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2022-12-13 34:13

第94回「満州移民」国策でなぜ満州へ?満蒙開拓団の実態

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かつて満州へ約27万人ほどの日本人が移民した時代があった。
人々はなぜ海を越え満州へ渡ったのか?
そしてそこで何があったのか?
今回はそんなお話をしています😊

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00:04
始まりました、「大人の近代史」。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
乗ってきた、即興で。
まあ、なんかね、出だしの感じがさ、これは俺は乗った方がいいやつだなってちょっと思ってね。
いや、俺も迷い迷い、迷いながらやってたけど。
なんか、いつもの一言ゼリフじゃないからさ、あれって思いつつもね。
そう、まあ、というのも今日は前にね、リクエストもらったものをやろうと思って。
お、リクエストですか。
はい。これね、前回ちょっと男目の回でも読み上げたものなんだけど、
ちょっと重複しちゃうかもしれないけど、あとちょっと抜粋して読みます。
手に親さんからいただいたもので、
子供の中学の日本史資料を見たところ、満州への移住は長野からが多かった。
当時大荘外で草原が被害に遭い、かなり無理をしながら半ば強制的な国策の移住で、
多くの方が苦労したようです。
移住といえば南米もあります。
この辺、戦後ぬくぬくと生活している私たちが知らない日本人の苦労なので、
取り上げていただけたらなと思います。
っていただいた件で、今日はやりたいと思います。
なんかいいね、良さそうなやつじゃん。
壮大だけどね。
ということで、テーマはね、
満州移民を中心にやっていこうかなって思ってます。
なんか、満州事変も小片郎がやったからね。
なんかもう、満州は小片郎のものって感じだね。
いや、ものじゃないわ。
ただちょっとね、今回やるのは、
満州移民が実際現地でどういったことを、
詳細の様子を細かくっていうよりは、
満州移民とは、みたいな大枠の回になるかなっていう感じですね。
なるほど、なんかちょっと大枠の方がね、
なんか移民っていうものを捉えるときにはいいかもしれないね。
そうそう、というのもさ、満州でもさ、やっぱ広大な地域でさ、
入魂した時期によっても様々なケースがあるし、
あとその地域の場所によっても様々なケースがあるんで、
あんまりこうピンポイントにっていうのが難しいんだよね。
じゃあまず、満州移民とは、
これ、朝鮮半島の真上に位置するのが満州なんだけれども、
この満州にはね、約ね、27万人ほどの日本人が移民したって言われてるんだよね。
で、日本っていうのはさ、北米とか南米など、移民をしてきた過去があるんだけど、
で、アメリカでもさ、ブラジルでもさ、日系社会ってあるよね。
うん、そうだね。
今でも日系アメリカ人とかさ、日系ブラジル人とかよく聞くけど、
この満州に関してはさ、日系社会っていうのは今はもう存在してないわけよ。
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そう、これは満州国崩壊とともに、満州移民の存在っていうのは姿を消してる。
まあ、そんなとこからちょっと入って、時代背景から少し話したいと思います。
まずね、1931年に満州事変があったと思うんだけども、
詳しくはね、満州事変の回をちょっと聞いていただけるといいかなと思うんですが、
これによって日本は武力で満州全域を実質的に支配したんだよね。
で、満州国建国から2年経って、愛心閣羅府議っていうのを皇帝として、
満州帝国が誕生する。
そう、で、この府議は新王朝最後の皇帝なんだよね。
それが新外革命によって、約250年続いた秦が滅びて、皇帝の座から彼は引きずり下ろされるわけなんだけども、
そして新たに中華民国っていうのができる。
で、もともと新王朝っていうのは満州の地から発祥していて、
それが北京に都を移して中国全土を統一したっていう経緯がある。
だから、府議にとっても満州っていうのは特別の土地で、
そこで新王朝の復活を彼は夢見てたわけなんだよね。
だけど、現実は日本軍によって支配されているっていうような状態だったんだよね。
で、満州国っていうのは表向きは、例えばスローガンで言う五族共和って言われるのがあって、
この五族っていうのは、漢族、満州族、蒙古族、朝鮮族、そして日本人の5つの民族が協調して暮らせる国とするスローガンを掲げたんだよね。
でも、これは実際は日本人が優遇されてるっていう現実だったんだよね。
で、そんな満州というね、日本本土の約3倍にも及ぶ広大な土地に日本人を移住させていくっていうのが今回のお話です。
じゃあ、それでは本題に行きましょう。
せーの。
え?何そのせーのって。
いや、長室が何か言ってくれるかなって思ったんだけど。
あのね、さすがに1、2秒じゃ考えつかないな。
せーのって言ってる間に俺考えなきゃなんでしょ。
そのせーのの意味を理解して、やべ、俺何か言わなきゃっていう恐ろしいよ。
それで来たら多分相当だね。
本当に。ということで、満州国っていうのが建国して、1932年から3年余り、試験的に日本から移民を送り出したんだよね。
これは農業に従事している在郷軍人って言われる人が中心だ。
在郷軍人って退役した軍人とか、予備役って言われる必要に応じて軍に招集される人たちが対象だった。
この試験移民っていうのは、第一次武装移民とか第二次武装移民っていうのがあって、
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それぞれ第一次武装移民だったら約500人とか、翌年の第二次武装移民は約また500人ぐらい、試験的に移民を送り出してるんだよね。
移民する土地にはさ、多くは現地のすでに農民がいたんだよね。
その土地を武力を背景に不当に安い立ちの企業を支払って移転させているんだよね。
一人これね、5円の立ちの企業っていう話もあったりとか、かなり不当に安かったっていう現実がある。
で、これ武装移民って言葉からして、ただの移民じゃないんだよね。
現地の反日を掲げて襲撃する人たちが大勢いたわけなんだけど、
これを日本は秘族と言って、この秘族と戦うこともこの移民っていうのはしてた。
まずちょっと秘族っていうものなんだけど、もともとマンシュには警察組織の役割が不十分で、
農民が一定の税を収める代わりに外部からの攻撃を退けるための集団がいたんだよね。
それがマンシュ事変の流れから、さっき言った強制的な土地買収もあって、
現地の農民も秘族に加わって日本移民に対する抵抗が続いてたんだよね。
だから日本は当時秘族って言ってるけど、
現地の人からしたらどっちが侵略者なのかっていう話になるんだけど、
いろいろ大きな抵抗があって、大きいもので言うとイラン事変っていうのがあって、
最大1万人近くの現地の農民を中心に結集して日本人移民を襲撃したっていう事件で、
これに対して関東軍が反撃に出て、約5000人以上の人を殺害してるっていうのもあったりとか、
その後日本っていうのはさらに大量にマンシュへ移民を送るっていう舵を切るんだよね。
それはなぜかっていうと、1つ目はブラジル移民に規制が入るんだよね。
日本から多くの日本人がブラジルへ移民していた頃で、
それは国が移民を推奨して渡航費の補助を出してたっていうのもあって、
だからブラジルへ行くか、マンシュへ行くかって言われるほど海外移民が盛んだった頃なんだよね。
温暖な気候になれた日本人には関連地のマンシュよりもブラジル移民が当時は推奨されてた。
そんな時期に1934年にブラジル政府が日本人を含む外国人移民の数を制限したんだよね。
なぜならブラジル国内でもハイニチの意識の高まりがあって、
この規制によってマンシュ移民を推奨する声がどんどん大きくなっていくっていうところがあった。
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2つ目は軍部の力が強くなっていったんだよね。日本国内で。
これは1936年に226事件があったんだけども、
これは軍の青年将校らが中心に首相とか閣僚らを襲撃した事件なんだけども、
ここで当時大蔵大臣をしていた高橋小暦夫が殺されるんだよね。
彼はマンシュ移民を強固に否定していた人で、
そのためマンシュ移民への大規模な国の予算を取ることができなかったんだよね。
彼はなぜ反対していたかというと、マンシュはそもそも治安も悪くて、
すぐ北のソ連の脅威もあるし、戦争の火種を生む行為になるから反対していた立場だったんだよね。
その高橋小暦夫が226で殺されて、
これをきっかけに、この226事件自体で軍の力が強くなっていくわけなんだけども、
軍は積極的にマンシュへ介入するという意見が多い立場で、
その上で誕生したのが広田広紀内閣なんだよね。
広田広紀内閣が掲げた国策があるんだけども、
これが20カ年100万戸創出計画っていうのを掲げる。
これは20年間で100万世帯、500万人の日本人をマンシュへ移民させるっていう計画なんだよね。
当時、日本本土の総人口っていうのは約7000万人いて、
日本の総人口のこれ7%に相当して、
日本人100人中7人がマンシュに渡るっていう壮大な計画をするわけ。
この国の目的は何なのかっていうと、
国は農村の貧困が当時問題になってて、
これは人口過剰による農地不足から起こっていて、
人口が多い日本から人口が少ないマンシュへ日本人を移動させれば、
人口と土地の問題が一気に解決できるっていうふうに表向きはしてたんだよね。
農村の問題の根本原因は、
開拓しても再産が取れない日本経済にあるって当時訴えてた資料があったんだけど、
これ確かになーと思って。
まあそうだろうね。
この国の本当の目的というのは、
一つ目は、移民によってやっぱりマンシュの支配を強めたかったんだよね。
二つ目は、ソ連からの防衛っていう意味で、
マンシュの意味を増やしたかったっていうのがあると思うんだよね。
この後にどんどん移民が積極的になる中で、
マンモー開拓団っていうのができるんだよね。
これで多くの日本人がマンシュへ渡るんだけども、
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マンっていうのはマンシュのことなんだけど、
モーっていうのは当時ウチモンゴルの一部も含まれてたから、
場所として。
なのでマンモー開拓団って言うんだけど、
これが国から県とか各自治体へと開拓団の募集を募っていくんだよね。
いろいろな形の開拓団が当時マンシュへ送られてるんだよね。
例えば、町や村単独で形成される文村開拓団って言われるものだったり、
あと複数の町とか村からなる文豪開拓団っていうのもあったりする。
で、移民の仕組みなんだけど、
これ国策だから都交費の全額補助が出たり、
農具だったり家畜などの補助金も出たりするんだよね。
例えば、文村移民を決定した自治体には国から特別助成金が降りたりとか、
かなり優遇政策を取ってた。
反面、これ10年以内に帰還した人たちに対しては、
寄留者として扱うんだよね。
これ寄留者って元いた本籍には住むことはできないってことで、
さらに補助金の返納もしなければいけないっていうような条件があって。
だからマンシュ移民っていうのはもう片道切符なんだよね。
実際にこれでも優遇政策取っても思うように集まらずに、
1938年に16歳から19歳の子供たちを集めて送り出す
マンモー開拓少年義勇軍っていうのが募集が開始される。
しかも太平洋戦争がこの後始まって、
人員確保が難しくなってきて、
さらに年齢が引き下げられて、
14歳から15歳の少年も対象になるんだよね。
このマンモー開拓少年義勇軍っていうのは、
国内で数ヶ月訓練をして、
現地のマンシュで3年ほど訓練した後、
入婚するっていうことなんでね。
すごくない?14歳とか15歳だよ。
しかも当時のって今よりも発達が遅いじゃん。
だから本当にもうちょっとすごい子供なんだよね。
多分そのぐらいの年って見た目っていう意味では。
それで治安の悪いところに行くわけじゃん。
恐ろしいね。
まあそうだね。
結果、全国からマンシュ開拓団と、
そのマンモー開拓少年義勇軍を合わせて、
冒頭でも言ったけど、
合計約27万人がマンシュへ渡ったとされてる。
開拓団の数は800ぐらいになってたって言われるんだよね。
ここで開拓っていう言葉使うじゃん。
最初は移民っていう言葉が使われてたんだけど、
途中から政府があえて移民を開拓民っていうふうに名称変更してるんだよね。
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これ移民って言うとさ、
単に他の国へ移り住むことっていうようなイメージを受けるじゃん。
まあそうだね。
でも開拓ってなるとさ、
未開地の荒れた大地を開墾していくイメージを受けるよね。
まあそうだね。
実は開拓団として行った人たちでさえ多くがそう思ってたんだよね。
だけどこれ実際に行ってみると、
開墾された田畑が用意されていて、
家まであったっていうのが大半なんだよね。
これはさ、現地にそれまで住んでいた人から通常の土地価格の1割にも満たない、
不当に安い価格で強制的に買収して用意されたものが大半なの。
確かにさ、一部未開拓の部分もあるにはあったんだけど、
とてもじゃないけどさ、
この開拓って言葉っていうのは現実とかけ離れてるんでね。
だから教科書にも補足を入れてください。
なんだよそれ。
いやさ、俺本当に学校で習った時さ、開拓してたんだなと思ってたのよ。
長丸どうだった?
マーシュ自体もともと開拓はされて、
なんだろうな、未開じゃないわけじゃん。
もともと人がいたわけだし。
そうだよね。
だからなんだろうな、ブラジルとかそっちとは違うイメージはあったけど、どっちかっていうか。
やっぱマーシュは侵略してったっていう感触はちょっと強かったからさ。
確かにね。
開拓民っていう言葉を聞いて、開拓もしてたんだろうなぐらいにしか思ってなかったけど、
実際今それ聞いて、そうなんだっていう感じだね。
開拓してた部分もあるんだけどね。
ゼロじゃないと思うよ、さすがに。
だから言葉が持つイメージって怖いなと思って。
開拓民って言ったらさ、それこそ北海道の時みたいな感じじゃん。
どんどん明治維新になって開拓してたみたいなさ、あれを想像するけど、実際はそんなに開拓はしなかったってことだよね。
これさ、多くの人がマーシュ移民を決断した理由にちょっと触れたいんだけど、
マーシュ移民って最後まで公募制を採用してて、
これ自発的な応募なんだよね。
これはさ、軍隊が強制的に徴収してたさ、徴兵制とは全く違うんだよ。
要因として考えられる一つ目はさ、経済的理由からっていうのがあるんだよね。
当時さ、世界恐慌の煽りを受けてさ、貧しい生活をしてる人が多くいたわけで、
特に農村部だったりとか、
そこにさ、国策として補助金が出て優遇されるマーシュっていうのは魅力的に移ったんだよね。
マーシュ移民はさ、他の移民とはさ、一室で低賃金で働く労働者の扱いとしていくのではなくて、
最初から農業経営者としての地位が保障されているケースがほとんどなんだよね。
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で、実際さ、入魂地の農業労働は、それまで満州にいたこの現地の農民を雇って働かせたりもしてた。
で、理由の二つ目はさ、戦争に巻き込まれるのを避けるためっていうのもあるんだよね。
満州へさ、開拓団として行けば、当時兵役免除になるっていう風にされてた。
で、その満州にはさ、空襲もなければさ、本土決戦の不安も当時予想されなかったんだよね。
で、実際にさ、戦争末期には日本本土でさ、空襲で家屋を失った人たちが、
満州開拓団として参加するケースもあったんだよね。
それとさ、北にはすぐソ連がいるわけなんだけど、ソ連とはさ、日ソ中立条約があってさ、安全っていう風に思ってた。
それとあと、満州にはさ、そもそも当時無敵と言われた関東軍っていうのがいて、
それもあって決断した要因にもなってる。
で、三つ目はさ、これが一番大きいんじゃないかなと思ったけど、いろんなところからの勧誘なんだよね。
国からさ、県とか各自治体へと満州を推奨する流れがあって、
これはさ、映像とかの映写会とか、相談会など、こう大々的にさ、勧誘活動が進められていくんだよね。
で、例えばさ、村の偉い人からさ、こう熱心に進められるわけよ。
で、村社会で生きてる人たちにとってはさ、こう有力者に逆らうことってさ、大変なことで、
周りに決断した人がこう出てくると、お前も行くなら俺も行くっていうような仲間意識があったんじゃないかとも言われてて、
で、これさ、学校でも募集が行われて、例えば教員から直接満州移民を進められるケースも多かった。
そうそうそう。若い子たちも行ってるわけじゃん。青少年義勇軍なんてまさに学校行ってる世代だし。
これどう?うちらが学校行っててさ、先生にさ、アフリカこれから経済発展するから移住してみたらって言われたらね。
すごいことだよね。
まあでも夢はあるよね。
確かにね。だからそういうのもかなり大きな影響を占めてるんじゃないかなっていう。
多分日本にいたらさ、当時の経済状況からするとさ、多分もう先が見えてたわけじゃん。おそらく。
まあ多分このまんまじゃあ農業で農村で働いてとかさ、まあわかんない。
なんか労働者として働いてって言ったってある程度さ、見えてるわけじゃん。こうなるっていうのが。
確かにね。
それに比べたら何か満州でちょっとうまくやって一発当てちゃうかもしれないみたいなさ、ことを言われたら乗っちゃうよね。
まあ確かに。まさにそういう人たちが多くいたんだよね。
で、ここでさ、あのちょっと冒頭で言ったさ、手荷親さんからさ、コメントがあったやつで、長野県が一番多いっていうのがあったんだけど、
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長野県がね、確かにね、最大の移民喪失県で約3万7千人送り出してる。
2番目はね、山形県で約1万7千人なの。
だからね、2倍以上引き離してるわけよ、長野県が。
しかもね、山形県っていうのは1943年以降、満州への移民は収束してるんだけど、
長野県はね、終戦を迎える1945年まで送り出しが続いてるっていう県なんだよね。
なんでさ、この長野県が多いのかっていうのがさ、ちょっと気になって調べてみたんだけど、
これね、難しくて、結局のところね、これが原因だって特定するものがね、かなり難しくて、
さまざまな要因が重なり合って、結果長野県が一番多くなってるっていうイメージなんだよね。
でね、ちょっといくつか要因として考えられるのが、
1つ目はさ、養産業として栄えていた村が多かったんだよね。
養産ってさ、カイコね、カイコを育てて、マユを作って売るっていうような仕事なんだけど、
で、世界恐慌のこれさ、影響を受けて、マユの価格が当時暴落したんだよね。
で、山間地が続く地形的な問題もあって、養産以外の転作がうまくいかなかった。
で、長野県はさ、1セタあたりの耕地面積が少ないケースが多くて、
山に囲まれているのもあって、こう、新たに開墾できる土地も少なかったんだよね。
今でもさ、長野県ってさ、8割とか7.5割とかか、森林でこう、占めてるんだよね。
あー、そうだね。
そう、国内有数の森林がある県なんだけど、
これはさ、キキキリン以上に木に囲まれてるの。
木、木、木、林。林も、でもね、林って書けば林になるしね。
そうだよ、キキキリンって、だって林、林だよ。
あれ、木、木、どういう字だっけ?
え、すごいんだよ、これ。樹木の樹に、普通の木に、で、希望の木が入って、
あー、そうだ、そこで希望の木か。
そうそう。いや、実際にこれあれなんだって、木が集まって稀な林を作るっていう意味でつけてるから。
へー。
そうそう。いや、すごいなと思って。
まあ、なんかよくわかんないけどね、稀な林を作るっていうところが。
ごめん、ちょっとそれだけど。
たださ、長野県って言ってもさ、まあ広いから、すべてそういう今回のその要因に当てはまるわけではないんだけど、
各町とか村ごとにこう様子は異なるんだけどね。
2つ目はさ、組織的にこう推奨する力が強かったんじゃないかって言われてて、
長野県ってまあ標高が高いところも多くて、気温も低くて、山林が多くて、耕地面積が少ない地方を国は満州移住の重点的な対象としたんだよね。
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で、そこに長野県は注目されてる。
で、こういう政府の方針を実行するために、県から市とか市から町、村へとこう満州移民が推奨されていくんだよね。
で、その中でいくつかあるんだけど、1922年に設立した品野海外協会っていうのがあって、
これ民間団体なんだけど、長野県知事を総裁として、当時ね、海外思想の普及とか海外移民を支援する目的で作られたんだよね。
で、それまでさ、南米を重点的に移民活動してたんだけど、そこが満州移民に重点的に力を入れるようになったっていうのがある。
で、あとはさ、各ローカルメディアとか、例えば品野毎日新聞とかも満州移民を支持して積極的に記事を書いてた。
で、各村の応募状況を競わせるように報じたりとかいうこともあった。
で、あとはもう長野県議会とか品野教育会っていうのも移民をこう積極的に推奨していった。
そう、だから長野県全体でそういう動きが強かったんだよね。
で、勧誘のための座談会とか英社会とか頻繁にこう開催されたんだよね。
で、結果、いろいろな要因が重なり合って長野県が突出して多いんじゃないかっていうのが、ちょっと調べたイメージではそんな感じかなっていう。
なるほどね。
で、このさ、満州移民した人たちってさ、1945年の8月8日の深夜にソ連が日ソ中立条約を破棄してさ、日本に宣戦布告したんだよね。
これによってさ、満州でも北からソ連軍が進行してきたんだよね。
でさ、この時に日本は満州の4分の3を放棄して、南方へ多くの部隊を移動させる作戦を取ったんだよね。
これさ、ちょっと沖縄戦と似てるとこもあるんだけど、時給戦に持ち込むためでもあったんだよね。
さらにさ、あの満州でさ、寝こそぎ動員って呼ばれるさ、
満州にいる18歳から45歳までの日本人男子約25万人を現地の軍隊に組み入れたんだよね。
で、その多くがマンモー開拓団の男性だったんだよね。
でさ、開拓団行けばさ、兵役はないって言われてたんだけども、この満州で実際に召集されるっていう。
で、しかもさ、武器はさ、すべて行き渡らなかったから、竹槍とかで武装する部隊さえもあったんだよね。
いや、これもめちゃくちゃだよね。
なんか日本はね、そういうの多いよね。物資がないからっていう話、結局。
そうだね。でさ、この南方への避難っていうのはさ、
軍やさ、南満州鉄道の社員の家族から先に輸送を開始してたりするんだよね。
例えばさ、他の民間人が蒸気船に乗って避難しようとしたケースもあったんだけど、
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船を降りるように関東軍に命じられて、軍の輸送を優先するんだって言われて、降ろされてるケースがあるんだよね。
でさ、満州に残された女性とか子供、お年寄りっていうのは、
ソ連兵が襲撃してくるわけで、そこでさ、射殺されたりとかさ、
中には戦車に轢かれて下敷きになって殺されたりとか、合間されたりとか、そういうケースもあって、
これソ連だけじゃなくてさ、現地の中国人っていう言い方が正しいのかちょっとあれなんだけど、
もともと満州にいた現地人に襲われるっていうこともあった。
これはさ、日本に対する恨みからさ、起こっているわけなんだけども、
今までの満州事件から成り立ちから見たら、ちょっと想像はつくんだけども、
中には日本人の子供を引き取ってこっそり育ててくれたケースっていうのもあったんだよね。
こんな風にさ、満州にいた人っていうのは、ソ連兵からもその現地民からも襲撃されて逃げ場がないような状態があったんだよね。
追い詰められた開拓団っていうのは、集団自決をするケースが結構多くあった。
当時はさ、捕虜になって命漕いするより潔く死を選ぶことが尊い生き方っていう風に教えられてたんだよね。
これは、現代の人にはなかなか理解しにくい考え方かもしれないよね。
実際に母親が幼い子供に手を合わせて、後ろから紐で首を絞めて殺してから、その後自分たちも自殺をするっていうケースも結構多く見られた。
兵庫県の高橋村の開拓団は、500人中約300人が富良川っていうところに闘心自殺をしたりとか、
あとは水穂村開拓団っていうのは、約500人が服毒自殺をしてるんだよね。
こういうケースね、結構他にもいろいろあんの。
さらに避難途中で全滅したりとか、記録にさえ残らない開拓団っていうのも実際にあるんだよね。
こうして満州に移り住んだ人の犠牲者っていうのは、合計で約8万人を超えてるって言われてる。
約27万人いたとされて、8万人だから3、4人に1人は亡くなってるんだよね。
すごい数だよね。
これ生き残ったとしても、ソ連に捕まってシベリア浴竜に会う人たちも多くいたわけよ。
あとは幼い子供とかは難民になって、孤児になって、日本に帰れない残留法人っていうのは約1から2万人ほどいたって言われてる。
この当時日本の政府は、満州へ残された日本人を早期に引き上げるってことはしなかったんだよね。
30:00
理由は、敗戦後に予想される国内の混乱とか、食料物資の不足っていうのもあって、
さらにさ、中国への侵略をまだ諦められない軍部の思惑なんかもあったんじゃないかって言われてる。
そのためさ、多くの日本人が取り残されたんだよね。
これはさ、ずっと長いことを続いて、1972年の日中国交正常化によって、やっとその残留法人の存在が赤読みになったんだよね。
ようやくここで帰国できた人たちもいた。
それでもさ、まだ残された人たちもいるし、現在でもこれ多くの問題が残ってるんでね。
またさ、日本に帰った満州移民の人たちって、満州外離とか言われて差別を受けたケースがあって、
例えばさ、国のために亡くなった軍人と開拓民を一緒の異例祭を行わないでほしいとか、
軍人なのか開拓民なのかで差別が生まれたんだよね。
国策でいってさ、開拓大に対してさ、彼ら彼女らを守るっていう国の働きがなかったことが悲しいことだなって思いました。
はい、そうですね。
いかがでしたでしょうか。
まあ、そうだね。やっぱさ、戦争ってさ、単純に人は死ぬとかさ、そういうのもそうなんだけどさ、やっぱりその後引きずるじゃん。
そうだね。
結構やっぱその、残留孤児問題っていうのはさ、ずっと今の今にまでさ、引っ張っててさ、で、時々やっぱりニュースでさ、
私は残留孤児二世ですとかさ、そういう人も出てくるんだよ。
まあ今はさ、当時の残留孤児っていうのはさ、年齢的にちょっともう亡くなっちゃってたりするからさ、
二世とかが今出てきてたりするんだよね。
親が日本人なんだけど、中国人に育てられた子供の子供みたいな。
あー、はいはいはい。
そうそうそう。で、ね、もちろん日本語は喋れないし、国籍も中国だからあれなんだけど、やっぱりルーツは日本にあるから、
なんか日本に住みたいなみたいなさ、こう出てくるけど、日本には行けないみたいな感じでこう出てきたりするんだけど。
うん。
なんかやっぱそういうね、戦争がもたらしたさ悲劇っていうのはさ、ずっとこう、戦後70年とかも経ってるわけじゃん、70年、もう80年とかっていうさ、
月日が経ちそうなところなのに、まだまださ、そういう問題が根深く残っててさ、領土問題もしっかりだけどさ、ずっと過去を残していくよね。
あー、そうだね。
だからもう満州を開拓したことが良かったのか悪かったのかって言ったら良くなかったよねっていう結論になっちゃうんだろうなと思うけどさ。
そうだね。
結果ほら、満州を開拓してったっていうか、満州国作ったことで国際関係は悪化して戦争の道に行っちゃったわけだしね。
そうそう。じゃあ最後にね、ちょっと満州に渡って、なんとか生き残って中国に残留した日本人女性のね、言葉が印象的だったので、ちょっと読み上げたいなと思うんだけども。
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この人がね、言ってた言葉で抜粋すると、
戦わされた男の人たちも大変ですが、社会で弱い立場の女性や子供たちに一番その犠牲が強いられているようでなりません。
そしていつも戦争だったからという誰の責任でもないように、うやむやのうちに葬られ一番先に忘れられていくものです。
って言ってるんだよね。
ちょっと心にガツンときましたね。
まあね、戦争は良くないよっていうところで本当に。
ということで今回は満州移民について取り上げました。
はい。
今回ね、ちょっとテーマもコメントをいただいたところから始まっているので、
もしよかったらね、概要欄にコメントを送るリンク先あるので気軽に何でもいいのでコメントくれたら嬉しいです。
はい。ぜひともお待ちしてます。
それでは最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。
34:13

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