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はい、おはようございまーす。本日の放送は2023年の3月8日、水曜日です。
本日は第374回目のお話となりまーす。
このチャンネルは、福島県小倉市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことをだらだらとなしをしていくという番組です。
そんな親父の一言を気になりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい。
悪い言われなかったんです。不幸にこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願い致します。
本日もね、家庭の事情でショートバージョンです。 現在もですね、あの漫画、アニメにね、強い影響を与えているね、雑誌にね、週刊少年ジャンプがありますよね。
その週刊少年ジャンプ、歴代で一番の発行数はですね、1994年の12月653万部なんですね。
全国で出られているね、全国紙の新聞、そのすべての発行部数よりもオーバーしているんですね。
その時の編集長はね、第5代の編集長の堀江信彦さんなんですよね。
ですが、その人気が出るというのはね、その数年前にですね、種を蒔いていたのが育ったからこそあるんでね、その十数年前からの不責が大事なんですよね。
その前の前の編集長のね、第3代編集長が西村茂雄さんという方なんです。
1978年からね、1986年までのね、ジャンプでね、編集長を務めた方なんですね。
そしてジャンプの創設当時からね、ことをよく知っている人物の方です。
その西村さんがね、1994年に収栄者を退職しまして、少年ジャンプのね、成り立ちだとかね、収栄者の変遷だとかね、そういったのをまとめた本が2冊あるんです。
さらば我が青春の少年ジャンプというのが飛鳥新社から出ています。
それからもう一つ、漫画王国の崩壊というのが文化社から出ております。
これね、あのー、さらば我が青春の少年ジャンプ、そちらの方を読んだんですね。
漫画王国の崩壊の方はね、もう5年ぐらい前に読んでたんですよね。
この本ですがね、例えばあのー、少年ジャンプのね、友情、努力、勝利のね、3テーマ、それはどうして生まれたのかだとかね、
苗井先生の作品を読めるのはジャンプだけっていうね、そういったジャンプらしさがね、いろいろと誕生した経緯が書いてありましてね、読んでいて非常に面白い本です。
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この本はですね、退職した後に書いた本なんでね、その当時の就営者のね、在り方についてね、いろいろとね、述べているんですね。
その中にですね、就営者を変革していた人物としまして、若野正さんという方が登場していくんですよ。
1988年にね、就営者の代表としてもなくね、就任しましてね、1996年までに勤めた方です。
西村さんの視点はね、ジャンプにとってね、この若野さんがね、やや仇役的に描かれてるんですね。
その若野正さんですけどね、実を言いますと福島県の藍津出身の方なんです。
つまりですね、少年ジャンプが一番売れた時ですね、その時の就営者のね、代表取締役はですね、
藍津出身の方だったんですよ。
西村さんの書かれた本にはね、当時の体制、就営者の体制の批判が入ってますんでね、社長である若野さんがね、クールな仇役のように描いてるんですね。
就営者の一番の稼ぎ頭である週刊少年ジャンプ、その週刊少年ジャンプに全く接点のない若野さん、西村さんからするとですね、
物語のライバル的にね、ちょうど良かったんでしょうね。
そんなわけですね、西村さんの残したね、この2冊の本だけでね、若野さんを正しく評価するのね、かなり難しいことなんですね。
もう現在ですね、西村さんにしろ、若野さんにしろ、お二人ともですね、個人となっております。
そんなわけでね、若野さんについてね、どこかで正しくね、再評価してほしいなと思ってるんですよね。
その若野忠史さんですかね、どんな人だったのかという話なんですね。
大回りはね、1925年の12月12日、亡くなったのは2002年の5月10日っていうんで、約77歳ぐらいだったんでしょうかね。
就営者のね、第三代目の社長を務めた方です。
マーガレット、セブンティーンなどね、相関した方なんですね。
出身はですね、慶応大学の文学部を卒業されたそうです。
どういう経緯ですね、合図の方から慶応大学に入ったのか、というのはちょっと謎なんですよね。
そして就営者の苗条に入りましてね、少女向けの雑誌、少女ブックの編集の方で育てられます。
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後にですね、その少女ブックがね、漫画雑誌になりますマーガレット、そちらの方も相関に携わるんですね。
多分マーガレットも相関ってことなんですね。リボンも多分そうだと思うんですよね。
というわけでですね、以後ですね、岡山さんはね、社長になるまでほとんどのですね、ずーっと女性向けの雑誌の路線を走り続けることになるんですね。
マーガレットという雑誌のね、お姉さん的な雑誌としましてね、セブンティーンという雑誌を相関させるんですね。
もともとアメリカの方にね、同じタイトルの雑誌がありますのでね、それをイメージしましたね。若い女性向けの雑誌として相関したんですね。
当時はですね、セブンティーンと言いますとね、漫画が多い雑誌だったんですね。
というので、まあ俺は男だ、だとかね、サボテンとマシュマロだとかね、よくテレビドラマになってましたよね。
後にですね、あの、若い女性向けのファッション雑誌にね、変わっていきますかね。
そして1964年にですね、役員の方に昇格いたします。そしてその後ですかね、女性向けのね、雑誌としまして、ノンノンを相関するんですね。
アンアンという雑誌がもうすでに出ていましたね。そのライバル雑誌として相関するんですね。
そのアンアンとノンノンで、アンノン族って言葉をね、世に生み出したことになります。
そのきっかけになる雑誌を作るんですね。そしてさらにですね、そのノンノンのね、お姉さんの雑誌としまして、女性向け雑誌
モアを相関するんですね。そしてですね、その後ですね、突然女性の方じゃなくて男性の方に行ってきましてね、月刊プレイボーイをそちら側を相関するんですよ。
すでに出してきた週刊プレイボーイじゃないです。アメリカの方のね、プレイボーイ社とね、ちゃんと提携しまして作った雑誌なんですね。
その月刊プレイボーイですよね。そういう相関をとか見た時にね、すんごくインパクトありましたよね。
アメリカのね、プレイボーイのね、マークなどがバッチリとついてましたね。 非常にアメリカの雑誌の雰囲気がつっこがったんですね。
アメリカは言うとすごいなぁとね、思いましたね。 そして1988年に就営者代表取締役に就任いたします。
そして就営者の社員の人事にかなり力を注いでね、改革を続けていくんですね。 そして1996年まで社長を務めるんですね。
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代表退任後ですね、就営者の特別顧問なども務められたんですね。 晩年の方ではですね、もともと文学部っていうね、そちらの方に興味があったっていうんで、そちらの方のね、
作品なども作られてたようです。 そして2002年の5月10日に廃息戦で
廃息戦で亡くなられたということらしいんですね。 少年ジャンプのおもとはですね、就営者が代謝ありました少年ブックなんですね。
それに対して、若菜さんがスタートしたのが少女ブックというわけですね。 少女ブックはルーツの若菜さんっていうのはね、西村さんにとってはですね、分からない人に見えたんでしょうね。
それでもあいつ出身の方はね、ジャンプのね、片っ気役のように思われたままっていうのはちょっと尺なんですよね。
他の人たちさんをね、リードしてきた人っていうね、女性の可能性を広げてきた人っていうね、視点でね、誰か再評価してくれないかなと思ってるんですよね。
どなたかいませんかね。はいそれではまた次回よろしくペンキッチンのお宝の話にお付き合いくださいね。
本日もお聞きくださいまして誠にありがとうございました。