきの太鼓で言うとさ、
叩いてる人がいるね、太鼓があるね、みたいな。
スタートではあるんだけど、結局行き着くとこはそこなんだね。
そうです、そうです。
でも音もあるよねっていう感じで、アートもあるよねって言っちゃう感じだね。
アートは何かじゃなくて、それらは全部含めてアートなんだよね、みたいな話ね。
今のとこね。
じゃあアートも対象になりませんって話をしたじゃないですか。
認識のね。
認識は対象になりません。
そうするとだよ、ここからがちょっと哲学チックやってくるんだけど、
認識の対象にならないということは、
主観か客観か、よく主体・客体みたいな二言論的な話をすると思うんですけど、
定義的に言うと、認識の対象にならないものって主観じゃないですか。
客観ではないよね。客観的なものって対象として捉えられるものだから、客観にはなりません。
そうすると主観にしかならないんだけど、主観の中でも絶対に対象にならない。
自分って言うものは鏡で見るとか、自分のために服を買うみたいな感じで、自分ですら対象にすることもできるんだけど、
このアートマンって言うものは一切対象にならないから、いわゆる純粋な主観だって言えるんだよね。
純粋って言葉が多いな。
純粋。ピュアなんです。
アートマンが純粋な主観であるっていうふうな前提一と、
今日冒頭で言ったアートマンが全てのものである、アートマンが一切のものであるっていう前提に、
これを掛け合わせるとどうなると思います?
みんな一緒?
本当そう。それはこの世のあらゆるものは主観であるっていうふうな結論になるんだよね。
わかる?
そういう意味で言ってなかったけど。
違った。
何の意味もない言葉をさっき発してたんだけど。
もう一回。
この世のあらゆるものは主観であるなんだよね。
これが面白いのが、
全ては一つじゃないんだよ。
全ては主観であるなんだよね。
はい。
これ、わかんないでしょ。
意味わかんないね。
どう認識していいかわかんない、それを。
生きてて、全ては主観。
要は、全ては主観だっていうのさ、
例えば僕らの感覚で言うと、
あらゆるものは主観だから、
例えば自分が楽しいと思えば楽しいとか、
嫌だと思えば嫌だとか、
そういう独我論的な話ではあると思うんだけど、
そうじゃなくて、
あらゆるこの世に含まれる一切の存在というものは、
主観だっていう。
主観ってなんだっけってなるね。
そうだよね、そうだよね。
だってあれも主観、これも主観だと、
その時点で言葉としてはおかしいから、
そうだよね。
せめては主観であるとしか表現しちゃダメなんだろうね。
そうそうそう。
でも言ってみれば、
パンの生えても主観だし、リンゴも主観だし、
涙にも主観だ、ぐらいのことを言おうとしたわけなんだよね。
そうだね、その主観の主語がないよね。
ないないない、そう、ない。
で、生きていて考えたことないようなことを、
アジアヴァルキラスさんが考えてるんですよ、2600年前に。
で、もうちょっと言うと、
もうちょっとちゃんと話していくんですけど、
前回ね、ウッドアラカさんの話でさ、
土を知れば茶碗とか壺も理解できる土だっていう風に
理解できるという話をしたと思うんですけど、
このアジアヴァルキラスさんが言ってるのは、
この土っていうのが持ってたアートマンだね。
で、それを知ると、茶碗とか壺も全部アートマンだってことがわかるんだけど、
それがもう一つの主観として繋がるっていう感じなのよ。
だから兄貴が全部一緒になっちゃうじゃんっていうのは結構実は的を置いていて、
自分がアートマンを知ると、
自分も茶碗も壺も全部同じ存在になっちゃうんだぐらいの感じになるんだよね。
だから、理解って言うのはそもそも存在しない世界になりますと。
要は、パンのハヤトはリンゴを理解しますってなった瞬間に、
主体と客体が分かれて、パンのハヤトって主観だけになっちゃうじゃない。
じゃなくてもう、パンのハヤトとリンゴっていうのは不可分のものになっちゃって、
理解するとかっていう概念が働かなくなるんだよね。
なので実際ヤージャーブラキュラさんは、ある人にとって、
一切がアートマンのみとなったところでは、意識というものがその意義を失うんだ。
意識っていうものが機能しなくなるんだっていう風に言ってるんだよね。
死と霊的存在の考察
そう言われると、そんな世界もあるかもとかって感じはしてこない?
広角機動隊でさ、電脳世界に自分のゴーストが溶け込んじゃうような感覚みたいな。
全くわからないと思ったけど。
もうちょっと聞いていい?全くわからなかった。
ごめんごめん。意地悪なことを言ったわざと。
いや、そうはね、すごく想像しづらいんだけれども、
でもまあ、そうとしか表現できないよね。
自分と他者みたいなものも存在しない?
アートマン的な概念の中では、もちろん。
あるいは自分とリンゴ、物との境界線もないっていう話だから、
例えばあの人の話してることを理解するとか、
あの人の感情を理解するみたいなことすらも、
理解っていう概念がそもそも存在しなくなって、
もう自明のものになっちゃうんだよね、その世界ではね。
そうそうそうそう。
自明のものというよりは、
だからね、やっぱりこれ概念を超えたみたいな話をちょっとしたと思うんですけど、
概念を超えたとか理解を超えたっていう話で、
そもそも、なんだ?
人の世界じゃないんだよね、たぶんそれって。
人ってさ、自分の意識、自己意識を持って、
世の中で生きていくっていう存在じゃないですか、基本的には。
そもそも、自己という概念もないし、他者という概念もなくなるし、
意識というものを働かせる隙間すらなくなるんだよね。
ああ、はいはいはい。
そうなるとそれは、果たして人なのかって思うんだよね。
そうだね、確かに。
一番知ってる概念で言うと、仏教とかでさ、
死ぬと一つの霊になって、
この世にいるときはその霊の群というかさ、
中からポコッと出てきたものに過ぎないみたいなさ、
特に動物のお墓だとそういう概念あると思うんだけど、
犬っていう存在があって、
自分のペットとして飼ってた犬なんとかちゃんみたいなものは、
生きてる段階ではなんとかちゃんなんだけど、
死ぬと犬っていう霊魂の中に戻っていくから、
あんま個別のお墓建てずに、
もう、なんていうのがあるの?
犬塚みたいな。
犬塚、まあ、そんな感じだよね。
特にヤッタリだとか、
お墓作ったとしても、
3年くらい経つと犬の方の霊に戻っていく、
なんとかちゃんとしたじゃなくて、
犬分の霊の中に戻っていくから、
個別のお墓お参りしちゃダメだよみたいな。
そういうのも単仏教的なところの話を聞いたことがあって、
アートマンと存在の一体性
そっちの、現世じゃなくて犬っていう、
本に戻っていったときの感覚がもっともっと広げたもの、
近いかなっていうのは思ったかな。
確かにガイデンとしてはそういう感じだね。
それこそこれも読んでる方、あるかわかんないですけど、
シャーマンキングのグレートスピリットみたいな感じでさ、
全ての魂が帰るじゃないけど、
それが溶け込んで一つに混ざり合ってるみたいな概念があったときに、
そういうものに概念的には近いかもしれない。
もちろんネバネシャってはそういうことは言わないし、
そういう絶対的なものはないんだけど、
あえてイメージしようとすると多分そういうふうなものになるんだろうね。
めっちゃふわふわしたバージョンというか、何でもありバージョンだよね。
リンゴとか土とか、何でもありっていうね。
何でもあり、はい。
そうなんだよね。
ここまで来るとさ、やっぱりもうもはや神と人の違いとかもさ、
もうはや完全に意味を出さないっていうことがわかると思うんだよね。
だって神も人もアートマンだからさ。
さっきのとおり、
兄貴がさ、奥さんからしたら旦那さんと別の男性は違うでしょとかさ、
どっちでもいいのかってなるよって言うのと思うんですけど、
このうっさいがアートマンの世界では当然どっちでもいいんだよね。
そもそも自分と奥さんとかっていう働きもないし、
そうだね、自分もないからね。
自分もないから。
人間と神とかって違いもないんだよね、アートマンから。
これがさ、キリスト教から600年前ぐらいの時代に、
すべては一つであって、絶対主とか神とかっていうものも必要ないし、
それは想定しなくても、
人間というかある種自分の内面の奥の方に、
本来の自己としてのアートマンというものがあって、
それさえ知れば全部世界が説明できるんだぜっていうふうな、
発想やっぱり思いついたこの放送力というかさ、
力ってやっぱすごいなって思うんだよね。
おかしいよね、だってこれ多分一元論的なんでしょ、これって。
一元論、完全に一元論。
完全に一元論か。
だから人間の本来の感覚が、いわゆる二元論的だったりとかさ、
それと分けるみたいなもので考えるとさ、
そこと反したものを生み出してるっていうさ、
ちょっとおかしいよね、エネルギーを。
普通に考えたら絶対出てこない考えなんだよね、これって。
ただやっぱりペアージュナ・バルキアさん的に、
ブラックマンとアートマンは同一だゲームっていうものを広げたときに、
そもそもやっぱりブラックマンいらなくね、と。
アートマンだけでいけんじゃねっていうふうにやっぱり行き着いたところがここだったっていう。
それはすごい正しくルールにのっとって先に進めた人だって思うんだよね。
同一っていうかアートマンだけにしちゃったんだ。
そうそうそうそう。
別にブラックマンっていうものを想定してもいいんだけど、
結局それはアートマンだし、アートマンからたどり着くものですよっていうふうな感じなんだよね。
そっか、スタートが今回は見えるものからだったから、
アートマンの無知による苦しみ
残るのがよくわからんブラックマンじゃなくて、
現れとしてのアートマンがやっぱり残って、
そっからスタートして結局全部一緒だね、アートマンは一緒だね、みたいな。
アートマンがどこについてたみたいな感じなのか、スタート地点がそっちだったからたまたま。
そうですそうですそうです。
純粋な言うとかってことじゃなくて、アートマンに認識できるものから始めてるからって方向性の違いだね。
結局アートマンは全てでした?以上?
そうですそうですそうです。
ここらはちょっと余談なんだけど、
この奪いちゃった始まりの時にブッダの話をしたと思うんだよね。
ブッダ、ムカの話をしたと思うんだけど、ムカはつまりアートマンはないってことじゃないですか。
我がアートマンだからそう。
アナアートマンって話をしたと思うんだけど、
つまりヤージのバルケアが打ち出したこの全てはアートマンであるを、
全部ひっくり返してアートマンなどないって言ったのがブッダなんだよね。
この世界観と同じじゃないんだ。一元論ではあっても。
違う。
なぜかみたいな話ももちろんあって、それもまたちょっと後で追々やっていけたらと思うんですけど、
なぜ今やらないかっていうと、
ここからね、前回最後に言った、まさにカルマとか輪廻とか下達みたいな話を、
次回以降またしていくんですけど、
何かっていうと、ここまで言い切ってしまうと当然いろんな都合っていうか、
言い切ったからこその問題ってやっぱりいろいろ出てくるんですよね。
そうなの?
例えば、死んだ後に人はどうなるのかと。
古代の人は結構楽観的で、死んでも死者の国に行って同じようにどんちゃん騒ぎできるぜみたいな。
そんなふうにピュアに考えてたわけなんだよね。
でもさ、このエアジナル病気屋さんが全部アートマンだと。
今生きてる人はカンナハイドっていう人はたまたま肉体がそういう元素とかが繋がって、
ここに生きてるだけで、死んだら要は亡くなるんだと。
要は死後に意識も存在したくなるんだとかっていうふうに言うと、
死んだ後に死者の国で楽しくやる、そういう自分の意識もなくなるっていうふうになっちゃうんだよね。
さっき意識はないって言ったけれども、一応現れとしての例えばカンナハイドみたいなものには、意識みたいなものはあるよねみたいな。
そこはアートマンを知らないからなんだけどね。アートマンを知らないから意識がある。
あると思ってるだけ?
そうそう、あると思ってるよねっていう話。
アートマンなんだけどねっていうね。ヤージンやヴァルキリアさんからすると、
そういう感じなんだ。あんたは知らないからそうやって自分の意識があるつもりで生きてるよねみたいな感じなんだよね。
そうなんです。そうなると今度は逆に、知らないってことは実は苦しみなんだとか、
知らないってことはそれを知らずに生きているというちょっと劣った生き方なんだとか、
そういう発想も当然出てくるよね。
まあね、若干虚無主義感が出てくるね。
そうそうそうそう。なるとやっぱりそれを知らない自分はダメなんだとか、
それを知らないまま死んでいくとでも意識はなくなるとした時に、
自分はアートマンを知らないのにただ意識がない状態になるとすると、めっちゃ怖いじゃん。
ああ、なるほど。むずいなあ、そうなっちゃうのか。
死んだ時にすごく気持ちよくというか、自然とアートマンの世界に戻るというのもおかしいけれども、
だから同じだよね。生も死もないみたいな話だよね。
はいはいはい。そうだね。全てはアートマンになっちゃうからね。
だけど自分はそういう感覚ないぞって思った時に、
死んだ時に素直にアートマン側に戻るって感覚もおかしいんだけども、
なんか怖い。確かになんか怖いって感じだね。
倫理とアートマンの関係
そうそうそう。さっきさえ言ってくれたような、
例えば犬が亡くなった時に大丈夫、犬っていう大きな存在を飼えるだけだからっていうところになれば、
それはそれである意味ハッピーかもしれないけど、
でもこれもアートマンだというか、むしろヴィアージアブラキアさんはそんなことを想定してないから全部がアートマンだとした時に、
じゃあアートマンに帰るって言われてもアートマンってなんだよ、認識もできないし、
全然わかんないのにそれに帰るって言われてもなんも安心できないよ、みたいになっちゃうんだよね。
だし帰るっていう概念でもないだろうからね。
ヴィアージアブラキアさんとか知ってる人たちから言わせるとね。
もはや死んだ後に死者の悔いでどんちゃん騒ぎみたいなものにすがれなくなってくる。
そんなにこれ流行るというか、受け入れられるの?
この瞬間に広まったってわけではないんだけれども、そっちの方がいいよねとか、
先進的であって人たちが出てくるし、そこからバラモの人たちを通じて一般の人たちに教えが広まっていくっていう流れはあったみたいなんだよね。
やっぱり時代が進んでいくと、死んだら楽しくやるって言うけど、
例えばこれは次の話なんだけど、
これもよくある話で、
善人としてきた人と悪人として、要は他人を殺しまくったみたいな人がいたときに、どっちも死者の国に行くの?みたいな。
どっちもどんちゃん騒ぎしてたら、死者の国でも嫌な奴と出会うのかなとか、
それは別に今の世界でも苦しんで気持ち良い思いをするんじゃなくて、奪って楽しんでやってほうが良くないとか、
そういう倫理の問題が出てくるわけなんですよね。
それは今回の話じゃなくて、ベイダーの世界観でいてもってことね。
ベイダーの世界観からいてもだし、ベイダーの世界観が発展していく中で、そういう倫理の問題が出てきますと。
ある種、またちょっとアートマンの話に戻ると、
アートマンという風に全てがアートマンだとか、そんだけ素敵なもの、素晴らしいものなんだとしたら、
なんで人間ってこんな悩んだり迷ったりするんだろうねとか、
アートマンを知ればいいんだったらなんでそれができないように我々は生きてるんだろうねとか、
そういう問題を勝手に生み出しちゃうんだよね。
なるほど、確かに確かに。そうは言ってもお腹は空くし、イラッとするしみたいな。
しかも幸せなことについては否定されるしみたいな。
そう言っても旦那さんの方が他の男性より素敵だと思う。この気持ちって何?みたいな。
そういう本当は考えなくていい問題なんだけどこれって。
これが例えばどんどん湧いてきちゃいますよと。ある種の不幸っていうかね、
キリスト教的な知恵の実を食べたら人類苦しくなっちゃいましたみたいな感じになっちゃうと思うんだけど。
なんつーもの、あれだね、SNSを生み出してしまった人類みたいな。
そうだよ、パンドラの箱的な感じ。
なければ知らなかった悩みだし、
あればあったで嬉しい喜びもあるだろうけど。
便利だし、いいんだけど、
ヤージュニャヴァルキヤの思想
やっぱりいいねが来ない、苦しいっていう感覚って別にスマホが出るまでじゃなかったよね、みたいなさ。
まあそんな話として、やっぱりこういろんな問題がここから出ちゃい、考えざるを得なくなってきちゃいますよと。
不幸か不幸かね。
これ次回話していくんだけど、ここから先ほど言ったような、
豪雨とか晴れ間とか、あるいは行為、行いの結果とその報いみたいな発想とか。
はいはいはい。
そこからさらに進んでいくと、倫理とか下達とか。
そういうふうな考え方がどんどん生まれていくんですよね。
ちょっと待ってよ、それもやはりジュニアバルティアさんが作ってるだけか。
そうです。
おかしくない?これ一世代だけ。
だってね、これを、ハイト最初言ってたけどね、2,3世代というかやってるんじゃないかみたいな話があったけど。
言うんじゃないかみたいな。
一人の人がこれを作って広まって、何か問題が出てきて、みたいな流れで言うとおかしいし、
問題が出てない時点でそこまで考えてたとすると、ただの未来人みたいなやつだな。
ただのめっちゃヤバい人。
そうだよね。
しかもお話的には、やっぱりバラモンとして普通に生きてたから、
結構年取ってから出家というか、当時言うと放浪のために出て、
こういう哲学的なことを考えましたとかっていう話なんだよね。
そうなんだ。
そんなさ、長く生きたとしても仮に60で放浪のために出ても、2,30年とかじゃん。
まあね。
どんなに頑張ってもだよ、90まで来たとして。
で、これをやれってまあまあ無理だよね。
言ってる意味はちょっとわかった気がする。一人じゃなさそうだみたいなね。
2,3人いるんじゃないかっていうのはまさにそう。
ゲダスっていうのもオリジナルっていうよりは、
もちろんそういう発想もなんとなくベーザーの中にあってのってことではあるんだけど、
それをちゃんと体系的にというか、ちゃんと結びつけて考えましたとかっていうのは、
ペアージャ・ヴァルキラさんが最初はと言われていますよ。
そうするとね、やっぱりインド人はどんどん予防をはかなむというか、
楽観的じゃなくて、やっぱり人生は苦しみだとか、思うようにいかないとかって言って、
ブッダみたいな人が生まれていくみたいな。
一切の苦を取り除きましょうみたいなね。
はいはいはい。
そんな風になっていくんですけれども、今回はね、
全てのアートマンだっていうところでアートマンってなんだとか、
アートマンが何だとは言えないけど、
そう考えた時に意識がない世界というものがあるらしいとか、
全てが一切の疾患になるという世界があるらしいってことはちょっとお伝えできたかなと思うので、
はいはいはい。
これを土台にね、次回またカルマとかリーネとかゲタツみたいな、
そういうものがどういう風に生まれてきたのかっていう話をしていこうと思っておりますっていう感じですね。
次回の展望
分かりました。
そうね、もうアートマンとは何かは分からないってことが分かったので、
そうですね、はい。
なんとなくその世界観だけ。
分かりました。
じゃあその世界観の中でさらにどうなっていくのかという話もね。
はい。
分かりました。
では次回もこのウパイシャットのちょっと奥深い世界ですね、楽しんでいきたいというところで、
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
41:54

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