2024-11-13 1:13:21

#15「演じている時間も自分であること」(株式会社Alave 小濱 晋③)

今回の語り手:株式会社Alave 小濱 晋

演劇ごはん HP:⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://engeki-gohan.jp/⁠⁠

内容:あがり症の幼少期/演劇には点数がない/演劇とロジック/オープンであること/その人らしさが見える表現/ありのままでいることの勇気/人柄から出てくる魅力/愛し愛される状態/不条理をやってしまう構造/演技とオープンマインドの共存/自分が思う自分像と他人が思う自分像/映画というタイムカプセル


ようこそsocial hive WAITING CAFE 点描の弧へ。

ここは東京文京区本郷三丁目駅の裏にある、小野田総合法律事務所併設シェアオフィス『social hive HONGO』のメンバーが立ち寄るWAITING CAFEです。

毎週この時間のWAITING CAFEは、決まってメンバーの誰かがふらっと立ち寄って面白い話をしてくださるんです。

まるで世界の見え方がほんのちょっと、変わってしまうような。

※番組へのお便りは、socialhivehongo@gmail.comまでお寄せください。


聴き手 : ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠岡田壮麻(スタートアップ支援家)⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

常連 : 和賀未青(株式会社ニイラ代表)

HP:⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://niila.info/index.html⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

制作 : 小野田峻(弁護士/小野田総合法律事務所)ほか 

小野田総合法律事務所 : 

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠HP:⁠⁠⁠⁠https://www.ot-lawoffice.jp/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠


X [Twitter] :⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ social hive HONGO(@socialhiveHONGO)⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

*ご感想は 「#点描の弧」 でお願いします。

BGM:zippy(作曲家。X [Twitter]:zippy@zippy_zippy_)

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Welcome to social hive WAITING CAFE Tenbyo no Ko.

This is the WAITING CAFE where members of "social hive HONGO," a shared office attached to Onoda Law Office, located behind Hongo 3-chome Station in Tokyo's Bunkyo Ward, stop by.

Every week at this time at WAITING CAFE, one of our members stops by to share an interesting story.

It may be a story that will change the way you see the world just a little bit.

サマリー

株式会社Alaveの小浜さんが演劇との出会いやその影響についてお話しします。彼は人前でのプレゼンに苦手意識を持ちながらも、演技を通じてそれを克服していく過程や、演劇の特性に関する考察を深めます。このエピソードでは、演技における自己表現や本来の自分を見せることの重要性について述べられています。また、福祉業界における役割と自己のアイデンティティの葛藤についても触れられています。演じることが自分の一部であるという観点から、心理的安全性の重要性や他者との関係が探求されます。さらに、理不尽な環境における人々の役割演技についても議論され、オープンマインドと演じることの共存が強調されます。小濱さんは、ありのままの自分を出すことの重要性やその過程での心構え、メソッドについて深く掘り下げます。ストーリーや環境によって役者がどのように受け取られるかの例を通じて、他人との評価のずれについても考察します。このエピソードでは、小濱さんが演じることと自分自身の関係について考察し、愛し愛される関係が自己理解に与える影響について語ります。また、演技を通じて自己表現を促進するメソッドや、演じることで得られる擬似体験の重要性についても触れています。

00:07
ようこそ、socialhive WAITING CAFE 点描の弧~。
ここは東京文京区、HONGO3丁目駅の裏にある法律事務所併設シェアオフィス、socialhiveHONGOのメンバーが立ち寄るWAITING CAFEです。
毎週この時間のWAITING CAFEは、決まってメンバーの誰かがフラッと立ち寄って面白い話をしてくださるんです。
まるで世界の見え方がほんのちょっと変わってしまうような、そんな話が聞こえてくるかもしれません。
socialhive WAITING CAFE 点描の弧~、新しい当たり前をデザインする実践者たちの日常。
演劇との出会い
本日のご来店者は、先回に引き続き株式会社Alaveの小浜さんです。
今回は、小浜さんのパーソナル化ですね。
うん。
イエイ。
イエイ。
違うけど。
なんかこう、演劇との出会いとか、なんかどういうとこに魅了されたみたいなとこちょっと聞いてみたいなと思ったんですけど。
出会いですか。出会いはですね、そんな大した話じゃないんですけど。
僕、飯島直子のファンだったんですよ。
えー。
好き好きでも。
ジョージアの。
あ、そうそうそう。綺麗なお姉さんじゃないですけど、小学生ぐらいからずっとファンで。
ドラマのエキストラをバイトで始めたんですよ。
飯島直子を見たくて。
当時バスストップっていう、うっちゃんと飯島直子とかが出てくるやつがあって。
ありましたね。
あれのエキストラをバイトでやってて。
で、エキストラの事務所に、エキストラの事務所は誰でも入れるんですけど、そこになんかちょっと上のエキストラ見えだしませんかみたいなのがあって。
で、レッスンというか演技習えるところがあって。
で、僕元々人前でしゃべるともう顔真っ赤になっちゃって、震えちゃうとか、もうブーってなっちゃうタイプで。
小学校のときとかリコーダーのテストとかありました?
ありました。
なんか青いのブルブルブルブルってなっちゃうタイプ。
ブルブルしちゃう。
人前で吹かされますよね。
音楽のとき。
そうなの。
で、しかもアンプした方が得点が高いみたいな感じで。
で、そういうのでも震えちゃうタイプだったんですけど、そのバイトをし始めたのが大学の確か途中ぐらいで。
で、理系だったので理系の方に進んだんですけど、理系って結構プレゼンが多くて。
研究とか。
そうそうそうそう。
だから会社入って就職した後もそういうの機会が多分多いから、ちょっと克服しようと思って。
その演技のとこに通いだしたの。
プレゼン克服から来てたんですか。
はい。
それは確かに遠いかもしれない。
プレゼンっていうか人前で話すとかの克服。
発表とか。
で、そう始めたんですけど、やっぱりやり始めると舞台見に行ったりとかっていう機会が増えて。
で、面白い舞台とかを見たときに心を動かされるじゃないですか。
影響を受けるわけですよね。
そのときに悔しいと思ったんですよ。
影響を受けてもちろん感動もしてるんだけど、なんで俺があそこにいないんだ。
そういう悔しさなんですね。
そこに立ってない自分に対する悔しさ。
そう。
俺も、いやなんか影響をさせられてるのが悔しいのもあるんですよ。
影響を感動させられてしまったみたいな。
それは良い舞台だったっていうことですか。
そう良い舞台だったんですけど、それがもう悔しい。
だから俺もそこにいたいというか。
っていうのが結構その本当に続けてきた理由というかモチベーションになったところですね。
演技の難しさと再現性
あとはもうあのボリザリングじゃないですけど、やっぱ与えられた課題はクリアしたいっていうのがあって。
でまぁある程度勉強はまぁそこそこできる方だったので点数という意味では。
でも演劇って点数がないんですよ。
確かに点数ないですね。
だから終わりがないというか100点が取れない。
だから辞められなかった。
今も?
はい。
確かに課題コンプリートってならないですよね。
そうならないんですよ。
もう常に追い求めなくて。
天井がないですからね。
そう、でしかも演劇ご飯はそのお客さんから影響を受けるので、
お客さんなんて毎日毎回違うし、反応も違うし、雰囲気も違うし、
それに対して正解の反応なんてね、もちろん一つじゃないし、
ってなるともうとんでもない。
課題クリアしたい側からしたらとんでもない試練ですね。
毎回課題変わっちゃってますもんね。
はい。
積み上がっていかないといけない。
上がないんです。
なんかそれは正直あります。
苦手だったから続けてるとか、
課題クリアが結局できないから続けてるみたいな。
そんなモチベーションは一つあるんですね。
そうなんですよ。
だから演劇が大好きでとかではないんですよ。
課題クリアを目指し続けてから困難がいっぱい来ちゃってるっていう。
そう、もちろんその演劇の素晴らしさは分かってるけど、
与えられる影響力とかは分かってるけど、
とはいえ、じゃあすごい演劇好きで始めたのかって言われると、
もう全く。
むしろ克服側だったっていうのもちょっとあるんですよ。
だからあんまりないかなと思って。
しかも理系なんで、そもそも。
めっちゃロジックに考えちゃいますよね。
演劇陣にもロジックに向き合うみたいなのとかあるんですか?
そうですね。僕は両面必要だと思っていますね。
そのセンスというか感情面とロジックと。
なんかやっぱ感覚だけでやっちゃうと、再現できないんですよ。
なるほど。
なんかやっぱ人なので、毎日というか状態って違うじゃないですか。
役者さんもその体調悪いときもあれば、気分が乗らないときもあればとかってあるときに、
それをその感覚でなんかいつもの通りにやろうとかってしちゃうと、
やっぱ結構不安定だと僕は思ってて。
実際その海外とかのメソッド、方法論として使われてるものって、
その感覚を作用させるためには、この行為をすれば必ずここに行けるっていう風に作ってくれてるんですよ。
感情だけとかっていう話しちゃうと難しいじゃないですか。
でも例えば手を挙げてくださいだったら誰でもできるじゃないですか。
それによって得られる状態がこうこうこうで、
それが役者にとって必要ですだったら、
誰もがそれって再現できるので、手を挙げるとしてれば例えば誰でもできるので、
っていう風に先人たちが作ってくれてるので、
それって結構ロジックなので。
そうなんですか。
はい。
演劇って再現性のメソッドがあるんだなっていうのをちょっと初めて聞きました。
そうなんですよ。
もちろん再現する部分ってあれですけどね、
その、なんか同じ感情とかじゃないですよ。
状態とかの話なんですよ。
泣いてる状態とかそういうことですか?
いや、えーと、なんていうんですかね。
システム。
なんていうんですか。
状態なんですよね。
状態。
例えばリラックスしてる状態としてない状態みたいな状態。
あーなるほど。
それの演劇として良い状態があって。
役者としてパフォーマンスするにあたって、
良い状態っていうのがある。
なんかそれを作るのに、
その状態になろうってしても結構抽象的なので、
とか、例えば、
本番に向けてテンション上げていこうっていうのは結構抽象的なんですよね。
でも、じゃあ本番に向けてテンション上げるために、
この音楽を聞こうだったら、
割と具体的になってきて。
なるほど。
その音楽を聴けば必ず、
例えばこういう状態になるとか、
こういうテンションになる、
っていうのが弱い方法。
あーなるほど。
確かに音楽とかだと分かりやすいですね。
この曲でテンション上げて出社するとか。
そうそう。
だから方法として落としていかないと、
再現できないんですよ。
っていうのを先人たちが研究して、
役者にとってパフォーマンスとして良い状態を得られるためのメソッドはこれです。
みたいなのがあるので、そこは理論。
じゃあそういう部分も結構、
理論的に捉えてやるみたいなのはお好きな方ですか?
そうですね。
だから僕、もともとやっぱり感情を動かすのがあんまり得意じゃない方なので、
そういう意味では、
折っちゃうっていうことをしちゃってたんですよ。
お芝居でその稽古を繰り返していくと、
あ、いいねとかって例えば演出家に言われると、
その芝居を折っちゃうんですよ。
正解を出したいから。
課題クリアしちゃうから。
課題クリア、はい。
あの時と同じ言い方、同じようにやろうってしちゃうんですけど、
それがもうダメなんですよ、タブーで。
だって、時間も違えば空間も、
空間っていうか空気も違えば、日も違えば、
相手の状態も違うんじゃないですか。
それこそ。
じゃあさ、体温だって全く一緒じゃないわけですよね。
自分もそうです。
その中で、
同じことを繰り返すなんてことはできるはずがないのに、
やろうとしちゃうんですよね。
再現ができようがない状況で再現しようとしちゃってる。
再現する部分が違うんです。
再現として捉えるべき要素が違うんです。
同じ芝居をすることが再現としていいことではなくて、
その人と100パーの状態で、
オープンにやり合える状態を作ることが再現しなきゃいけないこと。
なるほど。演技はその一部なわけですよね。
演技はその状態があってこそできることですね。
オープンになってない状態で相手とやり取りしちゃって、
感度が低くなってるっていうような感じ。
だから得られるものも減ってるし、
与えられるものも減ってる状態で演技しても、
パフォーマンスとしては下がるってことです。
すべてがダダピロげになってないと、
いい芝居のやり取りにはならない。
演技の前提から今ちょっと学びました。
そうそうそうそう。前提という感じです。
なるほど。
人とのやり取りの大前提。
人間関係と演技論
ここが結構社会人とかにも役立つはずだと思ってて、
人とコミュニケーションっていう意味で。
コミュニケーションに通ずるんですね。
オープンマインドというか。
確かに。
で、そこは理論として方法論になってるから、
そういうところは僕としては入りやすかった。
なんかそういう学びにもなるんですね。
普段のそのコミュニケーションって。
そうですね。
なんか演技って結局コミュニケーションなので、
なるほど。
なんか嘘をつくわけじゃないんですよ。
お芝居ってもちろん、
お芝居って作られてるんですけど。
で、割と嘘つくの上手いんでしょとか言われたりするんですけど。
結構僕は逆だと思ってて、
自分に素直になれないとお芝居上手くならないんですよね。
その自分の中に何が起きてるか、
そしてそれを素直に表現できるかができないと、
結局嘘をついたり誇張したりすることになっちゃうんですね。
で、そうするといい芝居には見えないはずなんです。
嘘くさって思ったりとか、
演技下手だなって思ったりとかに繋がっていくはずなので。
なんかそれを脚本の中で、
例えばここで悲しむっていうようなシーンがあったとして、
その日にそこまでいけなかった時に、
その自分を選択したほうがいいんですよ。
うん。
でも脚本にこう書いてあって、
この感情に今までもなってたから、
そこに行かなきゃってするとダメだと思っていて。
なるほど。
これ演技論だから人によってもちろん違いますけど。
僕はその時にそっちを選ぶんじゃなくて、
今感じてる自分をありのままに出したほうが、
舞台の良さというか生の良さ。
で、お客さんからしたら真実を見てることになるかなって。
ママさんという人間のありのままでてますからね。
そうですね。みんなそうですけどね、役者さん。
そこも難しい。なんか演技論になるんですけど。
ありのままの自分を出すっていう方と、
役になりきるというか、
乗り移るというかっていう方と、
2タイプ多分あって。
僕のあれですよ、自論ですけどね。
考え方としてですよね。
なりきる人ってやっぱりちょっと少ないと思っていて、
全然違う人格になれるって、
ある種、ちょっと二面性じゃないですけど、
ちょっと人格がいろいろモテる人だけど、
そうじゃない人たちとか、
演技と自己表現
僕、小比奈太さんとか大好きなんですけど、俳優さん。
小比奈太、文雄さん。
とか、伊藤志郎さんとか好きなんですけど。
そこで全然違う人ではないと思うんですよ。
やっぱり伊藤志郎さんの良さとか、小比奈太さんのあの感じとか、
悪役とそうでない役と、っていう違いとかはあるんですけど、
でもやっぱなんか、あの方の要素みたいなのはずっとあって。
でも僕は、それがやっぱ、それってすごいことだと思うんですよ。
その人らしさを100%出せるって、すごいことだと思っていて。
なので、なんかすごく人格がめっちゃ変わるとかじゃないけど、
っていうタイプの役者さんも別にいてよくて、
僕もそっちタイプなので、結構僕だと思います。
何やってもっていうか、悪く言うと何やっても小浜だよね。
だし、まあとはいえもちろんいろんな要素を変えたいというかはしてるんですけど、
ただ、自分を活かして作る役者と、全然別人格を作ってやる役者さんとかいるのかなーって思います。
そうするとでも逆に演技が上手いとか下手っていう、またそれは違う解釈?
人によって言うと、いや絶対そうだと思います。
確かに。
だから僕は上手いって思う人が他の人から見たら下手とも感じるでしょうし、
なんかそこはもう一長一短っていうか、
十人十色?いろんな解釈があるんだろうなーって思うから、
なんかそれこそ、あんまり団体目指せないから。
だからやっぱちょっと大げさめにお芝居にすることとかだと、あんまり好きじゃないですよね。
分かりやすいというか、よく言えば分かりやすいけど、
なんかその本当に嘘嘘というか、誇張してるなーって感じちゃうと、
いやそこまでしなくていいなって思っちゃうというか。
じゃあ好みどっちかっていうと、その人らしさとかその人の部分が見えるみたいな。
福祉業界の役割
そう、そう見えてればいい。
その、実際そうじゃないのかもしれないですけど、そう見えてればいいと。
なるほど、それ表現としてその人が見えてればいい。
嘘ついてない感じ。
あー、嘘ついてない。
だから結構僕が選ぶ役者さん、エビご飯で選ぶ役者さん、
なんか純粋無垢な感じの人が多いです。
ある種ちょっと子供っぽいところがあるというか、取り繕わないというか。
確かに、なんか拝見してちょっと大げさにチークをして出てくる女性みたいに見たんですけど、
なんかいそうと思っちゃいました。
こういう人いそうみたいな、なんかこう、中から出てくる天真爛漫さみたいな。
そう、だからまあ演出としてそのメイクがちょっと派手だったりとかはあるんですけど、
その大元がそれをしないで欲しいですよね。
感じて発してる言葉にそれを足さないで欲しいというか。
余計な味付けをしない派ですかね。
そうなんですよ。お寿司に醤油つけないんですよ。
塩派ですか?
いや、つけない。何もつけないですね。
酢飯がそもそも味があるので。
素材で。
はい、十分味がするって思っちゃう。
なるほどね。
酢の人の食べ方ですね。
いやいや、別に。
和田さん聞いてみてどうですか?
いや、でもちょっとこう、身体表現っていう意味では、
相談を聞く側の人たちも結構それと近いことやってるのかもなと思ってて、
例えば、福祉業界とか、医療業界あるあるなと話で、
オンとオフをすごく切り替える人がいると。
いい意味でも悪い意味でもそうだけど、
でも、オンの時にはすごくある意味鎧をかぶって話を聞くんだけど、
でもその日、一歩スタッフルームに入るとガラッと人が変わるみたいな人がね、結構多いんです。
なるほど。
なんだけど、結構それって伝わってて。
それはその受け手側に。
患者さんだったりご家族だったりにつながって、伝わってて。
私もたぶん今日ここに来ながら、
演技ってっていう会話はどういうふうに進むのかなってふと思ったときに、
自分がちょっと演技的になってた時期ももしかしたらあったかなって思ったんです。
これまでその仕事をしてて。
どっちかっていうと、例えばいい人を演じるとしたり、
そう見られたいっていう思いがあったりしたけど、
それはたぶんすごく疲れて、
それでもじゃあどうやってやっていこうかって言ったときに、
やっぱりありのままになったときに、
分けることが必要なくなったっていうタイミングっていうかな、
のがあったんですよね。
そっからほんとに、ずっとこの仕事は好きだったけれども、
より自分が言いやすくなったっていうのがあって、
でも多くの人は、なんとなく仕事っていうのは、
さっき仕事の話とつながってくるとおっしゃってて、
ああ、そうだなと思ったんだけど、
それを分けすぎるから疲れるのかなって思って、
どの仕事でも。
で、特に身体表現、演技っていう枠で見られるし、
私たちは福祉職とか、あとは人を助けてくれる人だっていうふうに見られてるから。
ある種、ラベルで見られるんですね。
で、演技する人はきっと演技がうまくなくてはいけない。
そこにお金を払うみたいなものがあったりするのかな、なんて今聞いてと思いました。
だから、そのありのままでいるっていうのは、非常に勇気がいる。
うん、そうなんですよね。
なかなかやっぱりできることじゃないのは分かるしね。
特に普通に働いてる方々、会社で働いてる人たちが、
それをしてくって、会社自体が変わってくんなきゃ絶対できないので、
やっぱ難しいよなって思いますよね。
でも、絶対そのほうが生きやすいはずっていうのは、僕自身も思ってるので、
本当はもちろんみんなにそうしてほしいけど、
とはいえ、現状でそれをしてくるのは、より生きづらくなっちゃうのかもなっていう、
社会全体がそれを許可してくれないと。
ありのままをね、そのまま社会がどこまで受け入れてくれるか。
穴行きが流行ったのもきっとそこです。
ネットイットホールですからね。
みんなありのまま言ってましたね。
本当そうですよね。
ありのままでいることが悪いって、やっぱなっちゃうんでしょうね。
わがままとかとつながって。
でも、わがままとも違うし、別に他者のことを考えないっていうことではないので。
ないですよね、確かに。
そうなんですよね、なんかね。
わがままじゃないありのまままで一緒にピシャって、
なんかセコハラパハラの話じゃないですけど、
比率でパンって分けられちゃってるのがすごくもったいないなって聞いてると思いますね。
なんかこう、ちょっと違いますけど、
私、母が茶道教室の先生やってて、
で、私自身も茶道を習って、今はちょっとやってないんですけど、
茶道の言葉で好きなのが、居住まいを正すみたいな。
居住まいってなんていうんですかね、
自分の心地いいところで一旦座るみたいなところがあって、
ああいうところもなんかこう、あんまりそういうポイントとか、
自分の中で心地がいいと思えるような座り方とか、
あとは、なんていうのか、立ち位置とか、立ち方。
例えば、ここに今何人かいる中に、どこに座ろうかなとかも、
割とあんまり考えないで、
あ、今日はこっちの気分だわとか、
例えばカフェに行っても、今日は窓際がいいとか、屋外とかあるじゃないですか、
ああいうなんかその、自分の感覚を感覚で選ぶみたいなことが少ないのかな。
感覚をこう研ぎ澄ますっていうのは非常にしにくい環境にある。
食べ物に関しても、見ることに関しても。
そういう意味では選択肢がちょっと限られてきてるっていうのと、
あるんだけどないように感じてるっていうのか。
ある、本当はあるのに、なんと、
選ぶ側がないって思っちゃってるのかなっていう。
思い込んじゃってる。
それもなんか当たり前だから、食と似たようなものがあるかもしれないですね。
人の在り方みたいな。
そうですね、だから、ありのままでいいですよなんて言ったら、まあ鼻で笑われますもんね。
なんか就活の話で、服装自由で着てくださいって言って、みんなピシッてこう着て、
一人だけ行った人がもうすごいこんな感じに帰っちゃったみたいな話とかも聞いて。
そう、あの見えないルール的な。
え、企業側が言ってんのに。
言ってんのに、やっぱり学生はピシッとして行っちゃうっていう。
じゃあ言うなよって話ですね。
そういう人を採用するってことですか、企業側は。
いや、それがどこまでマッチしてるかどうかはわからないですけど、
やっぱりミスマッチ起きてますよね。
言葉って言っても伝わらないんだみたいなことは。
怖いですもんね。
間違うの怖い。
それでいくと、さっきのオープンマインドでちゃんと演技できてるかどうかっていうので、
企業側がオープンマインドで企業として本音って言えてるかどうかっていうのを見られてるのかもしれません。
そこがちょっとこの演技みたいなのとちょっと似てるかもしれません。
そう、でも演技者の人たちの人格とかキャラクターとかはあまり確かに、
見ている側は見てなかったのかなーっていうのも思いました。
あ、登場人物のって見ちゃうってことですね。
そうそう。
でも、あ、その、例えばさっき飯島直子さんが好きっておっしゃったけど、
ありのままの自分
でもその人が好きって思うわけじゃないですか。
不思議ですよね。
全部知ってるわけじゃないんだけど、
その人が醸す雰囲気だったり、演技が好き。
で、その人も好きってなるんですよね。
私も押し勝つ自分で盛んなのでわかるんですけど、
何に惹かれるって、やっぱその人柄とか。
はい、絶対出てると思いますけどね。
もちろん登場人物なので、感情の流れとか、ここでこう考えるとかは、
その人らしさとは違うかもしれない、その順序とかは。
でも、例えば人を殺したいっていう感情のシーンがあったとして、
その人自身はそこまで思わないとしても、
例えばムカつくとか、何くそって思うことは絶対誰もがある中で、
その人なりのその要素を使ってそのシーンを作ったんだとしたら、
殺すっていう考えまで至ることはその人はないとしても、
でもその表現の仕方には絶対その人らしさは出てるはずなので、
誰がやっても同じ芝居にはならないじゃないですか。
だから、そうですね、出ます。
出すっていうか、なんか出ちゃうものかもしれない。
僕は出せていいもの、出せて初めて見せものだと思っているところがあります。
その役者がプロたるゆえんの話をさっきされてたんですけど、
演技がうまいかどうかより、僕はそのオープンマインドにどれだけなれるか、
ありのままの自分をどれだけ出せるかにかかってるかなと思ってて、
それの純度が高く出せる人がプロ。
なぜなら、それを純度高く出せる人ってそうそういないんで。
今、普通に。
やっぱり普段働いてる人たちとか、普通に生活されてる人たちが、
人と接するときに、ありのままでそんなにはいないと思うんですよ。
よっぽどやっぱりそういう生き方してたりとか、
本当そういうこと自然にすごく寄ってる人は、
なんかそういうナチュラリストじゃないですけど、いるかもしれないですけど。
僕はパフォーマンスにあたって人を魅了するとか、
その人がめっちゃ輝く、キラキラするのは、
その100%以上ありのままの自分でいることなんと思うんで、
舞台上でいかにそれを再現できるかがすごいことだと思うので、
演技がどれだけうまいかとか、
そういえば間の取り方がめっちゃうまいとかよりも、
そっちのほうがもうそもそも重要と。
プロなら常にその状態作れよっていう。
普段はいいんですけど、別にすごい内向的でもいいんですけど、
舞台上だけはもう何が起きても誰とも把握ができるんじゃないけど、
もうなんでも。
オープンマインドってそういう感じのこと?
そうなんですよ。
愛し愛されてるのが絶対的な状態を自分の中にマインドセットすることなんですよ。
これが一方通行になっちゃダメなので、
愛されてることだけだとナルシストになっちゃうんですよね。
自分を良く見せるっていうだけになっちゃうんですけど、
やっぱ愛し愛してることが絶対的な状態。
なるほど。
一番自分、人がリラックスして楽しくてハッピーでっていう状態、
オープンマインドの状態が作れるっていう、
さっきお話ししたメソッドがあるので、
そういう感じ。
なるほど。
心理的安全性と演技
なんか心理的安全性って最近言うんですか?
そうそう。
それと似たような話に聞こえてきました。
そう、まさにそういうことです。
だから研修とかでもそういう演劇って使えるのになって思ったり。
すごい、チームを作るのにすごい役立ちそうな話ですね。
そうですね。
でもそれこそそれを上司側がやらないととかはできないので、
上司側がまず心理的安全性、要は心を開けた状態を作れなきゃ、
部下に研修させても何も意味がないはずです。
さっきの就活戦みたいになっちゃった。
そう。
伝わってない。
伝わってない。
いや言ってもそうじゃないでしょみたいな。
そうなんですよ。
開かない、だから演者とお客様との関係性もそうなんですけど、
お客様側はオープンマインドで来ないんで、
そもそも。
恥ずかしかったです、僕も最初は。
だし、みんながみんな楽しんでるわけでもないじゃないですか。
見に来て、なんかつまんないなと思う人もいる。
中で演者側は絶対にそういう人がいたとしてもオープンマインドで居続けなきゃいけない。
居続けていれば、結局はそれがそこにいる人たちにとって幸せな時間につながるので、
なぜなら自分がキラキラした状態なの、そうやって。
いいパフォーマンスができる状態なんで、
なのでね、こっち側が、だからお客さん側は、
お客さん側から自分からオープンマインドにはなってくれないので、
演者側は絶対にしない。
だから上司が絶対にしない。
部下側はしてくれるわけじゃないし、しづらいので。
オープンマインドの演じる側に、何でなっていきたいと思ったんですかね。
理不尽な環境の影響
A。
それは結果論ですかね。
いいパフォーマンスはやっぱりしたい。
舞台に関わってるんですよ、さっき話したように。
演じることで影響を与えたいっていうのはある中で、
影響を与えるにはいいパフォーマンスをしなきゃいけない。
いいパフォーマンスをするにはこの状態でいなきゃいけない。
だからこの状態。
じゃあ表に演じることでいい影響があるっていうのを逆算していくと、
たどり着くんですね。
そうですね。そこを知ったからですかね。
さらに結果的に、その方がいきやすかった。
自分としても。
何かに気を使ってとか、
選択しているよりも、嫌なものは嫌。
嫌いな人は嫌い。
で、やっぱり人生で出会える人って限られてる中で、
だったら好きな人たちと会話をし、
尊敬できる人たちと何かをしたほうが、
健全だし自分は幸せだなって思うので、
無駄なレガンじゃないですけど、
なんかこの人どうなんだろうって思う人と、
一緒にいる必要ってないなって思う。
思う。
あ、さあ、みたいな。
もちろんだから会社とかって続くしちゃうと、
すごく大変だと思うし、いろいろ。
全部が全部、そっちで振り切れって思わないですけど、
だからこそ僕は会社に入らずに起業したっていうのはあります。
無理だなって思ったので。
その理不尽な人たちと一緒にいたくないんですよ。
理不尽はもう受け入れられないんですね。
受け入れられないですね。
ムカつくんで。
やっぱバイトとか、就職はしてないんですけど、
バイトとかでそういう絶対あるので、
そういう人たちもいれば、会社、社員の人が、
バイトに対してとか、いろいろ見てきた中で、
やっぱ結局文句って人間関係で出るじゃないですか。
で、僕がカパってなくても、やっぱりあいつがさとかっていう文句も人間関係で、
いや、だったら辞めればいいじゃんとか、
他社に対しても思っちゃうんですよね。
そんだけ文句言うんだら、なんで辞めないんですか。
でも、まあいろいろある。
いや、でもそんだけ文句言ってるんですよ。
みたいなことになるので、
だったら自分はそうならないために、
どっかに属するのはやめようというか、
自分がトップになれば、
自分が関わりたい人は自分で選べるので、
その構造に対して文句言うぐらいだったら、
そこに入らなきゃいいじゃん。
だけど、お金には苦戦する状況にはなってしまったっていう。
なるほど。
それがあり見込まずのありのままという感じですかね。
そうですね。
もうありのままですね。
実態ですね。
はい、実態。
いや、でもありのままでいる難しさってありますよね。
社会の中でってなると。
そう、そうなんです。
これはほんと難しいと思う。
サラリーマンとかはやっぱり特にですね。
満員電車も僕もう絶対無理ですもんね。
今日朝大丈夫でした?
朝、まあまあまあ。
毎日だと無理だなって感じ。
だって人が嫌いになっちゃいますもんね。
ああ、なんかこうイライラが募っちゃって、
周りの人にちょっとこう、なんか嫌いになっちゃうみたいなのが。
いや、えっと、
満員電車の中って結構悪意に満ちてる。
空気がね。
はい。
あの、やっぱ踏まれたりとか、押されたりとかで、
押し返したりとか、もう普通に起こるじゃないですか。
だからそれに、それと接してると、人嫌いになっちゃうんじゃないですか。
なるほど。
麻痺しちゃう。
まあそうですね。
それが普通になっちゃうんですね。
だってしょうがないじゃんって言って、みんな我慢して。
さっきの話だと、だったら乗らなきゃいいじゃんって話ですね。
そうなんです。
いいです。
すごいキャラクターがすごいいっぱい出るお話をいただいてる気がします。
じゃあ、理不尽っていうお話がありましたけど、
なんか組織の中にいると、
なんか本人は理不尽になりたいわけじゃないけれども、
なんか組織的なこの動的な動きを煽りを受けて、
さっきのその、なんていうんですかね、
満員電車の押されるみたいなのもそうかもしれないですけど、
気がついたら自分も押す側になっちゃってるっていう、
理不尽をやっちゃってるっていうのがある可能性もあるかなと思うんですけども、
この辺ってみなさんどう感じますか?
そうせざるを得ない自分が組織の中になっちゃうとか。
でも切ないですよね。
だってやりたくないのにやっちゃってるって、
いろんなことが切ないですね。
状況も切ないし、
そう振る舞っちゃってるその人自身も切ないし、
なんか健全じゃないですよね。
確かに。
切ない。
悲しい出来事かもしれないですね、それは確かに。
って思っちゃいますね。
だってやりたくて不条理っていうか、なんだっけ。
理不尽。
理不尽になりたい人はそんなにはいないと思うんですよ。
確かに。
って考えると、本来やりたくもなかったのに、
気づいたらそういう人間になってたって、
切ないですよね。
でもそうなっちゃってたら、もしかしたら人にそれを言われても、
もう受け付けなくなるかもしれない。
自分がそれを認めたくないじゃないですか。
そんなことしてないようじゃないけど。
ってなるとよりそこに固まっちゃうたりとかもあるのかなって思うと。
あとは自分で変えられないと思うと、
そんなこと言われてもみたいな感じになっちゃうかもしれないですね。
結構大きい話になっちゃいますね。
世界が変わらないと、その問題って解決しないのかなっていうのは。
私、精神科の病院に長く勤めてて、
一つの考え方が、こういう考え方があるかもっていうのがあって、
患者さんは患者さんの役割を演じているっていう考え方があるんですよね。
ペーシェントロールって言って、社会学だったかな?の考え方なんですけど。
でも考えてみたら、患者さんは患者さんの役割を演じてくれて、
例えばお医者さんはお医者さんの役割を演じていて、
私はソーシャルワーカーだとか、そんな役割を演じていて、
みんなそれぞれの役割だったり肩書きをある意味演じて生きてるっていう考え方に基づいたときに、
そこにさっきおっしゃってたオープンマインドがあるのかないのかっていうのは置いといても、
一旦演じられてる空間だっていう一つの見え方もあるなって思ってて、
でも理不尽な環境って、それすらも見る余裕がないっていうか、
なんかこう歯車の一つだからしょうがないっていう考え方がやっぱり、
諦めと我慢といろんなものが内包されてるっていうか、
ゼコゼコになってて、そもそも諦めてるかな。
でも演じるで言ったら、まさに僕もそうだと思ってて、
オープンマインドの重要性
みんな絶対に演じてるはずです、日常生活で。
なので演技ってそもそも近いものだと思っていて、
だってこうやってラジオで話してるときの僕と、そうじゃないときの僕も、
それは100%一緒ではない。今は話すときの自分として話してる。
けど、この話してることとか感じてることに嘘があるかっていったらないっていうのがオープンマインドっていうことなので、
お医者さんにしても患者さんにしても、自分が感じてることとかを素直にというか別にねじ曲げずに、
対峙してれば、演じてようがオープンマインドなんですよね。
だから、オープンマインドと演じてること自体は全然共存すること。
なので、普通の役者じゃない人たちも演じてるし、でも演じながらもオープンマインドでいることは絶対にできるっていう。
ただ、それができてるかできてないかによっては、演じてるだけで嘘というか、ただ手良く話してるだけみたいなふうには、
お医者さんもいれば、例えば相手のことをちゃんと考えて、取るべき薬でないなら出さないとかっていうことを自分では思うから、
処方しないみたいな人もいるし、そこに対して、それはわかってても処方する人もいるし、みたいなようなのは違うっていうのは思いました。
理解っていう幅とか、あとはなんかもしかしたら演じるっていうことはもしかしたら意味合いとしては割と悪い言葉に聞こえちゃうのかな。
ね、演じてるよね、あの人って聞くとちょっとあまり意味合いには聞こえないかもしれないですね。
そんな気がしてて。
でも、たぶんそれがオープンマインドじゃない演じてるなんですよね、今の話の中で。
確かに。
その人らしさがない演技。
嘘っぽい。
そう、なんか僕が選ばない役者たちの演技です。
リクルーティングの基準まで言っちゃう。
なるほどね。
それは確かにやっぱ悪いイメージになっちゃいますね、その演じるは。
なるほど。
演じるにもいろんなグラデーションがあるんですね。
ですよね。
そうですね。
価値観が出ますね。
自分の価値観とか、生き様とか。
そう、出ますね、演じることっていうには。
本当は出てほしいこと。
ただ、そこを偽って演じるともちろん出ないですけどね。
逆説的ですけど、オープンマインドにいられる環境みたいなところがあると、ある程度自然に出てくるものなのかなっていうのと。
いや、そうだと。
それを作るのはあるものっていうよりか、みんなで作ってるようなものみたいな感覚もあるので。
その共通認識がみんなで作っていこうぜっていうのがあれば、すごくいい場合になりそうな。
作っていこうぜっていうより、自然とそれも生まれるものの関係性ができてるみたいな。
と、いいですね。
でも結構、机上の空論ですよね。
そうですね。
滑車があって、ただ摩擦はないものとするみたいな。
あるっしょみたいな。
そう、そうなんですよ。
試験問題みたいな。
なかなかね、難しい。
それこそ社会起用家だけを集めたりとかしたらね、そういう空間は作りやすいかもしれないですけど。
そうか、ハイブにみなさん入っていただければ。
そういうわけじゃないのでね。
ご飯も食べなきゃいけないし。
バランスなんですかね、そう聞くと。
答えはないんでしょうか。
そうですね、答えはない。
そのほうがいいのは間違いないとは僕は思いますけど、結局世界平和なので。
だけどそれがみんなができるようにはどうしたらいいかって言われたら、うーんってなっちゃいますね。
今日はカフェのオーナーであり、パレー部の共同創業者で、弁護士の小野田さんに来ていただいています。
小野田さんのこの3回目の話の中に、ありのままの自分を出すっていう話と、
あとオープンマインドと演じていることは共存するっていう話、2つ出てきてる。
ありのままの自分を出す重要性
で、これちょっとなかなかパッとすぐ聞いただけだと、なかなか分かりにくい部分もあるかなと、僕も小浜さんの聞いてて。
で、これの話する前に、なんであれイブがソーシャルハイブのメンバーで、かつ僕が共同創業で入ってるかっていうと、
その小浜さんのこのメソッドにすごい共感するからというか、
要はこのありのままの自分を出すっていうのが、別にこの演劇ご飯っていう事業に限らず、
いろんな社会課題の話とか、世の中のいろんな運送とか行きづらさみたいなところに関わってくるというか。
だからすごい本質的なこと、小浜さんとか後半の和賀さんとか小野田さんの話でもそういう話につながってはいたと思うんですけど、
すごい本質的なことで、かつそれがいかに大事かとか。
で、このとかありのままの自分を出すっていうところに至るのが難しいけど、
それをどういう風にするマインドとかどういう風なメソッドで行くかみたいなところの方法論もすごく僕自身が思ってたところとも共通するし、
かつありのままでいるっていうことによるある種こうかこうそうじゃないけど、
それによってある種行きやすくなるとかっていうことの部分もすごい共感したので、
他の社会課題に取り組むメンバーとかに対してもシナジーが大きいだろうなっていう風に思ったので、
僕が単に晩奏、法人課をそもそもご一緒しましたけど、
その後の晩奏だけじゃなくてソーシャルハイブのメンバーとしてどうっていう風に声をかけたっていうところがまず前提としてあるんですよね。
役者の表現と受け取りの関係
で、これありのままの自分を出すって言われてとか、
あとその後後半の方に愛して愛されているという状態がセットされていることが重要だって、
河村さんも割となんか多分メソッドで言えばもう最終段階みたいな話をポロッともう言葉で言ってましたけど、
はい、ありましたね。
そこらへんとかどうですか?聞いてパッといきなりそれ言われてなかなかおーってなりません?
確かに、あれが最初に来たらおーってなるかもしれないですね。
ああ、確かに。
まあ全体聞いて流れの中であれ聞くとなんとなくわかる感じですかね。
多分なんか安心安全でお互い愛し合える場所を作りたいのかなみたいなところは流れで聞いてて思いました。
だからそういう意味ではなんか安心安全な環境づくりとかコミュニケーションにもつながる話だと思うんですっていうのは河村さんの話言ってましたけど。
で、なんかありのままそれ演技論の中で話すとよりイメージというか取っ掛かりは湧きやすいなーって小浜さんの話は聞いてて思ったんですけど、
なんかあの小比奈太さん役者乗っててましたけど、結局ありのままの自分を出してる役者さんって、
まあいわばそういう表裏型とか作り込んでる役者さんではない役者さん、まあその対比で小浜さん喋ってましたけど、
ありのままなのにその役に見えるっていうのは要はその環境、要するにその物語が起こっているストーリーの文脈とか環境とかを受け取った見る側の問題なんですよね。
だから要は小比奈太さんがいい人に見えるような環境とかストーリーの中に立ってればいい人に見えるし、
なんか悪い人のようなストーリーとか部屋に立ってたら悪い人に見える。
でも小比奈太さんは全然別に作った演技はしてなくて、両方そのまんまその場に立ってるだけみたいな。
としても多分違って見えてるんですよね、多分見えてる人って。
まあこれ自体が多分演技論の中で言うと一つの確かメソッドだったと思うんですけど、
要するに受け取りで役者が同じ顔してるのにホラーなのかコミカルなのかラブなのか、
違ったところにはめ込むだけで見る側は全然違う表情に見えてしまうみたいな。
ある種の技法なりメソッドだとは思うんですけど、
ただなんかそう見えてればいいっていう意味では、
そういう自然体の役者さんってその見る側に何も強制しないっていうか、
自分が何か作り込んだものをその場に出してるわけではなくて、
多分その場にそのまんまいるんだと思うんですよね。
で、あとはもうストーリーとか周りの役者さんとかとの兼ね合いとか、
あるいはその見てる側の人の、その人が例えば何か仕事の合間にそのドラマを見てるのか、
それとも大切な人を亡くしたって落ち着いたから見てるのか、
それとも何かひたすら体が疲れてる状態で見てるのかによって、
多分受け取り方も違うみたいな。
そういう意味では十人十色に見えてくるというか。
でもそういうのが上手い役者さんを小浜さんはいい役者さんだというふうにおっしゃってると思っていて、
で、僕もそういう役者さんがいい役者さんだなと僕も思う。
そこもまあ共通というか。
だからなんか僕としてはかなりここは小浜さんと別れるところがあるかもしれないですけど、
例えば松茂豊さんとか、孤独のグルメとか、
あと役所工事さんとか、
あとちょっと変わったところですけど古田新田さんとかもそうだと思うんですよね。
で、古田新田さんって何に出てても古田新田さんなんですよ。
でも本人がむちゃくちゃ芸達者なのと、
多分その都度その都度まんまやってるだけで、
古田新田さんをかっこいいキャラとして見るか、ものすごい悪役として見るか、
芸達者として見るかは、多分見てる側の問題なんだと思うんですよね。
で、どのパターンにも見えるっていうか、見たいように見てくれっていうことだと思うんですけど。
他人との評価のずれ
で、なんかそういう役者さんのそのありのままをすごい高レベルで出すっていうのがプロだっていう話を小浜さんがしてたと思うんですけど、
ただそのありのままっていうのはその共通の一般の生活にも共通することなんじゃないかみたいな話をしてたと思うんですけど、
そうするとなんか役者さんではない僕らにとってのなんかありのままって何だろうみたいな。
ありのままって何なんでしょうね。
で、かつなんかありのままって難しいって話とか、あとはなんか一般の世界だと、
なんかありのままを出すのがあんまり良くないことに思われるみたいなのもあるよねみたいな話題出てたじゃないですか。
うん。ありました。
で、なんかそのありのままをとは言ってもありのままを出すのは難しいし、
で、かつありのままを出すとなんか嫌がられるとか、あるいはあんまり良くないことだと思われる場面思う人もいるかもしれないみたいな時に、
ただそれでも僕はなんかありのままってすごい大事だし、
で、職場の自分とか家の自分とか友達の間での自分が仮に違ったとしても、
そう違った自分も全部自分で、全部ありのままだと思うんですよと、そこに嘘がなければって話を河間さんはしてたと思うんですけど、
僕もそう思うんですよね。ありのままって。
だからなんか素の自分でかつどこに行っても全部同じみたいなことがありのままではないと思うというか、
で、結局なんかその場その場で自分が思って、思っていることを感じることに素直であることがなんか多分ありのままの自分を出すっていうことなんだと思うんですけど、
これがなんか世の中的にもっとこれを出せるといいよねみたいなことって、それこそアナと雪の女王じゃないですけど、
それが言われてるんですけど、僕そのステップまではなんかワンステップ飛ばしちゃう感じがしてて、
いきなりそれがいい、そういう社会にしようぜウェイみたいなことって多分無理で、
何でかっていうとそもそもみんな多分ありのままが何なのかが分かってないし、多分ありのままを出すってことがいきなりはできないんだと思うんですよね。
ありのままを何で出せないのかって考えた時に、どうやったらありのままって出せるんですかねって聞かれた時に、
なんか僕がいつもこう割とそれに対して折り返す話としては、なんかみんななんか自分が思う自分像と他人が思う自分像を一致させたい欲みたいなもの持ってません?
そういう意味分かります?
自分が思う自分像と他人が思う自分像が例えばずれてる時に、いやそうじゃないんだって説明したくなっちゃいません?
ついつい説明しがちかもしれないですね、確かに。
とか他でリカバリしようと思っちゃいません?
でもその欲を手放すっていうことが、僕はありのままの自分を出すまでの最初のステップだと思ってて。
私なんか逆にあれですね、へーって思っちゃいます。
それだから多分我がさんがその欲がそもそもあんまりないからなと思うんですよね。
だから我がさんはそれこそ素敵だし一緒にやりたいと思ったし、常連として誰とでもうまく喋れてるんだと思うんですけど、
普通の方っていうのはなんか自分はこんなはずじゃなかったとか、どっかで自分はもっとこうできるみたいなものを持っちゃってるとか、
あるいは社会一般で評価されるところまでは求めてなくても、せめてあの人にはこう思っててほしいとか。
つまりだからあの人には私が嘘つきだと思われたくないとか、
あの人にはそれこそカッコ悪いと思われたくない立派だと思っててほしいとか、
あるいはあの場所では自分はこう見えててほしいみたい。
でも自分は例えばこういうふうなキャラクターでこういうふうな能力があってっていうふうに、
あの場所では見ててそういうふうに思われたいと思っても、実際その場で言ったらあんまり思ってる以上に周りの人が自分を例えばチェヤホヤしてくれないとか、
あるいは仕事を任してくれないとか、あるいは思ってる以上に自分にはお菓子をあんま分けてくれないとか、
でもそんなのって別に他人からしてみればたいして深い考えないっていうか、別にそもそもそこまで注目してないよみたいなことだったりもするんですけど、
でもあれ、あの人のあの発言は僕のことをこういうふうに評価してるからこういう言葉になったのかなみたいなふうに思っちゃった時に、
でも本来の自分はもっとこの上のラインにいるのに、あの人のあの発言はこのラインだと自分を評価している。
たとえば自分を下に見ているとか、僕とか和賀さんはそういうのが気にならないとか手放しちゃってるんですよ、比較的というか割と。
だからある種の生きやすさというか楽なんですけど、そこが、そこのずれ、自分の思う自分像と他人の思う自分像がずれてる人、大きくずれている人ほど、
そのずれてるものを一致させたい欲を強く持っている人ほど、やっぱりありのままって出せないですよ。要は他人の頭の中にある自分を修正するだけで日々終わっていくっていうか。
あの人には明日こういうふうに言って、自分がこのミスはこういう理由があったから大したミスじゃないんだよってフォローしときたいとか。
あるいはあの場面で私強くあの人に言っちゃったけど、そういうこれこれこういう意図があったわけじゃないっていうことは何とか伝えとかなきゃとかって思っちゃうんですよね。
相手がいのままになるって勘違いが根っこにはありそうな気がする。
そうですね。だからいのまま、そういう面もある、そういうものを持ってる人は余計にそういう欲に振り回されるでしょうし、
で、いのままにならないからこそ日々その人の頭の中にある自分をより自分の思う理想像というか、それも自分の本来の自分じゃないんですけど、
自分が思う自分像に修正し続ける作業をしたがっちゃうんですよね。
だからだいたい紛争とかもそういうことで起きたりとか、そういうことが毎回起こるというか、
結局人と人との紛争って、例えばこれについてあいつあの人は誤解をしているんだ、こういう説明をすればわかってくれるとか、
あるいはあの出来事について自分はこんだけのことをしたにもかかわらずこういう仕打ちっていうのは、
本来は自分が苦労したことについてあいつはわかってないとか、
それってつまり分解して考えると自分が思う自分像と相手が思う自分像がずれていて、
で、それを一致させたい欲があるから、ある意味紛争にもなる。
そうですね。執着かな。
そうですね。執着ですね。で、その執着を手放すっていう状態の次にあるのが、
その先にあるのが小浜さんが言っている愛し愛されている状態かマインドセットされていることっていうか、
なんでかっていうと、自分の思う自分像と他人が思う自分像の一致させたい欲を手放すってことは、
どんな場面でも誰が自分のことをどう思うかを気にしないってことなので、
それって実は相当しんどいとか難しいですよ、人によっては。
要はだって、あの喋ってて、この人今私のこと頭悪いって思ってるなーって気づいたときに、
いや自分は頭悪くないんだって普通の人は言い返したり訂正したいんですよ。
でも多分僕とか和賀さんは、この人私のこと頭悪いなーって思ってても、
多分そのままにしとけるんですよね。
でもいつからそういう考えになったかなとか思うけど、
多分小さいときから他人の評価軸と自分の評価軸の違いを理解してたと言ったら、
なんかすごくできた子供みたいだけど、
要は他人の評価を気にするなって言って育てられたっていうところは大きいのかもしれない。
でもそれ言われたときになんか親の評価は気にならなかったんですか?
親との関係
親が、逆に言うとダメなものはダメ、いいものはいいっていう、
すごいこうはっきりとしたフィードバックがあったんですよね。
だから、あ、それすごいいいねみたいなこうちょっとした大げさなくらい褒めてくれるし。
で、ダメなことはもう徹底的にあの本当に怒られるっていう感じ。
強弱があったっていうことだったし、
でもカゴイロを疑うということはなかった。
最終絶対味方をしてくれるっていうのも言われてたし、
信じていたっていうのが、まあそれは愛し愛されるっていう関係がそこにはあるっていうことだと思う。
だから多分それが本当に土台としてあれば、わざわざその自分の思う自分と他人が思う自分がこうずれてても、
いや最初から許されてるし、最初から愛されてるし、みたいなものがあれば、
あえて一致させる必要がないんだと思うんですよね。
ない。
なるほど。
ないですね。
だから、で、そうしたときにこう愛し愛されるっていうのが今はわがまさの場合ご両親本当に素敵なご両親のそういうのがあって、
でも世の中別に親がいない人もいれば親の関係もある人もいるし、
あるいはパートナーがいない場合もあるときに、
基本的にさっきの小浜さんの愛し愛されている状態って、
多分その自分で自分のことを愛し愛されてるとか、自分が世界そのものとの関係の中での愛し愛されるんだと思うんですよ。
多分、だから他者との関係、具体的にラブとしての、なんかラブとビーラブドのことを言ってるわけではないというか、
そこも含む人もいるでしょうけど、だからもっと大きい意味だというふうには僕としてはこう受け取ってるんですけど、
だからある意味自分が思う自分と他人が思う自分を一致させるみたいなことを手放すと、
途端にその自分とは何者で自分がどう評価される存在なのかみたいなことの軸がうんさんむしょうするというか、消え失せるんですよね。
その時に、要はだから自分はこういう自分だっていうふうに固持することもしないし、
他人からこう評価されたいんだっていう願望もなくなるとすると、
その自分っていうものがこの世界にいていいかどうかっていうことの照らし合わせの作業をやらないっていうことになるので、
そうした時に裸の自分がそこに立ってるわけですよね。
そうした時に裸の自分が愛し愛されてるって分かってたら別に寂くないというか、
だからその状態が担保されてないとなかなかさっきの一致させたい欲求は手放せないだろうなっていうのがあるんで、
そうするとやっぱりひるがえって愛し愛されてる状態のままでいけてる人も少ないので、
余計にあるがままの自分っていうところに至るそのファーストステップからしてなかなかできる人がいないというか。
演技のメソッド
確かにな。
なかなか確かにすぐにそこにたどり着けるかっていうと難しいところあるかもしれないですね。
そうですね。で、話が戻るとそれをなんか擬似的に体験できるメソッドが、なんか小浜さんのメソッドなんですよ。
お芝居のメソッドというか、要は自分を出していくっていうワークショップをやってるんですけど、
それは個人の人とか企業のワークショップでも提供価値があると思ってるのはそこで、
誰であってもそれを擬似的にステップを踏んで、まあ全10回、本来ガチってやれば全10回ぐらいあったと思うんですけど、
それをステップを踏むことで、なんか自分を出していく、あるいはもう出していく。
で、その過程で愛し愛されっていう心境がどういうものかみたいなことを、
なんかある種ロールプレイとかエチュードとか、なんか要するにそういうお芝居のメソッドを通じてなんかこう体験していくみたいな。
それは面白いなと思ってて、なんか汎用性あるなと思ってるんですけど。
そういう体験を、お芝居を通して体験できるっていうメソッドなんですね。
そうですね。だからワークショップとかも別に役者希望とかじゃない人とかも来た上で、
これはすごい面白かったっていう方もいる。
で、まあ広い意味で演劇ご飯の本公演自体も、ある種境目を作ってないというか、
演じることと演じてないこととか、生きることと非日常と日常みたいなことをシームレスにつなげるっていうことは、
そういうある種の擬似体験の場でもあるというか。
エンタメを通して愛し愛されることを体験する事業ともあるんですね。
そうですね。さすがの岡田さん。
いや、それめっちゃいいですね。でもそういうことだと思いますね。
演じることと自分
だからこれ、でも今はちょっとそれで思いますけど、だから小浜さんも結局自分の人生懸けてやりたいものみたいなことを大事にしているものが核としてあって、
それを表現するものとしての演劇ご飯事業でありアレイブであるみたいなことなんですけど、
これってソーシャルハイブにいる方々共通してるなと思ってて。
要するに人生で成し遂げるというよりは自分の命が喜ぶことというか自分が大事にしていることが核としてあって、
それをある種表現する。だから僕なんかビジネスとアートってある種境目がなくなっていくとは思ってるんですけど、
その表現することの結果としてそれがビジネスになってるっていう。
そこが繋がってる方々だなと思ってて。
そうだな。シームレスに繋げるっていうところとの関係でもう一点だけ小浜さんが言ってたところの話の補足がしたかったのは、
オープンマインドと演じていることは共存するっていう話を小浜さん言ってて、そこってなかなかイメージ湧きにくいと思うんですよ。
要はある意味演じないことと演じていることは共存するって言ってるに等しいと思うんで。人によって。
それって同居するのって。でもそれって共存するんだと思ってて。
オープンマインドは嘘がないことなんだって小浜さんおっしゃってましたけど、
そういうのがさっきのありのままの自分って場面場面での自分みたいなところに嘘がなければ、
別にその場面場面での自分が全部違う自分でもいいわけだし、その違う自分を楽しんでいればそれでいい。
でもその違う自分が例えば他者が思う自分に合わせるために演じちゃってるとか、
あるいは自分が傷つかないようにこれ以上の苦しみがないようにっていうことでそこに合わせるために演じちゃってるだと、
なんかそれってありのままではないと思うんですよね。で、このありのままってなんかポジティブな言葉に聞こえますけど、
別に良いことがある場合と苦しみがある場合と両方とも含んでいる言葉だと思ってた。ありのままの自分って。
だから別にどんな環境も常にありのままでいればポジティブ楽しく過ごせますよ、わーみたいな話ではなくて、
合わない例えば職場とか合わない人間関係ももちろんあって、
そういう場所でありのままでいたところで嫌な奴は嫌な奴なわけですよ、とか合わないときは合わないわけですよ。
でもその時にありのままでいた時にここ合わないなーって思う苦しみと、
ここ合わないからあの人に嫌われたくないから自分をこういうふうにしてこう振る舞おうっていうふうにした上で、
自分が死んじゃっていく苦しみでは後者の苦しみの方がより辛いよねっていう話。
だからありのままっていうのは少なくともその場その場で自分のこう嘘がないっていうことで、
仮に苦しい場所にいたとしてもその場所にいる例えば自分を、
例えば何だろうな、極端な話で言えば虐待の被害者の方がある意味自分を俯瞰してみて、
これは自分じゃないんだっていうふうに捉え直すことで自分を何とか守るみたいな。
であれって本当に状況が辛すぎるからの自己防衛だと思うんですけど、
そういうものはもうそもそもありのままでいるみたいな根底が崩れ去っているので、
それはもうとにかくその環境から逃げる。でその環境自体が間違ってるっていうことでいいと思うんですけど、
でもそこまでいかない場面でも例えばなんか辛い学校の生活とか家での生活とかがあった時に、
そこで過ごしている時間が全部偽りの自分なんだって思っちゃったらもったいないというか、
そこの苦しんでいる時間の自体も自分なわけですよ。
だから例えば8時間いて日中起きてて4時間分自分の痛くない場所にいて、
そこは4時間ずっと演じてる。例えば職場で演じて、ひたすらその4時間が終わるのを待ってるみたいな職場で。
でそれが毎日とかだったら、その4時間って本当に生きてると言えるのかというか、
た時にもちろん逃げた方がいい、そういう場合は逃げた方がいいんですけど、
でもそうじゃなくて、なんかその4時間苦しんでる嫌なところにいる自分、時間帯も自分の時間なんだなっていうふうに思えた途端に、
その4時間が自分の時間になっていくというか、それがだからありのまま。
だから嫌な職場だと思ったらもう嫌だと思ってるみたいなことをもう素直に出しちゃうとか、
もうなんか言っちゃうとかいうことで、同じ嫌な時間4時間でも、
なんか偽り演じてひたすら流れるのを待つ4時間じゃない、
まあ嫌なことをまんま受け入れる4時間にした途端、その4時間は自分の人生に戻ってくるっていうか、
考え方って役者さんの場合に、僕すごい好きなエピソードがあるんですけど、
例えば役者さんが演じてるんですこの時間はって言った時に、
例えば本番映画とかでも本番回ってる間、何かの役を生きてるかもしれないけど、
でもその時間もその人自身の人生の一部じゃないですか。
要するに体がポッとコピーロボットが出てきて、自分のコピーが演じてるわけじゃなくて、
生身の自分がその人を演じていても、その人を演じているという人生の時間の一部であるってことを考えれば、
その人の時間なので、演じているって状態を切り離すっていうこと自体が多分ナンセンスなんだと思うんですよね。
小浜さんなり僕が思ういい演技って言った時に、それをすごい上手いこと言ってる言葉があって、
世界の中心で愛を叫ぶのよ、岸田勲監督が世界の中心で愛を叫ぶの撮影の時に、
長澤正美さんが本当にキャリアの本当に初期の頃で、多分16か7ぐらいって、
要は演技の難しさとか、あるいはそもそも演技やりたくないなのか、
要は役者を一生の仕事にするかどうかみたいなことを決めてない時に、やっぱ苦労をされたとかうまくできないという時に、
岸田監督が自分は作り物としては別に、ちょっと異役、僕の異役も入ってますけど、
作り物としての映画を撮ってるわけじゃなくて、16歳の長澤正美そのものを撮ってるから、
これはもうタイムカプセルだと思って撮ってるから、もう何やろうが今の君が全部映ると、
だからもうそのまま思うようにやればいいっていうことを言った。
だからつまり、役をなんか自分と切り離した役を別に作り込んで、
それをなんかカメラの前でパッケージングするみたいなことじゃなくて、
何をどう頑張ったってカメラの前にいる時間帯も自分の人生の一部だよっていうか、
今の16歳の長澤正美さんそのものが映ってるっていうことにはどう頑張ったって変わりはないわけだから、
それがいわば映画っていうのはタイムカプセルと言う風に言って、
いいこと言う、うまいこと言うなって。だから、どんな時間も自分そのものなので、
だから演じていたとしても演じる自分は自分じゃないっていうのは、
それはもうあくまで自分の思い込みとかレッテルバリなので、
いやいや演じている時間もあなたですよっていうのは、
これは別に役者に通じるだけに限る話じゃないかなっていう。
どんな時間も自分であるっていうことが、
オープンマインドと演じていることが共存するっていうこととある程度一致するっていうことですね。
本日のカフェの営業はここまでになります。
今回カフェに立ち寄ってくれたのは株式会社アレイブの小浜さんでした。
事業内容について興味のある方はぜひ概要欄からご確認ください。
概要欄からはソーシャルハイブ本部を運営している小野田総合法律事務所のホームページもご覧いただくことができます。
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そして番組ではお便りを募集しています。
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明日はどんな自分をデザインしますか?
それではまたのご来店お待ちしています。
ソーシャルハイブウェイティングカフェ天秒の子
新しい当たり前をデザインする実践者たちの日常
01:13:21

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