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はい、こんにちは、ポイエティークラジオです。
本日も、「二人のデカメロン」、今日が第五夜かな、第五夜となります。
お相手は、私柿内正午と
はい、オブラジオの革命児、アオキです。
どうぞよろしくお願いします。
どうもです。
はい、ということで
毎回言ってて嫌だな、オムラジの革命児って
それそうだ、この前聞きそびれちゃったんですけど
オムラジの革命児っていうのは、なんだろう
それこそオムラジが始まった頃からずっと使っている
いや、でも多分、なんか、そうですね
でもいつ頃から正式に名乗り出したのかっていうのは
ちょっとよく覚えてないですけどね
名乗ってたかな
最初なんかね、革命戦士超修理機っていう人がいて
革命戦士、やっぱ革命戦士ってかっこいいなっていうんで
ただなんかオムラジの革命戦士とかっていうのはちょっと語呂が悪いっていう
なるほど、なるほど
それがあって、なんかオムラジの革命児みたいな
やっぱオムラジの革命児なんでしょうね
なるほど、ちゃんと客員が生まれているわけですね
ライブを
よく知らないくせにそれを言う
ライブを踏んでるっていう
なるほど、なるほど
というところから
まあ、あんまりあら、ほんとだってか
誰しもがわかることだけど、意味はない
ことではあるんですけど
そっか、超修理機から来てるんですね
そうですね、革命戦士っていうところから来てて
なるほど、なるほど
その頃からプロレスと何かしら絡めてっていう
そうですよ、プロレスはもうずっと好きなので
なるほど
その当時からですね
超修、そうね
そうなんですよね
革命、革命児って
革命
革命を起こしたいんだろうかっていう
ちょっとすごい謎なんですけどね
そんなに、だって結構保守的な人間なんで
ラディカルな変化をこう
03:02
引っ張っていく感じではないですよね
じゃないです
極端な話とかってものすごいもうなんか
まゆつばっていうか
怪しいじゃんとかっていう人間なんで
すごく保守的だし、現状
現状維持ではないけど
なんか、できるだけ
痛みを伴わないようにっていう風な
ちょっとそういうところあるでしょうね
構造改革とか言っても
痛みを伴う構造改革とか言って
誰かね、犠牲者が出るんだとかっていうのを前提にして
改革やっていこうっていう
そういう感じではないんですよね
すごい保守的な人間だと
自認しております
なるほど
そうですよね
なんかそれこそその、なんだろう
前回までの話をちょっと
引っ張りながら話すと
なんていうのかな
文字だけだったり言葉だけだと
割とそれこそ革新的なことというか
革命的なことっていくらでも言えちゃうじゃないですか
なんか今のあり方間違ってるから
根本から変えていかねばならぬみたいなことって
割とかっこよく言い切れちゃいがちなんですけど
実際にじゃあこの自分たちが日々生活していくってなったときに
本当にそれを行動としてやっていけるかとか
ガラッと実際に生活のあり方自体を変えていけるかっていうと
割とそんなことはなくて
やっぱり保守性っていうのも一つの有限性に近いというか
そんなに変化の可能性って個人にはないぞみたいな
感覚っていうのは結構あるのかなっていう感じはしますね
やっぱりそこが一つ信頼できるところでもあるのかなというか
ただただ景気の良いことだけ言って
特に行動が伴っていなかったりとか
逆に自分の喋ってることとやってることとのギャップみたいなところに
そんなにとんちゃくしてない感じがあると
割と本当かよみたいな気持ちになっちゃいがちなので
そこはちゃんと割と生活者としてはどうしたって
保守性っていうものから逃れられないみたいなところは
06:01
やっぱり僕もありますし
むしろそれはないことにすると
余計おかしいことになっちゃうんだよなっていう感覚がありますね
この前の
この前ってどんだけ前か分かんない
有限性の話ですかね
やっぱり保守的であるっていうことと有限性っていうのは
すごく相性がいいというか
切っても切れない関係にあるんだろうなと思うのと
あとはこの前言わなかったけど
僕の師匠の内田達郎先生がよく言うのは
話半分だよと
だから本読んでも話半分だよっていう
そのスタンスはものすごく大事だなっていう
そうですね
やっぱりそれを何かの経典のように
その一言一句を守り抜くんだと言って
不満の高い件じゃないけど
そこ変えちゃいけないんだとかって言って
やっぱりしてしまうと
それは合わなく
今の生きてる人たちに合わなくなってくるし
っていうことはあるんでしょうね
話半分ってどういうことかというと
言葉で書いてあることはそんなに無限にもしないんだけども
でもやっぱり今の人たちが生きていく
生活空間の中で生きていく中で
その言葉を解釈したときに
どういう行動なのかもしくはどういう思想につながるのかとか
そういうふうに解釈するっていうところ
解釈可能性の幅っていうのは常に
どんなものにも存在しているっていうところでしょうね
そうですね
何か一つの原理を絶対視してしまうような
あり方っていうところからは
割と距離をとっていたいっていうのが
たぶんこの2人に共通するスタンスなのかなと思うので
やっぱり話半分なんだろうな
今の話半分で
ちゃんと全く読まないわけじゃないけど
全部を全部間に受けないみたいなところで言うと
僕なんかが最近面白いなって思うのは
やっぱり漫画とかゲームにおける二次創作っていうものが
09:04
実はものすごい面白い世界なんじゃないかっていうことを考えていて
やっぱり原作史上主義みたいな人からすると
例えば公式の映画化とかであっても
やっぱり原作の方が良かったみたいなことを
やっぱり言いたくなる気持ちもありつつ
全く公式の原作にないような設定だったり
人間関係っていうものを
それこそだから解釈をしながら
新しく作り上げてしまうっていう
ファンの創作のあり方みたいなものが
割とそれこそものすごい真剣な話半分というか
やっぱりやる本人たちっていうのは
原作の作品に対してものすごい愛があるからこそ
そういう自分も作ってみたいっていう気持ちになりはするんですけど
その愛の持ち方がその作品に書いてあること以外は許さないっていうような
ある意味それを整点化するような見方ではなくて
むしろこの人たちがこういうことになってたら
もっと面白いんじゃないかとか
もっと楽しいんじゃないかみたいなところに発展させていく
一旦その作り手の立場を自分の方に勝手に引き受けちゃって
そこで好き勝手にやってみちゃうっていう
特に作品を絶対視するわけでもなく
とはいえ好き勝手ただおもちゃにしてるわけでもないっていう
そのなんかこうあり方っていうのが
割とこういろんなことに
遠慮できそうな考え方というか
今その理想作の現場で起きていることっていうのは
単純にそこそういう局所的な何かではなくて
もうちょっと普遍化できるものがありそうな気がするんだよな
っていうのを考えていて
なんかそれをちょっと今思い出しました
これ二次創作っていうの
今柿内さん言ってた二次創作っていうのと
ちょっともしかしたら違うかもしれないけど
そもそもオリジナルって何なんっていう話があると思うんですよね
そうですね
確かになんだろうね
ドラえもんがいてって
ドラえもんの何か二次創作的なやつっていうのかな
何十年後の伸びたと云々かんぬんっていうのも
ある種の二次創作であったりとか
ということになった時にオリジナルはドラえもんなんだろうけど
でもやっぱ藤子F藤雄
ドラえもんって藤子Fだよね
藤雄がドラえもんを生み出すのは
もう全く無からね生み出したわけでもなくて
12:03
何か直接的には手塚治虫とかね
そういうものから影響を受けて
ドラえもんというものを生み出したわけなので
そういう意味では作品の
オリジナル作品と二次創作っていう話があるし
もう一個はやっぱりそのモチーフっていうのは
ものすごいある種普遍的で
何ていうかそれのオリジナルっぽく言ってるけど
全然それは実はオリジナルじゃなかったよねみたいなのが
ある時にものすごく有名な話としては
洪水譚という洪水が起きた話って
オリジナルがよく知られているのは旧約聖書の中の
ノアの箱舟の話とかよく知られてて
ヨーロッパ世界で多分イスラム世界でもそうだけど
一神教の世界だとその子がオリジナルだと思われてたんだけど
でもその実はギルガメ出身はもうそれよりも
2000年3000年前のギルガメ宗教実施の中に
洪水譚まったく同じ洪水譚が出てくる
それをいろいろ調べていったら世界各種の神話が
同じような構造を持っていたっていう
それがいわゆる構造主義っていうのがつながってくるんだろうけど
人間ってだいたい同じようなモチーフで物事考えてるよねみたいな
そういう
オリジナルってなんなんみたいな
構造的な話としてのオリジナルってなんなんっていう話と
でも確かに今の二次創作っていった時に
オリジナル例えばドラえもんにしよう
僕はケロロ軍曹が好きなので
ケロロ軍曹だといわゆる二次創作というか
パロディみたいなものも入ってくるのかなとは思うけど
ケロロ軍曹、ふんだんにガンダムネタが入ってきますからね
ああいうのがすごく楽しいわけじゃないですか
だから基本僕はそういういわゆる本家取りとも言うのかな
色知ってる人が見るとクスッと笑えたりとか
これってあれだよねみたいなのがいろいろ出てくると面白いし
実はそういう作品っていうのはそういうものにあふれてるんだよね
15:05
だから本当にこれってあれじゃんとか
これってあの作品で出てきた場面じゃんとかって
やっぱりすごくたくさん出てるから
そういう意味で僕は二次創作って
なんかやっぱりすごい近代的でしょ
だからオリジナルとか一次創作っていうのが言われたからこそ
なんかわざわざ二次創作っていうことが
わざわざ言われてしまったわけで
と思ってるんですけど
僕はすごく二次創作こそ
人類にとって普遍的な表現活動なんじゃないかなと思ってて
そうですね
だから本当に今の二次創作の面白さっていうのは
それこそオリジナリティみたいなところで言うと
最初から自分がオリジナルだっていうことを
放棄してるような態度なところが面白いですね
ドラえもんの二次創作だったらそのままドラえもんとのび太とって
その世界観をそのまま丸ごと使ってきちゃうから
そこにその描き手のオリジナリティっていうのは
はなからどちらかというとなくて
なんだけれどもその世界観の中から
どんな話を作り出すかみたいなところは
やっぱりその作り手というか
二次創作の作り手の個性になっていくっていうところの
どっからが
オリジナルを主張できる部分なんだっけみたいなところっていうのが
割とその
キャラクターに対する二次創作に対しては
割合
明確っちゃ明確ではあるのかなと思っていて
先ほどの伝承だったりなんだったりっていうのも含めて
あらゆる作品っていうのは何かしら二次創作的なところを持ってるだろうっていうのも
ありつつ
100円ショップの
何に使うかよくわからない雑貨を
組み合わせることで便利グッズを自分で作っちゃいましたとか
プリンに醤油かけたらウニの味になりましたとか
そういうものに近い
感覚があるんですよね
もともとある何かしらの
ものに対してそのものを作った人が
全く想定していない使い方で
全く新しいものを生み出してしまうみたいな
そういう感じの方が強いのかなっていう
18:02
ところがあって
著作権的な意味では全くオリジナリティを主張はできないんだけれども
やっぱりそれは読み手側というか受け手側の
が発揮できるオリジナリティみたいなものっていうのが
やっぱりあるよねっていうことを示しているのが一個の例だなっていう感じがするんですよね
いわゆる音楽でいうサンプリングとか
まさにそうですね
まさにそうだし
DJとかもそうだよね
既存の音楽をかける順番とかね
つなぎ方とかで
オリジナリティとかね出すっていう
僕はもう
僕はさっきも言った通りそういうのが結構好きな人間で
例えば家ってもうたくさん日本中にもあるし世界中にもあるんだから
ある意味もう一から家建てる子じゃなくても
今あるものをどう使うかっていう風に発想転換をする方がいいんじゃないって
基本その
二次創作だよねそれもね
そうですね
思ってるところがあるので
だからうちだってね大谷さんは普通にここに住んでたわけだけど
そういう家を借りて
自宅を図書館にしてるっていうなんかめちゃくちゃな
二次創作してるのでね
確かに
ゼロから何かを作り出していくっていうんじゃなくて
今あるものを全くこれまでと別の使い方で使っちゃうみたいな
そうそう文脈変えるっていうね
そうですねってことですよね
文脈変える方が僕は面白いと思うかな
それこそ同じような構図板であるので
別の文脈に置き換えていった時にそれが持つ意味っていうのは
まるっきり変わってくるっていうことなので
やっぱりそこのなんかもう
わざわざ全然全くこう
未知のものっていうものを持ってくるよりも
基地のものであれそれを別の文脈に持っていくだけでも
こんなにこう新しい何かが開けてくるというか
なんか全然それまで考えもしなかったものが出てくるみたいなところが
実はそれを別に今がそうとかっていうわけではなくて
21:04
ずっとそういうこう
なんか新しさっていうのは結局そういう
別の文脈に移された何かでしか
もともとあった何かでしかないような気もするんですよね
そう思うし
なかなか別の文脈に移すっていうのが
やろうと思ってもできないことではあるし
あとはなんだろうな
結構僕が面白いなって思うのは
僕ら本出したじゃないですか
ひがねの図書館とか
山岳能動もそうだし
プルスト読む生活の本出したとき
僕は特にひがねの図書館出したときに
結構営業活動っていうのやったことなかったから
ちょっとやってみようって言って
ここにひがねの図書館が入荷しましたとか
そういう情報を関小坊さんから聞いて
じゃあちょっと行ってみようと
行くんだけど
そうするとひがねの図書館が置いて
ひがねの図書館の右隣と左隣の本が
ことごと違うわけですよ
これがすごく面白いなと思って
ひがねの図書館を
どの文脈に
その本屋さんが置いてくれてるかっていうのを見るのが
すごく楽しくて
なるほど
そうなんですよね
僕すごい本屋さんに行くのが好きなんですけど
やっぱり本屋さんに行くときに
一冊その基準になる本
それだから自分の本じゃなくても全然よくて
一冊基準になる本持って棚見ると
すごいやっぱり楽しいんですよね
だからその本が置いてあるかどうかは
別にそんなに大した問題じゃなくて
その本の隣上下に
どんな本が並べられてるのかっていうところで
その本屋さんが作ろうとしてる文脈だったり
その一冊の本をどういう文脈に位置づけようとしてるのか
みたいなところが垣間見えるところに
それぞれいくつもの本屋さんを巡る
それをある意味
ある意味本っていう複製物を
どこで買っても一緒なものを
わざとどの本屋さんで買うかを悩むみたいな
でもそれって単純に複製物だって考えると
ただのナンセンスなんですけれども
やっぱりそうじゃなくて
どの文脈においてその本を買うかっていうところを
やっぱりすごい僕としては重要視してるというか
そこがやっぱり楽しいところなんだよなっていう
感じがすごいありますね
ねえそうそうそう
これはどうなのかな
彼岸の図書館って結構ジャンルが不明っていうかね
24:02
そういう本だったから特になんか
どのジャンルとか
どういう本たちと一緒に並べられるのかっていうのが
結構違ってたんで
そういう意味では面白くて
どこにでも置けそうですよね
そうどこにでも置けそうだし
どこにも置けなそうな感じがあって
だから一番わかりやすいのは図書館ってついてるから
図書館学のどこに置かれるっていうパターンが結構多くて
なるほどそうなんだ
でも図書館学のコーナーに来る人
これ別にね求めてねえだろうなみたいなのがすごくあったりとか
でなんかもうさらによくわからない状態になっているのが
彼岸の図書館を出している僕らが出した本
山岳ノートが図書館学のコーナーに置かれている
わけがわからなくなっているっていう
謎のね状態になっていたりとか
ただまあちょっと知っている人とかだと
知ってくれている人とかだと
まあ何だろうな内田先生のところに置いてくれているとか
僕たちの移住の形って書いてあるから
移住コーナーに置かれる可能性もあるなと思ってたけど
ほとんど置かれてなかったな
そうなんですね置かれないんです
それはだからある意味ずっと移住では特にないっていうのを
言い続けている効果なんですかね
そういう効果だったかな
社会学とかでも移住ってなるとね
社会学とかそういう分野だったけど
そこはあんまなくて
思想とか
図書館学
それはもうタイトルだけなのだろうな
タイトルねえ
どゆこっちゃって感じだけど
ある程度大きいところがねそんな感じだし
もうちょっとちっちゃなところ
でも基本はやっぱり小さいところが売ってくれてたので僕らの本屋は
だからあんまりそういう図書館学とか文学とか思想とか
そんなあんまりそういう既存のジャンルで分けているところは
ちっちゃい本屋さんだと
独立系のいわゆる本屋さんだとそんなに多くないので
そんなことなかったけど
古人を読む生活はどうでした
古人を読む生活で面白かったのは
フランス文学の棚に置いてあったときに
いいですね
フランス文学じゃないんだけど
基本的にはそれこそ本屋さんの書店員の方が書いたエッセイとか
本屋さん論とか読書論みたいなところに一緒に置かれることも
あとはそれこそちょっとエッセイ欄のところに置かれたりっていうのが
27:02
メインではあったんですけど
いくつかフランス文学の棚のプルーストの研究書とかと一緒に並べられてたりして
それはちょっと間違ってますね
ちょっとこれ勘弁してくれよみたいな
これを読めば分厚いしプルーストのことも分かるんじゃないかって思って
手に取った人をだっかりするんじゃないかなって
確かにね
読んでも何をプルーストのこと分かんないんだけどなみたいな
確かにね
そういうのはいいですね
やっぱり勘違いが面白いですよね
面白いですねやっぱり
でもそれこそ多分友田さんと話したときだったかな
一冊目にそれこそどの棚に入れたかっていうので
本屋さんもある程度仕分けをしてるから
次にどんなものを書いたとしても同じような棚に入れられる
それこそ山学のとこ図書館学のとこに入れられちゃうのと一緒だと思うんですけど
僕がまた次何か本書いたときに出してもらえたことがあったとしたら
うっかりすると全然フランス関係ないのに
フランス文学の棚に置かれる可能性があるっていうことですね
じゃあもう普通文の学者かなみたいなね
そうそうそうそう
全然違うんだけどなみたいなことが
いいですね
リアルな感じ
そうだね確かにそうだ
そっかトンさんにそれ最初に聞いておけばよかったな
大事なこと
そっか
かといって悲願だから仏教思想とかのところでも多分書いたことはなくて
なるほど
だからやっぱり図書館っていうのが
多分ある意味合ってるっちゃ合ってるよね人文系室とか
そうですね
だからちょっとね図書館論書こうかなと思って
いいですね
逆に
もうこうなったらね
それは確実に図書館学のところに置かれますからね
そうそうそうそう
そうしようかなとかねいろいろ考えてるんですけど
なんか
なんていうのかな
二次創作っていうのもそうだし
例えばさっきの僕がね
僕の師匠が内田先生なんですけど
とかなんかそのなんて言ったかな
あのわざとっていうのもあるし
意識的にその二次創作的にやってるっていう
ところもある部分と
そうじゃなくってなんか指摘されて
これってあれだよねみたいな
だから自分の中まあ無意識レベルで
あのパクってたみたいな
はいはいはい
全然悪い意味じゃなくて
僕は結構ねなんていうのかな
ほら自分のこと分析されるのが好きっていうね
そういう人間でもあるから
だから褒められるとかけなされるとかっていうので
30:01
一喜一憂とかじゃ全然なくて
例えばまあ僕の考え方って
あの
まあ
例えば内田先生の弟子とか言ってるけど全然違うよね
でもいいし
もしくはなんかもっと大きな
まあ大きなっていうか時代の流れで
なんか近代に生きてた思想家の
なんかちょっとあの人っぽいよねとかって
言われるのがすごくなんか嬉しいなって
思ってたところがあるんだけど
それはね今度ほら柿内さんといえば
何ですか文学会?
文学会?
はいはいはい
でね
穂坂
はい
かずしさんと
かずしさんと
対談をさせていただきました
すごいですよね
うん
めっちゃ嬉しかったですね
ねえちょっとその辺のことはあれなんですか
話せる範囲で
どういう
どうなんだろう
なんかその対談の内容についてはいつ出るのかな
たぶん来月9月の上旬ぐらいにたぶん出る
10月号に掲載予定なんですけど
でちょうどそれこそ今日とか
ゲラの最終テイクみたいなのやってたんですけど
そうなんだ
うんうん
たぶんすごい面白いので
ぜひこれを聞いている皆さんは
本屋さんで買ってくださいっていうのがあって
でなんだろうな
たぶん僕の日記をこう読んでる人とかは
もう自明のことだと思うんですけど
僕すごいその穂坂和志っていう小説家のことを
ものすごいこう
ある意味それが私塾ですよね
勝手にこう自分の詩だと思っている部分があって
なんだろうな
それこそこう僕の書いているものは
だいたい穂坂和志の二次創作なんじゃないか
みたいなことも思うぐらいなんですけど
なんかやっぱりそこでこう
対談をさせていただいて
そこでいろんなお話しして
それがこう文字になって
今形になろうとしているのをこう眺めていると
なんかなんでしょうすごいこう
なんていうのかな
親離れしたというか
独立したような考えがあったんですよね
なんだろう
どれだけやっぱり
これもずっと同じような話してるかもしれないけど
どれだけ似せていこうとしても
やっぱりこう自分は自分でしかないんだというか
そういうものなんだよなみたいなことを
改めて納得する経験だったというか
なんかその
それがやっぱり一番こう
なんだろう個人的にはグッと来るところでしたね
二次創作のつもりで始めてたけれども
なんとなくいつの間にかも
33:00
ほぼ一次創作みたいなところにまで
来てるのかもしれないなって
ようやく思えたというか
テクラジオに関しては
いまだにオムラジオ二次創作みたいな
気持ちがあまり出てないんですけど
誰一人そんなこと思ってる人いないと思う
でもなんかやっぱり
自分がやってる側って
やっぱりそういう何かしらこれみたいなやつ
やろうみたいなところって
あるんじゃないのかなと思っていて
僕はだから物の考え方から
文章の書き方まで含めて
割と意識的に
坂和志に寄せてっているような時期が
少なからずあったので
いやだからそれが
これ毎回同じような話してるかもしれないけど
それ面白いですよねすごいですよね
だからそれっぽくっていうのが
僕らだってオムラジも何っぽくっていうのは一切なくて
でも結果的には僕は
鈴木敏夫のジブリ汗まみれっぽいなって
勝手に自分で思って
それも最近思ってて
だから汗まみれももう10年以上続いてて
2011年より前から続いてるから
やってるラジオっていうか
あれももう本当に
鈴木敏夫さんの仕事場に
飯食いながら喋ってるようなのをそのまま出すみたいなのをやってて
別に僕だって汗まみれ聞いたのなんて
去年とかからなんで
だから知らず知らずっていう感じで
同じことやってたっていう風に僕は思ってるんだけど
だし彼岸の図書館とかにしても山岳ノートにしても別に
何っぽくやろうって
そう考えるとなくて
本当はあった方がいいんじゃないかなっていう
ただあってもそれっぽくできないっていう
それがあるから
それはすごいことですよね
二次創作として作ったつもりが
結果的に一次創作になっていたっていうのは
それはでも
一番いいっていうか
例えば僕のやり方は
やっぱり人がいいっていうものとかって
どっか本質的な部分に触れてるからだと思うけど
僕らのやり方って
何だろうな
当たり外れがでかい気がするんですよね
何っぽくもなくあんまり意識せずにやってたりするから
自分たちの本質には触れてるけど
多くの人の本質に
36:02
何だろう
触れれるかどうかっていうのは
分からないんで
そういう意味では
なんか費用対効果は悪い気がします
僕らのほうがね
そうなんですかね
でもなんか
意識してる
どこまで意識的にやるかの差だけな気もする
ような気もするけど
あれかでも汗まみれ後から発見するわけですよね
だから自分たちとしてやってみたことを
別の他にそもそもやってた人がいたっていうのに
後で気づくっていう
だから研究で言ったら
それって単なる勉強不足っていうことなんですよ
結果として先に
自分たちと同じようなことやってた人がいたって
気づくのと
最初から自分たちと同じような
自分たちでやりたいと思ってたことに
近いことやってる人がいたから
真似しようっていうのって
実はそんなに差がないような気もするんですよね
また同じような話になっちゃいますけど
やっぱり自分みたいなやつはいくらでもいるので
その自分みたいなやつに合わせて何かを作ったときに
その自分みたいなやつが最初からいて
それにちょっと寄せていこうってするのと
自分みたいなやつのためにっていうので
自分で考えたつもりで
後からやっぱり自分みたいなやつがいたっていうことを
発見するのとっていうのは
何かやってる作業としては
結局は自分のできることだったりできないことだったり
っていうものの中から
何かこう作っていくやり方なのかなっていう
気はちょっとする
そうだね
基本はそうだし
何ていうのかな
あれですよね
だから2人に共通していることで
オリジナルをゼロから作るなんていうことはないよね
そうなんですよ
ことは共通していて
たぶん僕も
例えばオムラジとか
いがの図書館とか
今のブリチャーリブロもそうだけど
それ自体は何っぽいんだよなっていうのはないけど
一個一個はたぶんあると思うんですよ
パーツパーツは
そうですね
だからわかんないけど
滝内さんの場合は
穂坂さんプラス演劇プラス
Xイコールプルースを読む生活になったみたいな
それって分析しようと思ったら
そうですね
どんな要素がそこにあるかみたいなのは
39:00
きっとそれこそ一個には決まらないですからね
それこそだからあれですよね
僕と青木さんで
どっかでお話しした気がするけれども
やっぱり三浦淳とかは
まさに最たるものというか
ある意味三浦淳がやってることって
全部が全部オリジナリティの塊のように見えて
割とすごいたくさんの元ネタというか
参照元があると思うんですよ
仏教にせよ
ロックにせよ
いろんな自分の中であった
それこそスクラップブック的な
好き嫌いの
中析みたいなものが
ありとあらゆるところから
ごったまでに集まっているからこそ
三浦淳は三浦淳にしか見えないけれども
見る人から見たら
三浦淳が参照してるのはこういう
それこそボブ・ディランの音楽なんだなとか
もしくは仏像の造形みたいなところ
見方みたいなところでも
何かしらそこに参照元みたいなのが見えてくるはずで
そこでやっぱり三浦淳がとはいえ
よくわからない人で荒れてる理由って
やっぱりその参照元がとっちらかってるから
たぶんその参照元のとっちらかり方に
実はあんまり必然性は何もなくて
偶然三浦淳の目に止まった
ものたちでできてるからっていう
ところな気がしてて
そういうあんまり体系立ちすぎてない
偶然目に止まっちゃったものたちを
どんどんどんどんいろんなところから
自分のものにしていくというか
参照していくと
結果的に方から見たら
なんでそんなものを思いついたのかわからないみたいな
訳わからないものになっていくんだろうな
っていう感じするんですよね
確かに
だから参照元もよくわからんし
取り上げたものに対する解釈も
誤解してるっていうね
だからその誤解を恐れずに
やっぱり三浦淳の場合は
いやだってこう見えるんだからしょうがないじゃん
風にして
オフィシャルの見方ではなくて
一種のバナキュラーな見方っていうか
それを
なんていうのかな
本来はあんまそういうのって言うのはばかられるとか
いやそんなん言ってたら
なんだろうな
だからこれが
河合さんの言うところもそうだし
僕も本当そうだけど
素人っていうのは
今まさに同じことを言おうとしてました
ね
素人感っていうのはここでしょうね
だからやっぱり素人感と
今日のお話にあった話半分でいることとって
42:03
割と近いというか
真面目に一つの話を一生懸命聞けないっていう
話半分にしとこうっていう
意思の力だけではなくて
一個のことだけを
原理的に突き詰めていくっていうことが
そもそもあまりできないっていう
だから悪い言い方をすると素人臭さみたいなものが
逆にそのあらゆる話を話半分聞けるからこその
バランスの取り方みたいなものが
あるんだろうなっていう感じはしますね
そう思うな
だから三浦淳子が言うところの
ゆるキャラっていうのはね
なんだっけあれ
ひこにゃんとか
フナッシーとか
ああいうのははっきり言ってゆるキャラではないわけですね
三浦淳子的に言うと
文カッキーとか
広島の文化の文を表して
カキとかね
結局足し算なわけでしょ
だからひこにゃんとか
ああいうコンセプチュアルなものっていうのは
引き算でできてるから
そういうものってやっぱりクロートだよね
あれはね
ゆるキャラはやっぱり
ゆるキャラが持ってるゆるさって
本来商業化できないぐらいのゆるさであるはずじゃないですか
嫌げ者と一緒で
嫌げ者はだから商品化しちゃいけないわけじゃないですか
本来は失敗した商品だから嫌げ者は
そこと一緒でゆるキャラって本来は失敗してなきゃいけないはずだから
ゆるキャラが成功してるとして成功してるっていうのは
すごい語義矛盾なんですよね本来は
ネウラー順の定義に対して原理的になるならば
だから成功してないんだよね本当は
そうなんですよ
だから行政が作ってるキャラだから
別にあれによっていくら儲かるとかっていうことじゃないわけでしょそもそも
やっぱりそこが資本主義に乗ってないからこそ
ゆるキャラっていうのが誕生する余地がある
そうですね
資本主義に乗っかっちゃってたらそれはねやっぱり
それ作ってどうしたいのとかね
ペイできるのかとかなんかね
そうですね
言われてやーとかって
どんどんどんどんその要素を削ぎ落としていって
尖ったものにしてやっぱり
メインターゲットに届くように作るわけでしょ
そういうもんじゃないっていう
そうですね
あれはまさに素人っぽいっていうか
その素人っぽさがすごく到着的であって
45:05
地域地域に名産を組み合わせるっていうやり方で
組み合わせりゃいいってもんじゃないからみたいな
それによってなんか各地で
なんかいろんなゆるキャラが生まれていたという
そうですね
そうなんですね
面白い現象ですよね
やっぱり多種多の野暮ったさっていうのが
なんかそんなに悪いもんじゃないんだよなっていう
そうそう
感じですよね
本当にそういうと話を大きくしちゃうと
いわゆる人間っていうのは多神教だったわけで
いろんな神様がいたわけでしょ
いろんな神様を統一するっていうか
論理性を増していけばいくほど
神が全部作ったんですっていう話にした方が話が早い
だから一神教の人たちっていうのは
なんで野蛮人のこと野蛮人とかな
多神教の人たちのこと遅れてるかっていうと
やっぱり論理的に未熟であるっていう
なんでそこで考えるのをやめてしまったのっていうのが
やっぱり一神教の人から見た多神教に対する評価なわけですよね
なるほどなるほど面白いですね
だからそういう意味では
なんで日本人は論理的に考えずに
なんで足しちゃうのっていう
それは何の目的なのとかって
そこ考えないわけでしょ
そうですね
もともとだから割と野暮ったい文化なのかなって気はしますね
本当はそもそも論理的に洗練された
引き算の美学みたいな
シンプルであればあるほど
より高度であるっていう価値観自体が
一面的な見方でしかないので
むしろその多試算的なものの中にある
論理性みたいなものっていうのが
別にあるんじゃないのかなみたいなところは
別でありつつ
割とあんまり国
国民性みたいなものだったり
いうところに持っていくと
あんまり面白くないというか
おかしな話になりやすいですけど
でもやっぱり
なんていうのかな
いろいろな
文化的な歴史であったりとか見ていくと
技術の受け入れ方とか
そういうところを見ていくと思うのは
割とそこで
2つの原理が混乱してるんだろうなっていうのは
48:01
日本語文化圏においては
混乱してるんだろうなみたいな感覚があって
割と口では
どんどん引き算で洗練させていく方が
良かろうっていうところで
進めていっている振りをしながら
とはいえ全部を全部西洋的な引き算の
あり方にするのではなく
ある意味でそれこそ
土着の多試算の美学みたいなものも
あるんだよみたいなところを
両方とも同じぐらいの強さで信じちゃってるからこそ
割とよくわかんないことがないというか
引き算としても
引き切れてなくて野暮だし
多試算としても
微妙に合理性みたいなのを求めた結果
スケールが小さくなって
ますます野暮ったりしっていうところで
足す方にも引く方にも
極端に触れない感じっていうのが
すごいあるんだろうなっていう感覚があって
割と僕自身は個人のあり方としては
その中途半端さっていうのは
割と肯定的に見ているというか
そのぐらい半端で
どっちつかずであった方が良いっていうのは思うんですけど
組織運営だったり国家運営みたいになってきた時に
割とそのどっちつかずさっていうのが
致命的な
バグを生んでるんじゃないのかなっていう
気持ちにも
特にこの1,2年は
なったりしますね
もっかい現状そうですよね
足す方に行くのか引く方に行くのかは
しっかり決めないと
何もできないんだよね
そうなんですよねだから
オリンピックをやりつつ緊急事態宣言
出すっていうのはちょっと前の話だけど
それはもう本当にプラス
足し算と引き算同時にやるみたいなもので
どっちなのっていう
発想になってしまうし
なんていうのかな
今までっていうのは何とかかんとか
それでできてたっていうのは
韓国っていう国は結構いろいろ極端で
工業化に一気にガーッと触れたと思ったら
その工業化に触れたら
地方がすごく疲弊してしまったりとか
あとはやっぱり
受験戦争っていうのが加熱化して
メンタルも弱ってしまったり
地方移住っていうのは
何百万単位でガガッと動いたらしい
結構極端っていうのがよく言うんだけど
でも極端っていうのはプラスかマイナスかどっちか
っていうのを国家レベルでも示す
っていうところがだからこそ極端だったわけで
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日本っていうのは
それこそ内田先生も言うんだけど
どっちつかずっていうことでやってきた文明
だからこそアラパゴスみたいな感じで
勘違いによって
特殊な文化が生まれる
だから生み出そうと思って生み出してないっていうことでしょ
だからやっぱりなんだろう
やっぱり今も含めての気持ち悪さって
議論が成り立たない気持ち悪さだと思っていて
なんで議論が成り立たないかっていうと
そもそも企画が
合ってないようなものなんですよね
ある一つの
それこそルールであるとか
企画みたいな枠組みみたいなのが決まっていて
その中で意見を戦わせていくっていう
議論のあり方が
そもそも成り立たないというか
何々こっちもあればこっちもあるよねみたいな
両論兵器が兵器でできてしまうと
そもそも議論の戦わせようがないというか
よく言いますけど
それこそ片方が野球のつもりで
話を進めていこうとするときに
途中で雲行きが怪しくなってきた方のチームが
いや別に誰も野球やろうなんて言ってないじゃん
これサッカーだからさ
網の中にゴール入れた方の勝ちだから
どんどんゴールの位置だったり
ゲームのあり方自体がなんなんになって
どんどん変わっていっちゃうみたいな
なんだかんだ上手くやれてきたよねっていう
感覚が多分にあって
でもそのやり方だと
何か一つにちゃんと決めなきゃいけない
みたいになったときに
何にも決めないっていうのが
最終的な目的になってしまっているような議論の仕方だと
本当に何もしないまま
ただやり過ごそうと
じっとしているっていう
時間をかけるっていう
時間をかけずにちゃんと意思決定を
していこうみたいな運用にそもそも
全然なじまないんだろうなっていう
感じは
しますね
なかなか
日本文化論としては
そういうことで
いろいろと面白いものっていうのは
偶然的にも生まれてくるっていうところなんだけど
それを近代国家として
いわゆる政治ガバナンス
っていうことを考えたときに
やぼったい感じだとなかなか厳しいよねっていうところは
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ある
そうなんですよね
やっぱりポストモダンと呼ばれているような
フランスの思想だったりを読んでいると
やっぱり風光やドルーズの
権力っていうものから逃れるための
ドルーズデートリゾームみたいな考え方とかって
実は日本政府のあり方そのものじゃないかみたいな
そもそも
日本の政治
っていうもののあり方が
風光やドルーズが抗おうとしていた
近代的な権力であったことなんて
一度もなかったんじゃないかというか
最初から分散して拡散してわけわかんなくなって
結果的になんでもないっていう
最初からずっとポストモダンな状況だったじゃないか
ことを考えると
そもそもこの日本という場所に
近代というものはあったんだろうかみたいなことを
なかったんでしょう
なかったしいまだ達成されず
それはもう個人レベルでもそうだし
地方自治体
国家レベルでも
やっぱり近代という
プロジェクトは達成されていないという
だから
それですよ僕もね
今日
仕事行くときにちょうど考えてたことなんですけど
近代っていうのを
ちゃんと達成したほうがいいんだろうなという
ある程度
近代を達成する上で何が必要な条件なのかな
例えば日本語っていう言語自体が
いわゆる近代に対して
向いてないんじゃないかとか
考えだしたときにね
明治初期の
インテリゲンチャーは考えたと思うんですよ
だから日本語じゃなくて
全部英語にしようとか
有島武郎とか言ったんじゃないかな
おぼろげだけど
そういう人もいたし
やっぱ近代っていうのを
近代イコールヨーロッパの国
っていうふうにしたときには
日本語じゃないほうがいいんだろうなとか
色々考えたと思うんですよね
だけど日本語以外にもね
例えば韓国であったり
インドネシアとかもそうだし
近代国家に
外側から見るとね
近代イコールヨーロッパではなくて
もうちょっと近代イコールヨーロッパじゃなくて
普遍的なものっていうのを
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意識するっていうかな
そういうものとして考えたときに
じゃあ何が近代国家の要件なんだっていう
ところが出てくるんだろうなと
そうですね
思うけどやっぱり日本っていうのは
オムラジと一緒で
結果的にジブリ汗まみれだったけど
みたいなもんだったけど
別にそんな何も目指してやってなかったっていう
日本国家はそんな感じじゃないですか
そうなんですよね
ビジョンなんてないでしょ
ないまま来てますよね
あったかもしれないけど
させしきれてないですよね
近代の一つの要件として論理的一貫性っていうものを
あるものとするっていう
前提がやっぱり成り立てないといけないと思うんですけど
やっぱりそこがないですよね
いろんな論理があるっていうのが
大元に組み込まれちゃってる時点で
近代的な
一つの統一規格の上での
意思決定みたいなものが
そもそもできなくなっている感じ
そうですよね
なんで論理的一貫性とか統一規格が必要だったかっていうと
やっぱり今までは
王様とか
皇帝とかっていう
すごくその人が
その人の
感情であったり
その人の
手の中で
国家っていうものが
運営が行われていたと
それをそうじゃないよねっていう
市民が
国の主権を取るんだと
その市民っていうのが
国民であって
国民主権なんだっていうか
そこに人格性を持たさないっていう
人格性を持たさないために
やっぱり統一性とか論理性っていうのが
必要になってきたわけだけど
日本なんてだって将軍が天皇に変わっただけでしょ
そうですね
だから全然論理性も統一性も必要ないっていう
ことですよね
特に理屈で動いていた時代はそんなになかったんじゃないかっていう
そうじゃないですか
奥さんとかは今もSEでシステムエンジニアでやってますけど
やっぱり
システムエンジニアの仕事って
明らかに論理的一貫性の上に成り立つ仕事じゃないですか
プログラムに対して
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こういう場合はこうしよう
っていうのが今の時代の仕事だと思うんですけど
世界史はすごい好きなんだけど
日本史が嫌いだっていう話をしてて
それもやっぱりなんで日本史が嫌いかっていうと
そこに全く論理がないからだと
論理も理屈もなくて
その時の感情だったり
人間関係しかない
人間関係だけで動いている感じがするから
気持ち悪くなるみたいなことを言っていて
僕はそれもよくわかるんですけど
やっぱりそこの差っていうのは大きいな
わかるなー
もうすぐ終了かもしれないけど
中国なんて
中国の皇帝に
いろんな民族がなるわけでしょ
だからその中国の皇帝っていうシステムを
見慣れたわけでしょ
それだけ論理的に一回してとかしたけど
システマチックなものがある
僕すごい最近科教に興味があって
ちょっと科教について勉強したいなと
思ってます
ものすごいカンニングペーパーを作ったみたいなね
それこそでもある意味
ものすごい
透明な能力主義
どの民族であろうと生まれの基品を問わずに
能力だけで投与するっていう
あり方をその時代から
ある意味システムとして
作り上げてるっていうところは
やっぱり全然違うんだろうなっていう
そう思います
一旦時間なので
さとこで区切りますが
ということで
ポリティックラジオ2人のデカメロン第5夜
お相手は私、革命将棟と
ポリティックラジオの革命児、青木でした
ありがとうございました