1. 1年後の自分を楽にするラジオ
  2. 目標に疲れたら「ノープラン」..
2025-02-02 15:08

目標に疲れたら「ノープラン」で生きてみる。

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おはようございます、しゅうへいです。この番組では、1年後のあなたが楽になるヒント、里内海の島から毎日有力をお届けしております。
はい、ということで今日はですね、目標に疲れたらあえてノープランで生きてみる、というテーマでお話ね、届けたいと思います。
で、あの、なんかこう新年がね、明け、明けっていうか始まり、もう2月に入ったわけですけど、どうですか?
なんかこう、2025年になって、こんな年にしたいとかって思ってた、あのワクワクだったり、目標は、どれぐらいこう進捗してますか?
まあこういうふうに言われると、あのね、日頃の仕事が忙しくて、家族との時間も必要だし、家事に追われ、ね、
ウォーキングもしないといけないし、あれこれで忙しくて全然できなかったとか、うん、
あっという間に1ヶ月経っちゃったっていう方も、少なくないのかなと思います。で、偉そうに言ってますけど、僕自身もそういう一人なんですね。
で、なんかこう難しく考えすぎて、なんかこう、糸がもつれてるみたいな、あの、状況かなとも思うんですよ。
で、まあ目標ってね、確かに僕はあった方がいいと思うし、それを追うこと、そのプロセスに価値があるっていうのはめちゃくちゃ同意なんですけど、
一方で、その目標を追うことだったりとか、そのプレッシャーから日々安らげず、うん、しんどくなってしまって、
複雑に考えてしまって、なかなかこう思うような毎日が過ごせないのであれば、一旦僕は忘れてしまってもいいのかなと思うんですね。
まあ忘れるというか横に置いとくみたいな。で、その代わりに何をすべきかっていう、すべきかというとどういう指針かというと、要するにノープラン。
ノープランで生きていくっていうこと。
で、まあこれちょっと前にXのポストもして、それをノートにもねまとめたんですけど、
なんか意外とその計画とか目標で疲れてる人も思った以上にいるのかなと思ったんですよね。
なんか生産的に生きないといけないみたいなところもあるかもしれない。で、
なんだけど、あのもうちょっとこう議論を深めて、そもそもなんかこう目標を設定するということは、すごくおこがましい行為ではないのかなと思ったんですよね。
なんかこれ目標を作るのがダメとかそんな話じゃなくて、すごくこう自然の原理に立ち返るとおこがましい行為。
で、それはどういうことかというと、そんな目標を作って自分が決めた通りにできるはずなんてなくないですか。
まあ極論言えばね、自分だっていつまで生きてるかわからないのに、まあ1年後とか2年後3年後の目標を決めても、まあ死んでたら終わりだよねっていう。
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本当に極論ですけどね。でもそれって僕は真理でもあると思うんですよ。
で、そのこの人類が生まれて、まあ20万年30万年とかって言われてますけど、その間、
なんか目標を決めて生きてたのかなって問うと、いや僕はなんか限りなく脳に近いのかな。
ね、そのマンモスがいた時代とかね、その狩猟採取してたとか、たまたまその小麦だったりトウモロコシとかね、お米を栽培できるようになったりとか、
いろいろ多分その文明が始まるにあたって、いろんな奇跡的な出来事もあったと思うんだけど、それって何か意図してやってたことなのかなって思うんですよね。
うちの果樹園にも毎年ビワとカキが、まあちょっとね、裏年というかできない時もあるんですけど、まあ
何かはどっちかはできるみたいな感じなんですよ。で、 それってなんだろうこう、僕が計画的にそこに植えて
実らせているかというと全くそんなことなくて、あの本当にノープランなんですよね。
まあ自分の土地だから、引き継いできた土地だからそこにあったっていうのが、あの本当の姿なんですけど、
別に僕は生やそうと実らせようとしているわけじゃないし、実ったら実ったらありがたいな、食べようみたいな。
で、鳥にももちろん食べられるので、食べられるというか鳥たちの餌にもなるので、まあそういったものがいろいろ循環しているのかなとも思うんですけど。
まさにその自然の摂理というか原理を見ていると、まさになんかノープランな気がするんですよね。
で、それに僕らは何十万年と生かされてきた。
なんかこう、米をね、今はもちろんそのお米の生産者の方がいて、その人たちのおかげで美味しいお米食べられているんだけど、そこはもちろん計画的に生産していると思うよ。
でも例外とかあったりとかね、例外というか冷たいやつね、昔もありましたけど、ピポツボ火山だったっけ、ちょっと名前忘れちゃったけど、フィリピンとかあっちの方ででっかい火山が噴火して、その噴煙で太陽が遮られて、例外というのはありましたよね。
90何年とかでお米が全然不作みたいなことありましたけど、それもさ、言えば完全にコントロールできているかというと、そうじゃない場合もあるわけですよね。
10年、20年で単位で見たら、そう至らなかった場合もあると。
そしたらやっぱそれもどちらかというと人間にとっては、マチの姿勢な気がするんですよ。
もちろんそのお米を植えたりとか育てるってことは能動的にできるかもしれないけど、結果実るかどうかは完全にはコントロールできないと思うんですよね。
やっぱ気候だったりとかそういったものもあるから。
って考えたら、こういうふうに自然のこととか食べ物とかに置き換えると、結構僕らは、もちろん計画的な生産とかあるかもしれないけど、最終的にはコントロールができないんですよね。
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仏教の因縁証記じゃないですけど、完全にはコントロールできない。
って考えたら、ノープランっていうのも別にさほどおかしな話ではなくて、全然ノープランでいいと。
ノープランイコール何もしないわけではないんですよ。
なんか複雑に目標設定決めて複雑に考えすぎて行き詰まってるぐらいなのであれば、目的とか計画とかそういったものを一旦横に置いてもいいと。
一回ノープランというOSを取り入れていいと思うんですよね。
猫とかまさに僕、瀬戸さん見てるとノープランだなって思うんだよね。
一日今日何するの?とか帰ってきて何したの?って言ってもニャーとしか言わないし、そうノープランなんだよね猫はね。
ただ猫みたいには生きられないので、実質生きてはいけないので、人間にとってノープランってどういうことかっていうと、何もしないわけではない。
ただ毎日毎日1週間の中でもいいけど、ノープランなんだけど何かこれやってみようかなとか。
例えば僕も音声をずっと録り続けてますけど、これも何かプランがあるわけではないんですよ。
思い返してみると何かボイシーやってみたいぐらいで始めてるんですよね。
もちろん一番最初のブログを書くとかSNSやるっていうのは楽に借金が、借金500万あったので楽に借金返せたらいいな、会社に行きたくないなっていうところからはスタートしてますけど、
じゃあ何で今までずっと発信し続けてるかというと、もちろんそれが仕事だっていうのもあるのかもしれないけど、割とノープランなんですよね。
じゃあノープランだったらうまくいかなかったかというと、僕はノープランだったからこそフリーランスの学校とかリブライカキャットっていう事業が僕は生まれたのかなって思うんですよ。
ノープランだったからこそ8000万円かけてLLCハウスっていう今そこで撮ってるんですけど、コワキングスペースを建てられたのかなって思うんですよね。
どういうことかというと、要するにノープランなんだけど何かは積み上げておくんですよ。
でもそれは別に何年後のこのためにとかっていう、そういうものではない。
ただ毎日こういうことはしておこう。健康とかもそうだと思うんですよね。
最近半年ぐらいランニングしてるんですけど、筋トレももちろんしてるけど、バキバキになりたいなってちょっとは思うけど、でもやっぱり難しいですよ。
やってみて思うのは。なかなかそういうふうにはいかないなって。背中の筋肉って全然つかないなと思って。
県衰やってるんだけど全然だなって思うんですよね。
だからそれよりもゴリゴリのマッチョになりたいかっていうプランは別にないわけ。目標もないわけ。目的もないわけですよ。
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それよりも毎日何かこういう筋トレだったりとか、心と頭が疲れること。
1日1個やるみたいに決めてるんですけど、それを目的やるかってそうでもないんだよね。
もちろん運動することによって脳の認知機能が上がるとか、BDNFが出てニューラルネットワークがもっと良くなるとかね。
ニューラルネットワークかニューロンか。生成されてシナプスがもっとつながるとか。
そうなったらいいなってあるけど、どうなるかわかんないわけですよ。
それよりも毎日毎日ノープランで、でも何かやる。
それは今後来る未来のチャンスに向けて準備ができている状態になりたいだけ。
世界を受け入れられる準備を毎日毎日積み重ねておくだけ。
で、たまたま僕にとっては2021年かな、フリーランスの学校っていうアイデアを池谷さんにもらって、
じゃあやってみますわっていう種みたいなのが飛んできて、そこで土壌を作って生やしていったみたいな。
その後にリブライガキャットっていうまたアイデア事業がNFTが生まれて、
それもなんかこの状態だったらできるかもなっていうふうに思った。
でもそれはフリーランスの学校をやるために僕は別に最初にブログを始めたわけでもないし、
LLCをやるために毎日ボーイシーをやってたわけではないんですよ。
でも結果的に積み上げてきたことでできることが増えてたっていう。
僕はこれもアリだと思うんですよね。
むしろ最初に戻って目標とか目的とかガッチガチに決めて、
毎日の一日の行動計画バシンと決めて、それでコツコツやって、これもアリです。
全然いいと思う。それで動けるのであれば。
でもそれをして結局動けないとか複雑になったりしんどくなってるのであれば、
一旦横に置いてもいいと思うんですよ。
それよりも毎日の一日の中でできることに注目して。
だってできないことはできないですから。
できることにフォーカスをして、それを一日単位でちゃんと積み上げていく。
それでいいと思うんですよね。
その結果、そういう原因を作ってるから、何かしらチャンスが来たときに
世界を受け入れられる準備ができてるから、じゃあそのチャンス拾います。
っていうようなことができる。
だから分かんないほうが面白くないですか。
僕は昔からというか、夢とか人生でこれがしたあれがしたってあんまりないんですよね。
それよりも常にそのときやりたいことができるようになっておきたいなみたいな。
面白そうと思ったチャンスに乗っかれるような自分であり続けたいなとは思うんですよね。
でもそれって結構難しいことだと思うんですよ。
日頃から勉強してないといけないし、そういう人的なネットワークだったりとか、
事業のポートフォリオっていうかそのリソースみたいなのも必要だし、
あと暇じゃないと無理だよね。
ある程度日中に時間がないといけない。
あと心身が健康じゃないといけないし。
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考えたら、いつ来るか分からないやりたいことのチャンスに
いつでも準備ができている状態っていうのは結構難易度が高いわけですよ。
だからそう思うと、ノープランで生きていくっていうのは
実は難易度の高い生き方なのかなって思うんですよね。
目的とか目標がある方がむしろ難しいのかもしれない。
むしろ難しいというか簡単なのかもしれない。
簡単そうに見えるかもしれない。
最初に自然の節理の話もしたけど、もっと言うと目的とか目標があるのは
この世の中をコントロールしてやろうという
少しおこがましい考え方がそこにはあるのかなって思うんだよね。
心理から外れてるというか、
捉えきれてないというか、ずれてるというか、そういう感覚を受けるんです。
僕は個人的に目的とか目標がある人、そのプランがある人が
ダメとかそんなことではなくて、
僕は個人的にそれを感じてしまうんですよね。
経営計画とかあったほうがいいと思うし、
事業計画とかあったほうがいいし、
もちろんそれは経営する上で重要なものだと思うけど、
もうちょっと人生というふうに捉えたときに、
どうなるかわかんないじゃないですか。
こうしていきたいな、どうなるかわかんないけどこういう方向でいきたいなとか、
それ全然間違ってるとかそんなことじゃないんだけど、
でも一方でそれにもし疲れてしんどくなるのであれば、
動けなくなるのであれば、
計画通りに行ってないとか、このままだとダメだとかさ、
マイルストーン決めてやってるのであれば、
それからとりあえず歩くかみたいな。
登山とかトレッキングとか一緒かもしれない。
ゴール山を決めて頂上を目指すっていうような
登山の仕方もありだけど、
オーストラリアだったっけ、ニュージーランドの登山の文化としては
別に頂上まで行く登山ではないらしいんですよ。
頂上を全然スルーして、何ならちょっと登って降りるとか、
ボイシーやってる佐々木さんもフラット登山とか提唱されてますよね。
だから必ずしも登山で頂上に行くことが全てゴールではない。
途中でちょっと小高い丘に登り、そこでコーヒーを入れて、
ゆっくりコーヒーを楽しむっていうのも
全然登山の目的としていいわけですよ。
もっと緩く考えたら、どこ行くか分かんないけど
とりあえずこの道歩いてみようとか。
ある程度行ったら戻って来るぐらいでもいいと思うんですよね。
それだったら何もどこも登ってないよりかはさ、
動いてるわけじゃないですか。
そういうふうに楽に考えてみるっていうのも
一ついいのかなと思います。
だから僕はきつくなったらまたノープランっていうのを思い出して、
別にノープランでいいんだと思ってね。
それで動けたほうがいいじゃん。
動いてみて実際やってみたら、この計画ぐらいだったらいきそうだなと思ったら
また計画に戻ればいいし、プランニングに戻ったらいいし。
また疲れたらノープランに戻って、一日過ごそうでいいと思うんですよね。
そんなふうに思ったのでちょっとこっちでも話しておきました。
ノートのリンクも付けておきたいと思うので、
もしブログで読みたい方がいたらよかったら読んでみてください。
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ということで今日も聞いていただいてありがとうございます。
この後も心地いい時間お過ごしください。
バイバイ。
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