はい、ということで始まりました、おしゃれの呪いを解くラジオ。本日で824回目の配信でございます。この番組では、あなたに巻きつくファッションへの思い込みイコールおしゃれの呪いをバサバサと解いていきます。
服装心理学をベースにおしゃれを持って楽しみ、自分を変えるコツをお届けしています。お相手はパーソナルスタイリストで、公認心理師の久野梨沙です。本日もよろしくお願いいたします。
さあ、前回の配信会では、東京都知事選に出馬された庵野孝博さんという方を例に挙げて、選挙の時のビジュアルブランディングについてお話をしたんですけども、今回も話のきっかけは何度も出してしまって申し訳ないんですけど、
庵野氏なんですが、ちょっと違う路線というか、また全然選挙とは関係ない話なんですけど、どういう話かというと、Z世代の考え方の話なんですよね。
なんで庵野孝博氏からZ世代に行くのかというと、すごく私、あの方、なんか面白いなと思って、選挙終わった後にすごくメディアに出始めて、いろいろ見られるようになって、中でも一番興味深かったのが、高橋裕樹さんという、元テレビ東京のディレクターの方で、もう辞められたんだと思うんですけど、
方が立ち上げた、そのYouTubeの番組でリハックっていう番組があって、経済を面白く解説するみたいなコンセプトのYouTube番組なんですけど、そこに、ここ数日、選挙、東京都知事選が終わった後に、一人ずつ候補者の方、呼べる方、呼んで多分来てもらえる方だけだと思うんですけど、呼んで話しているという番組がどんどんアップされて、
その中に、庵野さんの回があったので見てみたんですけど、冒頭、庵野さんの奥様、奥様、何回もラジオで言うんだけど、奥様っていう言い方あんまり好きじゃないんですけど、リハックではずっと奥様、奥様って呼ばれてたんですよね。
なんかいい呼び方ないですかね、いい加減ね。
えーは、本当に、妻さんっていうのもおかしいでしょ。
お名前がどうやらりなさんって方なんで、りなさん、もうなんかね、だれだれしいよね。
ここがメインじゃないんですよ。
ここに引っかかってさ、先進まないんで先行くんですけど、その方、庵野孝博さんと結婚されてる方が、編集者をやってらっしゃるということで、その話をしてて、
で、なんかその奥様って言っちゃいますけど、奥様もすごく話が面白い方で、年齢的に私の多分どうなんだろうな、奥様の年齢正確にわかんないですけど、
10個以上、一回りぐらい下なのかな。
なんですけど、すごく面白い方で、話も聡明で。
で、そういう方が編集された小説はきっと面白いだろうと思って。
で、あの、あざぶ競馬場さんっていう作家さんなの、作家さんって言っていいのかしら、あの方の方、
の、あの最近出たね、令和元年の人生ゲームっていう小説があって、それを編集されたご担当が、その庵野氏の奥様だったっていうことだったんで、
あ、これはちょっと気になってたし、早速読んでみようと思って、今読んでるんです。
で、実はまだね、一番最後まで言ってないんですけど、7割ぐらい読んで、これは面白いなと思って、早速ちょっとこのラジオで語ろうと思って、
あの、ちょっとね、今日はそのテーマなんですけど、まずその小説のね、多分全部話しちゃうとアレなんで、
あの、アマゾンに載ってるその小説の、その宣伝文句っていうのかしら、こういうのを読むとどんな内容が分かるかと思うので、まずそちらからちょっと引用させてもらって読もうかと思うんですけど、
えー、まだ人生に本気になってるんですか。この新人、平成の落ちこぼれか、令和の革命家か、
首にならない最低限の仕事をして、毎日ステージで上がって、そうですね、公挙ランデもしたいと思ってます。
慶応の意識高いビジコンサークルで、働き方改革中のキラキラメガベンチャーで、正義に満ちたZ世代シェアハウスで、
クラフトビールが売りのコミュニティ型銭湯で、意識の高い若者たちの中にいて、一人何もしない沼田くん、彼はなぜ22歳にして窓際族を決め込んでいるのか。
2021年にツイッターに小説の投稿を始めて以来、瞬く間にターマン文学旋風を巻き起こしたアザブ競馬場。
デビュー作、この部屋から東京タワーは永遠に見えないのスマッシュヒットを受けて、アザブ競馬場が第2作のテーマに選んだものは、Z世代の働き方。
新社会人になる頃には、自分の可能性を知りすぎてしまった令和日本の賢すぎる若者たち。
そんなZ世代のリアルを、アザブ競馬場が競技の解像度で明らかにします。
ということで、まだ続いているんですけど、そんなところなんですけど。
ということで、Z世代の人たちが出てくる小説、こういうの群蔵劇っていうのかな。
一人沼田くんはずっと出てくるんですけど、沼田くんの一人称の小説では全然なくて、沼田くんはあくまでそれぞれの章の主人公と必ず出会うっていうね。
だからそれぞれの章の主人公に描かれる沼田くんっていう人がいてっていう感じなんですよね。
でもその構成の面白みもすごくある。
いろんな人から見て沼田くんを描くことで、すごく沼田くんが多面的に浮き上がってくるって面白さも当然あるんですけど、やっぱりそれ以上に私の興味関心はやっぱりZ世代なんですよ。
Z世代について知りたいなって思って、すごくこのアザブ競馬場さんという方は、その描き方の解像度が高いっていうかさ、なんかその
描かれた世代の、描かれた人たち、当事者たちがあるあるって言うらしいじゃないですか。
ね、私描かれたことないので、その当事者とかその世代としてね。
わかんないんだけど、あるあるってなるわけじゃないですか。
ってことは相当こう、描写が優れてるんだろうなと思って。
で、読んでみたんですけど、なんでZ世代に気になるかって言うと、やっぱり一番はこの4月からまさにZ世代ですけど、大学の授業を始めたので、その大学で大学生まさにZ世代と関わってるときに、ちょっとやっぱりわかんなくなってくるんですよね。
で、私の実はビジネスも、今現在Z世代がど真ん中ターゲットではないので、もちろんそのパーソナルスタイリストスクールとかでZ世代の方が入ってくることもありますけど、Z世代向けってやってるわけじゃないし、スタイリングサービスとかメンバーシップとか、もうどっちかって言うと30代40代の方が多いんで、一番関わりないのがZ世代なんですよね。
でもZ世代って言葉はすごい聞くじゃないですか。
で、この4月から大学生と関わることになったので、これはちょっと読んでおこうと思って、で読み始めたんですけど、で、そのZ世代っていうのもさ、なんか言葉は聞くけど、その正しい定義っていうのはわかってなかったんで、改めて確認したんですけど、定義というか生まれた年代は定義によって結構ずれが多少前後があるんですけど、
見た中で一番狭いくくりとしては、生まれ年が1996年から2012年っていうことなんで、ちょうどうちの息子はこの下の世代になるわけですよ。
だから逆に私この下の世代の方が解答度高いんですよ。
なんかどういう教育を受けているかとかっていうのをつぶさに見ているので、多分こういう大人になっていくんじゃないかなっていうのは結構予測ができている部分が多いんですけど、さっき言ったように一番Z世代は私にとってはわからない、接していないんですよね。
話戻ると庵野さんは見ていると、年齢拝見するとこの狭いくくりでのZ世代の中には入ってなくて、この狭い1996年から2012年というくくりでいくと、その1個上の世代になるんですけど、でもやっぱりその選挙活動とか訴えがすごくZ世代に響いているなとか、Z世代的だなっていうのは何となく、
感じていて、でもそのZ世代って何なのかっていうのがはっきりはわからないっていうのがあったので、この小説で何かの手がかりになればなと思って読んだんですけど。
この小説をね、まんまお飲みにしちゃうと、私も若い頃、私は何、
ちょっとこの区分Z世代とかの区分じゃないですけど、いわゆるファッション的な区分で言うとプリクラ世代なんですよ。
よくプリクラ世代の私が、若い頃も今の若者がわかんないって大人たちは言っていて、
その人たちがこれ読んでわかったっていったものを、その世代の私が読んだら全然違うって思うこと結構あったんでね。
本当にじゃあこの小説が正しくZ世代を表現しているのかわかんないけど、まあでも一応ね、すごいリアルだって言われてはいるので、
この小説からわかったことで言うと、ものすごい正しさにこだわる世代なんだなってことはわかった。正しさ。
で、これはそのZ世代より上の、私たちの世代はなかったんだけど、私たちのすぐ下の世代、
つまり私が起業してお客様として接するようになった一番密に接している世代なんですけど、私たちの下の世代ね。
もうすごく正解を求めてるなっていうのは、そのパーソナルスタイリングを提供していく中ではすごい感じてたんですよ。
ファッションの正解、何を着ることが正しいのかみたいな。
それが極まったのが今流行っているイメコン診断、何が似合うかって診断をまず受けるっていう行動だと思うんですけど、
でも、それってその行動の正解なんですね。どういう行動をするのが正解なのかっていう意味での正しさなんですけど、
その下のZ世代ってその正しさっていうことがより極まって、その行動をとるモチベーションとか動機、理由にも正しさを求めるっていう、
もう気持ちの面でも行動の面でも全部正しくあらねばみたいなのが、そういうものが脅迫観念的にあるんだなと。
考えてみれば、やっぱり世代って一つ上の世代の教育によって作られるので、
それは私の一つ下の世代が行動の正しさにこだわる世代なんだったら、
それを理念として教育していくと、それは心の中も正しくあらねばってなっていくようになって、すごいこれは負に落ちたんですよね。
ただ、私の中に、そもそもこんなにこの人たち行動において正解を求めるんだっていうことにすらびっくりした世代だから、
その上さらに、その行動をとる理由ですらすべて正しくあらねばならないっていうのは、頭でやっぱり理解できたけど、すごいびっくりしてるし、
これは苦しいなって、今さらながらに思う。苦しいって一括に言ってもいいのかわかんない。
正しささえあれば、自分が文字通り正当化されるっていう意味では、ある種楽なのかもしれない。楽なところもあるのかもしれない。
私の世代みたいに、正解がよくわかんないみたいなのよりは楽な人もいるのかもしれないけど、でもそう、時も正しさを求めるのかみたいな。
それでどんどんいろいろつながっていったのが、大学で授業を私がしていて、毎回リアクションペーパーって今は呼ぶんですけど、
感想シートですよ、要は。授業に対しての。書いてもらうんです。
なんだけど、あくまで感想とかあなたの考えを書いてねって言ってるだけなんだけど、
一個一個の授業に対してこうあるべきだ、こうするべきだっていうことを書いてる人がめちゃめちゃ多くて、
私はこういうことを考えていたけど、今日の授業を受けてこんなことを考えちゃいけないんだなって思ったみたいな。
私の教え方が下手だったのかもしれないけど、毎回毎回そういうリアクションがあるために、
あなたがこういうふうに考えなきゃいけないっていうことは私は言っていないし、
あなたの考えも間違いじゃないよって毎回その次の授業でフォローするんだけど、
あまりに多かったんです。私がこういうふうに考えたのはいけないことだったって。
内容はいろいろバラバラだけど、私の考えは間違っていたから、正しくこう考えればならないのだみたいなことを書く人がすっごい多くて、
私なんか授業やり方おかしいかなと思ってたんだけど、こういうことを求められてきた次第だから、
リアクションペーパーっていうのはこういうことを書く。私の中の間違っていた考えがこの授業によって立たされましたっていうのを書くことが、
お作法的になっちゃってるんだなっていうことを薄々そうなのかなって、さすがに最終授業ぐらいには思ってたんだけど、
と同時にまあいろんな私が不思議に思ってたことがちょっと理由がわかった、これでわかった気になっちゃいけないと思うんですけど、でもちょっとわかったような気にもなっていて。
で、と同時に、なんかやっぱりこんなに正しくあらゆる場って思ってるんだって思うと、苦しいよなっていうか危ういよなっていうのかな。
正しさって時と場合によって変わるじゃないですか。
また、その見る人の立場によっても変わる。
だから意外と正しさを求めることって確固たる価値観のようでいて、実はすっごい揺らぎやすいんですよね。
その揺らぎやすさみたいなのもすごくよく描かれてるんですよ、この令和元年の人生ゲームの中で。これを読むとすごい危ういなっていうか揺らぐよねみたいなのが、別に揺らぐことが全然悪いんじゃないんだけど、
ある人の正しさを申しにしちゃってる人って揺らがないと思ってるところがあるから、私はこの正しさっていうのを指標にすることで、揺らがなくて済むんだみたいに一瞬思っちゃってたりするから、いやいやそうじゃないよっていうのがあって。
特に私が直接的に関われるのは特にこのFPSSだから、FPSSに入学しようとする人があまりにやりたいことに対して正しい動機っていう裏付けがないとやっちゃいけないんだみたいなふうに思ってるしもあるから、そこだけはちょっと否定させてもらうよっていう感じでちょっと介入させていただくことは結構あるんですけど、
何て言うか、それに対して何て言うかっていうと、正しくあろうとする気持ちはいいことっていうのかな、悪いことじゃないと思うんだけど、でも人から自分の心って見えないよねって。
だからそれをさも人にも丸見えかのような脅迫観念を持って、そんなに自分の内心に厳しくしなくていいよって。人間って自分の心の中で何考えてもいいんですよ。
例えば、犯罪になるのはやった行動についてであって、内心は自由じゃなきゃいけないんですよね。気持ちに対してはしちゃいけないんですよ。それは刑罰だけの話じゃなくてね、やっぱり内心の自由だけは保証しておかないといけなくて。
内心なんて人から分かんないよぐらいの気持ちでいないと疲れるよねって。だから自分のビジネスを決めるときに、どうしたら私の動機までも気持ちまでも社会にとって正しくあれるかっていうのを気にしたい気持ちはいいと思うけど、そんなに気にしすぎなくてもいいよって。
大事なのは、その仕事としてのアウトプットが誰かに喜んでいただけること。誰かを騙して稼ぐとか絶対ダメだから。だからそのアウトプットが誰かのためになるのであれば、それをどんな動機で、何が目的でやったところでいいんだよってしとかないと息苦しくないって。
それはそれぐらい自分とか社会に許そうよっていうことを言うんですよね。だからその動機が正しくなくても自分がなんとなく感覚的にやりたいでいいんじゃないかなって思うし、もっと言うと起業するのに目立ちたいからとか。
私なんかそうだけど言っちゃえば、人に差し付けたくないとかそういうこともあるわけじゃない。向いてないんだよな、人の下で働くのとか。それでもいいし、お金持ちになりたいでもいいし、自分の好きなように働きたいでもいいし、それは全然いいよと。
ただその、やることが、仕事としてのアウトプットが誰かの役に立つ。それで稼いだお金はすごく素晴らしいお金だし気持ちいいしね。逆に人に喜ばれないことで無理にお金踏んどくっていうのはそれは良くないからさっていうのはあるんだけど、それをどういう気持ちでやろうがいいんだよって。
だから私、昔から自分が起業する頃から、なんか社会起業って言葉とか、あとは最近の言葉でソーシャルグッドって言葉とか、実はすごい違和感があって。別に悪いことをしてるわけじゃないのに、なんでこの言葉だしこんなに使いたくないんだろうなって思ってたんですけど。
なんか多分その言葉って、私から見ると内心を縛られる感覚があったんだなって。
だって社会起業なんて大げさに言わなくても、私は私のやってる起業、仕事が人の役になってるって自信はあるんですよ。
自信はすごくある。っていうか、仕事って基本みんなそうだよねって思ってるんですよ。
それをわざわざ社会起業ですとか、ソーシャルグッドですっていうのって、なんかすごい私抵抗があるのは、私はこの仕事をやる動機までも新しいんですって、そんな言わなきゃダメかなっていう気持ちだったのかなっていうこともちょっと理解できた。
だから自分のこもやっとした気持ちもすごく整理できたなって思ったんですよね。