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  2. 第百六十七回 日記とエッセイ..
2023-09-11 1:12:22

第百六十七回 日記とエッセイと小説って何がちがうの?

よくわからないね!

00:30
はい、こんにちは、ポイエティークRADIOです。お相手は、私、柿内正午と奥さんです。どうぞよろしくお願いします。
ということで、毎週月曜日にお送りしているポイエティークRADIO。
このポイエティークRADIOの投稿してるあれのさ、投稿設定で未来日のスケジュールができるじゃん。
過去に公開したことにできるのかな。
ブログとかできるじゃん、結構。
なんかそういうのでさ、うまい具合にちょろまかせたら、しれっとやるけど、そうじゃない場合は、水曜日に失礼しますっていう感じで。
ちょっとね、最近あれだね、ちょっとガタつきますね。
今週は本当に不意打ちだったね。
でもね、あれなんだよね、実はそういう時でも、僕は、今回はちょっとあなたがさ、ちょっとこう疲れちゃって。
突然熱でと。
ね、突然バターンって倒れちゃったから撮れなかったんだけど、まあそれはさ。
でもそもそもあのタイミングで撮ってなかった時点でさ、ほぼ見えちゃって。
そうそうそう、みたいなのがあって、これまでだったら、怪奇印象の僕だったら、それでもう僕は一人で撮ってたと思う。
いやそうだね。
そう、だけどなんかもうそこを深追いしなくなったなっていう。
あなたもあんまり元気なかったからね、その状態で。
撮ってもしょうがないっていうのもあるんだけど、まあみたいなことで。
でもこれは結構ね、毎回さ、ガタつく度に言うけど、ガタついても続けられるのは結構逆にすごいことだと思うんですよね。
そうだね。
日記さ、一回やめるか悩んでるんだよ、ずっと。
というのも、今ちょっと新しい本作ろうと思っててさ、それをゼロから書こうと思ってるからさ、
あと1ヶ月ぐらいでゼロから書く、まとまった文章書くと思うと、ちょっと日記に振り分けてる文の元気をそっちに移した方がいいもん書けるんじゃないかって思ってたこともあったの。
要するに自分が今書いてないのは日記のせいなんじゃないかって。日記でもうさ、書く記憶が全部なくなってんじゃないかって思ってたんだけど、
多分そういうことではない。
使ってる筋肉が違うんじゃない?
日記はもうそもそもあんまり筋肉使わないというかさ、日々の散歩ぐらいの気持ちで書けるからさ。
だから心臓が動いてるのと一緒でしょ?
03:00
不随筋だからね。日記の筋力は。
だからちょっと違うんだなっていうのをぼんやりと思いながら、ってことは本当に書かないとどうにもならないんだなっていうのを今考えてるところなんだけど。
要するに日記だからさ、たぶん心臓と一緒でさ、1回止まるとおしまいなんだよ。
怖い例えしちゃったな。
1回止まるとたぶんおしまいなんだよね。もう1回書かなかったらもう書かないと思うんだよね。
でもまぁ1回ぐだぐだになったじゃん。
すごいやる気なかったから。
で、サイト作ってさ、仕切り直してからはさ、ちゃんと書いてるじゃん。
心臓移植に成功したんですよ。
あれはリスキーだったよね。っていうのはあるんですけど、まぁみたいな感じでさ。
このポテキャストがだんだん不整筋になっていくかもしれないけど。
それでもね、ちゃんとまたやれるならいいんじゃないかっていうか。
もう1回やるのすごいめんどくさいよ。っていうのを。
なんだっけ、なんかの時に言ってたよね。
よくお医者が大変だからもう僕は毎日書きますみたいな。
毎回立ち上げるのはすごい大変なの。
もうね、毎日やるのが一番簡単なんだもん。
頭使わない人は気合いもいらないんだから。毎日やるんだけなんだから。
すごいよね。
いやなんかさ、私もそうだしさ、割と私と友達になる人さ、
みんなって言うとあれ違うな。
なんかね、友達がね、なんかその習慣っていうものがわからん。
なんか例えば歯磨きが、もう毎日めんどくさい。
毎日仕方なく歯磨きの必要性を考えて、自分が納得して仕方なく歯磨いてるから。
なんか習慣だからやるみたいなのを理解できないっていうことを言ってて、
めっちゃわかるなって思っちゃうわけ。
私は結構歯磨きはするけど、それ以外のね、
もうちょい新しい、2桁パーソンになってから以降に考え出した習慣について
割とすぐ、えーもういいやってなっちゃう。
例えばどんなのがね?
えーだってさ、なんか運動した方がいいなとかストレッチした方がいいなとかさ、
なんか私も日記つけようかなとかさ、ライフログつけようかなとかさ、
あれこれさ、行ってはさ、マジ3日坊主にすらならないみたいなのをしょくちょやってる。
そうだね。なんだろうね。
なんだろうね。
いやでも私もわかるのも、やるって決めちゃえば洗濯のコストがかからないから、
なんか実はやってみたら意外とストレスじゃないみたいな経験がないわけじゃないんだけど、
06:00
それもなんかどこかで飽きてみちゃうんだよね。
それで言うと、今一番続いてるのはポケモンスリーブだな。
もう60日ぐらい続いてるよ。
まあ60日近いかな。
すごいよね。
一向にコツがわかんないけど。
いくらやっても料理の大成功が出てこない。
でもなんか諦めがつくっていうかさ、なんかそのやり込み用がないじゃん。
そうそうな。寝れるしかないから。
すごいゲームチェンジの仕方をしてきたなっていう。
寝れるしかない。
毎日たくさん一生懸命寝てるんだなって気持ちになる。
でも8時間半以上寝てもしょうがないからさ。
まあでもなんか面白いよね、週間ね。
週間に無いことするのはめんどくさいんだよね。
そう、だって寝てたら日記はね。
日記はもう簡単になっちゃったからさ。
日記以外のものを書くのはすごいめんどくさいわけ。
関係なくない?日記と。
関係ないんだよ。
日記のせいにしてるだけで。
違う違う。聞いて。
なんで日記と一緒にしちゃうかっていうと、
要するに文字だけなんだよ。
他のものを書こうとしても。
つまりエッセイであろうが、小説であろうが、日記であろうが、
文字による何かという意味では一緒なんだ。
PC上に残るテキストデータとしては区別がつかないわけ、全部。
容量の増え方もそんな大差ないしさ、文字加工が。
全部テキストファイルであるわけじゃん。
GoogleとかにあるんだったらGoogleドキュメントに格納されるタイプの
データとして扱われるものなわけじゃないですか。
一緒なの、全部。見た目は。
もっと言うならば、会社で書く報告書とかさ、
学校の課題とかで書くレポートとかさ、
あとは大洋ちゃんのラベルに書いてある先竜とかさ、
あれは俳句?先竜?
先竜?
マイヤとかさ、あと何でもいいよ。
リモコンのさ、エアコンのリモコンのボタンに書いてあるやつとかさ、
全部文字なわけじゃん。
文字で何かをさ、表現しているという意味では。
一緒のものだと思いがちなの、人は。
アウトプットの形式が一緒だと?
アウトプットの形式も一緒だし、
インプットの形式も実は一緒なわけじゃん。
目で文字読むってことじゃん。
だから、日記を書いてるから他のものが書けないとかさ、
日記が書けたら他のものが書けるとかっていうのは大いなる勘違いで、
09:04
実はそれは、同じボールを追いかけてるからといって、
サッカーとバスケと全然違うでしょみたいな話なわけじゃん。
そのぐらいの育つな話をしてるわけよ。
僕はね、今。
っていうのを最近すごいよく考えるなと思って。
これは先月の文学会、
2023年9月号のエッセイ特集に、
エッセイのような、論考のような、
エッセイのようなね、変態語の文章を書きました。
あれも日記とは全然違うさ、
書き方をしながらさ、書いているわけですけど。
そこで考えたわけ。
何なんだろう、エッセイって言って。
僕はちなみにその論考では、日記もエッセイも全部似てるようなもんだって書いたんだけど。
一回ね。
僕は日記の話をしますよっていうので、
言ってしまえばね、日本の文学って日記から始まってるんだっていう話を書いたわけ。
だから随筆を考える前に、そもそもじゃあ日記を考える。
要するに自分の考えていることみたいなのを、
わざわざ大っ平にするっていうことの、
その行為って何だっけっていうところから考えてみようと思うと、
随筆っていうものを考えていくと、
日本においてその考えの表明みたいなところは、
枕草子より前に、そもそも日記があったでしょっていう話をしたわけですけれども。
そこで基本的に一回逃げたの。
エッセイの定義みたいなところから。
だけどなんかエッセイ特集で宮崎さんがね、
そのエッセイの論考を書いてたりとか、保管書のエッセイとか読みながらさ、
ユニティさんとかいろんなところでイベントもさせてもらったりしてさ、
なんかはがらずもエッセイについていろいろ考えることになったわけよ。
でなんかエッセイについていろいろ考えてると、
僕にとってはちょっと凝った日記ぐらいのさ、
ぐらいの気持ちしかなかったわけだけど、
そこにもうちょっとエッセイとはなんぞよみたいなことをさ、
あれこれ考えることになってさ、考えていたわけ。
でなんかね、考えれば考えるほどね、
もうなんか僕にとって、
だから僕にとっては、
結論から言うと僕は日記もエッセイもあんま変わんないよ。
変わんない理由として、
これはちょっともう一回後で深掘りしたいところなんだけど、
先に議題として出しておくと、
で日記も縁起なわけ。
でどういうことかっていうと、
言葉っていうのは全部嘘なんだから。
もう全部嘘なんだから。
でもう全部嘘じゃん。
だけどその嘘のつき方というか、
嘘のお約束がどこのレイヤーにあるかっていうところで、
変わっていくわけだよ。
ライオンキングにおけるライオンと、
上野動物園のライオンは別じゃん。
ライオンだけど。
みたいな話だと。
で基本的に文字にした時点で、
劇団式のライオンしかならないわけ。
だって言葉を使って、
12:01
言葉っていうのはもうそもそもさ、
何か道具であってさ、
それはそもそも、
そのものじゃないからね。
中間にしかありえないものだからね。
そのものにはなれないの。
どうやったって。
だからライオンはもうサバンナか上野に行くしかないわけじゃん。
本当に見たいのね。
だけどそれでライオン、
そうで劇団式の劇場に行って、
そこに上野で見たようなライオンがいないことを、
何か言うのは違うんだよ。
それはちょっと、
せめて木下サーカスに行ってって話なわけ。
嘘をつくレイヤー全然違うし、
木下サーカスも嘘ばっかりだよ。
あんなさ、
全然凶暴じゃなさそうなライオンをさ、
猛獣使いがさ、
使ってもさ、
猛獣じゃないんだもん。
獣なんだもん普通にただの。
みたいなことなわけ。
だけどそれをちゃんと、
わーって思えるっていうのは、
その時点で演技に対する感情性があなたにはあるでしょ。
嘘を、
嘘のままに、
本当の感情を喚起するっていうところに、
面白みがあるんでしょ。
文章表現じゃ全てそうですよっていうことを書いたわけだよ。
そうしたらね、
今度はさ、
小説でいいじゃんってなるわけ。
これはね、
すごいね、
多くの人にね、
そういう話を、
ツイッター上で伊藤宇野さんっていう、
その方も結構小説とか書いていて、
批評とかもやってるような方から、
あれこれとこう、
ツイッター上で関数もらったりとか、
やり取りをしてたりとか、
あとはあの、
あれ、
歌舞伎町のフランクフルト学派っていう、
かっこよろしい人たちがいて、
それも塩川の伏見忍さんとかね、
代わりに読む人に書いてるような、
とか、
あとはそれこそ僕が、
今一番、
現代作家で一番だと思っている、
山本裕樹さんね、
いろいろしながら、
がこうなんか喋ってて、
そこでも結局そういうのはなんか、
負荷をかけて、
なんか作り込む文章、
だからまあその、
嘘、
言葉で作った、
言語で作った構築したものっていうものを、
なんかその相手に、
きちんと、
真に受けてもらうというか、
みたいな文章なんだったら、
もうなんか、
中途半端にエッセイみたいな形で手抜くより、
しっかり作り込んだ小説みたいのがよくね、
みたいな。
この通りは言ってないよ。
要するにその、
なんていうの、
半端者であるエッセイっていうものより、
作り込んだフィクションみたいなもので、
ちゃんと勝負しないと、
なんか、
違うじゃん、みたいな。
まあ、
大悪、
そういうようなことを、
まあもうちょっとこう、
願蓄深いこと言ってるんだけど、
すごい今、
一回、
分かりやすくすると、
そういうこと言ってたわけ。
でなんかそれに対してね、
ちょっとね、
分かんなくなってくるわけ、
こっちもさ、
今。
これに対していろいろ言いたいことはあるんだけど、
言いたいことがあるんだけど、
別に僕、
エッセイの擁護者になりたいわけでもないわけ。
別に。
だけど別にまあ、
難しいことをしてたほうが、
偉いとかさ、
作るのに苦労してたほうがすごい、
みたいなのはさ、
なんか、
非常に、
なんか、
マッチョな男の子、
じゃん。
そういうことか、
勤勉小根性みたいな。
そうそうそう。
だからなんか、
15:00
さらさらって書いてもすごいもんはすごい、
っていうさ、
話だから。
だから別に、
それが、
別にそこに対して、
そういう意味での、
なんかその、
雑さはいらない、
なんていう、
あんまり、
考えてないんだけど、
そうじゃないんですよ、
なんか。
逆にそこで僕は、
実は、
日記とエッセイを区別してなかったのと、
同じくらい、
エッセイとそうですもん、
あんまり区別してない。
なぜならやっぱり僕にとって、
言語表現すべてフィクションだと思ってるから、
そのフィクションを、
フィクションなんだけど、
なるべく具体的な動作だったり、
効果に寄せなきゃいけないっていうのは、
要件定義書とか、
取扱説明書だけでいいと思ってるんだよ。
僕はそういう文章すぐ書けない。
苦手なの。
取扱説明書読めないしね。
これは本当に読めない。
それは、
もしは嘘のものだって思い込みがかなり強いから、
そこに何が書いてあっても、
それをうまくね、
現実のものとして受け取れないとこなんだよ。
本当に?
いや、これはマジで。
これは、
マジで。
すごい逆オーベロンみたいなこと言ってるけど。
いやでも、これは本当に本当で、
これには本当に本当で、
僕は体育の授業とか苦手だった理由もそれなの。
要するになんか腰をさ、
回転させてとかさ、
なんかさ、
言われるわけだよ。
肩をさ、
ボールの投げ方が一瞬で分かんなくなる。
その言語になった瞬間に。
そもそもその身体的な動作と言語っていうのは、
非常に相性が悪いんだよ。
だからボールの投げ方が分かんなくなったの。
そのボールの投げ方を説明された瞬間に。
で、何言語としては意味が分かるわけ。
筋が通ってる。
で、それによってなんかそのどうすればいいのか、
どう運動すればいいのか分かるはずなんだけど、
分かるはずなんだけど分かんなくなっちゃうわけ。
なぜなら言語化されてない部分が多すぎるわ。
自分の筋肉の使い方として。
で、だからというそこですごい精緻に、
その逐一すべての動作を言語化できたとしても、
それをいちいちその動作について、
あれをこれでどうこうって思ってた瞬間に
ボールは奪われるわけ。
だからすごい嫌だったの、それが。
みたいなのが、
こうあって、
要するになんかそもそもその、
言葉というもの自体の嘘さ、
フィクションさみたいなものに、
すごい手前のところでつまづいてて、
その後のその、
分野ごとの細かいジャンルだけに、
たどり着けないのかもしれないなって。
なるほど。
で、逆にそこでその、
例えばそのエッセイのことは考えてもしょうがないから
小説のことを考えようみたいな、
態度の人たちがさ、
何人かいたとしてさ、
その人たちが小説について語っている言葉は、
僕はそのままエッセイについて語っている言葉のようにも聞こえちゃうわけ。
みたいなね。
でももっと言えば僕は全ての言葉が
日記のことについて語っている言葉としても
使えちゃうような気がしてくるわけ。
要するになんかもうそこがね、
分かんなくなっちゃう。
なーっていうのをすごいそのエッセイ特集から
エッセイについていろいろ考えて、
18:00
まあ一応エッセイの人としてのさ、
アティチュードでさ、
まあそれこそ役よね。
そこの役をいただいたからそこの役で演技をさ、
広げていけばいくほど、
なんかよく分かんなくなっていく。
的な。
的な。
感じがあって。
分かんないなーって。
分かんないかなー。
もう1ヶ月でしたよ。
あの文学会が。
発売されてからのこの1ヶ月。
エッセイについて考え、
損ねた1ヶ月だったかもしれないなーっていう。
のがまず1個あって、
その上でね、
今月僕小説書いてるんだよ。
これについてはまだ詳しくはきっと
おいおい出てくると思うんですけど、
小説書いてるんだよ。
ねーとうとうねー。
でもさ、ここでさ面白いのがね、
僕はさっき日記もさ、
特別はねーんだって言ってたくせにさ、
小説はこの前書いてこなかったんだよって。
そうだね。
それをね今ね、書いてるんだよ。
びっくりだよね。
ねー。
あんなに書かないって言ってたのね。
って言うので、
今度はだから分かんなくなっちゃったよ。
うん。
小説書いてるからね。
小説書いてるからね。
うん。
小説書いてるからね。
うん。
小説書いてるからね。
うん。
小説って。
ずっと分かんないしか言ってないけどさっきからね。
これまでエッセイってなんだろうって。
うん。
で、エッセイってなんだろう。
なんか小説とは違う。
小説からは違うって言われるし、
日記からも違うって言われるけど、
どっちとも同じに思える。
うん。
って思ってたの。
そしたら今度はさ、
小説を書いてるとさ、
今度はさ、
なんかエッセイとは違うらしいし、
日記とは違うらしいけど、
今書いてる僕のこれはなんだよみたいなさ。
うん。
気持ちになっていくわけですよ。
はい。
でもね、なんか違うんだよ。
名文化できないけど違いは分かるわけ。
はい。
でもこれは多分さ、
僕の書いてるモードにしかさ、
ない。
うーん。
うーん。
のかってなると、
でもそれはさ違うじゃん。
それはさなんかさ、
お前の都合なんか知らんって話じゃん。
書き手がどう思って書いてるかさ、
出来てるものがさ、
出来てるものなんだから。
うん。
ので、なんだ?
どういうこと?って思ってるわけ。
はい。
で、
まあ一旦ちょっとさ、
まあちょっとわーっと喋るけどね。
うん。
分かってきたことがあって、
うん。
僕、
書くことに対して、
あんまり、
何だろう、スタンス、
え、何て書くことに対してって何て言うのかな。
書き手みたいなさ、
あるじゃん。
なんか、
21:01
書く人みたいな、
アイデンティファイに、
自分を入れてなかったかも。
あー、それはそうじゃない?
あ、そう、だから、
何て言うの。
常に僕読む人なんだよ。
うん。
読むのが楽しくて、
で、読むの、
読むためには書いた方がいいよね。
うん。
っていう。
だからその、
自分はスポーツやんないくせに言うけど、
絶対たぶん野球とかに熱中できる人は
野球やったことある人なんだよ。
うん。
っていう話をさ、
何回もするけど、
要するになんか素振りするときの感覚とか、
うん。
あのバットのさ、
シーンにさ、
こうボールが命中したときの
あの感覚を知っているから、
うん。
なんか、
会ったこともないさ、
うん。
体のでかい人たちがさ、
なんか、
走り回ってる姿にさ、
熱中できるわけじゃん。
うん。
みたいなことと一緒で、
描いていると、
描くときの、
その漢字を読むときにも
トレースできるから、
うん。
何かわかる。
で、
やっぱ演劇やってたから、
演技する人たち、
うん。
その、
これは本当に文字通り競技の演技をする人たち、
うん。
舞台上で何か動作をする人もそうだし、
カメラの前で何か振る舞う人たちも、
うん。
なんとなくそこで何が起きているかっていうのを、
うん。
すごいアマチュアレベルで、
うん。
理解することができる。
うん。
そこの想像の延長線上に置くためには、
よく読むために書いている。
うん。
みたいな、
うん。
のがずっとある、
うんうん。
わけですよ。
だから僕がよく書けるときとか、
うん。
よく喋るときっていうのは、
うん。
よく読めてるときなんだよ。
うん。
なんかこんなすげえもの読んだよ。
うん。
っていう、
うん。
ことなわけだよね。
うん。
僕が何か言うときっていうのは。
うん。
だから、
なんかエッサイについて書くときとか、
小説について書くときとかが、
もしあったとしてもそれは、
うん。
僕が何か、
うん。
書いてるんだよって思って書いてるんじゃなくて、
うん。
あいつが小説を変えちまったよ。
うん。
うん。
俺は小説を読んでこんな気持ちになったことだね。
うん。
っていうことなわけじゃん。
はい。
誰にも伝わらない物真似をしましたけど。
りょうとさんにしか分からないかもね。
うん。
うん。
あれなんだっけ、
中村仲造。
中村仲造ね。
はい。
神田博山先生の。
神田博山のね、
うん。
講談を見ましたけど。
うん。
で、あれだから、
前もちょっと話したけど、
そうだね。
要するにどんな物も、
僕はあのジジイになりたいわけ。
うん。
あのジジイとして語りたいわけだよ。
うんうんうん。
誤幕が、
弁当幕が変わっちまったよ。
ふふふ。
っていうさ、
はい。
結構な工夫じゃねえのっていうその、
うん。
俺はその工夫分かっているぞっていうのを
中村仲造に
うん。
はじめに俺が言いたいっていう、
はいはいはい。
そういう表示はあるよ。
はい。
だけど別に自分がこうカッとね。
うん。
こう卵をカラカラカラカラカラカラと、
うん。
赤い血を流してみたいな、
うん。
そしてこう何も聞こえてこなくて、
こうやると。
みたいな、
そういう感覚あんまりないわけだよ。
はいはいはい。
僕はすごいエゴサ好きだけど、
はいはいはい。
そこで感想を気にするのは、
はい。
え?
助けてくれって言うよりもどちらかというと、
うん。
なんか、
みんなあそこの工夫に盛り上がるはずって思っているのに、
うん。
誰も言わないよって、
24:00
うん。
俺しか掛け声出せないんだよ。
うん。
だから、
うん。
だから、
だから、
だから、
だから、
だから、
で、
で、
で、
でね。
んー。
日記はだからそこが一番、
うん。
その、
ð
でエッセイは僕初めてさエッセイ書いて まあファブの冊とかに書いてるけどあれは結構その日記の方法論で書いているところが大きいから
文学界にエッセイを 初めて書いた時になんか初めてちゃんとエッセイというものに意識した気がしていて
やっぱりそれはちょっと日記とは違ったんだけど そこで初めてなんかね
字とともに書き手としての自我がおぎゃーって生まれかけた気がする だけど結局それはあんまり育たずにね未だにこの読んでいる人という
ところで 会社員って言い続けてる 書評とかねあるしね書評とかはさまさにそういう話なわけ
それとなんかそういう何かがあってそれについて読んでみたいな 今回書いた文学界のやつは基本的に自分でどうこうっていうよりは何か読みながら考えてることを書いてたりするから
でまあとはいえね方面として自分は書き手であるっていう 態度表明をしておくと
あの物事を収めやすい ところがあるから一応自分は書く人でもあるよってポーズを取りながら一応書いていることを
して基本の読み手のことを 書いているっていうことをずっと繰り返し
繰り返しやってきているわけ
でねこれはね多分ね確かにこのね態度だとね日記 sm していけない気がする 小説を書くってなると
各なんだよねまぁそれも結局読まないとできないんだけど 読まないとできないんだけど読んだ上でやっぱり何かね各をね
引き受けなきゃいけない 能度がねちょっと違う感じがすっ
でだからこそ自分はそういう書き手とかじゃない みたいな気持ちで小説を
これまでは 避けてた
感じが 住んでい
なんかでも帰っちゃってるじゃん
まあでも実はいいな吸ってますなまぁ実はそもそもだからその エッセイ書いている時点で前はいつのみかも書いている側
だぞっていうことに気づいちゃったって言う そういうことを
今は考えて いいよ
結局小説って何なんだろうと思っている
27:02
100本書いてきた時はさぁでも 公園打ちた面に
仕方なく書いてたのな僕も社交がすごい あんまり好きじゃないんだよなぁのロコも言ってたね
あだなんかなんかあれなんだよ 人がってなんかあれはでもさ台本さあ僕の台本で基本的にと書きも何も書かない
人に喋ってほしい言葉だけ書いておいてあとは稽古場で 全部言うみたいな作り方をしているから
ギキョクにはなってないんだよねただの指示書なんだよ 声は好きなの
この人のこの声でこういうことを喋ってほしいなそれはすごいよくわかるがあるからそれを 書いてこれを書いたらきっとこういう風になるからここにこういう
そう名があってこういうふうに なあ
行動線で人が動くと素敵 っていうのが僕はに乗ってもたい
だから文章表現がもともとない そうなんだよねー
そうだそうですねそれでだからそれでも靴の演劇で書いてたのはすごい良かったなって思う ところがあって要するに小説はそのバーそのものを全部文字だけで作るとしたらどうなる
ものなんだっていうのはやっと風に落ちたところがあって だからなんだろうその
演技の話で言うとちょっとまあ演技の話で言うか日記はだから毎日の傾向というかさ 毎日の傾向で要する発生練習
キソレンとかキソレンなんだよね素振りとかなんだよ本当にその みたいなことをやる場所としてあってそこだから毎日何が起こるかわかん
でそんな毎日何かちょっと違うこと試してみる 毎日 a 中度
そうそうそう毎日なんかこうでたまにその子ストリートアクトとかやって これまたね a 3見てないと何かもわからないことがですけどまぁそういうなんかこう
ちょっと新しいを試してみる場所 で失敗たくさんしていい場所として日記
でエッセイはエッセイがストリートアクトがだから まあまあエッセイはストリートアクトとかまあそのちょっとしたさ
まあ人の目があるそうだねみたいなものとして だまあ投資稽古とかぐらいなのかな
まあでもそこで稽古としちゃうとなんとなくエッセイより小説小説とエッセイなどに 優劣関係ができちゃうかそうじゃなくて一応それとしてできてる子が
いるんだけどまあみたいなもの あってでまぁ僕はだこれ自作自演の一人してた一斉お方みたいなもんが一斉だと
僕は思う まあちょっと置いておいて小説はそうじゃなくてももう少し多くの人たちと作る
みたいなイメージが多分ある 一人じゃないし
会話劇でもいいしミュージカルでもなんでもいいんだけどみたいなものとして少しと 捉えているんだなっていう感じが
してた動員するものが違うん 舞台上に上がるのはエッセイの場合は一人が舞台に立てるの一人な
だけど 小説になると自分一人じゃない自分一人じゃなくてなんかもうちょっと
30:01
いろんなものを導入する それは具体的な作業者の話ではないんだよね作業者の話ではない
コートのこっち側を作っても結局それ作るのは自分で作らなきゃいけないってところが めんどくさい
だからまああなたの嫌いな言葉で言うと世界観というやつ まあそうか
でまぁでも別にそれを どこまで書かなきゃいけないか自体もさじ加減だから
明らかにだから状況説明を 0から10までしなくてもいいしなくてもいいけど
何かを立ち上げなくてはいけない っていう
そうだねだからそうだねー 今話しながら思ったけど
ちょっとねえその僕はエッセイはフェイクドキュメンタリーみたいなもんだって ずっと常々言ってて
そのフィクションでないとするならねみたいな話をしてたんだけど要するにそれ フェイクドキュメンタリーのフィクションなんだって話なんだけど
日記ドキュメンタリーとしてここから僕としては意義があるけど 一旦日記ドキュメンタリーとして小説をフィクションだとすると
真ん中にあるエッセイっていうのはフェイクドキュメンタリーなんだよ これどういうことかっていうと
例えば有名人のエッセイとか読みたがるのはやっぱりその人の私生活とか何かしらを知りたい パーソナルに知りたいと思うからなわけじゃん
例えばだけその場合ってさ 要するに文章力以外のものがさ
非常にものを言うわけじゃん 例えば今日僕らはこうやって話してる中でも
みたいなことを言う時には中村仲造を知らなければ意味がわからないんだよこの小芝居は そもそも小芝居したことすら多分通じないんだよ
どうしたってなるだけなんだよ お腹痛いのかなってなるだけなんだよ だけど中村仲造を知っていればそこに文脈ができる
その文脈を外にある文脈をフル稼働でここに持ってくる その書き手に対して持ってる
何かをすべてその文章テキストないだけでやるんじゃなくてテキスト外にあるいろんな ものを利用して書く
それは例えば僕だとそうなんだけど 何も知れないただの会社員がいきなり文学界になんかエッセイを書くっていうのはそれだけで
一つ何かの文脈が出来上がるんだよ だから小説の場合はそこの外の文脈から先に作っておかないといけない
そのテキストだけで 楽しめるものになっていかないといけない
でもこれエッセイの場合も同じなんだけど読み物としての面白さは一緒なんだけどとはいえ こっちのエッセイの方がその外の
書き手に対するイメージみたいなものを多少利用してかさ増しできる
みたいなところが違いなんだろうなっていうのを まあちょっと思ってるわけだよねまあ詩小説とかさ
33:01
そういう話になってくるとまたこっちのさここのエッセイと小説の間のさ 逆さよわからなくなってきますけども
みたいなことを考えているよ まあ僕はわかってないからねこれは何か
何なんだろうね いやさああなたの日記ってさ本読んでる
ときまあ特に哲学書とか読んでるときはさめっちゃ引用するじゃん であれをさあまああれが
一個特徴じゃない あなたの
まず小説であれは見かけないじゃない そうそれ結構不思議だよねなんで小説でそれやっちゃいけないんだろう
エッセイもさあんなに長引かないじゃない そうだね
だからその 文脈を借りるっていう話で言うと
なんだろう
要は字の文より引用文が長いとかさこうその 詰まっている情報量で言うとやっぱり引用文に事故があるみたいなのはさ
そのなんだろ自力で立ち上げられてない 感じ
になるからなんか小説っぽくない それ多分フィクション強度が低いというか
なんか現実の話をしてるんじゃないけど
もっと言うと論考っぽいんだよね 引用文が多いと
でもじゃあなん小説と我々は何だと思って何 なぜ小説っぽくないと思うのかが
全然わからない 別にさあそのさ他の作品名が出てくる小説なんてあるわけじゃない
てかまあなんかなんだろう私そんなに小説 小説についてよくわかんないくて
でも なんか
漫画 衛星漫画じゃなくて
もっとフィクショナルな漫画もさあ多分同じようなことが起こるじゃない で
そうちょっと一瞬そういうそっちの話でスライドさせていただきますが トンマの心臓
はい でさあの悪い八角眼鏡の先輩がさ何だっけ何読んでんだっけ
なんか 経済学系の本読んでんだよね
で覚えてねーよ あれって結構キリスト教の話
でさ だからその信仰とは違うイデオロギーを持ち込まれる
36:01
主要象徴としてその本がさその本として丸く読んでる 多分そういうそうねなんか宗教は大衆の愛編だからね
なんかそういう さあアイテムがあるわけ経済学でだってさ
ごめんした1回プライドさらにする 経済学でキリスト教的な価値観を否定する
乗って多分 なんていう共産
主義系のものじゃない限りないでしょ アダムスミスもさ
基本的にキリスト教ゴリゴリの 価値観の中での経済学でしょって考えていくと
まあそうだとアンチキリスト的な経済学実は相当少ないと思う まあそうでだからさ
なんか大学の時にトーマの心臓で1回レポート書いてるんだけどではその時に まあそこまで深掘りしなかったけど普通にそのキャラデザから
あの 構造的に解析するみたいな方で書いたからアイテムのところまで調べなかったんだけど
でもそれはさ文脈を借りてるわけじゃない でもその中で
その本の内容を長々と説明することはないわけじゃない
なんかそういうのさ
突っ込まれたら何言いたかったか忘れちゃったけどさ
文脈を借りること自体はさあるわけじゃん だからそのでもあなたが今言ってるのはその文脈を知っているとより
豊かに読めるというか読みが補強されるはするけどそれを知らないとそもそも成り立たない わけじゃないよねっていうところが違うね
借りてくる文脈がどれだけさ 必要条件
物語を成り立たせるのに必要になってくるかっていうところで ちょっと違うかもしれないな
でもそれこそさ私読んでないからさ授業で受けた説明しかないんだけどさなんとなくクリスタルとかさブランドものの名前がいっぱい出てくるらしいじゃないですか
それはさ 注釈ついてるんだ
そうなんとなくクリスタルはあれは本編よりも注釈のが長いっていうのが面白い 要するにこういう名刺に全部注釈がついててそれがこれはこういうものとか
いうのがいちいちついてる そこにだからすごいそっちの注釈の方になんかめちゃくちゃ
試験が混じってたりしてそっちの方が面白いじゃんみたいな
じゃあそういうやり口はありなんだ それはない
だからそれこそさなんかものすごい時代性のあるさ文脈を借りてくる話じゃない
でも今注釈があるっていうのをさ聞いちゃったからさ 引用文も一緒じゃねーかって今は私は思っちゃったんだけど
39:07
いやでもだからでもさそれさあ結構これまた面白い話でさ
新型コロナウイルスによるパンデミックの初期のさ 一番初めの年あたりのさ岸田劇局長のさ
ドタバタというかさ要するにその 野田英樹がさ
なんか安易に コロナの話しするような劇作家しかいなくてつまんなかったですみたいなこと言う
まあ大意としては言ってさまあ紛糾したわけですけど 要するにこれすごい根深い問題だと思うんだよ
あの小説でいつからスマホを出すのがオッケーになったみたいな話と一緒だと思う なんかねその何かしらフィクションっていうものに対して現実のあまりに
自治的な何かっていうものを安易に持ち込むことって何か持ち込むことに対して何か 安易さとか
だからタブー感を 一定数何か感じてしまうっていうのはそれ時点その時点ですでになんかそういうものは
劇局ではにはふさわしくないないし小説にはふさわしくないっていうさ何かしらの 規範意識がさ
出来上がってるわけだよね これ面白いよね
うーん
基本意識もそうだけど
なんだろう ちょっと大丈夫ってなるのはわかる
その判断が早すぎないかというか
振り返る 形だから
実際に現実でこういうことがありました それに対する影響が
その作家の頭の中でシミュレーションしたもので収まらない
じゃないみたいな その時にすごい安易だったねって言われちゃうのはさ間抜かれないわけじゃない
なんかそこに対するヒヤヒヤ感はあるけど
だからといって テーマ設定にした即安易
判定はちょっと違うと までもなんかね
感じだよね わからないって話だからさ
とにかく広げていくしかないんだけどさ 僕が好きな小島信男なんかはさ
42:04
人からもらった手紙そのまま長々にページぐらいに引用してさ
それをそのまま小説の一部にしちゃうみたいなこともしてたりするからさ 引用したらそのまま小説がなくなるっていうのもちょっとさ
自信がなくなる話でもある
わからんのよな? でもわからんのよなっていうのを
1個置いときてさ でもあなたはとりあえず日記も読んでくれてるしさ
sm読んでくれてるしさ 今書いてる小説もさ
一旦さ第1個もさ 読んでいただいたわけじゃん
どう? 一旦これは
そのこれまではその外の文に文脈求めるとちょっとわかんないんですわっていう話をこれまでしてたとして
それをまあもやもやといろいろ引き受けた上で僕なりに その別のものとしてね
小説だと思ったかどうかってこと? そうそうそれぞれ作ったわけですけれどもあなたから見てなんかそれは
違うものだったのか そもそも僕が書いたものが全部僕が書いたものとしかあなたにとってあんまり思えないものなのか
どうなのかなって あんまりちょっと内容とかに触れられないからちょっと難しいかもしれませんね
いやなんか前にさ 結構前にさ日記でさ
小説を書く練習をしようかなって思うみたいなのでさ だから風景描写の練習をしないくちゃみたいなことを言っててさ
小説っていうのは風景描写なのかって思ったわけよ私は それは僕は小坂和志の小説を読んで風景描写なのかって思ったからなんだけどね
で あなたの
小説を読んだ結果描写を頑張ったんだなって思ったよ
ちょっと無理やりだけどさ なんていうの
そのフェイクドキュメンタリーと
特にドキュメンタリーかどうかを置いておいて 映画的なものでもいいし小劇場と
もうちょい大きい 演劇でもいいんだけど
要はその
本当にリアルっぽいのって人ってそんなに流暢にしゃべれないじゃん だから少しどもったりとか
なんか無意味に重ねちゃったりってするじゃん で同じように文章において文章においてというか人は何かを見た時にそこまで
緻密に 細部を見てないじゃん
45:05
そんな綺麗な一文でしゃべれないみたいなのと一緒で でそこの解像度の差
みたいなのが さっき言ったその小劇場と
もっと大きいとことかフェイクドキュメンタリーのさ 演技体はさ本当にその
フェイクドキュメンタリーというか まあわざと感想のそうそうとかなんだろうなドキュメンタリーだからっていうよりなんか実力
ビデオ的なもの のさ実力差ってさその手ぶれとか
やっぱりその役者のさぁ マジで今考えてしゃべってますみたいな感じがさ
実力感があるわけじゃないでそういうさあ演技はさ
スクリーンでかかる映画で絶対見ないわけじゃない本 あのよっぽどそういう監督じゃない限り
綺麗に喋るし 綺麗に映る
カット割で 入ってくるわけじゃない
それはさあめっちゃ虚構じゃん だからその描写の丁寧さを見てあなたはそんな風に見てないって思うわけ
だからそれは虚構だなって思ってその虚構さは確かに小説っぽいから 描写っていうのは小説に向いて大事なんだって思ったよ
それが描写としてさそれちゃんとさ 機能しているかどうかまた別の話でね
描写頑張っているかどうかとね
小説の描写って何か機能しなきゃいけないの? 機能しなきゃダメでしょ
心象風景を表したりしなきゃいけないの? いやてっかそんなのはクズだけど
いやそんなのはなんか悲しい気持ちになったら外で豪雨が降り出すみたいなもんだから 神様みたいなね
そうつまんないけど あのねなんで風景描写が大事なのかっていうすごい大事な話をしよう
風景描写は あなたがさっき言ったように嘘っぽいんだよ
その こんなに流暢に喋る奴いねーよと同じぐらい嘘っぽいんだよ
そこになぜ大事さがあるかっていうと風景描写によって担保されるリアリティっていうのがあるからなんだよ
これをちょっと映画に置き換えていきましょう フェイクドキュメンタリーにおいてさっきあなたが言ったようにもう野暮ったいんだよ
画角の選択からカメラの置き方から手ぶれの仕方から演技の仕方から全部 野暮ったいの
でも全部が野暮ったいことによってこの野暮ったい現実をそのまま撮ってる感がある でそれがリアルだってことにしてるわけですよ
優れた劇映画とはどういうものか 段取りなんですよ
48:03
段取りが素晴らしければ映画というのは素晴らしいんだよ あなたと一緒に見た映画である宮城昭監督なんかは素晴らしいじゃないですか
君の鳥を歌えるも良かったし蛍光面を澄ませても良かったし あれは段取りでしょ全部段取り臭いでしょ
要するにこのほぼ見えなくなっているテレビの画面の下に耳を澄ませながら
三浦 あのさあれなんだけど
ここでドワッセルする 会長が行けそこだ
こうやってるところとかさ あとはもっと言うと鏡の前で二人が並んでやるシーンとか
あとは本当にもうその奥で大きな音がしている中で手前側で 慶子が小さい声で何か喋っているところとかさ
なんかとにかく全てのシーンの音の出し方から人がどっちから入ってくるか非常に気を 使って作っている
慶子が高架下を歩いてさ ちょうどその橋の下をくぐり終わるぐらいのタイミングで電車がやってくるとかさ
素晴らしいじゃないですか あの素晴らしさは全部
現実で起きえない綺麗さなんだよ 地面の前の階段下っていくところで会長とどうすれ違うかとか
階段の上のところで人とぶつかって荷物が落ちるところとかさ 全てが全て素晴らしいしそこに何か本物だっていう感動があるわけだよ
その絵を一個一個見るだけでこちらには だけどあれは映画の本物であって本当にはあんな風にはいかない
もっとフェイクドキュメンタリーでやぼったいことしか起きないんだよ だけどあの段取りが美しければ美しいほどそこに本当があるんだよ映画
もう ここは
すごいわけでしょ 君のトレア歌えるのあのさ
あの横断歩道のさと言葉のさもうとにかくもうさあんな綺麗にはまるわけがないけど あんなに綺麗にはまるからこそ映画としてさこれはすごいってなるんだよ
でねこの段取りの素晴らしさっていうのは これは
言い切ってしまうのであればつまり風景を作っている その本来そこにあるはずがないって現実ではこんなに綺麗に行くはずがない風景
っていうものをその場にカメラの移動と段取りで作っていく この日の落ち加減とか正面も含めすべてを作り込むことによって本当の風景を作っている
からこそこちら見ている側がそれを本物だと思う 小説における風景描写って要するにただの文字情報だけの中にここに何かが一つの
世界というか一つの本当があるっていう の何が担保するかというと風景なんで
あらすじではないわけあらすじでいいんだったら別にプロットだけ読んだらいいんだ そこに風景があることによって
51:05
そこなんていうのグッとくる わけですよ
だからこう何に感動するかという時にその稽古がすごい一生懸命何か画面を眺めている 時に後ろで誰かがサンドバッグを一回バンッ
音を出すその音をすごいびっくりするんだけどその音に観客側がビクッとしているのに 稽古は全くそれを意に返さずにずっと何かを真剣にメモしているっていうところに
ハッとするわけ小説における風景でそのバンな
この番号どれだけ作るかっていうところがすごい大事なのではないかっていうのが まあ今思っていることよ
今話してたら何か割と小説とエッセイの違いも何か割とスッキリ行くんじゃねーかって 気がしてきたけどドラマチックサート
いや それは別にドラマチックでなくてもいい
わからんちょっと 映画に対するねー
熱量がすごすぎてね小説までたどり着きゃ私が
まあ要するに映画において僕が今言ったようなことを っていうのが
小説において風景描写が担うところなんでね カメラの置き方から役者の出入りから
そのどこでどのような形で音が鳴っているかっていうことから光がどういうふうに 入ってくるかっていうところからそれを全部一から文字で作んなきゃいけない
けれども逆にその文字だけで自分である程度そのコントロールができてしまう けれどもそれはやっぱり自分の作業じゃなくて共同作業なんだよ
要するに風景描写っていうのは風景を見ないと描けないんだ
すごい映像的なさ
立ち会うなんだろう 考え方じゃない
まあそれはちょっと僕のバックボーンというか僕がもともと英学校だからっていうのも あるかもしれないけど
でもやっぱりさ演劇とかでもさそのさ あのさ上手と下手どっちに立ってるかとかさそれこそあの
あなたがさ言ってたさ僕のヒーローアカデミアの舞台版でさ この前の奴はカッチャンとデッグバージョンで勝ったんだったわけじゃん
あそこでさデッグとさカッチャンが戦いながらさ過去の回想シーンになってさ子供の頃の 2人がさ上下どの
立ち位置で会話しているかだけでその2人が今どちらがさ どういうパワーバランスで立ってるかっていうのがありやりと目に浮かぶ
わけじゃんあれはだから風景描写のように一つ 要するにそういうことがその位置関係配置のあり方っていうところから他のその関係性だったり
まあその時間の経過だったりあらゆるその何かを圧縮して伝える一つの表現として風景 描写っていうのは機能しているはずなんだよね
それはだから安易にその心情とリンクしているとそういう話だけではなくて むしろその討論されている心情だったり実際の価値から関係と全くち逆のチグハグな
54:10
位置関係にしておくことで 緊張感をさかもし出せんしなんかもあるわけじゃな
なぜそれだから全然だどういうあり方でもあり得る っていうのがやっぱりいいところなんだと思うんですよ
うーん
おっしょ うーん
その小説において描写というもののパワーを知るのは おそらく演劇において上下の意味とか
そのそれはもう 本当に観客が何も知らずに見てそれを感じるかどうかはさておき
おさほうとしてあるわけじゃない演劇の神手下手の意味っていうのが
それと同じぐらいの話ってこと
あなたが今想定して同じぐらいがどういう感じかもよってないと 要は神下をマジで気にしないで見る人も全然いるっていうか天豪のお宅なんか
知ったこっちゃないじゃんだいたい
でそれで取りこぼす情報っていうのもまあまああるわけじゃん でだから小説をの風景描写を
なんか読み流しているっていうのは同じぐらい情報を取り逃しているんだろうか ああそういうことねそういうことだとそうだと思う
映画におけるそのカメラの位置とか導線とかを気にせずに見るのと同じことで 要するにその上辺だけのストーリーだけを追って良しとするのであれば
正直だいたい似たようなもんだぜんぶ そうじゃないところ出すアニメとかもそうだよね全部そう全部その
その何が語られているかじゃなくてその 語り口のところに楽しみを見出すようになってくると多分そこに描写だったり何か
っていうものがすごい大事になってくる
ただの連想の話にしてもいいよ あのさー
指輪物語指輪物語のさー映画があったじゃん でうちの父がね
すごい はまって
で指輪物語の原作全部読んだの で読んだ結果話はさ指輪捨てて帰ってくるだけの話だからさ
別にまあ映画でも見たしなんだけど風景描写がとにかくすごいっていうわけ でそれは何か映画を先にまあ一応入り口として見ちゃってるから
57:03
そのその映画の風景が思い起こされるような描写だったではなく本当に もう映画よりも何なら描写されているしそれを一生懸命再現した映像だったんだなぁ
っていうことがわかる風景描写だって とにかく風景描写が長いっていうことを言ってたんだけど
っていうのを今思い出して でもファンタジーにおいて風景描写ほど大事なものないでしょ
確かに だってそれこそ風景が主役なんだから
主役だねー そうねだからそういう意味だと風景描写はよく読んでたはずなんだよな
そうで風景描写ってすごい大事なんですよ やっぱりそういう意味でもね
どうする魔法使いの風景描写とかめちゃくちゃだからね
めちゃくちゃなものしかない世界を描写するからめちゃくちゃなものをとにかくたくさん出す っていう描写をしてるもんね
そうね本当にそれがねやっぱりすごいそうなんだよ
風景描写の衝撃は僕一番初めは多分エンデの果てしない物語だったと思う あれでさぁそのさぁ虚無
が出てくるんだよね
あれは何だっけ 仲つくには通る気にながら
ちょっと忘れちゃったけどとりあえずファンタジーの世界はさ その人の想像力によって担保されている部分が多くてさ
そこがねなくなると虚無になってなくなっちゃうんだっていう話が出てくるわけ そこの風景描写が衝撃的だったの
窓の外を見てもその窓の外もまた窓で その先もずっと窓だからその窓の向こうが見えない
状態みたいだって書いてあったんだよ確か 虚無っていうのは光もなければ
暗闇でもない 本当に何もないから窓の外の風景を見ようとして窓の外にまたその窓があって
でもその窓があるってその先に何か 白や黒とか色があるわけでもなければ何か景色あるわけではなくてただ窓があるんだと
それをずっと透明なまま先まで先までずっと続いているような ただの虚無が広がっているんだみたいな描写があって何にも視覚的に再現できないわけ
それって 衝撃を受けたの
言葉上では分かるけど何一つわからないけど虚無だってことだけ伝わってくる これはすごいっていうのが僕の風景描写原体験
でネバーエンディングストーリーの映画版においてそこをねただの暗闇にしてそこにポッと なんか新しい光が出てきてすごいこう新しい世界が出来上がったねみたいな見た時に
もう心底がっかりした
あの暗闇
1:00:00
暗闇あるんじゃねえかって
バカだよ黒はあるんじゃねえかって
子供ごっこにすごい憤慨しましたけどあれは 一番やっちゃいけなかったと思うのあの黒っていうのでいまだにちょっとねあれに関して納得できない
みたいな
ちょっと螺旋しすぎましたか
でもいいですよ
まぁそんな感じ
だなって思って
います
まぁだからまぁちょっとどんなものになってるかわかりませんけど
まぁ
まぁ
まぁ
まぁ
まぁ
まぁ
まぁ
anecdote
あの
バイバイ
例えば
それも
待ち伏せて
もう一個これちょっと全然また別の話かもしれないんだけど
要するにね
日記にせよエッセイにせよ小説にせよ
とっぴなことをやろうとしたら基本つまんないんだよね
っていうのを書いてるとよりわかるなって思った
要するに言葉は嘘なわけじゃん
さっきの窓の向こうにずっと窓があって
いくら見通してもずっと通してるままなんだみたいな
人によってそのイメージの仕方が変わる
共有できないけれども共有できないなりに
何か共通の感覚を生み出しそうな描写じゃんそれって
それがすごいと思うんだよ
僕は黒だとは思わなかったけど
映画を作った人は黒だってことにしたわけじゃん
みんなが知ってる言葉で
みんなが見てないものを見せることじゃん
でなんていうのかな
なんか当たり前のことでやったほうがいいと思うんだよね
さっきのボールの投げ方は人と撮ってもそうなんだけど
それを文字に置き換えようとした瞬間にすごい難しい
何でもいいんだけど
当たり前のことを当たり前に書くのが一番難しいんじゃないかっていう気がして
エッセイとか書くとなんか面白いこと言ってやろうみたいな気持ちになったりするんだよね
あとやっぱり録音とかしててもなんかこうさ
1:03:00
チンキなことを一個でも言って
なんかすごい変なことを考えるんだねって思われた方が
おもろいやつっぽいなみたいな気持ちがあるけど
多分ね
わかりきってる当たり前のことをわかりきって
当たり前のようにして書いたり喋ったりすることの方が面白い気がするんだよ最近
これはもう単純に素朴な独り言なんだけど
すごい大事な気がするんだよねそれは
例えば?
例えば?
なんか言葉って全部嘘だよねとか
そういうこと?
あと紙芯を意識してお芝居見るといいよねとか
そういうこと
それはさ人によっては新規情報じゃん
あのね人によっては新規情報っていうのはちょっとまた違う話なんだ
要するになんか書いてる時に新規なこと言ってやろうっていうのはさ
一番乗りしたいみたいな気持ちなわけじゃん
要するにだからそんなさ知らない人
あんまり相手にしてないわけ最初から
要するにだからその一番尖ったところで一番尖り散らかしたいっていうさ欲望なわけじゃん
そんなのさ尖り散らかしてるさこの上位グループのさ2,3人しか伝わんないわけ
そうじゃなくってもっとこっちの質問の方の方がさ面白いわけじゃん
当たり前のことを当たり前に書くとその当たり前が当たり前じゃない
当たり前のことが当たり前に当たり前じゃない人たちがすごいたくさんいるわけだから
その人たちに届くわけ
そっちを見た方がいいに決まってんじゃんって話ね今の話は
また尖り散らかしてたらそれは理解されようとしてないもんね
まあ理解されようとしてないかどうかは知らないし
そこの上位の中でせっさとあけまわせることの大事さも分かるんだけど
なんか多分今大事なのは
今そもそも文字読む人のさ
てか何て言うの
わざわざ描写に付き合う人たちってそんなに多くいないから
その人たちに対してどう描写面白がってもらうかみたいなことを考えたら
すっごい当たり前のことを当たり前に書くのが第一歩だなっていうのをすごい思ったんす
私は
そんな感じですよ
じゃあ今日はそんな感じで
当たり前のことを当たり前に面白がることが大事なのではないかっていうことを占めるために
最後にあなたに神手としもての役割について簡単にレクチャーしておしまいにしましょう
なんでなんでなんで
え?なんか神手としもて
あなたがもう演出なんだからあなたから話してよ
いや僕多分今なんでこんなこと言ってるかっていうと
僕自身あんまり言語化しきれてないから
ていうかねあなたね神しものある舞台やったことなくない?
ない、囲み舞台ばっかりだから
ね、そうなんだよね
だからちょっとそこを聞かせていただきたいな
1:06:04
ざっくり言うと
神手が未来でしもてが過去で
神手がポジティブでしもてがネガティブみたいな意味があって
だから2人の人物がセンター舞台の真ん中を挟んで
向かい合って喋ってますっていう時に
例えば王様と歌神だとすると
歌神の方が神手にいたらなんか気持ち悪い
っていうのが神しもを踏まえた時の物の見方
普通に考えたら偉い人の方が神手にいるの
ていうのがあって
例えばさっき話してた広瀬の話は
過去回想で勝ちゃんっていう
まあなんつーの
優等生ではないんだよな全然
ちょっとできる子
ジャイアンみたいな
ジャイアンみたいなこと
ジャイアンみたいな出来すぎて
お互いの過去のことをね
それぞれ喋っていくっていう時に
でも勝ちゃんは
自分にはない前世というものの
デクが持ってる前世というのをずっと怖がってた
っていうのがあるので
その過去回想で勝ちゃんが喋る時
勝ちゃんは下手にいて
下手の台の上に乗っていて
デクは神手で地べたにいるっていう
位置取りがすごい多くて
だから本来自分の方が弱いというか
もたざるものなんだけど
そのレベルを上げる
舞台上の高さのことをレベルって言うんですけど
高いところに登ることによって
虚勢を張るっていうのを徹底して演出がつけて
猫ちゃんなんだよね
高いところで見下ろすことによって
自分のプライドを保つっていうのを
勝ちゃんの真相的な真理として
宿命づけられている演出なので
っていうことを読み取れるようになるよという
神下っていうのを意識すると
ちなみに神手が客席から見て右側
下手は左側です
あなたが演者なんだ
今あなたが右って言いながら
僕から見ると下手で手を挙げたから
なるほど素晴らしい
わかりやすい
1:09:01
マリオは横スクロールゲームは
基本的に下手から神手に動くんですよね
あれは要するに上昇志向を表している
スターに向かっていってるから
低いところから高いところに向かおうと
だから私FFで育ったから
それこそ神手側に自分のキャラがいて
下手に敵がいる
FFをずっとやってて
何も疑問に思ったことなかったの
でもFFの舞台版を見たときに
それがめっちゃ気持ち悪くて
ラスボス戦から始まる
回想で過去に戻ってやるんだけど
ラスボス戦で明らかに強キャラが下手にいて
光の戦士たちが神手にいるのを見て
バトル前の名乗り上げをしてるのを見て
気持ち悪い
魔王が全然偉そうに見えるんだ
そこで見れなくなっちゃったんだけど
そういえばFFってそうじゃんって思って
単純に原作に対してちゃんとリスペクトして
舞台のお約束を脇に避けてでも
FFに従ってくれた演出だったんだなっていうのは
後から冷静になったらわかったんだけど
ちょっと気持ち悪くて見れなかった
ちなみにFF前視点の松崎文也さんが演出をしています
でもそれは本当に今の話は面白いよね
だから客席って吐けるときに
舞台からいなくなるときに
神手から下手側に走り抜けていくのと
下手から神手に走り抜けていくのと
印象が違うって話だよね
そうだね
っていうことで
これだけでも覚えていくと
でもこれ覚えてなくても
見慣れてる人だとなんかあるはず
なんか引っかかるなってなると思う
でもこれをちゃんと言葉にする
これがまさしく僕が言ってる
当たり前のことを当たり前に話すっていうことの
大事さだと思うんですよ
今の上下の話は舞台だけじゃなくて
漫画とか絵画とかでも
かなり共通の話だから
なんかそういうのでね
体感的に知っているとは思います
ためになったね
ためになる教養番組としての
そんなものだったのか
初めて知ったけど
初めて受賞しましたかね
という感じでございまして
1:12:01
今日はこんなものですかね
次回は群馬で録音かな
そうだね
そうだよね
ベルブックスにも楽しみ
はい
ということで
コミュニティブラジオ
お相手は私が池田翔子と
北さんでした
どうもありがとうございました
01:12:22

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