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スピーカー 1
空に憧れて空を駆けて行く あの子の命は飛行機雲
スピーカー 2
始まりました。大人の近代史、よろしくお願いします。 よろしくお願いします。何だろう?わかんない。
うそ?これあの名曲、飛行機雲。 え?あの松桃屋由美の。別に言ってしまえば世代じゃないからね。
スピーカー 1
うそ?いやでもあれだよ。これさ、あのジブリの風立ちぬとかにも使われた曲だからね。
風立ちぬでそういう曲だったっけ?ちょっと覚えてねーな。見たけど。 ちょっとね、その映画とはずれちゃうかもしれないんだけども
スピーカー 2
今回はね、中島飛行機をやりたいと思います。 出たよ。もう素晴らしいね。もうこれあれだよ。今もう待ってました。
スピーカー 1
みんな喝采してるよ。 いいんだよ、無理して。そんなの持ち上げなくて。
いやいや、もうそれがやっぱおときんのね、もう今ね、しょうがない。もう事実だから。 いやいや、今日すごいずっとね、飛行機雲聞いてきたから。気持ちはね、入ってるから。
いやいや、そこいらないでしょ。 そうそう。まああの自分自身もね、ちょっと空に時間を費やしてきた。
スピーカー 2
で、今日はこの中島飛行機をやりたいと思います。 空に時間を費やした意味がよくわからないけど。
でも確かに小片郎ってさ、パラやってたからさ、あのそういう、なんだろう、空を飛ぶっていうことに関してはさ、まあいわゆるもうプロだよね。
いやいや、怒られるよマジで。パラグライダーだから全然違うけどね、飛行機とは。 まあ原理は違うからあれなんだけどさ。でも空を飛ぶっていうところは一緒じゃん。
スピーカー 1
そうだね。まあということで、ちょっとこの中島飛行機っていうのは、戦前ね、航空機メーカーとして三菱重工と並ぶ巨大企業だったんだよね。
1945年の終戦とともに姿を消してしまった会社でもあるんだよね。
で、このね、中島飛行機は創業者がね、中島築平っていうんだけれども、この人群馬県の出身で農家のね、長男として生まれて、
あの農家を継ぐために親からはね、あのそんな教育は必要ないっていうふうに言われて、高等教育とか受けさせてもらえないような環境だったんだよね。
で、ただね築平っていうのは16歳の時に親の金をくすめて、勝手にね、あの東京へ行っちゃうんだよね。
で、その後ね、自力で勉強して南韓のね海軍機関学校に入学してるっていう人なんだよね。
すごいよね。
スピーカー 2
まあ、親の金くすめて、まあ結果が出してるからいいと思うけどね。
スピーカー 1
ね、そうそう。で、海軍ではね、技術者としてフランスとかアメリカなんかも視察して、そこでね航空機の構造とか技術を学ぶ機会があったんだよね。
で、アメリカ行った時なんかは勝手にね、操縦免許を取得しちゃうっていうような、まあすごいね、堅破りな人なんだよ。いろんなところで。
スピーカー 1
三つ目は何と言っても終盤に国有化されたことなんだよね。
戦争末期に国有化されて終戦時中島飛行機っていう民間会社は形式上存在しなかったんだよね。
しかも戦時中大規模な増産に伴って工場を拡大して、国の圧戦で日本工業銀行っていうところから多額の融資を受けてたんだよね。
そのため戦後中島飛行機の役員とか全て退出させられて、日本工業銀行のメンバーに入れ替わって経営権を奪われちゃってるんだよね。
一方、創業者の中島竹兵っていうのは正解で、終戦直後は軍需大臣とか商工大臣を務めて大きな存在になってたんだけども、
突如GHQからA級先輩に指定されているんだよね。
彼は糖尿病だって言って、実際にA級先輩に出頭せずに応じなかったんだけども、これに対してGHQも強制的に連行するようなことはしなかったんだよね。
おそらくA級先輩に指定したのは中島飛行機の再建の活動をさせないためっていうふうにも言われてるんだよね。
こんなふうにしてこの会社っていうのは再建することなく姿を消したんだよね。
ただ中島飛行機の技術者っていうのは多くが自動車関連の分野で活躍するっていうケースが見られたんだよね。
これは1952年までGHQが飛行機の研究とか製造を禁止したっていうのがあって、そのためその技術が自動車産業へ注がれたんだよね。
例えば有名なのがスバルで、中島飛行機の関係者で作られた富士重工業が元なんだけれども、
特に軽自動車のスバル360っていう機種があって、これが飛行機製造の技術が色濃く反映されたものって言われてる。
全長3メートルっていう小柄なんだけど、エンジンをはじめ機械部分の狭い空間に集約して大人4人が乗れるようにしたものなんだよね。
航空技術を応用した超軽量構造にもなってて、軽自動車っていうカテゴリーを日本に根付かせたとも言われてるんだよね。
あとホンダ技研工業っていうのも中島飛行機のエンジン関係の技術者が多く就職をしたって言われていて、
ホンダ技研ってF1グランプリに参戦して1965年に初優勝してるんだよね。
この時の監督だったのが中島飛行機のエンジニアで、さらにそのF1のエンジンには富岳のエンジンで開発された低圧燃料噴射装置っていうのが取り付けられていたっていうのがあるんだよね。
他にもプリンス自動車工業なんかも中島飛行機の技術者で作られた会社だし、
他にもトヨタとか日産にも多くの中島飛行機の技術者が就職して活躍していったんだよね。
こんな風に日本の自動車産業の発展に大きく貢献していったんだよね。