1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #712 コトバ以前の世界 from R..
2024-12-14 10:45

#712 コトバ以前の世界 from Radiotalk

主要参考文献
井筒俊彦 (1991)『意識と本質: 精神的東洋を索めて』東京: 岩波書店.

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
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始まりました、志賀十五の壺。みなさんいかがお過ごしでしょうか。ホワイトニーヒューストンです。
以前のエピソードで、言語学と東洋思想というものを配信しました。
今回はそれの続きというかね、内容的には関係ある話をやっていこうと思います。
言語の役割とは何か、言語の機能とは何かと言われたら、まず第一に思い浮かぶのは、意思疎通というかね、コミュニケーションの手段だと、多くの人がそのように答えると思います。
これもいろんな考え方ありますけど、言語学的に言うと、言語の第一の機能というのは、世界を分裂しているということです。
これはソシュールという言語学者がそのように考えたわけですけど、
この世界というのは、我々が生きている世界というのは、何か実体として物が存在しているのではなくて、言語を使うことによって、言語によってその実体がある意味現れているというような考え方をします。
よく例に挙がるのが、例えば水を表す単語で、日本語は水とお湯というのを区別します。
その単語のレベルで区別しますよね。水とお湯。
ただ英語はお湯にあたる単語はないです。両方ウォーターで、ホットウォーターということはできますが、そういう組み合わせで表現するしかありません。
考えてみれば当然と言えば当然で、水の温度というのは連続的なものなので、どこで切れ目を入れるかというのは、ある意味言語の勝手というか人間の勝手です。
というか日本語で水お湯と言っているのも、厳密にどこからがお湯でどこからが水かっていうのは区別が難しいものかもしれません。いわゆるぬるいっていうところですよね。
さらには氷っていう単語がない言語もあります。
こちらはね、日本語だったら氷、英語だったらアイスっていうのがあるので、どんな言語にも氷を指す単語はありそうなものですが、
水だろうがお湯だろうが氷だろうが、全部水にあたる単語でね、表すという言語もあります。
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お湯に比べたら氷っていうのは個体になっているわけなので、見た目的にというかね、かなり違う感じがするんですが、
それでも氷を表す単語がないという言語もあります。
こういうふうに、現実世界っていうのは本当は連続体で、何かこう、元から区別があるわけではないんですね。
そこに勝手に切れ目を入れて、水、お湯、氷と呼んでいるだけで、それを区別しなきゃいけないという理由はないというかね、
こちら側の観点、言語の観点でございます。
こういうふうに考えると、言語がもしなかったとしたら、何もかも一色たになっちゃうというかね、
境界がない、区切りがない世界になってしまうんじゃないかという気もしてきます。
まあ混沌というかカオスということですが、これは仏教でもそういう考え方はおそらくあるし、
中国だと宗師とかね、老師と言われる人たちがそのような考え方をしていました。
こういった点で言語学と東洋思想っていうのは、神話性が高いっていうんですか、近いようなとこがあるなと思って、
以前のエピソードでもお話ししたんですけど、そのあたりは。
イメージとしては、網の影みたいなものかなと思います。
網を地面から浮かすと、例えば砂浜に影ができるわけですけど、その影で区切られた一つ一つがある意味単語で、
その影を見て、この世界には実体があるというか、一つ一つの個体がそれ自体で独立している、自立しているように見えるんですけど、
一旦その網をなくしちゃったら、つまり言語っていうのをなくしちゃったら、
そこにあるのはただの砂浜で、そこには何も区別っていうのがないです。
その網の目の大きさっていうのは言語によって異なるので、
ある言語では細かく区別しているところが、ある言語では大きい網の目かもしれないし、
さっきの水の話がそうですけど、当然その網の目の区切り目っていうかな、
どこで網の目を作ってるか、その影が砂浜でどこに影を作るかっていうのは言語によるので、
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言語によって見方考え方が違うっていうのはイメージとしてはそんな感じかなと思います。
なのでこのように考えると、繰り返しですが、言語を取っ払ってしまうと、影がなくなっちゃうと何も区別されない。
ただカオスがそこにあるだけということになってしまうんでしょうか。
あるいは、言語っていうのは世界を切り分けるっていうのが大事な機能だとさっきお話ししましたけど、
別の見方をすると言語によって様々な個体が普遍化されるみたいなのもあって、
例えば転がっている石を見て石と認識してしまうと、もうそれは石になっちゃうんですよね。
だから何なんだと思われるかもしれませんが、
そこに転がっている石っていうのはオンリーワンの石っていうか、
個別的なというか、そこにただ一つ存在する石なんですけど、
石と言ってしまうと他の石とある意味区別なくなっちゃうわけですよね。
一種の抽象化みたいな機能がそこに働いているということです。
つまり言語を通して物を見てしまうと、レベルとしては抽象化したものを我々は認識してしまうことになります。
石だったら別にいいと思うんですよね。
というのが、そこらに転がっている石一つ一つに別個の名前をつけていたら、固有名詞をつけるみたいなことですけど、
そうなったら頭パンクしてしまうので、多くの場合その抽象化っていうのは別に構わないことだと思いますが、
人間の場合とかはね、それぞれ名前がついていて、ペットとかね、固有名詞ということですが、
それでもってより個別的な見方をしているということができると思います。
いずれにせよ言語によって一種の抽象化がなされるので、
その場限りのリアリティというか、真に迫ってくる感じっていうのは言語によっておそらく失われてしまっています。
言語によって石は石ということになっちゃって、その唯一性というかね、そういったものは排除されてしまうんですよね。
ではもし言語がなかったとしたら、言葉以前の世界というのは一体どのようなものかっていうのは、
僕はちょっとよくわかりません。
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これはこの間のエピソードでもちょっとお話ししましたけど、
仏教とかはそういった世界をある意味目指すんですよね。
それこそが修行の一つだと思うんですが、
ただ直感としては言葉がなくても実体はあるっていうのは、実感としてそういうのはあると思うんですよね。
言葉がなくたって、おそらく私は私として認識すると思うし、自分を自分として認識するでしょうし、
水とお湯と氷っていうのは言葉がなくったって別に区別はできると思うんですが、
ただそれは言葉を持ってるからそう思ってるだけで、本当に言葉がなくなっちゃって、言葉以前の世界に行ってしまったら何もかもわからなくなってしまうのかとかね、
そういったことがちょっと哲学的な問いですけど、興味深い議論ではありますよね。
我々が実体があると思って見ているこの世界っていうのは言語によって作り出されたものであって、
それ以前の世界っていうのはちょっと今のところは想像できないかなって感じがするんですけどね。
修行を積めばそういう世界も見えてくるかもしれません。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローも忘れずよろしくお願いします。
お相手はシガ15でした。
またねー。
10:45

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