ギャラリー沼の底
ギャラリー沼の底
これは、月に2回だけオープンする不思議なギャラリー沼の底で、
店主のお世話と織りなす抽象画の世界のお話。
皆さま、こんばんは。ギャラリー沼の底にようこそお越しくださいました。
本日は国際ポッドキャストデーということで、沼の底を飛び出して、浅草にあるギャラリーアビアントから番組をお送りいたします。
実は、私のそばにはもう一方いらっしゃいます。
本日はゲストとして、初夏の尾端信子先生にお越しいただき、誕生日をテーマにお話をしていきたいと思います。
はじめに、尾端先生のご紹介を簡単にさせていただきます。
1943年、神戸市生まれ。5歳の時に不良の事故で両手を失います。
小学校時代の恩師の勧めで村上水庭書道塾に通い、20代で3回日展に入選。
以来現在に至るまで、両腕に筆を挟んで創作を続けてこられました。
2020年に作品集和立を。3年後の2023年には、至難を常視されておられます。
では今日は、初夏の尾端信子先生とお話をしていきたいと思います。
尾端先生、よろしくお願いいたします。
作品集を立て続けに2冊常視されていらっしゃいます。
2020年に和立。2023年、今年、至難。2冊常視されて。
1冊目の和立のこの作品です。ごめんなさい、リスナーの方は音しか聞こえないのですが。
書、和立という書に私はすごく感激というか、一番印象深い作品なんですが、
私が受けるのは、その線一歩一歩に作家賞のような、転んで作る切り傷のような、その線がすごく私の心を打つんですが、
尾端信子先生、わがままとどんなイメージを持ってですか。
そうですね、私が、書歴は本当に長いんですね。
書道会というところに、今も全部もちろん辞めてるんですけどね。
書道会というところに入って、ずっとそういう展覧会にも参加してて、日展なんかにも出してたんですよね。
それで、若い時に20代で3回入選したということもあるんですけどね。
私がそういう書道会の中で書をやってたときは、やっぱりうまく書きたいとか、あるいは使徒に褒められたいとかということと、
もう一つは、やっぱり昔の先人というんですかね、いわゆる現代の詩人の詩とか、そういうものを書いて書展に出してたんですよね。
尾端信子先生の作品集和立
そうしたら、そういう人の言葉を書いて文字にすると、人の心を打たないっていう人がいたんですね。
それは夫なんですけどね。
それから私の中で、展覧会出してたりして、ある程度世の中に認められたと思ってたから、それを言われてもすぐすんなりと、それを受け入れる気がなかったんですね。
ところが、いろんな姿たち、あるいは3年後ぐらい経った頃に、夫が言ったその言葉に対してものすごく重要性を感じて、
自分の体験、心の中に浮かんできた言葉を書にしようと思ったんですね。
これをこの文字を書くのに、和立を書くのにどうしようかと思ったら、自分がどうして和立を書きたかったか言ったら、
私のその人生みたいなものを表現したいと思った時に、じゃあこの線がどうやとか、短いとか長いとか、
ここの空間をどうしようかと思うと、もうそれにとらわれてしまうから、
自分がもともと和立のことを考えた時にはそうではなかったわけでしょ。
自分の人生を歩んだことをちょっと和立という言葉で書きたいと思った時に、
この線にかすれたところを入れようとか、隅を多くしようとか、隅を少なくしようとか、
あるいはこの空間はどうかということは取り外したいという気持ちで書いているんです。
それを見てくださった方がどう感じるかというのは、私にとってはそれも預かり知らないことなんですよね。
2冊目はタイトルがシナウですね。
シナウはね、私は何かに挑戦をしようとか、
自分はこういうことがあったからこれを何もかも忘れて一生懸命書き分けてでも挑戦しようかという生き方ではなかったと思うんですね。
シナって例えば大きな事故で私が両手切断したんだけども、これはもう私の運命だと。
だけどそれは諦めるんじゃなくて、このこと自身を受け止めていこうと。
子供だしある程度大きくなってもまだそこまで自分が考える力はなかったんだけども、
今この歳になって振り返ってみたら、じゃあ私は頑張らないといけない、ああしないといけないというんじゃなくて、
来たものをどういうふうに自分はそれに合わせるか、シナウかというふうなことで生きてきたと思うんですね。
だから次の本はシナウというタイトルにしたんです。
尾端信子先生と宇野雅史先生の夫婦関係
画家の宇野雅史先生ですね、同じ芸術家同士でご夫婦になられるというのは一体どういう家庭の中というのは。
家庭の中でもいいですよ。
夫は夫でものすごい人生、私以上の人生を送ってきている人なんですよね。
やっぱり二人の出会いというのはこれもある種の私が両手切断したと同じように私は運命的なものだと思っているんですよね。
若い時だったらそれこそ惚れた晴れたとか何とか言うね、そういう言葉があったかもしれないけれども、
私の人生の中の一つのけじめの時があったんです。
それをお話しすると長いんですが、だからそのけじめの時に区切りの時に宇野と出会ったんですね。
そうするとこれも一つの出会いで私の人生を変えてみようかと。
宇野と出会うことによって死なう生き方の心地よさというの。
そういうものをもしかしたら宇野によって教えられたかもしれないですよね。
でも振り返ってみたら宇野に出会うまでもそういう生き方はしてきたと思うんですよね。
何かにあるいは誰かにぶつかってきてきたんじゃなくて、
ぶつかったものに関してはどこまで受け止められるかということはあるにしても、やっぱり死なう生き方をしてきたと。
これは宇野という非常に個性的で自分本位でわがままな夫との暮らしの中で、
私は今この人との生活の中で初めて死なうということを知ったんじゃなくて、
それまでの生活の中で私は死なうという生き方をしてきたんだなという、
そのなんていうのかな、心地よさみたいなものは改めて死なうという言葉を知ってから、
物にしてから感じたことですよね。
今ちょっとお話を聞いてて、この和立と死なうというのは表裏一体なのかしらってちょっと思ったんですけども、
私と尾形信子先生、実はね、私は高校生の頃から。
そうなんですよね。
講演があって、私の父の講演があって、
私の父のお話をしたらとても通じるかと思うんですけども、
私が父から言われた言葉で、今も棘のように刺さっていることがあるんですけども、
何かというと、私本名は尾形って言うんですけどね。
尾形ちゃんは、自分がしたい仕事があって、それをがむしゃらにやらないといけなかった。
人には絶対取られないと、これは絶対私がしたい。
で、そのががないよねって言われた。
それが私、すごく気になっていて、
例えば私がこれをやりたい、じゃあAさんもBさんもやりたいって言ったら譲ってしまう、ついつい。
そこに対して父はね、いいとも悪いとも言わなかったんですけども、
そういうところがあるよって言われた時に、ずっとそれが棘になっていて、
だからその尾形をつけることを、私は逃げてきているんですよね、おそらくね。
人と競争すること、誰かを傷つけること、誰かから傷つけられることっていうのはおそらく。
だからこの尾形がまずあって、それで次に死なうが、もしかしたらって今ちょっと思ったんですけどもね。
でも私も、尾形っていうのは車の車輪の後でしょ。
だからその車輪っていうのは以前に、もしかしたらどなたかを傷つけてたかもわかんないじゃない。
傷つけてたと思うんです。たくさん傷つけてるはずなんです。
だから私もいっぱい傷つけてるわけですよね。
だけどそれは気がつくことと気がつかないことがあるけれども、
私がこの尾形っていうものを描いたときは、
やっぱり自分の歩んできた人生の全部は出るわけじゃないんだけども、
自分の車輪みたいなものを描いてみようと。
それはもし読んでくださる人があれば、
それをどういうふうに受け止めるかはもう私の責任ではないと思ったんですよね。
だから死なうという題名をつけて、
例えば尾形さんそんなにあんた人生しなって人の言うたとおりやってないよ、
あんたも頑固やったよって言われることもあると思うんですけどね。
でも私は自分は死なうということをやってきたんじゃないかなと思ったから、
だから勝手につけてるわけですよね。
だから後から読む人はもうそれはその人の感性だと思うんです。
この字から受け止める感性だからね。
私はそこまで責任は持たない。
だけど私は自分の歩んできた道を見ていただきたいと思って尾形を描いて。
私の人生はやっぱり挑戦ももちろんしてきていることはあるけれども、
やっぱりどこかでスルッと逃げてきたり、挑戦してきた部分もあるし、
というようなことでうまく生きてきたなという、
自分の人生をそういう見方で死なうを描いたんです。
村上聖典先生が尾形信子さんと私と題してこう書いてある。
芸風を広げるということは、自身の資質に逆らってまで顧客にサービスすることではない。
自分にはこれしかない、これ以外にないと居直ることが許されるまで、
精進努力を積み重ねることがこれからの彼女尾形先生のとではない。
また先生のとではないだろうかということに書かれていらっしゃるんですけれども、
これがお若い子ですね、35歳。そこから何十年も45年近く経って、
この言葉を改めて聞かれて。
村上聖典というのは最終的に、書道家もそうなんだけど、
筑波大学の教授をなさって、大都文化大学も先生なさった方に私ついてたんですけど、
30歳過ぎ頃からもう自分でやれって言ってのに放たれたわけですね。
村上聖典は金書道の先生なんですね。
だから私も日典を代表とする公募店に出すときは、全部金文字やったんです。
今こんな字ずっと書いてますけど、繊細な金文字やったんですね。
私はまだ35歳の頃っていうのは、やっぱりね、私の仲間はみんな金文字でしょ。
書いてる人が多いでしょ。
そうしたらああいうね、水書きのごとく繊細な文字って金文字はあるでしょ。
私はあれがとっても書きたかったんですよね。
でも私のやっぱり書き方、筆を持ち方っていうのはラジオだから見えないと思うんですけども、
両手に筆を挟んで書くんですよね。
手がないですからね。
手がないですからね。
そうするとやっぱりどこかに何か私が思う皆さんが書いてるような繊細な金文字っていうことに対して
非常に何か届かないんですよね、私が思う。
それでも考えによっては公募店にちゃんと入れてもらってるから、それはそれでいいと。
だからあなたの個性を、できないことをやるよりも自分の個性をしっかりとやりなさいっていうことが
この先生の言葉だったと思うんですよね。
私が金文字の綺麗な水吹きのごとくの線を出したいなと思ってることに対する先生の言い真面目だったわけと思います。
だからやっぱり書はそういう技術ではなくて、自分の心を出すものだから
無理をしてまでいろんな技術や技巧を持ってくるよりもあなた自身を出しなさいよっていう
それが先生の言葉だったと思うんですね。
それがその後10年後に宇野と出会って夫という人から
人の言葉を書くよりも自分の思いを書に出せっていうことに
そこへつながってくると思うんですけどね。
失くした手を探しての中に野木子さんはこんなことを書かれてるんですけどもね。
私にとって書は一本の杖であったわ。
絵を書くことを生きる目的とする宇野を知ったとき心から書道を捨ててもいいと思ったと。
だからここが私の死なう生き方がここにも顕著に出てると思うんですよね。
この人が自分が絵を書くためにどれだけのことをしてきたかっていうのは
身でもって近くで見てるからわかるわけでしょ。
そしたら私が自分の人生でこんだけのことを書けてきてはいないと。
人に恵まれて甘やかされて大事に大事に親以外の世間からも育てられてきて
ここまで私は来てるんだと。
宇野は自分が絵を一生懸命書くためにこの絵を捨てないために
社会と戦ってきてるっていうのは感じたのね。
そうなんですよね。
そしたら私は自分の人生を甘く甘くそれでいってここまで来れたと。
じゃあ今からの私の人生はこの人の絵を書くということに
私は絵のことは全然わからないけども
何か支えられることがあれば支えてもいいという
そういう思いがあったんですよね。
これはちなみに今も
今もそうじゃない。
今もそうじゃないですか。
この時にこの人は答えなかったからね。
捨てろってじゃあ捨てろって。
言わなかったから。
私捨ててもいいよってこういう気楽な言い方でしたら
返事しなかったの。
宇野先生がですね。
いまだに返事してないのね。
どうしてでしょう。
私が書をすることは彼は嬉しかったんだと思うのね。
自分が書が好きだから。
もっとそうですよね。
宇野先生も。
書の師匠のところで出会ったんですよね。
私の書の師匠のところでね。
だから宇野自身が書が好きだし
私の生き様みたいなものを外野から見てる時間は
彼にはあったんですよね。
何かどこからか私の名前を聞いたりしてね。
だからそれが私の真実として受け止めてるかどうかわからないんだけども
外観の私とみたいなものは彼は見てたわけですよね。
だから私との結婚に関しては彼は何の疑いというか
何かはなかったんじゃないかなと思うのね。
アビアンとの看板を誤魔化してるのね。
だから彼は書が好きだからね。
だから私にとって書の知識っていうのかな。
彼は元々書道家になりたかった人なんですよね。
絵を入る前にね。
だから絵に関わったとしても
やっぱり書に関して非常にいろんな知識があって
芸術なんて言ったら書と絵って分かれるもんじゃないでしょ。
だからあの人は書もよく見てるし
もちろん絵については必死で自分がしがみついて
ここまで続けてきてるけど
そういう美術にまつわることってよく見てるし
特に書は見てたからね。
ある意味では私の足らないところを指摘する力っていうのはあったから
自分の書道家みたいなものを私にぶつけたわけですよね。
小畑先生、もう一回改めて質問なんですけども
今回テーマがですね
誕生日、記念日っていうテーマなんですけども
この言葉から自由に想像されるのってどういうことですか。
私ね、本当にずっと内心思ってたことなんですね。
ただね、何か人に話すきっかけってないもんだから
そのまま思ってたんですけど
今そういう誕生っていうのが今日のテーマみたいなもんだって
おっしゃっていただいたからね
もう本当にやっと言えるという気持ちがあったんですよね。
二つの誕生日
なぜかっていうと誕生日は私二つあるんです。
一つは母から生まれた誕生日、戸籍に入っている誕生日。
戸籍に入っている誕生日。
もう一つは、私は5歳の時に両手を切断するという事故にあっているんですね。
5歳ということは戦後3年目なんですよね。
ということはそれほどいろんな救急車もなければ
近所のおじさんに私が車に積んで
両手をいわゆるタオルじゃなくて
手ぬふりで絞って病院に担ぎ込まれたという
そういうふうなことで
お医者さんも技術が良かったんですよね。
そういう周りの人たちの力で私の命が守られたんですよね。
だから私は誕生日が二つあると思っているんですよね。
一度もこういう事故がなかったら
私はどんな人生が起きたのか考えたこともなかったし
これはこれで当たり前としてこのまま生きてきているから
私の誕生日が二つあると。
私は一つは45歳で結婚して東京に来たんですけど
その前に私は短大を出ているんですよね。
短大は社会福祉の専門的な大阪の不立の短大だったんですけど
そこを出てから児童福祉の仕事を
一つ目の仕事は私は挫折して
2年ブランクがあって
2年経つと23歳かな
そのあたりで二つ目の職に就いたんですね。
里親を探す仕事、いわゆる里親を探すソーシャルワーカーとして
22年勤めて、その前に勤めていたところが児童養護施設で1年勤めたんですね。
人生の経験からの気づき
だからそのことも私の人生でものすごく大きなことが
非常に今の私を築く石杖にはなっていますよね。
人間のそういう想像もつかない予想もできないことが
一人の人間に起こっていくんだけども
だけど私はその子供たちを見て
実の親から離れて違うところで育つということは
ある意味では不運ですよね。子供に与えられたね。
子供の責任でもないし
でもその子供たちはまた違うところでそれなりの生き方しているから
私これも最近思う言葉なんですけどね
不運というものは決して不幸とはつながらないということですね。
不運は不幸につながらない。
その子供たちは親と離れること自身は不運だったけれども不幸ではない。
私も怪我をしたことは不運だったけれども
私のこの怪我した事実は不幸ではない。
最近不運と不幸というのが非常に頭に浮かんできたんです。
この作品の中で私はっと思ったのが
とてもよく聞くこの言葉ですね。
一言一言
このさらに身に添えられている一言
書との関係
野向子さんが考えられた言葉ですね。
今日会えた、明日は会えない、縁もある
その表と裏、また会えるという期待と
もう二度と会えない
それってもうごぼごぼで同じくらいの確率で
その裏の方を私は今まで考えたことがなかったので
もう会えないかもしれないんだって思った時に
それはやっぱり年齢でしょうね。
この80歳にもなれば
やっぱり別れもありますからね。
別れでなくったって
私はあの人すごくいい人だと思って
この人ともう一度会いたいなと思っても
いろんな事情で会えないということだってありますからね。
そういういろんな体験の中で生まれてきた言葉なんですね。
今ご紹介を受けたのは作品集というふうに言っていただいて
今この言葉も隣にある言葉を読んでいただいたんだけど
私はやっぱり自分の思いを書にするということを
前提にしてこの本を書いたものですからね。
だからなぜこの文字を書きたかったかっていうのは
短い文章で書いた
だから作品集とは書いてあるけれども
作品集と言葉というふうな本になっているんですよね。
だけどその言葉をあなたが感じてくださって
言ってくださったらすごく嬉しいですよね。
はい。もうこの言葉と
キリンさんと出会った時にもううるっときてしまった私はですね
私も年なんですね。
あとこのギャラリーアビアントが今年で引っ越しをするということも
ちょうどそういういろんな条件があって
あとは本子先生のお年とかこの作品集また次はあるのかなとか
ありました。
ありました。
じゃあとりあえず三部作みたいな感じになってくるんですかね。
したいです。夢です。
そうですね。私しなう
次が一体どう来るのかっていうのをすごく楽しみなんですけども
いやちょっとこの安時姉さんでしなうをやった時に
だからこれが最後なのかもしれないって
もしかしたら思ってしまって
周りの人みんな思ってらっしゃる
そろそろ閉店の時間なので本日のお話はこれでおしまいにしたいと思います。
眠って目が覚めたら新しい世界が待ってますよ。