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2023-08-14 56:16

第百六十三回 『文學界9月号』を勝手に宣伝! ゲスト:宮崎智之さん

『文學界2023年9月号』の特集「エッセイが読みたい」。柿内も「エッセイのような論考」を書いています。日頃から「随筆復興」を掲げ、今回も渾身の論考を寄稿しているライター・宮崎智之さんと共にお互いの原稿の読みどころなどを語り合い、エッセイについてあれこれと考えを巡らせています。必聴!そしてぜひ『文學界』をチェックしてみてください。今号から電子版も出るそうです!

00:01
はい、こんにちは、ポイエティークRADIOです。
お相手は、私柿内正午と、本日は特別ゲストでこの方です。
はい、ライターの宮崎智之です。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ということで、今回はですね、特番ということで
来ましたね。
来ましたね。
8月の7日月曜日に、神番が出て
はい。
で、多分これが公開される2日後ぐらいかな?
8月の17日に、とうとう電子版は
はい、しかもフロー型で読み上げ機能を使えるということで
非常に読書、今話題になっている読書をできない方に対する
読書のバリアフリー
バリアフリー、そう。それがありませんでした。
読書のバリアフリーにかなり対応された
この文学界の9月号
の9月号
9月号ですね。
が今出たり、これから電子版が出たりっていうタイミングなんですが
今回はね、特集がエッセイが読みたい
いやー、ついに
ついに来ましたよ。
僕らのね、以前も人質解剖教室っていう僕が主催している
僕のアカシオグループさんが主催している教室に
竹内さんが出てくれた時に
ポッドキャストを撮りましたけれども
それがね、実ったとは言わないけど
まあまあ、こういうことをやっていくと
いろいろとこう、目にね
そういう方も出てきてくれるんだなっていう
文学界さんがエッセイ特集ということで
ありがたいです。本当にもともとその宮崎さんと
あとアカシオ文化さんが
2人で、双子のライオン堂で
随筆復興
随筆復興はまず
もやもやの日々で
宮崎さんが掲げてられたんですけど
その実践として随筆解剖教室っていう
イベントを連続でされていて
最初その宮崎さんとアカシオさんが第1回
第2回にそこに
織田の救世花さんっていう別の作家の方を
お呼びしていて
第3回目で僕がお邪魔させていただいて
まあいろいろとその随筆とは何ぞや
ということを語りながら
なんかもっと随筆って盛り上がる
ってしかあるべきもんなんじゃないの
随筆シーンっていうものを
もう一度こう作って盛り立てていこうぜ
みたいなことを
お話をしていたわけです
言ってたら
今回ねこの文学界のこのエッセイを
読みたいな特集には
23本のエッセイについてのエッセイと
2本の論文で
あとは文学フリーマンのルポルタージュみたいな感じで
もう2本入ってるっていうの
03:00
特集なんですが
さっき今出てきたアカシオ文庫さん
織田の救世花さん
で僕そして宮崎さんっていう
全員が入ってるんですよ
これはフィクサーがいるんじゃないかと思いきや
別にね僕がフィクサーじゃないんですよ
違うんですよ
もちろん文学界さんに
フィクサーせいですよみたいな
エッセイせいですよみたいなお声掛けは
僕はあったんです
そこからいろいろ検討してくださって
こういう形になったんだけど
僕はもう著者としてしか関わってないので
著者というか論文コースしか関わってないので
文学界さんが見つけてくださったということで
もちろんね
僕らがやってるシーンっていうのは
僕一部のシーンに過ぎなくて
どのエッセイにも今
知りかけてる方いっぱいいますので
例えば上村一子さんとか
ジェンスーさんとか
大松美濃子さんとか
町田幸さんとか
松尾鈴木さんとか
そうそう誰もいない
そうそう誰もいないんですよ
本来は広島にいますから
僕らを呼んでいただいて
しかも論考のねパートを
かなり専門的にこう
エッセイとか前日のジャンルCを
やられてる学者さんがいる中
若手とまだ言える
柿内さんと
正体不明の会社員とね
若手とは言えない年齢になりつつも
まだ文学の中で駆け出しの
宮崎智之さんにも任せていただいて
僕なんか三十数枚書いちゃいましたから
いやー
張り切って
柿内さんは何枚ぐらい
二十枚ぐらい
でも二人ともなかなか
文量の要するに
批評って形で一本のるんじゃなくて
例されてない
特集の中での論考としては
そこそこの文量を
いただけたんじゃないかと
だからそれこそ僕も最初
公式から目的が出るまで
他にどんな方が書かれてるのか
僕も分かんなかった
知らなかった
実際この実物見るまで
皆さんがどのぐらいの文量書いてるのかも
あんまりよく分かってなかったので
割とたくさん書かせてもらったな
いやーすごいです
特集がまず文系史として
だいたい始め
創作とかバンって読むんだけど
特集から始まるというのも
すごいそんな風に
していただけたんだ
っていう風に思ったし
合計で96ページ
ページから96ページがみっちりですからね
みっちりですから
もうこれもうというか
本もできそうじゃない
ぐらいの
もちろんいろいろもっと
足したりすれば
エッセイ倍ぐらいの人数の方に書いて
本とかになったらうれしいな
みたいなことね
個人的にはね
斉藤哲長
06:00
以前どこかで
ルーマニアの
日本でルーマニアの小説を
ルーマニア語で小説を書いて
ルーマニアにデビューしたっていう方で
これが
今年ね
エッセイ集
語学エッセイ
斉藤さんで
千葉からほとんど出ない人
一度も海外に行ったことがないまま
ルーマニア語の小説家になった
これ僕の今年の
今のところのベストエッセイなんですよ
めっちゃ面白くて
面白い上に語学
ルーマニア語なんだけど
僕は英語学んでるんだけど
語学熱がすごく高まるような
マジでこの人すげえな
ルーマニア一回も行かないで
ルーマニア語マスターして
ルーマニア語小説家で
デビューして
しかも向こうの批評家
こっちで言うとなんかちょっと偉い
批評家に
服が取り上げられたりしてるっていう
本当にすごい
すごい方で
この方も書いてると思って
嬉しかったですね
全く知らなかったんで
これが出るまで
なんかね
ちょっとまだ読めてないんですけど
ジャンプのファンマーズエッセイとか
そういったことに対して
ルーマニアに似たようなことを書いて
そうですね
いっぱいあるからね
俺はジャンプの作者コメントで
大人の読み方を知った
これちょっと分かるなって気がしますね
っていうタイトル
そうかね
そうそうそう
そんな感じとか
いろいろ出てるんですけど
とりあえず僕らのところちょっと
そうですね
軽く紹介して
ヘナイシさん
あともう一つ
このエッセイとはまた
エッセイの特集とは違うんだけども
ちょうどアクターファッションがね
パンチバックで受賞されて
すごく大きな話題になってますけども
毎回アクターファッションが受賞された後に
文学界には新アクターファッション作家特別エッセイが
載っている関連になっているので
今回は内川沙夫さん作者の方が
エッセイに載っていて
これもある意味エッセイが
この中でエッセイが載ってるので
同じく楽しめるし
とにかくやっぱ
すごいですよね
すごい話題になってますよね
作家になったら
いや本当に
そんな感じで読み応えがあるんですよ
すごい盛り上がって
自信を持っています
内さんのやつであれかなと思ったのが
エッセイという演技っていう
シンプルな
舞台なしのシンプルな
論考
エッセイのような論考って書いてあって
言い方はなかなかみようだなと思うのが
読みながら確かに
論考なんだけども
柿内さんのエッセイになっている部分があって
まずこのポッキークラッシュのファンの方は
全然知っていると思うんですけども
僕も大概ですけども
柿内さんよく喋る
小説大概ですか
それが文章にもよく現れていると
09:02
非常に情報量が多くて
スピード感をもって読めると
いうところにまず僕は注目しましたね
結構すぐ読めちゃうんですよね
そうまあ
かなり密度は高めに書いているので
そこが僕の普段の早口語りで
いろいろこうね
突っ込みたいところとかもありますよ
実は突っ込みたいというか
こう聞いたらどう
繰り返しはどうなるんだ
というところとか
ちょっと言うと
冒頭の方でね
物語の評論も
ぜひともすぐに日から派生していったもので
考えている
日本語文化圏においては
というところで
これはでもねちょっとね
そこまで言うと思ったんだけど
確かにそうなんだよね
後にその
英米圏の告白文化のことが出てくるんだけど
それと考えていると確かに
日記っていうのは日本語で
それこそ今なくなっちゃいましたけど
ゴールドキーの先生とかが
精力的に取れている仕事ですけど
日記っていうのはすごく重要な位置に占める
文学形態の
基礎とも言える
プラスもちろん
全ての起源が日記などでは
ぶち上げるつもりはないと
ただまだその後に
また爆弾が降ってきて
日記が一面だともう一面には
歌があるのだなって
これもうキー先生の仕事そのもの
なんだけど
ここら辺についてはまだ多分
ご自身も完全には成立していない
これから掘っていくところだと思いますが
なんかちょっとコメント言えるとしたらあります?
今僕の中で個人的に熱い書き手として
週刊読書人に
尼崎明さんの
著作の名前を今不動で
課長の
課長社から出てる
ちょっと今はとっさに出てこないから
後で補足しますけど
本を
それは和歌論の本だったんですよ
それを読んで
そこ以降も
今なんか日本のレトリック
読書人に
書評を書いて
その書評のためにいくつか
安岡紗希明の
著作を読んでいたんですけど
それは本当にもう
日本の文学っていうものの
あり方とか
それは日本の
私版みたいな
あり方っていう
ものの可能性を
和歌論の童話を通して
色々と解体していくっていうので
面白かったんですよね。僕はあんまりそれまでそういう古文系、授業でいうと古文みたいなものに対して、どっちかと言うと苦手意識があったんですけど、
これはべらぼうに面白い世界だなっていうので、ちょっとこう最近そっちにこうはまり込んでいっていて、
なんとなくその、もともとここにぶち上げてるような日記からすべて派生してるみたいなのは、まあなんか言っちゃえと思ってたんですけど、
12:00
なんかやっぱりそれだけだとカバーできない部分っていうのが割とあって、
そのある部分ってどこに残ってんだろうって言うと、多分和歌だなっていうのが予感とした。
僕も和歌についてはずっと調べていて、日本文学専攻なんで、もっと調べろよって感じなんだけど、
でもすごくざっくり言うとやっぱ写生的なのか、序章的なのかっていう問題があるじゃないですか。
それってそのまま明治に、原文一の時に論じられた小説の議論とも結構つながるんだよね。
そうですね。
まさに明治の方で写生主義っていう写生文っていうのは、
佐岡式とか高山挙子の方から、和歌の方から出てきたものであるっていうことも踏まえれば、
この見立てはまだ不完全なだと面白い見立てで、
そこと原文一とかで、僕が今、明治20年ぐらいから当たるのことに注目して、
今回も主に明治20年、明治から大正の僕の評論、
正義の心に内部に開け、エッセイという文字芸っていうのを、今度はエッセイについての文法っていう形で、
指定させていただきましたけど、
主に明治期から大正、大正昭和初期、昭和初年ぐらいまでのことを、
で、論じられたことを踏まえて書いてるっていう意味では、
結構原文一とか和歌の写生文ムーブメントとか、
そこら辺も何か、もしかしたらエッセイに関係してるのかもしれないなと。
僕もちょっと今回、現在の原文一であるとまで言えるかどうかっていうところを、
ちょっとドキドキしながら書いてたんだけど、
でもその含みをね、含みを結構、僕はそういう風には書かなかったんだけど、
そういう含みを書けないさんが書いてくれたから。
そうです。
そうだから、ちょっと後ほどまたこの宮崎さんの方の論考、
正義を心に内部に開け、エッセイという文の芸についてもガッツリと語っていきたいと思うんですけど、
お互いのその論考が割と補完、
共有し合ってるよね。
方法論的にも、何かその内容としても補完し合ってる感じ。
まあ一緒に話してることもあるというのは、教室でまた勉強しましたりとか。
やっぱりなんか、僕の方がちょっとあれ、ちょっとやんちゃに、何か。
いやそうです。
心をぶち上げて。
いい意味で。
そうそうそう。
僕はやっぱり、僕が踏み込めなかった部分に踏み込んでるな。
というような中で、宮崎さんが割とその、本当にその論を現実に積み立てていく形での。
本当にこのエッセイのような論考と、エッセイについての論考っていうのが、こう。
ちょっと今ね、冷房つけたんで、ちょっとね。
ちょっとここから音がうるさい。
音がうるさいかもしれないけど、ちょっと僕ら、たぶん暑くて。
今品川のめちゃくちゃ狭いデータレスペースでやってます。
倒れる前にちょっと。
ちょっと一回つけましょう。
15:00
あれなんですけど。
で、そうなんですよ。
すごいその、感じが。
これは実は、この前のこの、皆さんの、他の23名の方のエッセイについてのエッセイの論考も、
なんか割とこの、なんか、やんちゃったと。
現実を信じて。
現実ありますよね。
割とこう言って、なんかそのこう、両方を、なんか、引き付けるジャンルなんだなっていうエッセイが。
っていうのを、なんか改めてこう、確認できるような特集に展開しながら。
わかるわかる。
すごいいいな。
いうふうに思いましたね。
なので基本的にこの自分たちの原稿のアピールをちょっとしつつ、
まあ、いろんな回、みんな読んで。
読んでください。
あれこれと語ってくれたら嬉しいなというふうに、
はいはい。
思っていますが。
どっちから。
ちょっとね、でもあの、もう少しこの論考について、
詰み込んでいいですか。
もちろんです。
てかどんどんそこをメインでやってください。
エッセイという演技。
やっぱね、柿内さんと僕が似てるより似てないところの一つに、
これは積極的に似せない部分が一つ出たのっていうのが、
言葉を道具と考えてるからそうじゃないかなんだよね。
あー、なるほど。
僕は道具と考えてないんだよね。
はいはい。
柿内さんは、言葉は道具であるというふうに。
僕もね、もちろんその、いわゆる言語学系のものをかじった制度で読んでるから、
その、言わんとしてることは非常にわかるんだけど。
なんか僕の実論がそうは言ってくれないところが。
あー、面白いですね。
あるんだよ。やっぱりどうしようだろう、それは。
でもなんかそこすごい面白いです。
なんだろうな。
僕はその言葉は道具であるっていうふうに言い切ってますけど、
言葉が道具であるっていうのは非常に、
僕としては実論的な態度表明なんですよ。
はいはいはい。
で、宮崎さんの今回の論考とか、普段書かれてるものとかって、
非常にリーダービリティが高いじゃないですか。
で、すごいわかりやすい。
で、何もその前提を共有してない人でも、
ちゃんと1から読んでいけば、最終的に、
こういうふうな関心の持ち方があって、
こういうような面白があるところがあるんだ、
わかるように書かれてるんです。
だから非常に開かれてて、
僕はこれを非常にある意味道具的だと思うんですよ。
あー、なるほど。
だから宮崎さんはそれこそ。
使ってるもんね。
そうそうそう。
ある種の技巧をあえて使ってる部分があるっていう。
そうそうそう。
で、ご自身のライターっていう言い方されるじゃないですか。
で、ライターってそれこそなんだろうな。
人に言葉を使って何かを伝達するっていう。
で、この伝達っていう目的に対して、
言葉をお手段として使っていくみたいなところが、
性格がすごい強い文章を書かれるなっていう文章があるんですよ。
そこでね、言うとね、
説明になってるかわかんないけど、
加藤天佑さん。
はい。
ノルヒロさんね。
亡くなっちゃった。
批評家の。
はい。
で、結構読んでるんですよ。
はい。
僕ね、言い切れるほど読んでないので、
ちょっと意味ないんですけどね。
はい。
加藤天佑さんとかの読んでるとやっぱね、
18:00
結構こういう書き方をしてて、
帯とかね、
これが批評だ、世界が見えるっていうね、
いい帯があるんだけど、
そういう批評を僕は書きたいっていうのもあって、
あとね、加藤さんの最近また文化化された、
僕が批評家になったわけ。
はい。
批評家になったわけについて書いた本があるんですよ。
これ非常に面白くて、
名著なんで。
ちょっと読んでみて。
皆さんも読んでみてほしいんですけども、
そこに書いてあるのが、
いろんなこと書いてあるんだけど、
結局そのじゃあ、
自分が立ち向かえないものについて立ち向かうことがあるじゃないですか。
批評で。
そのときにじゃあ批評ができないのかとか、
いろいろ考えるんだけど、
でも基本的にね、
批評っていうのは、
いろいろ技巧があるじゃないですか。
道具的に。
言語学的にもいったり、
ジェンダー論的にもいったり。
いろんな批評理論があるんですよ。
以下とかね、
あと差異とかさ、
いろんな脱構築とか。
いろいろあるんだけど、
普通の人にはそういうことは別に関係ないだろうと、
加藤さんは言って、
それはあくまで道具なんだみたいな方を言うんだよね。
道具なんだとは言ってないんだけど、
そのときに言っているのが、
海の釣りで言うと網なんだと。
批評っていうのは網。
どんな優れた網でも、
どんな網が優れていようと、
網が優れていなかろうと、
あんまりどこじゃないと関係ないんだ。
重要なのはその網で捕った魚がうまいかどうかだ。
っていう風に言ってるんだよ。
なるほど。
僕は、
道具であるって言葉に半ば賛成で、
ちょっと実存的にそうは言い切れないっていうのは、
僕はやっぱり網で、
あくまで道具としては網土地しか使ってないから、
捕った魚がうまいかどうか、新鮮かどうか。
なるほど、そうか。
捕った魚のほうが、
道具的じゃないことだね。
そうそう。
もう道具として回収できない何かになっている、
っていうことを言っていないんだけど、
もう一回解釈すると、
そういう風に今の話で言っていて、
僕はやっぱり餌がうまいかどうかに賭ける。
どれだけ網が成功に作られたかというかどうかは、
それはプロの中ではいいのになるかもしれないけど、
特に、
なるほど。
っていう感じで読書をしてくれる方においては、
そこはうまいなとか思ってもらえたらすると嬉しいけど、
あくまで網ですという。
なるほど。
すごいよ。
網の部分については確かに結構凝らしてますよね、今回。
そうですね。
どう捕まえるかっていうのはまさに、
あたたかひとつの芸になっているかなとも思います。
いや、宮主さんの論考、今回非常に面白くて、
ちょっと僕これ読むとき、
だからもうこれは、
もう、
ダメだと。
なんでそんなこと言うの。
21:00
ダメだと。
竹内さんのやつ、
Twitterでめちゃめちゃ人気があって。
いやいやいや、そんな。
応戦しきまくったって、
Twitterでおっしゃられてて羨ましいなと思って。
いやいやいや、そんな。
もうなんかどうしようとか。
かっこいいもんね。
これでもかっこよさに入れちゃった。
それこそね、今回のアチュラ講座のあれで、
かっこつけ派だなって。
そうそう、かっこつけ派と何派だっけ、
あれすごい面白いエッセイなんだよ。
もうアチュラさん最高だもん。
かっこつけ派と何派だっけな。
そう、2種類入れてるんだよね。
ヨタヨタ派。
そう。
なんかこういう。
うーん、だっただった。
えーと。
あ、ひくひく派。
ひくひく派。
あ、でもひくひく派ってわかるの。
そうそうそう。
ひくひく派。
ひくひくもしたいよね。
っていうのをね、読みながらだったんですが。
なんかその、今回思ったのが、
一旦その、全体として思ったのが、
エッセイについてのエッセイの中でも、
結構みなさんエッセイつかみ損ねてるんですよ。
それはその、宮崎さんが書かれてるみたいに、
やっぱりなんかちょっとあやふやであり、
タイトルにもあるように定義を拒むようなところがエッセイにあるからだっていうのが、
なんか全体のトーンとしてもあるんですよね。
だから、エッセイとは何度やとか、
これがエッセイだっていうのに対して、
割とこう、それぞれの機構者によってスタンスが全然違う。
し、僕自身も結構そこを拡覧するような、
あえてどんどん拡覧させるようなものを書いちゃってるんですけど。
それがエッセイであると言ってしまえばね。
そうそうそうそう。
っていう、ある意味なんでも、
これをエッセイだと言い切ればエッセイになってしまうっていう、
マックスみたいなジャンルだわけですよね。
で、なんか、あの、
ナツハ社から出てた、
全ての雑貨みたいな感じで、
エッセイと言ってしまえば何でもエッセイになっちゃうし、
雑貨という括りにしちゃえば、
どんな有用なものも全て雑貨に貸しちゃうみたいなところで、
雑貨とエッセイってすごい似てるなみたいなことをすごい感じてたんですけど、
宮崎さんはそこで、
その定義のしようがないエッセイを、
それでもなお定義づけようとしてるんですよ。
そうなんですよ。
もうそれはね、これは苦労したんだな。
いや、これは熱いですよ。
いや、だからね、
僕と、これ、
いつかまたこのポッドキャストで話すと思いますけども、
関内さんが流行っている、
哲学読書会ですよ。
はいはいはい。
正式名称を忘れましたけど、
非哲学さんのための、
哲学読書会。
えーと、
坂井講師と、
吉川ひろみつ講師がやってる中で、
まあ、
そこでね、僕らいろんな
若手として、
いっぱい来ている中で、
やっぱ、答えは
2体以上出さなくちゃいけないっていう、
当たり前のことを叩き込まれていて、
で、文学評論って、
そういう風に終わるものって
意外と少ないなと。
はいはい、そうですね。
だってそれはそうでしょ、文学ってもの自体がつかみにくい。
でも僕は何々であるって今回言い切ろうと思ったんですよ。
そこからの旅ですよ。
いやだ、すごい勇敢ですよ。
そうね。
言い切るために、
24:01
どういうことを
やっていくのか、
どういう文章の仕方をやっていくのかっていうのが、
さっき言った網の部分の話で、
で、最後は、
やっぱりね、
僕大学で学んだ批評の方法って、
辞書論的な方法で、
どちらかというと、
作家の日記とか資料とか当たりまくって、
どんどん導き出していくみたいな方法だったんで、
それを踏まえつつ、
辞書論的にエッセージで
こういう言い切りがある、
こういう風に語られた、
こういう風に論争されたエッセージがあるっていうのを語りつつ、
最後はやっぱりね、
あのね、
ポイジーというかね、
大ジャンプ。
かけないさんと、
来世の中で、
実音をかけた大ジャンプをしましたって、
訳もわかんないもんだけど、
本当に実音をかけた大ジャンプをしないと、
結局論争していくだけでわからないんだよね。
実音をかけた大ジャンプをする、
どんどん、
本当にこのエッセイの定義については、
1年以上考えてるから、
結構な文献を読んでるわけですよ。
本が開けたら。
本が熱いですよね。
だんだん学者みたいになってるわけ。
うん、なってますね。
ただね、やっぱり学者さんはすごいんだけど、
僕ぐらいの頭の学者さんなんと、
いや、こうは言ってもこうは言えないんだよなとか、
ここはこうは言えないんだよなとか、
ここはこうは言えないんだよなとか、
ここはこうでも、
ここではこういう議論があったんだよなとか、
いろんなことが頭に入ってきちゃって、
答えが出なくなるんだよね。
今回気をつけたのは、
学者さんとして呼ばれたわけじゃないんだ。
学者さんが
敵に呼ばれたならば、
学者さんを呼ぶだろうと。
あくまでエッセイ的、
もしくは思想的な態度から
論じてほしい。
要するに文学評論みたいな学術ジャンプではなくて、
師匠とか
エッセイとか
そっちの方向に近いものにしようと思った時に、
やっぱり最後は
論理の主役の大ジャンプが必要で、
それがなんかちょっと今回、
自分の中で
ある種実証論的な
方法を
結構
昔から
こう見えて、
わりと地道にやってるタイプだからさ、
そっちの方向化するから。
最後の見栄の切り方というか、
最後の大見栄の
キリッと切り方を
ちょっと学んだ気がしました。
初めて。
僕も
宮崎さんの
書いているものを全て読んでいるわけでは
全然ないので。
意外と堅実なんですよね。
僕の中で勝手に思ってた
印象として、
山の日々もそうだし、
文庫の
モヤモヤする
あの人とか。
基本的に宮崎さんってすごい
どっちかなんです。
めちゃくちゃ何かについて論じるときって、
すごい堅実にここまでは言える。
ここまでは少なくとも言える。
27:01
すごい石橋叩いて渡るような文章で、
すごい堅実に書いていく。
そうじゃなくて、
犬のこととか、
自分のクマのこととか書くときは、
のびのびと飛躍をさせていくみたいな。
エビデンスは俺だからね。
他にエビデンスを求めるときの
書き方としては、
ある意味かなり学者に近いというか、
外に出ていかないで、
ちゃんとここまで
っていうところで書いていくみたいな
書き手の方なんだなという印象を受けたんですけど、
今回そこが
こんなのもできるんだ
って思って。
ちょっと細胞
に言うと、
一番厚いところを言うと、
エッセイはどういうことなのかというので、
おそらくそれは
事故を定義しない形で事故を照らす文獄に
宿るタイプの優越ではないだろうかと
筆者は考える。
一つの結論なんだけど、
そこから以上からこのようなことが言える。
そう、ここ。
むにゃむにゃむにゃむにゃむにゃむにゃむにゃ
ことが
エッセイの文の芸であると。
言い切ってますからね。
ここめちゃくちゃ
これがね、言い切れましたよ。
言えるだろうとかしなかった。
言えるっていうね。
そこはでもやっぱり
思い切りの良さというか、
それがエッセイ一部なんじゃないかなと
思ったね。
エッセイってのは自分で
自分の思ったことについて
語ることだし、
あと批評もそうだよね。
ある程度実証論的なことをやりながら
ワンジャンプが必要で
ここね、批評とエッセイの
随時性についても感じてるんだけど
そういう時にやっぱこう
何かこう
言い切らなくちゃいけない。
何か視野を持たせなくちゃいけない
って時に大きな
飛躍をしなくちゃいけないところがあって
それがこの
以上からこのようなことが言える
以降の
見解だよね。
本当になんか
その
宮崎さんのもともとの
問題意識というか、今回これ
エッセイ特集って書いてあるんですけど
随筆を掲げていろいろと
活動をなされている中で
要するに足場が
空いてるというか
あやふやなんですよエッセイという
エッセイ随筆という世界は。
なんですけど宮崎さんの中では
やはり文芸っていうのは
巨人の肩に乗るものである
文化保守的なね
そうそう
TSエリオとの話
さっきこれ録音する前だったかな
ちょっとしましょうかね
TSエリオ
僕は個人的にはリベラルな
心情のお家でしたと思うんだけど
文学とか文化については
割と保守的な
考えを持っていて
やはり歴史とか
受け継がれていく芸とか
受け継がれていく何か
文化保守とかが
30:01
ないものは定着しないし
発展していかないもの
っていう
思想心情を強く持ってるわけですね
特にエッセイの中では
それがないんですよ
だから散発的にいろんな人が
消えていくことになっている
っていう問題があって
TSエリオとか言ってる
伝統と個人の才能
っていう有名な評論で
あることは
要するに
新しいものが文学に出てきたとしたら
文学っていうのは
文化っていう秩序があって
そこに新しいものが上に乗っかるみたいなイメージをするじゃないですか
人は
新しいものが加わるってことは
その秩序が新しいものが
その秩序に入っても違和感ないように
秩序のすべてが入れ替わると
わかる?
その秩序がもともとあったかのように
新しいものがあったかのように
その秩序が入れ替わることが
新しいことだって言うんですよ
だから足場みたいなものって
文学の秩序
巨人の肩って言いましたけども
要するに
上乗せ後乗せされていくっていうイメージがあるけど
そうじゃなくて
新しいものが出るたびにもともとあった巨大な
文化っていう歴史伝統の秩序が
その新しいものが
あっても違和感ないように入れ替わって
すべてが更新されてしまうと
それが本当の新しいことだ
っていうのがあって
それが僕の文学上の思想
信条に結構のズームがあって
厳密にそうで
すべてエリオット
ってわけじゃないんだけども
それを意識して
やりたくないんですよこういう仕事はみんな
やっぱりカテゴライズにも繋がるじゃないですか
それに手間暇かかりますからね
手間暇かかるし
誰かがやらなくちゃいけない仕事の中で
エッセイっていう
不確かなやふやな
意味のどころがない
柿上さんの言葉を借りると
明け広げに
さらけ出すものがいい
というふうなものを言われ続けて
散発的になっている
ちょっと歴史的な
議論の水脈というか
議論の
外観できるもの
これがエッセイだなって外観できる軸を
作ってその上で
これとこれとこれについては
エッセイ特有の文の芸というふうに
見えるからこれが正しいというわけではないけど
これを基準に
これが違ったとか
これを更新したとか
というふうな足場がないと
何にも
これから生まれませんよねっていう
非常にこう
ある種やりたがらない
絶対反対意見が出てくるし
でも反対意見が出てくること自体が
足場があるということです
活性化する
議論の訴状が一個これできましたからね
今だから足場がないから
みんな勝手なこと言っても
みんなそれもオッケーこれもオッケー
みんな違ってみんな良いみたいな
それも非常に素晴らしいことだし
実際エッセイズムってそういうことなんだよね
33:01
っていう僕が書いてるけど
みんな違ってみんな良いってことなんだよ
突き詰めて今
でもそれだけじゃジャンルとしての
勝手に繋がらない
っていう問題意識の中
誰かがやらなくてはいけないことと
思って
誰もやらないならどっかやろうかな
って思った
めちゃくちゃ大きな射程を持っていて
要するにはじめの方とかにも
今の教科書に
近代以降
エッセイとか随筆というものが
ジャンル自体だとして教科書に載ってない
みたいな話が出てくるじゃないですか
これって要するに歴史化しようがない
ジャンルっていう
ことなんですよね
うちで百均が載ってないとかね
そうそうだから
何かしらの問題意識があって
今言ったように何か新しいものによって
それが乗り越えられて新しい勝手だけができていく
っていうようなものにとして
あまりなくて
だから基本的にみんな裸一貫で
一人一ジャンルじゃないけど
私の話を
一台一ジャンルみたいな
そうそうそうそう
それが結局個人だけを根拠において
誰にも継承されていかない
みたいなものに
見られているという現状があるけれども
実はそこにも何かしら
その継承ってあるだろう
っていうのを
見つけていこうとする
論考だな
ありがとうございます
要するにこれは今
歴史化されていないものを
歴史として見ていくっていう
歴史化していく
よくも悪くも僕の論考が
正しいか正しくないかは分からないけど
一つ
言い切ったものがあるので
ここから違うのが違うで
違うものが出来上がっていくんだろうし
正しいな正しいで継承していく
必要がいて
そこからまた新しいアップデータが
出るかもしれないで
けないさんと
LINEを出た後に知ってて
本当に読んでくれたなと思ったのは
何気なく書いてるつもりなんだけど
そこに棒点つけようかと
迷ったと思うんですけど
下期間というね
昭和時代の
学者さんが
言ってる論を引いて
がの自助典
がの助典
要するに毎世に言われてることですよね
がの助典だっていう
がの助典から文化の自助典へ
っていうのが
僕の
今回テーマだったんですよね
書きなりさんも
それを受けて
僕も文化の自助典へと
繋げるようなテーマで書きましたと
おっしゃっていたんですけど
どういうところでしょうか
でもこれは本当に
僕の問題意識で基本的に
エッセイって基本的にさっき言ったように
歴史化しようがないものとしてされている
相当歴史細かい
歴史化されようがないってのはどういうことか
自分が
自明のものとしているものが
歴史の初三であるってことを
見逃しているというか
36:01
見過ごしているってことそのものだと思うんです
だからこそがの助典
しかできない
自分について書くことしかできない
みたいなところに
エッセイって狭苦しさがあるな
いうことを
そこだけなんですよ
そこに対する
ある種の不満は僕よりはっきり書いている
それが不満だからこそ
自分というものをきちんと
文化であったり
別の蓄積の中に
どう位置づけるかってことを
しっかりと自覚的に
書いたほうがいいし
読み手側も一発一発じゃなくて
どこの文脈の中に
どの歴史の中に
どう位置づけるのかってことを
もっと意識したほうが
面白いし楽しいよみたいなことを
どちらかというとパフォーマティブに
好めかすような文章を
僕は書いたんですけど
僕これ宮崎さんの読んで
これに対してのアンサーを読む前に
書いたなって思った
順番としては僕の論考があって
その時に宮崎さんの論考があるんですけど
宮崎さんの論考を読んで
なるほどって思った方
今一度僕の論考
エッセイなのか論考なのか
この文章を読んでいただくと
多分問題意識がかなりクリアになるんじゃないかな
僕は逆にこの順番で納得したところがあって
やっぱり
ある程度書けないさんが非常に
クリアに書いている不満
現状に書いている不満については
僕はあんまり触れなかった
それを踏まえて書いちゃったところが
あったので
それは当然のこととして
そういう意味では
それがあってこういうことになったんだよ
っていう風に読めるという意味では
かなり順番としては
読む順番としてはいいかもしれないな
という風に
読む順番としては多分この方が良くて
エッセイが続いた中で
途中でこのエッセイと論考の
あいのこみたいな文章が挟まって
本格的な論考が始まる方が
読み手としてもいいし
問題意識の共有の仕方としても
すごい良いと思うんですが
とはいえやっぱりね
意識してほしいなという感じがあります
書けないさんのはかっこよくてすぐ読めるけど
ちょっと難しくて
僕のは長くて少し時間かかるんだけど
簡単っていう
そういう感じがある
でもやっぱり難しい
難しいって結構言われがちなの
難しくは僕はないと思うけど
ただやっぱり
読み手の方が高いよね
やっぱそれは
どちらかというと
哲学の方から人文学に入っている
からだと
僕は思うけど
でも逆に言えばすごく新鮮だけどね
文学評論としては
そうですね
情報量が多いよね
すごい
でも
ここの
土佐日記のくだりとか
石田貴観先生がまた
同じく出てくるんですけど
そこへのくだりも微妙に
言説がかぶってなくて
39:01
互換し合っている感じが
二つ読むとそういうことだったんだというのはわかる感じが
面白いですよね
僕最初ここのあたりって
かなり簡単に2行ぐらいで済ませてたんです
そしたら
編集の段階で
辞書文学ってすごいなじみのないことが
だからもうちょっとさんと書いてって言われて
そうだね
書き直したんですけど
それこそ宮崎さんが貴重講演みたいなの
書いてくれるだろうと思って一回
抜いてたんですけど
ちゃんと書いてよかったなと
全然参照しているものは違うから
実はここでもちょっとしたずれという
ずれってことじゃない
同じことを参照しているのに参照している文献がちょっと違ったりするの
そこがやっぱり
面白い
こういう二人とも
わりと占めたものを
土台をね
作ろうっていう
この30と40の
弱配物が
っていう挑戦を
文学を書いて舞台でやらせてくれたのは本当に
本当に
しかもなんか嬉しいですね
具体的な
実作もどんなのが出てくるか全然わからなかったんで
僕がここで書いたような
なんかその
そういうのはどうなんだろうみたいなものが
ばっかりだと
すごい僕の文章浮くなって思ったんですけど
これは多分僕が書いたような問題式って
皆さんもちろん持ってるんで
僕が書いたのって実は書き手への問題提起というより
読み手への問題提起なので
なんか
書き手はもちろん
こういうふうに書くよなみたいなのは
それぞれのスタンスが出ている
やっぱりね
今の言文一体運動
現代の言文一体運動
っていうちょっと
ぶち上げたことを一瞬言ったけど
まさに結構エッセイっていうのは
例えばノートのプラットフォームとか
もしくは文学フリマー
2年休学してるけど
文学フリマーの
自主出版のフォーマットに
割と乗りやすい
ジャンルだしあと読者としても
いきなり創作家よりも
エッセイを買って
例えばお酒の看板とか
読むのが読みやすいっていう
リーザビリティが
ある中で
ある意味今エッセイを書く
っていう考えること自体が
今を考えることになってるんだよね
この特集全体の
すごくアクチュアな問題で
書き手の人もエッセイです
こういうものなんだよね
っていうふうに簡単に言えないものを扱う
っていうことがちゃんと
特集のソファーの段階で
伝わってる感じがする文章
っていう
それがすごい
この中でだいぶ内部分裂
しかれないような
その方向にそれぞれの
エッセイというものに対しての
スタンスがあって
それがワクワクします
読んでる特集として
この形態だからできる
これが合同詞みたいな形だと
やっぱりある程度目的意識がはっきり決まるから
それこそ
42:01
一方向に決まっていくんですけど
それこそ僕の書いたものとか
宮田さんが書いたものから
抜け出ていくような
漏れ出ていくような文章も
前の方の文章にはあるし
逆に僕らが書いたことに対して
すごいドンピシャに
ハマっていくような文章もあるしっていう
この
一つの概念で捉えきれない
それこそ一つの網では
全部捉えきれないみたいな
そういうものになっているのが
すごい面白い特集だなと
あとやっぱり
もう一つ言及が
まだできてなかったけど
大前青さんと高瀬玄子さんが
文学フリマーのエッセイを買う
っていう
レポルタージュをやっていて
僕の論法でも最後の今後の新展開の中で
文学フリマーを中心とした
新展開に伸縮していると
これはやっぱ結構
胸が熱いことですよね
文芸人の中で文芸フリマーが
かなり
ど真ん中に
論じられている
またさらに文学フリマーの
出身の書き手の方
西街さんとか
若志さんもすぐ入るかも
ホルシツカさんとかも入るかもしれないけど
そういう方が
チップスさんにいるということ
そういう方だけじゃなくて
ど真ん中の方
松田孝さんとか
もいるっていうことも
かなり面白い
連鎖になっている
僕が知っている限り
文学フリマーのことをここまで意識したこと
あんまりなかったし
あとそれこそだから
宮崎さんの論考の中でも
示唆されていますけど
もともと今
どちらかというとミンストリームというか
文学界的なものとして
一つの権威づけられている小説とかの
世界って
そもそも同人誌から始まっているじゃないですか
その同人文化から
新しい次のスタンダード
それこそ今の
かつ大気を入れ替えるような
新しいものが出てきうる
学生の同人誌だったわけだから
そうなんですよ
そういう
うごめきみたいなものっていうのが
今もしかしたらそれこそ文学フリマーだったり
エッセイだったり
っていうところに
あるのかもしれないなみたいな
そういうワクワク感
あって
とにかくやっぱり
レスポンスが欲しいんですよね
論考を書いている二人のところとしては
そうなんですよ
それが欲しいな
勿論学者さんから見れば
僕らは非常に脇の甘い部分がある
論考だったことは
重々承知しているので
保管していただければ
非常にありがたいですし
保管してほしいですね
やっぱり僕らはボロボロ
何か落としながらも
何か前に進みようと思って書いているから
それこそ
滝内さん的に言うとあんまり良くないのかもしれないけど
魂をね
削って書いている部分があるから
45:01
勿論
重々承知でございます
甘い部分があるというのも
重々承知で書いて
いっぱいシールを読んでいるのも知っているんですが
保管していただいたり
もしかしたら批評
エッセイ書き、エッセイ読み
いろんな方から
レスポンスが欲しいです
今回これ思いましたけど
エッセイってなかなか
批評と馴染まないジャンルになっちゃっているので
やっぱり僕は不満なんだな
もっとそれこそ芸として
何かしらを
良し悪し評価するみたいな
エッセイ批評は
もっとたくさん書かれて
欲しいしやりたいなと
すごい思いましたね
あとある学者さんがね
TwitterのDMで
僕の読みました
面識がない方だったんだけど
いただいて非常に私の仕事は
勿論学術論文ですけど
エッセイ的なものをずっと書きたいと思ってた理由が
分かりました
っていう風に言ってて
エッセイと批評評論というものは
ある種混然体としているのであって
全く別のものではないんですよね
みたいなこともおっしゃっていただいたので
エッセイ的なもので
批評的な単価を知るってことも
一方でできるんだなってことが
僕は今回自分で書いてて分かった
なるほど、いや、いいですね
うん
ほう、欲しいな
そうですね
読書会とかもしてほしいですよね
してほしいですね
このエッセイ特集自体を
96ページなのでちょうど良いんじゃないでしょうか
すごい良いんじゃないかと思います
ただ僕ね
結構文学界には寄港しているので
毎回寄港するために一応英語をさせているんだけど
今回Twitterの反応が
多い気がします
僕の体感値ですけども
なのでこれからまだね
発売されて2日とか
まだ全然これから
この1週間くらいで
本格的な
プロの反応とかも出てくる可能性があるので
出てきてほしい
出てきてほしいし
プロの方が
いや、これがこのまま盛り上がられると困るみたいに
機械感を覚えて
ちゃんとガチで
僕の文章に対して
もしくは他の違う文芸師が
物を言うみたいな
そういうのって
そういうのをやってほしい
お手柔らかに
って感じですけど
もちろんそれは自由ですから
ちょっと怖いけどね
お手柔らかに
ちょっと怖いけど
一回でもバチバチやってみたい
柿内さんの方が
逃走的で
僕よりも少し
文章から感じる部分としては
あんまり逃走は悪いことだと
思っていない
社会構成主義だから
そういうところから
いろんなものが生まれていく
ということですよね
社会構成主義って
議論とか軸気とか
そういうところも重要だ
48:01
あとやっぱり
文章は文章じゃないですか
ここから
これを読んで
柿内というやつはクズだみたいな話をされると
そもそも何も成り立たないんですけど
このテキストに対して
どんだけ何か
追求されても
それは僕としてはより良い
何かができる
それが演技なので
一つの劇場として
それが使われていくのが一番嬉しい
僕はまだ柿内さんのやつ
2回しか読んでないので
10回くらい読んだ時にもしかして
急に反応した
急に反応した
熱量の集めの反応が
さっきのね
説明せよみたいな
でもそう
これ書いて
僕はこれまで
自分のことを
とりあえずこの文学界の方々の会社員のままでやってきたけど
もうなんか
エッセイスト随筆化として
やっててもいいんじゃないか
なんか非評価寄りの気もするけどね
少し
エッセイストっていうのを
もうちょっと拡張していく
というタイプね
自分の
文芸史載ってもなお会社員って固く
言い続けてる理由って
それこそこの定義の拒む
エッセイ的な身振りだったんだな
っていうのをすごい納得した感じがあるので
ちなみに文学界は
面白い雑で
プロフィールをね
本に聞かない
そうですね
聞かないし構成もないんだよ
それは僕は大好きで
なんて書いてくれるかなと
僕ずっとね
何でも寄稿してるから
はじめライターって書いた
いつからかライターエッセイストになってて
僕も会社員から会社員
エッセイストになるように頑張ろう
でもこれは文学界さんに
知ってくださいって聞いてくれないと思う
だから頼もしいですよね
それがいいとこだね
僕最初に乗った時に
そう書いていただいてすごい嬉しかったんですよ
会社員として
やっぱりね
文学界さんがどう認識してるかっていうのは
これを見ると分かるっていうのは
すごく面白いんですよ
これは裏の読み方として
僕らは一切
プロフィールに関与してませんから
これめっちゃ面白いですよね
だから
オルタナキュウシガイさんが文筆家になってて
確か若志さんは作家
若志さん作家ですね
面白い
僕らの中でも仲いいけど
各々どういう肩書きなのかって
よく分かんないですけど
面白いな
ということで
まだちょっと出たばっかりで
多分これからまた読み込んでいく中で
また宮崎さん2回戦やりましょうかとか
いろいろと
もし時間があれば
この中でも若志さんとかオルタナさんとか
呼べそうだから
それこそ今回は宮崎さんと
やってますけど
それこそ
51:01
文筆会話教室の宮崎さんだけではなくて
この企画なので若志さんとかね
オルタナさんを呼んで
やれたら楽しいですね
オルタナさんはね
現時点では
商業出版がないという状態で
このプロフィールの中でも珍しく
鹿版っていう風に書いてあるので
逆に厚い
すごいかっこいいよね
かっこいいですよね
だいたいね
例えば写真が何々生まれ
本が書いてあったりするんだけど
オルタナさんは
年齢も書いてあったね
2日
半日に鹿版
半日に鹿版
南條さんもね
まあまあ
鹿版ですよね
そうです
27人
プラス2人
だから
23本
27人ですね
すごい数の
著者の
特集が
積まれたそうで
一本一本
僕もすらまだ全部読めない
一本一本噛みしめながら
またこのポッドキャストも
どう進展してくるか楽しみです
やっていきましょう
そしてまた僕らも
ここで満席せずに
だからこそやっぱり
宮崎さん
谷内さんの面白かったっていうので
目につくところにどんどん書いて
いただけると
DMでもありがたいんですが
どんどん書いていただけるとありがたい
また読んでほしいなと思います
頑張って文学もやっていきたいと思います
それにあとまた
赤城さんと宮崎さんの
フリーツ解剖教室もね
まだこれから続いていく
後になったらへんにまた企画が
動くんじゃないかと
今暑すぎて動けないそうです
あと裏としてはこれが
エッセイを読みたいっていうのがあったから
実はちょっと忙しすぎたっていうのも
あったんですけど
まだまだこれからどんどん
このエッセイの質の上り
盛り上がっていくと思いますので
とにかく谷内さんは反応してください
ってことだったので
僕はちょっと優しめに
僕は良かったですよって言ってから
嘘です
ガンガン言ってくださって結構ですが
来たんのない意見を言ってください
今回から電子マンもあるので
文芸室に挟まる問題も
だいぶ解消されていくと思います
もし目が不良の方とか
もしくは本屋さんに行けない
事情がある方とか
それにとりやすく柔軟にしかなるので
よりたくさんのね
あとさらに言うと
この特集だけじゃなくて
いろんなね
リレーエッセイで
身体を切る
54:01
創作がきついヤシタカさん
衝撃の
衝撃の創作が載っていたりとか
あとキャロフィンさん
井戸川美子さん
千田真奈さん
読み切りですからね
これ永久保存版に
不脱文はなるんじゃないか
電子書籍と
両方買っちゃっても
いいんじゃないかと思います
僕もそれこそそんなに
文芸室に親しんできたわけではないんですけど
すごい今回の
特集の厚さと
短編の創作の芸術も含め
割となんだろうな
連載途中から読んでもな
みたいな感じで
牽引しばつな
僕自身はそうだったんですけど
面白い読み物としてかなり
とつきやすくなっているので
文芸師デビューにも
いいんじゃないかなって
特集の面白さも
今こういうのが
文章表現としてあるんだみたいな
すごい
いつも以上に
とつきやすいような気が
文芸師初心者である僕自身の
時間としてあるので
これを機にデビューしてみるというのも
いいんじゃないかなという風に
感動表現のね
めっちゃ面白かった
イシャドウ・ヒトシさん
家人の方、88年までの方が
そんなことしちゃダメだろ
俳句っていう感動表現を
載せるので
俳句?
こっちはこんなことしちゃダメだろ
それをね
もともとこんなことしちゃダメだろ
俳句というのがあって
リスペクトした
そんなことしたらダメだろ
これ最高ですから
そんなことしちゃダメだろ
本当にダメなことしかしない
文学界せめてますね
いいですね
というような感じでございます
ちょうどいいぐらいじゃないですかね
じゃあそんなことで
これからまた色々と
随筒復興系の宮崎さんの動画制作も
楽しみにしてください
注目していただければと思います
それではVTubeラジオ
お相手は私が来ない職と
ヨロキでした
ありがとうございました
56:16

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