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2020-11-30 29:46

第103回 筒美京平伝説 〜 音楽のルーツからその秘密に迫る。そして平成を彩った名作曲家、小室哲哉、五十嵐充、つんくが作り上げたもの

名作曲家、筒美京平さんについて話しました。
功績と生み出した名曲たち、そしてその音楽のルーツに海外の音楽があったこと、作曲家としてのスタンスなどについて紹介しています。
また音楽のルーツが意外に思う元ELTの五十嵐充さんの話から、小室哲哉さん、つんくさんの話にも広がりました。

筒美京平という作曲家
筒美京平が生み出したヒット曲
メディアに出なかった筒美京平
歌手のための作曲に徹していた
何曲も同時に作曲していた小室哲哉
筒美京平独特のアレンジ
筒美京平が1975年当時黒人女性グループに提供した曲
元ELT五十嵐充の音楽のルーツはプログレだった
化学変化を起こすプロデューサーとしての作曲家
近田春夫をプロデュースしラップ業界の礎を築いた筒美京平
「筒美京平」という名前の由来
つんくが作ったアイドル像

魅せられて / ジュディ・オング
https://youtu.be/lTRx1KRc5WI

ギンギラギンにさりげなく / 近藤真彦
https://youtu.be/w7Cr5j8y0jc

スニーカーぶるーす / 近藤真彦
https://youtu.be/j-iiyp2e5wc

ブルー・ライト・ヨコハマ / いしだあゆみ
https://youtu.be/XKhsCLh86Dg

飛んでイスタンブール / 庄野真代
https://youtu.be/sWNmaua0nDY

卒業 / 斉藤由貴
https://youtu.be/oSqTaVzqPIk

やめないで, PURE / KinKi Kids
https://youtu.be/qlSqt_vM7KY

きみをつれていく / 安倍麻美
https://youtu.be/c5I749Hm4LQ

AMBITIOUS JAPAN! / TOKIO
https://youtu.be/L-d1Dsmhl18

絶望グッドバイ / 藤井隆
https://youtu.be/YysFcyqzP1I

にがい涙 / ザ・スリー・ディグリーズ
https://youtu.be/y87E04egvco

#筒美京平 #小室哲哉 #五十嵐充 #つんく

お便りはこちら
https://forms.gle/oEfBpskGT2qf4iMW9

00:02
音楽も人生も、エンディングが大事です。どうも、WATAです。
TAZAWAです。
今日の名言は、つい最近残念ながら亡くなられました、
津泉京平先生、大作曲家、日本一の作曲家と言っても過言ではない、
名作曲家の津泉先生のお言葉でございますというところですね。
ちょうど先週かな?いや違うね、2回前のエピソードね。
101回目のやつかな。僕が最近、松田聖子とか昭和の歌謡曲にハマってて、
ちょっといろいろ聞いてるみたいな話の流れで、津泉先生の話もちょっと出てたので、
せっかくなんで、やっぱ津泉京平先生って、おそらくTAZAWAさんもすごい京平先生の曲をすごいよく知っていらっしゃると思いますので、
僕自身も結構その日本の楽曲、古い楽曲を掘っていく、なんか最近ね、結構掘ることが多くなったんで、
めちゃめちゃ出会うことも多かったりして、なんかちょっと今日は津泉京平の伝説を語る回にしたいなと思っておりますと。
でね、改めて津泉先生の人生であったりとか、その音楽どういうものを作ってきたかっていう経緯を調べてみたりしたんですけど、
やっぱすごいですね、本当に面白い。本当に音楽に常に命を捧げてきた人であったなっていうのを感じたんですよ。
で、これはもう、そもそも日本のレコード大賞とか、いろんな賞をめちゃめちゃ取ってる人だし、
70年代後半とかから、なんですかね、いわゆる作曲家として活躍されてるんですけど、まあ言っても知らない人がいないぐらいなレベルの本当名曲ばっか作ってる方じゃないですか。
あとさ、ちょっとその前回の昭和のレジェンドの話の時もしたんですけど、津泉先生って元々すごい洋楽、海外の音楽に影響を受けてて、
で、なんかそういうさ、海外の音楽めちゃめちゃインスピレーションを受けてる人が、なんで昭和の歌謡とか、いわゆる日本のポップミュージックの礎を築けたのかっていうところは、
やっぱ結構惚れ下げていくと面白いなと思った。この辺もちょっと田田さんと話したいなっていうふうに。
その辺はまさに僕が疑問に思って前回、ちょっと問題提起をちょっとしてみた。
問題提起?問題提起じゃない。
なりがてで見た。
でも本か、津泉先生の本、作曲の本の話してましたか?
持ってない。
あれ違かったけど。
なんか、津泉強平のスペシャル番組みたいなやつが結構昔あって、それ見てたら、津泉強平の音楽の検索の仕方とか、レコードの聴き方とか。
そうそうそうそう。
03:00
多分なんかそのね、バックグラウンドが調べていくとすごい出てきたりしたんですけど、
じゃあ軽くちょっと強平先生のですね、経歴というところもちょっとご紹介できればなと思うんですけど、
残念ながら今年のですね、2020年の10月7日にお亡くなりになられてるんですけども。
ちなみに津泉強平という人物を一切知らない人もいると思うんで、ちなみにあのめっちゃ有名な曲とか最初に言っておくとイメージあるんですか?
そうですね。代表曲ね、もうこれはね、もう言い切れないレベルでたくさんあるんですよ。
古い曲からね、一番津泉先生の中で売れてる曲っていうのが、ジュディ・ヨングの魅せられてですね。
これが未だにこの作曲家としての、日本のギネスではないんですけど、一番売れた曲という風に言われてるんですよ。
ちょっと古い曲なんでね、若い方はご存知ない方もいると思うんですけど、我々は本当によく知ってる曲で。
あとはもうそうですね、マッチで笑っちゃったんですけど、近藤雅彦さんのスニーカーブルースとか、キンキラギンにさりげなくとか、まあ80年代のね、定番の曲とか。
あともうね、ちょっとキリがないんですよね、もう言い始めると。白亜佑美さんのやっぱブルーライト横半とか、あとは松野真彩さんのトンデトンブルーとか。
80年代ってそういったところがすごいね、めちゃめちゃ名曲としてね、あると思うんだけど。
あと斉藤幸の卒業とか、古いねちょっと。
僕も実はつつみ強兵オーチャーだったりとかしてですね、90年代以降ってあんまりないじゃないですか、最近のJ-POPのって。
でも僕は全部追ってたから、中学生の時からこれつつみ強兵だとかって聞いてたんですよ。
いまだに調べてなくても分かるんですけど、まずね、99年ぐらいにキンキキッズのやめないでピュア。
これ僕当時中学生ながらつつみ強兵かって思いながら聞いてて。
そしたらね、その後ぐらいにね、阿部浅見。
阿部浅見さんね、あのお姉ちゃんね。
お姉ちゃんでしたっけ。
妹だっけ。
妹、妹。
あの人の曲作ってたりとかして、これもつつみ強兵かって思いながら僕は聞いてたし。
意外とハロプロにね、ちょっと曲提供してたりとかしてんだよね、実はね。
あとはあれですね、TOKYOのアンビシャストジャパン。これが一番有名かもしれないですね、最近だとね。
これはね、つい最近ね、かんじゃにのね、かんじゃむっていう番組でもやってた。
これなんか、そのBE AMBITIOUSのいかにすごい曲かって。
あとは、実はその電波組ドットインク。電波組にも曲提供してたりするの。2010年以降。
最近、もう全然、最近まで全然元気でしたよ。
しかもなんかね、あの強兵先生ってあんまこう選ばないんですよ、その提供する人とかね。
いわゆる売れてる人だけに提供するわけじゃなくて、結構インディーズの人に提供してたりとか。
だから知られてない、あんまり知られてないその名曲もね、あったりしたりするんですけど。
06:04
だから幅広いよね、ほんとね、もう。
いわゆるさ、石田愛美さんみたいな、ほんと歌謡曲のさ、初期のレジェンドみたいな人にも提供してるし、
少年隊とかにも、それこそやっぱジャニーズに提供してたりもするし。
やっぱりその歌謡曲のレジェンドの筒美強兵という作曲家が、最近のそういうポップスに提供したときの曲が僕すごい好きで、
なんかこう、なんかちょっとした暗さだったりとか、哀愁がちょっと漂うんですよ。
それは僕、阿部アサミの曲を聴いたときに、なんかすごい感じて。
阿部アサミちゃんに結構曲作ってるんですよね。
そうそうそうそう。
あとね、中間ユキイとかにもね。
中間ユキイは歌を歌ってるんですね。
歌歌ってたんですよ。
実はちょっとだけ歌ってたんですよ。
極戦とか出てるとき。
そう、初期の頃に。
だから、そう、ほんとだからね、曲の数が半端ないから、
ほんとその、まあ有名な曲もほんとたくさんあるんですけど、
それこそほんとね、まああんまり知られてないけど、すごい良い曲みたいなのもあるし、
で、あとこれ意外にさ、これ知られてないかなと思ったんですけど、
サザエさんのオープニング曲とエンディング曲って共編奏なんですよ。
そうなんですね。
でさ、やっぱルーツ掘ってったらさ、
共編奏って言わない、黒人音楽に行くんですよ。
黒人音楽に行くと思って、
ちゃんとね、入れてるんですよ。
あのサザエさんの曲とかに。
やっぱその60年代のモータンサウンドって言われる、
やっぱソウル系の音楽のエッセンスをちゃんとサザエさんの曲にも入れてたりしてて、
だからやっぱりそのさっきちょっと言ってた外国の音楽に影響を受けて、
それをどう日本の音楽として変換していったかっていうのは、
やっぱり結構つつみ先生なりのポリシーがあって、
ちゃんとそのエッセンスを盛り込んでたりしてて、
その辺はすごい魂を感じるというか。
そういうところを見ると、
アーティストではなく明らかに作曲家って感じがしますよね。
そうなんですよ。
で、これはたださんもご存知かもしれないですけど、
つつみさんってつい最近までほとんどメディアに出てこなかった方なんですよ。
何なの?名前すらも知られたくないみたいな、あったらしくて。
で、あのね、だから顔を知らなかった人が多かったんですよ。
で、つつみ強兵っていう人が本当に存在してるかどうかっていうのがわかんないレベルで、
ゴーストライターなんじゃねえの?みたいな噂が立つレベルで、
だって昭和の歌屋曲はほとんどこの人が作ってたりするからさ。
確かに確かに。
で、昔の番組って作曲家とか出たじゃないですか。
作曲誰々。
作詞松本隆とかさ。
でもみんなさ、つつみ強兵だからさ、こいつ誰なんだ?みたいな。
確かに確かに。
ほとんどこいつ作ってるんじゃないかみたいな。
ちょっと不思議な名前だしね。
そうそうそうそう。
で、その割に出てこなかった。テレビとかに。
だから、やっぱり本当に裏方に徹するっていうマインドが非常に強い方だったらしくて、
09:01
当然作曲家たるものは歌詞より目立つものではないぞという、
多分すごいそこの職人っぽい、やっぱクリエイターっぽい感じというか、
やっぱすごい天面に出てる方だったんだろうなっていう。
だから結構ね、有名なんだけど謎多き人みたいな感じだったらしいよね。
僕だからそれこそ前に特集番組みたいなの見た時にピアノ弾いてたんですよ。
結構ガッツリつつみ強兵スペシャルだったから、
最後自分の曲だったかをピアノで演奏するっていうのがあって、めっちゃ上手くて。
それはそうなんですけど、つつみ強兵がピアノ弾いてるってなかなかイメージないじゃないですか。
いや、わかんない。全然イメージがない。
それはそうだろうなと思いながら。
結構さ、でもなんか、これで僕もちょっと最近亡くなられた後に特集されたテレビで見たんだけど、
かなり特殊な音楽の作り方する方だったらしいですよね。
だから、いわゆる音楽理論で言う原則とかあるじゃないですか。
何小節のリズムが続いて、Aメロ、Bメロとか。
つつみ先生って何小節とかっていうのもバラバラにイントロ作ったりとか、
あとはBメロなくて急にAメロからサビに行ったりとか、
そういう変則的な音楽を作る方だったらしくて。
なんでかって言うと、そこもすごいなと思ったんだけど、
いわゆる歌手の人、歌い手さんが一番歌いやすい形に編曲するらしいんですよ。
作曲はつつみ先生がやって、編曲家に歌いやすいように編曲してっていうオーダーを投げるらしくて、
例えば歌いづらい部分があったら削っちゃうみたいな感じで、
じゃあもうBメロなしにして、一番歌いやすいやつにしようよって言って。
もしかしたら作曲家だったら逆に、それを歌うのが歌手だろうって言いそうですよね。
でもなんか、つつみ先生のすっげえいい言葉で、
歌手が歌えないような曲を書くのは作曲家の仕事ではない。
徹底的な職人としてのポリシーが強い方で、
その歌い手さんにどう歌わせるか、歌ってもらえるかっていうところを一番に考える作曲家さんだったらしいですね。
この歌が面白いんだけど、藤井隆さんが何かに曲を提供したことがあったらしくて、
作詞が松本先生の。
絶望グッズバージョン。
そうそう、絶望グッズバージョン。
いい曲、いい曲。
すごいでしょ。作曲がつつみ強兵、作詞松本隆。
ゴールデンタックみたいなね。
でも松本先生の書く歌詞がちょっと難しかった。
藤井隆が歌えないフレーズがあった。
つつみ先生が歌いづらそうだから書いてあげない方がいい。
歌詞変えさせてあげるらしい。
松本隆にそれ言えるのはつつみ先生くらいしかいないわけなんだけど。
12:00
歌手が歌えないものは作らないっていうポリシーというか、
歌手が無理に歌を上手くさせて聴こえさせるっていうテクニカルな方にいかないというか、
それは編曲家作曲家がどうにかするんだっていうところはね、
すごい名作曲家なんだけど、
ユーザーフレンドリーじゃないけど、
やっぱり歌い手ファーストで。
だからそういう考え方だからこそ、
歌謡曲っていう歌物の作曲家として活躍できたんでしょうね。
そうそうそう、だと思います。
当然歌手の人も一番ポテンシャルを出せる曲だったりとか、
そういう編曲をしてくれるんで、やっぱりやりやすかったっていうのもあるでしょうし。
めっちゃ早かったらしいけどね、作るのね。
やっぱりすごい作曲家ほど曲作るの早いって言いますね。
小室哲也なんかも数曲同時に部屋を分けて、
ちょっとフレ作ったら次の部屋に行って、
戻ってきてみたいな。
この2個のキーボードで、
タネ方が2台のキーボードで、
他の部屋のキーボードも。
部屋を分けてやばい。
部屋を分けて違う曲を同時に、すごいですよね。
だから脳みそがちょっと異常ですよね、なんかね。
何らか自分にしか理解できない型があるとか、
そういうことなのかもしれないですよね。
だと思いますね。
結構その辻先生が作る曲の特徴って、
結構あったらしいですよね、本当に。
なんかサビに入る手前に、
ちょっとサビに入るよって合図があったりとか、
なんか辻先生っぽいサビへの入り方とかあったりするんですよ。
それはだからそれに影響を受けて、
いろんな編曲家とか作曲家の人が真似したりとかしてたりしてて、
やっぱそのなんて言うんだろうね、
やっぱ日本語の歌とか、
J-POPが一番いい感じで聞こえやすいとか、
伝わりやすいっていうフレームワークを作ったっていうところがね、
あるんじゃないかなと思うんですけど、
あとね、これ結構さっき言ってた辻先生は、
黒人音楽に結構影響を受けてるんで、
もともとジャズピアノやってて、
その影響でいろんなゴスペルとかソウルとか、
いろいろ掘ってたんだと思うんですけど、
実は知られてないですけど、
1975年あたりに、
もう日本の枠を超えちゃってて、
ソウルトレインっていう、
昔のソウルを紹介するアメリカの番組があったんですけど、
その主題歌を歌ってた、
Three Degreesっていうですね、
3人組のコーラスグループ、
黒人の女性のコーラスグループがいるんですけど、
のプロデュースをしてて、
この時代に黒人の女性に日本の歌詞を歌わせたんですよ。
これがめちゃめちゃいい曲で、
今聴いてもすごいんですよ。
ちょっと聴いていただいてもいいですか?
軽く。
15:09
っていう感じで。
これで、やっぱり黒人の方が歌ってるんですけど、
やっぱりメロディー本当に聴くと、
あ、つつみ先生の。
かっこいいですね。
つつみ兄弟のメロディーって。
めちゃめちゃ痺れますよね。
今聴いてもこんなドキドキするんで、
当時これ2本持ってきたらやっぱり、
すげえなってなりますよ。
これ75年とかですよね。
もう本当につつみ先生のキャリアの中でも初期の頃なんですけど、
その頃からこういう結構世界クラスのビジョンを持ったりとか、
もともとルーツがあって、そういうエッセンスを、
これはどんどんJ-POPに流していくっていうね、
流れがあったっていうところで。
歌謡曲っていうような音楽があった中で、
J-POPに移り変わるときの下地とかっていうものを、
もしかしたら作ってたんですかね。
こういうの聴くとだって、
75年にこの感じのメロディーってすごい壮大な感じがしますね。
なんかそうなんですね。
感覚的に早い気がしますよね。
この感覚っていうか。
だってそれこそ60年代前半から70年代前半って、
割ともうちょっとムード通うというか、
日本の独特の、もうちょっと古い世代の歌謡曲。
J-POPになる前のものとかが、
演歌とかね、流れが強かった中で、
一つ流れ変えたっていうのはね、ある気はしますね。
なんかすごい、
TSUTSUMI先生の曲ってすごい日本っぽいところを感じるんだけど、
実はやっぱり、ちゃんと自分が影響を受けた海外の音楽。
バックグラウンドも取り入れて、
マージしていくというか。
これ海外の人が聴いても、
やっぱりちょっとシンパシー感じたりするとかっていうところが、
やっぱりあんのかもしれないなと思って。
なんか一見洋楽とかそういう音楽に影響を受けているのを
意外に思えるような音楽を作ってる作曲家っていうので言うと、
僕今思い出したのが、
例えばELTの初期の頃に行った、
井原氏光さんってキーホリストの。
ELTのあのああいう最初の頃の前世と言われてたELTのね、
あれを作ってた井原氏光という人は、
もうプログレマニアだったんですよね。
プログレなんだ。
メタルとかプログレとか。
もうマニア中のマニアで、
そういうものに影響を受けて、
井原氏さんが作るのがあのELTの作曲。
あの曲?
そう、っていうことなんですよ。
だからやっぱりエッセンスがあって、
何らか価格反応があって、
ああ、なるほど。
そこはやっぱり一君とかとのバランスもあったでしょうし。
もちろん。
独特のエッセンスも入ってたでしょうし。
でもわかんないもんだよ、確かにね。
そう考えてみるとね。
でもELTサウンドって当時ちょっと新しかったじゃないですか。
テツヤとはまた違うみたいな。
そうなんですよ。
結構同一路線で見られるとこもあるけど、
18:02
全然違うよね、本当に。
そういうところがプログレから来てるってことなんでしょうね。
なるほどね。
そこは小室さんにはないプログレっていう、
もっとクラブ音楽だからさ。
小室さんの方が影響を受けてるよね。
あ、そう。面白いですね。
プログレの路線で言ったら絶対ELT売れなかったもんね。
そうですね。
誰が聴くんだみたいな。
でもさ、確かによく聴くとちょっと入ってんだよね。
ギターのフレーズとか、編曲の仕方とか、コンポーズの仕方とか、確かにわかるな。
あとオマージュに近い形でそのまま入れてたりするやつも多いらしくて。
やっぱだからそういうのは、
これはね、筒美京平先生も当然作曲家、編曲家として歌手の方に提供して、
そこで新しく生まれてるエネルギーとかもあるから、
そこをそういう作曲家、編曲家の人が下支えして発揮させるっていう、
井河さんもそうだと思うんですけど、
そういうのはすごいね。
科学変化が起きる状況を、やっぱ下手なっていうとあれですけど、
作曲が前に出ちゃうとさ、どんどん行っちゃうわけじゃないですか、前に。
作曲の曲の凄さだけがね。
そこをコンビネーションを生まれさせるっていう凄さね。
あとね、京平先生、もう一つちょっと意外なところで言うと、
どれだけ影響力が大きかったっていうところなんですけど、
これもね、だいぶやっぱ先見の目が現れたんだなって思うんですけど、
これ、タモリクラブとかよくご覧になられてる方よくご存知だと思うんですけど、
近田春男さんっていう、もう骸骨みたいなおじさんいるんですけど、
ソラミミとかよく見る人はよくね、ご存知だと思うんですけど、
近田春男さんって、いわゆる日本のヒップホップ業界、ラップ業界の父みたいなの言われてるかたちで、
日本にラップ音楽を持ってきた人だったりするんですけど、
近田春男さんのソロデビューのアルバムとかをスティーミさんがプロデュースしてたりとかしてて、
楽曲提供したりしてて、そこでも結構新しい音楽を実は作ってたりして、
だから日本のラップ業界の礎のところも、実は京平さんのエッセンスが入ってたりするっていう、
これも面白い話なんですけど、
だから僕が好きなラップ音楽とかっていうのは、実は京平魂がルートをたどっていくのが入ってるっていう。
あと90年代中盤の渋谷系のブームとかも、
90年代入ると京平さんの楽曲の提供のペースが落ちていくじゃないですか。
後半まではどんどんすごい提供してたんだけど、
95年の小澤健二とタックを組んで渋谷系のプロデュースみたいなのもやってたりしてて、
21:09
ちょっとそこで京平リバイバルみたいなのが起きて、
あの筒美京平が渋谷系プロデュースステーションみたいな感じで、
そういうリバイバルとかブームを小澤健二と二人でやったりとか、
その流れでいろいろ繋がってたりするんだけど、
だから知られてないけど、筒美先生って本当にいろんな人に曲提供して、
いろんなカルチャーというか、そういうのを支援してたりするっていう。
だから掘れば掘るほどね、味が出まくるやんすよ。
筒美先生がね。大差が本当。
確か筒美の名前の由来、僕どっか聞いたことありますけど、筒美ですよね。
本名じゃないんだよね。
そうなんですよね。
渡辺さんとかで知られてるかな。
そうでしたっけ。
筒美なんだ。あ、そうか。筒美ね。
そうそう。
筒美ね。
だった気がします。ちょっと軽く調べられます?合ってるかなと思った。
あ、本当だ。
名前の由来が筒美が平らに響く、京平。
京平まで入れてるんですか。
入れてるっぽいね。
すごいね。でもこれ、筒美京平っていい名前ですよね。
なんだろうな、なんかすごい名作曲家、名書、小説書く人みたいな。
兵庫くん夏彦みたいな。
そういう奥行かしさを感じる名前。でも確かに筒美っていう意味付けも素敵だね、やっぱね。
兵庫くん夏彦。
そこ掘りますか。全然関係ないこと言ったら、さらっと流してくれるかもしれない。
綺麗な名前だなと思って。
そうですね。繊細な感じが響きですよね。
繊細な感じの。
これは亡くなられて、本当に影響さ、今今僕なんかめっちゃ歌謡曲とかリアルタイムで聴いてないし、
そこまでJ-POPの影響も受けたから、今もこうして振り返ってみて偉大さを知るっていうね。
その時に亡くなられてるっていう切なさ。
これもまた今の時代の比較にしちゃいけないんだけど、出てこないんでしょうね、こういう。
小室さんとかさ、あの世代以降そんなにいないよね。
作曲家とかプロデューサーとかってあんま。
そう。
つんく。
でもつんくもあれですよね。作曲家として売れてるトップランキングの5本のエビぐらいにしか入らないですよね。
そうでしょうね。
だからあの人もあの人でシャランキングの時には想像できない音楽をめちゃめちゃ作ってるじゃないですか。
24:00
そうそうそうそう。
いい歳越えたおじさんがミニモニひな祭りって言って歌詞書いてるんですよ。
プチモニとかね。
やばいよね。考えてみると相当クレイジーですよね。
すごいですよね。
あの確かにアイドルの若年化の進化ってあるじゃないですか。
より若年化していくみたいな。
あのムーブメント作ったのつんくだよね。
でももしかしたら今以上かもしれないですね。だって小学生じゃなかったですか?
あの辻ちゃん加工ちゃんって12、3歳だった気がしますよ。
中学生か。
いや、小学生でした。
完全に小学生でした。
さすがに今それはないですよね。
言っても。
今ちょっとやばいの。法律的になんかわからないけど。
言っても高校生とか。
ないない。そうそうそう。
ですよね。
そんなもんですよ。
ですよね。AKBとかはね。
そうAKBなんてもうありとこう社会人クラスの人が平均年齢なんですよ。
異常者だよね中田さんつんくんが。
そこがすごいんだけど。
そうそう。
でもあのこれちょっとつんくさんの話になってきちゃうけど。
なんかあのいわゆるアイドルっていう存在をこうネクストレベルに引き上げた感じはしますよね。
つんくさんって本当に立ち位置とか存在とか考え方とか。
要はなんかさちょっとその90年代のアイドルに対しての向き合い方って。
これ僕はもう世代だったんでわかるんだけど。
ちょっとねオタク文化だったんですよ。
オタク文化で当然男がそういう追っかけてるなんてちょっと言いづらい。
80年代過ぎちゃうと言いづらい雰囲気あったの。
だからみんなバンドとかに行くんだけど。
それをさ90年代後半ですよ。
あのモーニング娘。の衝撃。
そうそう。
行きましたよあの男性が大学生がもう普通にさ聞くしさ歌わせるしさ。
でもなんかその敷地が下がってめっちゃいいじゃんみたいな感じでアイドル音楽をさ若者が聞き始めて。
そうそうそうそう。
でそのロリータイズムみたいな。
だからモーニング娘。最初はそのオーディションで落ちた。
結局モーニング娘。が落ちたオーディションでグランプリになったのって確か平家。
平家道夫ね。
平家道夫ね。
結局今の親しみやすいアイドルっていうものを作った感じなんですかね。
あれ確かにそうだわ。
でなんかしかもそのなんて言うんだろうね。
本当にその女の子がさ。
男の子のアイドルもいたけどさジャニーズとかさ。
女の子がいわゆるアイドルを目指すラインがとりあえずその小学生から目指せて。
しかもすごいもう日本のヒーローアイドルになれるみたいなさ。
意味をさ提供した感じはさ圧倒的にありますよね。
27:02
だから自分でもなれるんじゃないかって思わせるプロデュース力と言いますか。
ちょっと身近な感じというか。
綺麗な人もたくさんいるけど。
それでいて圧倒的な楽曲のクオリティっていうところはあったと思いますモーニング娘。
曲はすごいよ。
またパフォーマンスとかエンターテイメントもすごいですし。
いまだにH.A.B.グループがいてモーニング娘もいますけど
いまだにモーニング娘ってやっぱりダンスのクオリティとかそういうパフォーマンスレベルが高いっていうので有名ですもんね。
なんかどんどん激しくなってる。
行き着くところまで行っちゃった感じはあるけど。
確かにね。
ちょっとこれつつみ先生の話からツンク先生の。
ツンク会やってもいいかもしれない。
ツンク会これ盛り上がるときは結構。
僕もねツンクさんは大好きで。
本当に。
めちゃめちゃ影響。
あの人の作詞術の本とか結構読んだりとかして。
曲はさ実際ほんとヤバいよね。
たぶんつつみ先生もつつみ先生じゃなくて書けないんだけど。
ツンクの曲ってさ絶対ツンクじゃないから書けない。
そうですよね。
いやそれ下なんだけど歌詞とかもそうなんですけど。
世界観とさ。
だから自分がパフォーマーとしてフロント前に立ってたとき自分でも気づかなかった世界観なんですかねもしかしたら。
自分たちの音楽ではやってなかったもんね。
でもなんかそのシャラン級時代からやっぱある意味異質さというか普通じゃない感じっていうのは感じてはいたんですけど。
それがそういう方に繋がっていくっていうのはあの時は思わなかったよね。
シャラン級をやってるシャラン級のツンクのイメージからはちょっと思いつかなくて。
こうなっていくんだなと。
とんでもない可能性をあの時秘めてたんですよね。
シャラン級でやってた時。
だからすごいよね。
ちょっとこれはツンク界はまた別枠で話せればと思うんですけど。
ということでちょっとねツツミ先生の伝説っていうとこもほんと拙いねちょっとリサーチ力ながらちょっとお話しさせていただいたんですけど。
なんかねまたツツミ先生の曲とかをリストアップしてプレリスト作ったりとかしても面白いかもしれないですし。
どんどんちょっとねこういう僕らこういうね古い音楽とかツンクさんとかすごい音楽家みたいなすごいリスペクトしてる人がたくさんいるんで。
全然口回らないですよ。
ちょっとそういうエピソードねまた話していけたらよいかなと。
というところで今日は終わりです。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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