2024-07-15 07:34

人間・田中角栄(2)創政会結成の衝撃

元総理大臣の田中角栄が亡くなってから30年近くがたちます。裸一貫から権力のトップに登り詰めた「今太閤(いまたいこう)」。行動力と知識がある「コンピューター付きブルドーザー」。そして総理辞任後にロッキード事件で逮捕されても政界を牛耳った「目白の闇将軍」…さまざまなあだ名がありました。その人間性の端々から、一つの戦後が浮かび上がってきます。

産経新聞に過去に連載された「戦後史開封」などを再構成してお届けします。案内役は、落語家の三遊亭楽八さんです。
(令和4年に配信したエピソードの再配信です)

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

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サマリー

田中角栄は浴びるようにウイスキーを飲んで倒れる直前まで飲んでいます。彼は創政会に好意的でしたが、実質的な竹下派の旗揚げがわかると激怒し、創政会を潰す気でした。創政会は順調にメンバーを増やし、日本の政治の表舞台に踊り入れています。

角栄の倒れる直前までの状況
戦後史開封(人間・田中角栄(2)創政会結成の衝撃、
案内役は、私、落語家の三遊邸落八です。
元総理大臣の田中角栄は、昭和60年2月27日に倒れる直前まで浴びるようにウイスキーを飲んでいた。
それが、濃厚促の直接の引き金になったことは間違いない。
何が角栄を先に向かわせたのか。
創政会に決まっているじゃないですか。
そう話したのは、角栄の後援会、閲覧会の会計責任者として、閲覧会の女王と呼ばれ愛人でもあった佐藤昭子だ。
田中栄は、昭和49年11月に角栄が総理大臣の座を下りて以来、総理を出していなかった。
田中栄は、常に他の派閥のトップを担いできた。
籠に乗る人、担ぐ人、そのまた藁地を作る人という言葉があるが、いつまでも藁地作りではなく、籠に乗りたい、担ぎたいという不満が、竹下昇を会長とする創政会設立につながった。
昭和60年2月7日、創政会は田中栄の3分の1に当たる衆議院議員29人、参議院議員11人の
計40人で旗揚げした。
当初、角栄は、創政会に好意的だった。
旗揚げの中心になった当時若手の梶山勢力、小沢一郎、旗津戸村が、
派内で勉強会をやりたいんですが、と言ってきたのに対し、
いいよ、おやったらいい。田中派と同心園で行こうや、と答えた。
しかし、創政会が実質的な竹下派の旗揚げであり、
同心園ではないとわかると角栄は激怒した。
これで竹下が総理になる目はなくなったな、と昭子に語った。
角栄は派内から主張を出すなら、
1に三階堂を進む、2に江崎雅美、3に後藤田雅春、
順番を間違ってはいけない、とも語っていた。
昭子は、角栄は創政会を潰す気でいました。
倒れなかったら潰していたと思います、と振り返り、
角栄が内心では創政会を認めていなかったことを明らかにしている。
だが創政会は順調にメンバーを増やし、
形成会に発展。竹下派として日本の政治の表舞台に踊り入れた。
そして角栄が倒れた2年後の昭和62年11月6日、竹下は総理大臣の座につく。
創政会に40人が集まったのち、角栄は荒れるようになる。
ふざけるんじゃないよ、冗談じゃない、勉強会というから許したんだ、
と大きな声を出し、この日から20日間、毎日オールドパーを2本空にした。
竹下は朝からウイスキーを株飲み。
創政会の旗揚げと角栄の反応
事務所に来る頃には目は真っ赤でした。
血取り足でいくら止めても酒を放さなかった。
それが毎日でした。
そして20日後に倒れたんです、と話した。
梶山勢力が、ママ、親父が倒れるなんて思いもしなかった。
誤算でした、と言ってきた時、竹下は、
原因はあなたたちが作った創政会にあるのよ、と指摘した。
そして、もっと話し合っていれば角栄の理解も得られたはず、と残念なった。
元秘書の早坂茂雄はちょっと別の見方だ。
親父は昭和49年に総理を辞めてから、
一平も脱走者を出さずに、他の派閥のボスを総理にしてきた。
政権党の派閥というのは、総理を出すためにある。
それが、11年間も総理候補を出せなかった。
そこで総理候補を出そうという怨気が起こった。
政治家としては当然の行動ではないでしょうか、と創政会に理解を示す。
終戦直後に角栄の会社、田中土研工業に入社し、角栄が衆議院議員になってからは、
公共事業担当秘書として45年にわたって仕事をした山田大使は生前、
田中先生の秘書は大勢いましたが、
個人的な理由で辞めた一人を除き、みな側を離れませんでした。
人情味があったからです。
それをあんな形で創政会を作られたら、あれもするでしょう、と角栄の心情を推測していた。
天才的な政治家といわれた田中角栄を説く不可欠な要素として、
早坂はバセドウ病をあげる。
バセドウ病は甲状腺機能更新症を起こし、女性の1000人に1人くらいの割合でかかる。
男性はその4分の1くらいだという。
この病気に角栄は郵政大臣を務めた昭和30年代前半から苦しめられてきた。
汗をかく、食欲が増すなどのほかに精神状態が不安定になるという特徴がある。
興奮しやすくなりイライラが募るのだ。
早坂はこう解説する。
普通の人が1時間に100回頭が回るとすれば、角栄さんは1万回回るんです。
全神経、脳のあらゆるヒダが動員されて脳細胞のすべてがフル稼働します。
だから判断も仕事も早い。
例えて言えばガソリンを満タンにした車が銀座4丁目の交差点で大勢の人が歩いている中を
80キロのスピードで人を跳ねないように全神経を集中して走り抜けるようなもの。
創政会の成果と角栄の意図
それだけにひどく疲れるんです。
その角栄の体を処方によってうまくコントロールしていたのが
東京定心病院の医師、鹿島正明だった。
だが創生会騒動で角栄の意図は切れたのかもしれない。
イライラが募り、精神は極度に不安定に陥った。
鹿島は平成6年当時の取材に対し
ここは官庁の病院、個人の病気について語るわけにはいかない。
風化していないし、まだ生々しい。
それにいろいろあるし、との返事だった。
角栄が倒れた2ヶ月後、田中家は角栄を一方的に退院させ
鹿島や早坂に絶縁宣言をする。
以後彼らが角栄に会うことは二度となかった。
戦後視界風、人間、田中角栄
最終話の次回は田中角栄のもう一つの過程についてお送りします。
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