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はじめるラジオキャンパス、シーズン1のエピソード11、11番目のエピソードを作ります。
その最初の放送です。
「日本の音大の未来をふたたび憂慮しはじめる」というタイトルにしました。
音楽大学の未来
エピソード11は、「日本の音大の未来をふたたび憂慮しはじめる」。
これは語るテーマがいっぱいあるんですけれども、
私、音楽大学に21年勤めましたね。
そのうち6年間は学長をやりましたけれども、
政治学者46歳、准教授、専門外の若い学長。
どこの馬の骨かわからないようなのが学長をやったんですが。
音楽大学に勤めてから15年ぐらい経ったあたりで学長になったんですけど、
それだけどっぷりと日本の音大の一つに関わったことで、
そういう人生になっちゃったということなんですが。
それだけで終わらずに、とりあえず一仕事をやったかなということで、
なんとかその音大も息を吹き返したと勝手に思っているんですが。
ただ今度札幌に、これは音大というよりも音大プラスアルファですね。
芸大に近いですね。音楽と美術と、それ以外も2つほど持っているという。
ただ北海道では唯一の音楽学部、今は芸術学部になっていますけど、音楽学科を持っている。
もう北海道では本当に貴重な大学なんですが、そこの学長として呼ばれて、
これが6年ちょっと前ですね、呼ばれて。もうちょっと学長やってもよかったんですが、
とりあえず4年の一期で辞めまして、
辞めた理由はまたいずれどこかでとっくり話したいんですが、それは置いておいて。
とにかく2つの音大、あるいはそれに近い大学、芸術系の大学で学長を経験したということなんです。
どちらもやっぱり今、日本の私立大学はどこも大変ですし、
しかも芸術系、音楽系となるともっと大変なんですね。
大変な理由はいろいろあります。
これは女子大なんかもね、募集停止が相次いできてますけれども、やっぱ少子化の影響が一つあります。
ただ音大とか芸術系の場合には、それだけじゃない別の独自の問題がありますね。
美術系は美術系で、またちょっと音楽とはちょっと違った状況なんですが、
そのあたりもこれからいろいろnoteの記事に書いたり、あるいはラジオで喋ったりしていこうと思っているんですが、
タイトル、エピソード11は「日本の音大の未来を再び憂慮しはじめる」。再びっていうのをつけました。
これはちょうど私が最初の音大に勤めたのは1996年、20世紀の末だったんですが、
その頃からやっぱり定員割れがささやかれ始めて、これはもう少子化の影響ですよね。
実際2000年を過ぎたあたりから、定員割れが始まるわけです。
そういう意味では、日本の音大の危機が現実化した時代なんですね。
それを乗り越えようと、日本中の音楽大学はどこもいろんな努力をしました。
私だったらまた大学もいろんな努力、改革をしました。
そのかなり中心的な部分を私、実質的な部分を含めて相当、担ってきました。
人生のほとんどのエネルギーはそこに費やしたといっても過言ではないですね。
私は専門が政治学なので、音楽は詳しくなかったんですが、相当詳しくなりましたね。
具体的な内容はこれからセグメントを積み重ねていきたいんですが、
一つはnoteの記事に「日本の音大に未来はあるか」という連載を始めています。
今、序章1章4章ぐらいまで書いたんですかね。
これは全部で13の章からなるやつで、もうさっさと書けばいいんですが、
なかなか他のこともやっているので、筆が進まないということはあるんですけども、
書き始めちゃえば一気なんですけども、やっぱり日本の音大が歴史的に持っている、
いろんな今の困難につながる理由をしっかり明確にして、
じゃあどこにどういう展望があるのかを書いておきたいと思っています。
これは何でかというと、結局、音楽畑の人でそれをうまく語れる人が少ないということで、
私みたいなイレギュラーな関わり方をした人間がやっぱり書かなきゃいけないのかなという思いと、
もう一つは、これちょっと前の別の番組の、もう一つの番組の方でお話ししたんですが、
「音大崩壊」なんてね、本も出てちょっと売れてたりして、
日本の音大の危機っていうのは、世間の関心事にもちょっとなっているんですが、
やっぱりそこに書いてある処方箋だけじゃ救えないよということと、
私がその音大を辞めてからやっぱり次の展開が、側から見てるとちょっとできてないんじゃないのかなとやっぱり思うところが、たくさんありまして、
それで「再び」憂慮しはじめるということで、何が問題でどこをどうする必要があるのかということをね、
今は全く外野の部外者なんですが、こういう形でnote記事やポッドキャストなどでね、
少し発信して多少は何かの役に立てばと思ってます。
ということでちょっと長くなりましたが、
シーズン1のエピソード11、「日本の音大の未来を再び憂慮しはじめる」のセグメント1はそれぐらいにしたいと思います。
このあと結構これ長くなるかもしれませんが、語っていきたいと思います。
noteの記事も書いていきたいと思います。
ではまた。
はじめるラジオキャンパスシーズン1のエピソード11の2つ目のセグメントになります。
11番目のエピソードは、「日本の音大の未来を再び憂慮しはじめる」ということです。
これ最初のセグメントで、私が音大に21年関わって、学長6年やって、そのあと音大に近い札幌の大学で4年学長つとめた話と。
そこで最近は音大崩壊ということでね、日本の音大の行く末が結構いろいろ心配されてるわけですが、
私なりにいろんなことやってきたんですけれども、ここに来てさらに少子化も進む中でやっぱり音大の現場では皆さん頑張ってみえるんだけど、
私の頭の中にある、あるいは過去にやってきたこととの関連で言うと、全く追いついていないということで非常に危機感が高まるわけですね。
大学教育の問題
それでこんなエピソードを喋り始めているわけですけれども、問題は2つあるんですよね、2つ。
日本の音大を語るときに、問題は2つあります。
これは私が25年、27年前に音大に就職したときに感じた問題と、いまだに同じ問題が継続しているんですが、
1つは大学としての問題です。大学。やっぱり大学としてやるべきこと、だいぶやるようになったんですね。
もうそれこそ30年近く前は、本来大学がやるべきことができていない音大が多かったんですけれども、相当特殊な大学だったんですが、
今は普通の大学がやるようなことはやり始めている。
だけど、これは音大に限らず日本の私立大学ですね、特にね。国公立もそういうとこあるんですけども、やっぱり日本の大学はどこかずれてる。
何がずれてるか。これまた日本の大学の未来も憂慮するシリーズでやるんですけども、エピソードを作るんですが、
結局大学の一番の問題点はどこにあるか。日本はやっぱり普遍的なグローバルスタンダードの大学になりきってない大学がたくさんあるということなんです。
これはもういっぱい問題点を挙げられるんですが、でも最大のポイントは学生中心の大学を作っているかどうかです。
学生中心の大学を作っているかどうか。ここが最大のポイントですね。
特に地方の公立、国公立、あるいは私学。大学によってはとてもいい大学があるんですけども、やっぱり学生中心で動いてない。
理事会の経営的な都合で動いてたりとか、教員の都合や職員の都合で動いてたりっていうのはまだまだ見て取れるんですよね。
これはやっぱり違うだろうと思いますね。
これはちょうどnoteの記事にも書いてあるんだけど、結局いまだに講義形式の授業が日本の大学は中心なんだけど、これ自体が根本的な間違いだと私は思ってますね。
これはやっぱりお金がない時代に、大学をいっぱい作らなきゃいけなかった時に、一人の教員と多数の学生に、とにかく情報を伝えるんだということでやった古い形式であってね。
いまだに講義形式が、大学の授業の何割ですか、大学によって違うと思いますけど、ほとんど講義形式の授業が占めてるっていう。
しかもそれは対面で、コロナ後で、アフターコロナにもかかわらず対面でやり続けるっていうのは、狂気の沙汰としか思えない。
私からするとね。そういう日本の大学の現状が一個ある。
もう一つは音楽大学の未来っていうことで言うと、音楽大学が扱う音楽の特殊性ですね。
音楽大学が音楽をもっと普遍的に扱わなきゃいけないのに、依然として狭い枠の中で特殊なことをやっているというね。
だいぶ広げてきたんだけども、ウィングはね。
それでもまだまだ特殊な領域の音楽しかやってないっていう。
世界にはもっといっぱい音楽があるのに、なんでその音楽を素直に全部取り上げようとしないのかっていうのが、
もうこれは私、音楽が専門じゃないので、ある意味、好き放題言うんですが、
私の知っている音楽のごくごく一部のことしか、日本の音楽大学はやっぱり取り上げてくれない。
これは非常に不満ですね。
これは学生目線、あるいは日本で音楽をやろうとする人たちからしたら、もう同じ意見だと思うんですけど、
ただこの殻がなかなか突破できない。
そんなことで、とりあえず2つ問題あるよね。
音楽大学が取り上げる音楽の特殊性。
もう一つは、日本の大学に共通する、大学としての普遍性がやっぱりまだまだ弱い。
この2つ、これから展開していこうと思っています。
ではまた。
日本のユニバーシティの欠如
はじめるラジオキャンパス、エピソードの11、11番目のエピソード。
「日本の音大の未来を再び憂慮しはじめる」。のセグメント3ですね。
3つ目のセグメントです。
大学と音楽という2つの問題があるんだって話をね、
ちょっとこの前のセグメントでお話したんですけども、
そのときの一つのキーワードはやっぱり普遍性。
大学っていうのは、ユニバーシティって言うんですけど、
やっぱりユニバーサルな、普遍的なものを扱うからユニバーシティなんですよね。
音楽大学の場合、日本はちょっとね、ヨーロッパもそういうとこあったんですけど、
やっぱり単科大学、カレッジでできてきちゃったので、
本当はユニバーシティの中に音楽が位置づかないといけない。
逆の言い方すると、日本のユニバーシティには音楽がなさすぎる。
これはアメリカが一番典型的ですかね。アジアの大学もそうですけど。
大学の中に音楽学部、美術学部、デザイン学部、ダンス&パフォーマンス学部、
といったものがあるのは当たり前で、
ユニバーシティの中に音楽ホールとオペラハウス、ミュージカルができるホールがあるのが普通だったりするんですよね。
同じようにアメリカのユニバーシティにはアメリカンフットボールができるスタジアムがあり、
体育、スポーツという要素もユニバーシティの中にちゃんとあるんですよね。
これが日本だと日本体育大学とか中京大学とか、一部の大学にしか体育がない。
だけど本当は体育とか音楽っていうのはリベラルアーツの中では普遍的な要素であって、不可欠な要素で、
これが日本のユニバーシティにないこと自体が問題なので、
実は日本の音大の問題は日本の音大だけの問題じゃないと。
つまり日本の大学の問題ですよっていうことがね、一つはあるんです。
つまり日本の大学がこういうちょっと偏った進化をしてきてしまった。
東京芸術大学を東京大学の一部にしなかったところが根本的な誤りだし、
東京芸術大学という、国立大学を一個しか作らなかったのも根本的な誤りだし、
いろんな間違い、かけ間違いはあるんですが、
そんな中で日本では音楽大学といえば私立大学しかないんですよね。
私立の音楽大学ができちゃったっていう歴史があるんですけども、
やっぱりその最初のとこからのかけ違いがいまだに尾をひいてるから、
だから現場の苦労も絶えないんだと思います。
これは文部科学省の大本が明治以降できたときに、音楽取調掛ができたんですけど、
そこで頑張った伊沢修二さんなんて方がいるんですけど、
やっぱり彼は彼なりに頑張ったんだけどやっぱり中途半端で終わったのかなと。
音楽のジャンルの狭さ
結局、音楽というものを、ヨーロッパの音楽と日本の音楽を融合することにも失敗し、
日本の音楽の高等教育を、高等教育全体の中に位置づけることにも失敗し、
それが出発点になって、ここまで日本の大学と日本の音大は来てしまった。
いまだに文部科学省の官僚の中に、音楽大学のことをちゃんと理解してる人は一人もいない。
日本の文部科学行政の貧困は、この問題に端的に現れてるっていうふうに思ってるんだよね。
なんか語り始めちゃったな。
日本の音大の未来をそうとう憂慮してて、
これは一人、日本の音大だけの問題じゃないよということなんですよね。
日本の大学の日本にまともなユニバーシティがなかったということの問題。
つまり体育や音楽という要素をちゃんと位置づけたユニバーシティが日本にはほとんどない。
これはもうグローバルスタンダードでもなんでもない。
東大の国際的な順位が落ちるのは当たり前の話だということなんですが、
例えば、それこそ昔アメリカにいた水泳選手なんかはね、
医学も学び物理も学び音楽も学びとかね。
これ違うかな。ジャンル違ったかもしれません。
つまり複数の専門分野を学んでいいんですよね。
それこそバイオリン弾く人、ビオラ弾く人。
別の専門、お医者さんなんかもよく音楽やるじゃないですか。
医学部も日本は単独で作っちゃったところが多いですね。
ただユニバーシティに入ったところも結構、医学部は入ったな。
でも音楽は入らなかった。
ユニバーシティの中に入れてもらえなかったと。音楽という専門性がね、日本では。
これが一番の問題ですね。やっぱり根本的なね。
そういう中で未来に向けてどうするか、現在どうするかという問題があるんだけど、
これはまた次お話したいと思います。
ではまた。
はじめるラジオキャンパス。
シーズン1のエピソード11。11番目のエピソードですね。
「日本の音大の未来を再び憂慮しはじめる」。
最初に憂慮したのは、1996年に私がとある音楽大学に就職したときにも憂慮したんですが、
その後ずっと憂慮し続けて、いろんな改革も実際に手を下して、
私はとりあえず大学辞めて、手が離れて、
いろいろ日本の音楽大学もいろんな改革を始めたので、
それはそれで、あとは皆さん頑張っていただくということでいいのかなと思ってたんですが、
もうどうも見てると状況が全く追いついていないというか、
むしろ狭い枠にまだまだ閉じこもっている音大が多いということで、
これはやばいぞと間に合わないぞと、
募集停止がまた一つ二つ三つと、この10年以内に出てくるぞという予感がするのでこんな話をしてるんですけどね。
前回のセグメントでは、日本の大学全体の問題なんだ、
音楽大学だけの問題じゃないんだという話をしましたが、
ちょっと話は絞って、日本の音大はどうするのかというときに、
いくつかポイントはあるんですが、
一つやっぱり大事なのはジャンルです。
ジャンルを超えると。
ジャンルを超えるって、口では言うようになったんですが、皆さん。音大関係者ね。
実際にそのときのジャンルの捉え方がまだ狭いということなんですよね。
つまり音楽のジャンルを超えるということは、
どんな音楽でも取り上げる。
ありとあらゆるこの世にあるすべての音楽が、音楽大学の研究対象である。
あるいは学ぶ対象である。
もう当たり前のことなんですね。
音楽という専門性の看板を掲げている以上、
世界中に存在するすべての音楽をフラットに、すべて扱う。
当たり前のことなんです。
これが全くできていないというか、やる気がないというか、やれてないというか。
なぜ日本の音大はここまで西洋音楽、しかもクラシカルな音楽偏重になってしまったのか。
これは歴史的な理由があって、
「日本の音大に未来はあるか」という、私がnoteで書いている連載でもちょっと書き始めているんですが、
これは日本の明治以来の歴史的な伝統になっちゃったんですね。
これが大きな間違いの始まりで、
この呪縛から、縛りから未だに抜けられない。
困りましたね、これはね。本当に困りました。
とにかく音楽、すべての音楽を普遍的に扱うという、単純なことなので、
いかにバランスが悪いかですよね、日本の音大はね。
ひとつはジャンルのバランスの悪さ。
ひとつは日本はどうしても戦後、特に高度成長期に日本の音大がボコボコできたので、
ピアノと一体のものとして日本の音大は進化しちゃったんですね。
ピアノが、とにかく日本でピアノが売れるっていうのと
軌を一にして音大も成長してきた。
ここまでピアノが幅を利かしている世界の中にある音大っていうのはないですよね。
ここまでピアノ中心の音楽大学って世界中探しても、
どこにもないですね。日本だけです。
大学の枠組みからの孤立
日本の特殊性、これもみなさん疑ってなくて、
なぜか日本の音大ではピアノが一番偉いという話になってるんですよね。
相当おかしな常識だと思うんですけどね。
まあそんなこと。
だから狭いジャンルの中でさらに狭い偏見がある。
これなかなか突破できないですね。困ったことに。
根強いです。根深いです。
まあ日本の音大の未来ね。
音大の中ひとつ取っても、音楽学部音楽学科の中を取ってもやっぱり狭さがある。
もうひとつは前回のセグメントでお話した大学という。
大学という土俵の中で考えたときに音楽っていう専門性だけが孤立して存在してることの問題ですよね。
もっと大学という枠の中で音楽っていう専門性はもっと開かれなきゃいけない。
これは他大学のことも言ってるんですけどね。
日本はとにかく音大に行かないと音楽が学べない。
これはグローバルスタンダードじゃないですよね。やっぱりね。
まあそんなこと含めて相当、特殊な状況に置かれている。
しかも、これ一回言いましたけど、
日本の文部行政、文部科学省は一切、音楽という専門性に対する理解がないというね。
そういうまた重大な問題がある。
これ政治家にもないですね。
だから非常に劣悪な環境に置かれているのが日本の音大。
孤立する中で頑張ってはきてるんだけども、いろんな壁にぶち当たってる。
その壁にぶち当たってる当事者は、まだまだ狭い常識にとらわれてる。
ある意味ちょっと袋小路みたいな状態の中で、
一生懸命ジャンル広げようとしているというのが今の段階ですかね。
外にいる立場なので勝手なこと言ってますけれども、
実際、現場で頑張る人は本当に大変なんですよ。
これひとつ変えようと思ったらどれだけ大変な思いするか。
身をもって体験してきたのでよくわかりますし、
言うは易し行うは難しでね。
実際にやることはとても大変なんですが、ただ今本気でやってんのかっていうね。
やっぱりちょっと本気度感じないですね、あんまりね。
それがちょっと見ててはがゆいという話で、
エピソード11、日本の音大の未来を再び憂慮しはじめる。
次のセグメントぐらいでコンプリートしたいかな。
ということでお聞きいただきありがとうございました。
学科専攻の壁越えの重要性
ではまた。
はじめるラジオキャンパス、シーズン1のエピソード11、
「日本の音大の未来を再び憂慮しはじめる」のセグメント5ですね。
これでコンプリートしたいと思います。
日本の音大、その歴史的な起源。明治まで遡るんですけれども、
それに遡っての問題があるということと、
それからもう一つは、これはただ一人日本の音楽大学だけの問題じゃなくて、
日本の大学全体の問題でもあるというね。
ここの認識がね、すごく大事だなと思っています。
あとはね、音楽大学としてどう発展していくのかということで、
これに関しては私ずっと言ってるんですけれども、
よく言われるのは、最近どこの音大も言うようになったのは、
ジャンルを超えるというね。
結局日本の音楽大学は、これは歴史的な理由があるんですけれども、
西欧のクラシックですね。
なぜかヨーロッパのクラシック音楽ばかりを教えてきてしまったと。
これ面白かったのは、明治期の、もう一個、美術学校ができるわけですけど、
東京芸大の前身ですけど、そちらはむしろ日本画が中心だったんですね。
音楽学校のほうはなぜか西欧音楽が中心になってしまった。
これもなかなか対照的で面白いんですが、その話はさておきですね。
このジャンルを超える、いわゆるクラシック、クラシカル。
クラシックとは時代的な意味もあるんですが、それよりむしろ古典的というね。
時代的な意味もあるんですが、それよりむしろもともとはクラス、階級ですよね。
クラシカル、階級的な音楽。
いわゆる大衆的、一般的な音楽、民衆的な音楽ではなくて階級的な音楽。
貴族的、あとは教会とも結びついてたし、ヨーロッパのハプスブルク家なんかがやっぱり一つの中心になってた。
あとは教会ですよね、それと結びついたね。
そこと結びついて、やっぱりヨーロッパのクラシカル音楽っていうのは発展したんですが、
ただですね、いわゆるポピュラーっていう世界もヨーロッパ音楽にはあったわけで。
ヨーロッパの方がむしろそういう壁、ジャンルを超えるっていう点では、いろんな現代音楽を展開してると思いますけどね。
これはヨーロッパで演奏会行くとよくわかりますけど、必ず現代音楽入ってくると思いますけどね。
日本はなぜかその辺がまだ弱い。
そういうことで、一つはクラシカル・ポピュラーっていうね、この壁を超える。
私、三つのクロスオーバーっていうことで言ってて、一つ目がそれなんですが、
二つ目のクロスオーバーは時代を超えるっていうね、今のとも関連しますが、
結局古典派の音楽だけじゃなくてそれ以前の音楽ですね。
バロックぐらいまではやるにしても、もっと前にもさかのぼっていいでしょうし。
それからその時代の後ですよね、
にももっともっと広がっていいと思うんですが、現代音楽までね。
そういう意味では、時代を超える。これが二つ目のクロスオーバー。
三つ目のクロスオーバー、これは地域を超えるです。
結局、ヨーロッパ中心にやってきたわけで、そうじゃなくて世界中にはいろんな音楽があるわけですよね。
いろんな民族音楽、日本の音楽もあるわけです。
日本の伝統音楽は本当に日本の音大では取り組んでこられなかった。
これも歴史的な起源があるんですけどね。
そういった点で、三つのクロスオーバー。
三つの領域でのクロスオーバー。ジャンルを超える、時代を超える、そして地域を超える。
これは私が学長を務めてた名古屋の音楽大学の50周年記念式典でも言ったことなんですけどね。
その後どこまで取り組んでいただいているのかちょっと心もとないんですが。
それだけじゃなくて、それが三つの領域のクロスオーバー。
あとはこれは音大に限っての話ですけど、
音楽大学の中で学科とか専攻の壁があるんですね。
器楽、声楽、その他作曲とかね。
あるいは最近新しい音楽総合、音楽療法とかいったところでやっぱりまだまだ壁があるんですよね。
その学科専攻の壁を超えるというのはとても大事だと思います。
これ日本の音大一つ一つ違うんですけど、まだまだ壁が高いんですよね。
相互に学生がどんなジャンルでも学べるという形になっている音大はまだまだ少ない。
ピアノに入ったらやっぱりピアノばっかりとかね。
ピアノに入った学生でも合唱も学べるし、吹奏楽も学べる、オーケストラも学べる。
打楽器も学べる、民族音楽も学べる、音楽療法も学べる。
いろんなジャンルですね。
異なるジャンルと学年の壁
複数のジャンルを学べるようにすることはとても大事だと思いますね。
そういう意味では学科専攻の壁を超える、取っ払う。
それからもう一個、大事だと思うのが、これも日本の音大個別の事情あるにしても、
やっぱり学年の壁がまだまだある音大もあるんですよね。
学年ごとにクラスが決まっている、学ぶことが決まっている。
ただこれは18歳の時にこれを学んで、19歳の時にこれを学んで、
20歳の時にこれを学んで、なんてことは一切ないので、いつ学んでもいいので。
そういう意味では学年の壁を超えると。
これは日本の教育ってすごく横切りというか、
例えば小学校なんかでも、結局いまだに1学年単位で教育をやってますけど、
いわゆる複数学年ということはすごく大事なんですよね、実はね。
そういう意味では縦の関係をもっともっと流動化してね、
学年の壁を越えて学べる体制をとるというのはとても大事なことだし、
むしろ音楽っていうのはそういう縦の繋がりというか伝える力ですよね。
やっぱりこうやって継承されていくものなので、
そこの学年の壁がまだある音大は早く取ったほうがいいなと。
大学間の壁と社会との壁
最後に大学の壁を超える。
学科専攻の壁を超える、学年の壁を超える、もっと大学の壁を超えるということで、
これはどういう意味かというと、一つは大学間、日本の音大同士の交流っていうのは非常に弱い。
東京では多少始まってるにしても、まだまだ音大間の連携ってとれてない。
だからその音大同士の大学の壁を超えるということが一つ。
それからもう一つは音楽大学とそれ以外の大学ですね。
これの壁を超えるということが重要です。
あまりにも音楽大学は一般大学との、他の大学との交流がなさすぎると思いますね。
これは非常に、日本にユニバーシティがないということと共通するんですけれども、
そういう意味では大学の壁を超える。
もう一個、大学の壁を超えるという時にもう一個の意味があって、これは社会との壁ですね。
音楽大学と社会、世の中との壁。
これも意外と、まあ今だいぶ壊し始めてますけどね。
意外とやっぱりあるんですよね、まだまだね。
世間から見ると音大っていうのはちょっと敷居が高くて別世界という話になっちゃってるわけですが、
この壁を、いろんな努力があるのは知ってますけれども、もっともっとこの壁を超える。
地域に開かれた音楽大学、社会に開かれた音楽大学というのを作っていく必要があると思います。
そのためにも最初に言ったジャンル、時代、地域を越えて、もっともっと音楽という専門性、すべての音楽を対象にね、
あらゆる時代、あらゆるジャンル、あらゆる地域の音楽に普遍的に取り組むことがもう根本なんじゃないかなと思いますけどね。
この辺り、日本の音大の未来。なかなか少子化も予想を超えた速度で少子化してますし、
経済状態とかも考えるとなかなかまだまだ厳しい時代が来ると思うんで、
そういった壁をとにかく早急に突破していかないと新しい可能性はひらけませんので、
ちょっと気合を入れてね、やったほうがいいんじゃないかなと私は思っております。
単なる学生募集だけで目新しいコース作ってる場合じゃないぞというふうに思ってますね。
もっと音楽という専門性に真摯に向き合って、忠実に向き合って、その専門性を深めていくという立場でいろんな壁を突破することを
真剣にやらないと音楽がみんなのものになっていかないというふうに思ってますし、
音楽大学はその先頭に立つべきですし、そういう意味ではもうあらゆる音楽の実験室になるべき存在なんだろうと思いますが、
そこから言うと逆にやっぱり古色蒼然と時代から取り残されて、
なんとか追いつこうと頑張ってるっていうふうにしかやっぱりまだまだ見えないような気がしますね。
なので音楽の最先端をやるのが大学であってほしいな、音楽大学であってほしいなと思います。
ということでエピソード11、「日本の音大の未来を再び憂慮しはじめる」。
長かったですね。10分喋っちゃいました。
これでコンプリートしたいと思います。ではまた。