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始まりました、志賀十五の壺。
みなさんいかがお過ごしでしょうか。
ページ手のアスベルです。
今回は、「こ○す」の言語学ということでやっていこうと思います。
非常に物騒なタイトルですけど、この「こ○す」という単語、もっと言うと動詞ですね。
これはね、言語学において結構大事なんですよね。
「こ○す」という単語は、日本語だったら、誰々が、誰々を何々を殺すということで、名詞が二つ出てくる動詞です。
こういうのを多動詞っていう風によく言うんですね。
主語と目的語が出てくる動詞ということで、これと対比されてよく自動詞っていうのがあります。
私が踊るみたいに主語しか出てこないような動詞のことを自動詞と言います。
自動詞にしろ多動詞にしろ山ほどあるわけなんですけど、
この「こ○す」という多動詞が、最も多動詞らしい多動詞とよく言われるんですね。
ある意味、多動詞の原型、プロトタイプが「こ○す」であると。
どういうことかというと、「こ○す」っていうものの主語っていうのは、その動作を行う人で、
普通は意思を持ってその動作を行います。
場合によっては、うっかり殺すとかね、そういうことあるかもしれませんけど、
普通は意思を持ってその動作を行うと。
一方、目的語の方は、その動作の影響を受けて状態変化が起こりますよね。
つまり、生きている状態から死ぬという状態、状況がガラッと変わります。
こういうふうに何かに積極的に働きかけて、
で、そのものあるいは人に目に見える状態の変化っていうのが伴うのが、原型的なプロトタイプな多動詞であると。
ま、殺すっていうのはまさにそういった動詞で、
ま、他にもこういう多動詞らしい多動詞っていうのはあって、
壊すとか温めるとか、
ま、こういうのは壊れてない状態から壊れた状態に、
冷たい状態からあったかい状態にっていうふうに、
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わかりやすい変化があるものなんですね。
で、こういったものが多動詞らしい多動詞で、
よく言語学ではこういった動詞を中心に多動詞っていうものが研究されるんですね。
では多動詞らしい多動詞があるとしたら、
多動詞らしくない多動詞があるのかというと、
ま、あるということになっています。
この辺の研究は角田多作先生っていう先生が研究してて、
世界の言語と日本語っていう黒紙を出版から出てる本があるので、
興味のある方読んでいただけたらと思うんですけど、
で、この角田先生の二項述語階層っていうものがあって、
多動詞らしい多動詞からあんま多動詞らしくないものっていうふうに階層を成してる、
ま、グラデーションを成してるっていうふうに考えられてるんですね。
例えばさっき言った殺すみたいなものは目的語の名詞に状態変化があるようなものでしたけど、
それに対して叩くとか蹴るっていう動詞はやや多動詞らしくないということになります。
というのが叩いたり蹴ったりした時に、
その対象となるものに状態変化があるかというと必ずしもそうではないからなんですね。
確かに接触はあるんですけど変化を及ぼすほどではないということで、
やや多動詞らしくないということになります。
さらにそれよりも多動詞らしくないものとして、
見るとか聞くといった知覚動詞というものがあります。
これは見るとか聞くっていうのは、
動作のその影響っていうのが対象に及んでるわけではないですよね。
接触があるわけでもないし、
もちろんその見たり聞いたりした対象に何か具体的な変化があるわけでもないです。
もしかしたら物理的世界では逆にその空気の振動っていうのがね、
耳に伝わってくるわけなので、動作の方向性は逆かもしれません。
その現実世界の話は置いといて、見るとか聞くっていう、
こういう知覚動詞っていうのは対象に接触すらないということで、
さらに多動詞らしくないということになります。
こういうふうに細かく階層が分かれていってるんですけど、
少しざっくりお話しすると、さらに多動性の低いものとして感情があるんですね。
感情を表す動詞、あるいは動詞ではない場合もありますけど、
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好きとか嫌いっていうのも何か具体的に動作を働きかけて、
それを変化させるわけではないですよね。
接触ももちろんなくて。
この辺りのものになると、具体的な動作を表しているわけではないので、
さっき言ったように好きだ嫌いだみたいに、いわゆる形容動詞っぽいものが表れたりするんですね。
つまり動作じゃなくて、状態を表しているということです。
今までお話ししたのは、二項述語階層の意味の側面だったんですけど、
これは形の面でも反映されているというか、
多動詞らしい多動詞、殺すみたいなものは、
最も多動詞らしい形が出てくるんですね。
つまり何か動作を行う人が、が、つまり主語ですね、がで現れて、
その影響を受ける、変化するものが、をという形で出てきます。
このがとをという形が出てくるのが、
日本語の中で最も多動詞らしい多動詞ということになります。
英語でも一緒ですね。
斬るっていうのはいわゆるSVO語順の第三文型っていうんですか、
そういう多動詞らしい形ということになります。
これがだんだん多動詞っぽくなくなると、
形の面もがとをっていうのが出てこなくなるんですね。
例えばやや多動詞らしくないぶつかるっていう動詞は、
これは接触はあるけど、変化までは含まないような動詞です。
でこういったものは、車にぶつかるっていう風に、
をではなくにっていうのが出てくるんですね。
さらにさらに多動詞らしくなくなると、
例えば好きだみたいなものは、
俺があいつのことが好きだみたいに、
目的語の方もがーっというのが出てくるんですね。
こういう風に意味の面で多動詞らしいものから、
多動詞らしくないものへと離れるに従って、
つまり意思的に動作を行って、
その対象のものに状態変化を起こすようなものから、
動作というよりは状態で、何か対象に働きかけるものではないもの、
好きとか嫌いとか、
まあそういう風になっていくに従って、
形の面でも変なものが、変って言うとあれですけど、
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原型的なプロトタイプのが・をという枠組みから、
違ったものが出てくるんですね。
こういった現象は日本語以外にもあるようで、
まあそういった意味で冒頭言ったように、
殺すっていう動詞は大事なんですね。
殺すっていうのは最も多動詞らしい多動詞で、
世界の言語の多動詞を見比べるときに、
殺すっていうのを見れば、
その言語で最も多動詞らしい特徴が見られるということなんですね。
まあなので、武装ですけど、
殺すっていうのは、
言語学の中では割と大事な要素であるっていうね、
そういったお話でございました。
というわけで今回はここまでということで、
最後まで聞いてくださってありがとうございました。
また次回のトークでお会いいたしましょう。
お相手はしがじゅうごでした。
またねー。