イエスの復活の発見
お読みします。マルコ16章1節から8節。 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
そして、週の初めの日の早朝、日が昇った頃、墓に行った。 彼女たちは、誰が墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか、と話し合っていた。
ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。 石は非常に大きかった。
墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
青年は言った。
驚くことはありません。あなた方は十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのでしょう。 あの方はよみがえられました。ここにはおられません。
ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。
イエスはあなた方より先にガリラへ行かれます。 前に言われた通り、そこでお会いできますと。
彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。 震え上がり、気も動転していたからである。
そして誰にも何も言わなかった。 恐ろしかったからである。
以上です。 今日はこのところから
今日もイエス様に出会うと題して、みことは取り付けます。 みなさんおはようございます。
昨日もですね、だいぶ暑い日でしたけど、今日は一転して雨降りの朝で相当涼しくなりました。
昨日、その前からですけれども、
能登半島でまた大雨豪雨災害がありましたね。 まさに今年の元旦に起こった、野戸地震の同じ被災地がですね、
豪雨に見舞われて亡くなる方や、行方不明の方々も起こっているということで、心痛めるかと思います。
祈りながら、教会を通してでも赤十字通してでもですね、何かできることをそれぞれできればと思っています。
そんな朝ですけども、今日はいよいよマルコの福音書の復活の部分を見ていきます。 先週、一章一節から
神の子イエスキリストの福音というところを復習しました。 みなさんマルコの福音書を
おさらいしてみたでしょうか。 私はですね、1日少しずつ聖書を読んで、1年で読む通読というのをやっててですね、
ちょうどマルコの福音書が当たったものですから、頑張ってですね、全部読んでみました。
もう一度ですね、特にイエスが神の御子であるという、先週話したことを注目しながら見ていきました。
イエス様の言葉、イエス様の奇跡を伴う行い、そして周りの人たちの反応を通してイエス様が
神の御子、つまり言葉によっても、そして行動によっても、そして何よりもそのイエス様の本質がですね、神御自身と
互わぬ方であるということがマルコを通して、福音として語られてきたわけです。
その最大のものの一つがですね、先週言った百人隊長が十字架の上のイエス様を見て、この方こそ誠の神の子であったという
でしたね。そしてそこで終わりかと思ってですね、埋葬もありましたけれども、いよいよ今日のところはまさにイエス様が神の子であるということがですね、復活をもって証言されているところです。
そういうところですけれども、いくつか3つの点の中で、まず最初にですね、いつもながら聖書の箇所を詳しく見ると見えてくることに注目していきたいと思います。
どれほど衝撃的な出来事だったのかということです。私たちは慣れているので、さらっとたった8章の出来事、8節の出来事なので、読み流してしまいがちですけれども、もう一度ですね、
詳しく見ておさらいしたいと思います。ちょっとですね、アカデミックとまで言わないんですけれども、難しいかもしれないので、パープを見ながらとかですね、
帰ってレジュメを見て見返したりしながら、ちょっと味わっていただければと思います。あとの2つの点はですね、この復活の福音が閉ざされていないこと、そして最後は私たちの日常と関わりのある点から見ていきたいと思います。
まず最初ですね、見えてくる衝撃、ちょっとこれは西洋風の絵ですけれども、
イエス様の埋葬を見た2人の女性を含めた4人、その4人は
イエス様の十字架の死を見届けたわけです。その同じ4人がですね、 イエス様の墓に、埋葬されているイエス様の墓にこういう思って出かけるところから場面が始まります。
そしてまさにですね、そこで行天動地、 天を動かし地を動かす体験をですね、彼女たちがこの復活を通してしたというところが伝わってきます。
彼女たちがですね、この会話から当然もうイエス様は死なれていて、ご遺体があって、そしてこういうを塗りに行くという、そういう前提で話をしていたことが1説2説と見ているとわかります。
でそこで最大の問題はですね、3説にありますように、誰が墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうかということだったんですね。
先日も言いましたが、約1トンほどあるですね、直径1メーターほどの大きな石をですね、転がしてくれる人がいるか、皆さんも知ったらですね、女性だけで言って、
頼りがいのある女性もいるかもわかりませんけれども、1トンもある石をですね、上に転がしてあげなきゃいけない。 そういう問題があったんですね。
しかしご覧のように、4説にその結末が書いていました。 ところが目を上げるとその石が転がしてあるのが見えた。
石は非常に大きかった。 このですね、
詳しく見るとわかってくることはですね、まず石が転がしてあるという言葉が繰り返されています。
これ誰が転がしてくれるかな?でもそれが転がされていたという衝撃。 そしてわざわざですね、転がされた石の後にギリシャ語の本文を見てもですね、
石は非常に大きかった。 しかもその前にギリシャ語でガルというですね、英語のforにあたる理由がなぜか書いてあるんですね。
石が転がしてあるのが見えた。なぜなら石は非常に大きかったという書き方をしています。 とにかく重くて大きい石が転がっていたということが伝わります。
しかも2番目の転がしてあるのが見えたところはですね、元の原文で見ると、いわゆる英語で言う受導体です。
誰かがそれを転がした。実はそこには、 敬虔な信者が書く神という言葉を隠す方法で書かれています。
それは受導体で、まさに本当はですね、書いてないですけども示唆しているのは、神様によって石が転がされ抜けられていたということがわかる。
ここに神が力強い方法で介入したということが見て取れるわけなんですね。
そして彼女たちは墓に入ると、とても驚くわけですね。 詳しく言いませんが、いわゆる
密会に出会うわけです。白い衣を着た青年は密会、墓の右側に座っていた。
ここでもですね、
驚くという言葉が
2回使われています。 このパワーポイントには書いてありませんけれども、
16章のところを見ますとですね、
5節の最後にですね、彼女たちは非常に驚いたと書いてあります。 そしてその青年、密会とみられる青年は最初に
驚くことはありませんと言いました。 この驚きというのは
神とか神的存在と人が出会ったときに使われる威風の念、恐怖の念を表す言葉です。
そして、 難しいことをあえて書きましたけれども、
驚くという動詞の前にですね、エクというですね、
強調の言葉が使われているんですね。
エクサンベオマイ、エクというですね。 とにかくとっても驚いたっていうことが
女性たちの反応として書かれている。 そしてしかもその密会同じ言葉で、そんなに驚いてはいけませんよと
悟しているわけですね。 ここからもですね、
この出来事がどれほど衝撃だったのかということです。 そして墓が空であってここにはいない
イエスは復活したということを密会が告げるわけです。 そしてそのことを弟子たち、
ペテロたちに伝えなさいと、 密会はこの4人の女性に伝えたわけです。
しかしそれがどうなったかと言いますと、 後で見ますけども、16章8節。
彼女たちはですね、ここですね、 そこ、読んでみましょうか。この黄色いところ3。
そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。 ここにですね、
逃げていた。震え上がった。気も動転していたという。 どれほど恐ろしいことでしょうかね。
ある日、私は学生時代に教会に泊まったことがあるんですね。 ある大学の後輩とですね、教会に2人で泊まって、
夜、トイレに行った時にですね、 彼が怖いよ、密会にやったらどうしようとかですね、
言ってたのを思い出しますけれども、 そういう驚きと恐怖が伝わってきます。
で、ここの気も動転していたという言葉は、 英語でいうところですね、エクスタシーを表す言葉で、
これの頭にもエクという言葉がついています。 とにかく異常な興奮状態を持って出て行った。
そして驚きのあまり伝えなさいと言われたのにも、 伝えなかったということが、後でも詳しく見ますけども、
ここに記されているわけです。 少し難しいことになりましたけれども、このようにマルコは
復活がどれほど衝撃的な出来事であったのか、 そして彼女たちにとって信じ難い、驚くべきことであったのか、
ということを、実は定時に伝えていることが伝わってくるわけですね。 その上で2番目、では少しずつ私たちとの関わりを見ていきましょう。
復活の福音の拡がり
2番目、 閉ざされても広がる復活の福音ということですね。
同じ言葉を読みますけれども、16章の8節。 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。
震え上がり、気も動転していたからである。 そしてから読んでみましょうか。
そして誰にも何も言わなかった。 恐ろしかったからである。
皆さんの手元の聖書を見ると、 神科学聖書をうちの教会で使ってますけれども、
恐ろしかったからであるというところで終わっていて、 その後ですね、ちょっと行が空いて、カッコで括られています。
それはどういうことを指しているかというと、 マルコの福音書が元々は、この恐ろしかったからであるという言葉で、
物理と終わっているということを指しているんですね。 詳しいことは来週以降に述べるかと思います。
しかもこのマルコが、あえて中途半端な終わり方を知っているということが分かるんです。 実はそのことをもって学者が議論しているんですね。
マルコは本当にここで終えたのかということと、 昔はパピルスとかそういう神だったので、
いや、切れてしまったんじゃないか。 写本が切れてしまって、こんな中途半端な終わり方してるんじゃないかという議論があったんですが、
今ほぼ確定しているのは、これが元々マルコが書いた終わりだということなんですね。 しかもあえてそのマルコは中途半端な終わり方を選んだということなんです。
その理由について、ある学者がこのように伝えているんですね。 回括はありますけど、
マルコの福音書の終わりは終わりではない。 読者だけが終わりをもたらすことができる。
この完結しない物語は、ある意味で読者の側にボールを投げ入れて、 それは私たちを動かす。
私たちは物語の結果をどのようにすべきかを決断しなければならないのであると言っているんですね。
それは難しく言うとこういうことです。 簡単に言うとこういうことです。
マルコの福音書では、墓で見つかりのメッセージを聞いた女性たちも弟子たちも、 誰もイエス様の復活の知らせを何も知らせなかったというところで終えているんですね。
実は厳しい見方をすると、それを信じたとさえも書いていないんです。 福音を信じたのか、それを伝えたのかという弟子たちの反応、
また女性たちの応答が書かれていません。 その代わりに、読んでいる私たちにその結末を委ねている。
復活の希望の約束
つまりイエス様の復活を信じ、イエス様を神の御子、救い主であると信じるのか、あなたは、私は。
そしてそれに伴って、イエス様の福音、神の御子イエス様の福音を、 読者である私たちがどうするか、伝えるのかということが委ねられているということですね。
私たちはここにいる方々が信じておられるわけです。 私たちがその福音を信じていたとしても、伝えることは難しいと考えるかもしれません。
しかしですね、復活のイエス様の福音は、私たちの弱さを遥かに超えて前進していくということを、今日のこの箇所から知ることができます。
それはあたかも、この1トン近くもあって非力な女性4人では到底持ち上げられることができなかった重たい墓の蓋が、
神様によって取り除けられたということに込められています。 その重い蓋は、
復活したイエス様を閉じ込めておくことができなかったのです。 同じようにイエス様の復活の福音は、私たちの弱さや限界によっても、
閉じ込められることなく広がっていくことがわかるんですね。 実はそのように、
重たい墓の蓋によって閉じ込められなかったイエス様の復活の福音、イエス様ご自身が、
重たい墓の石を取り除けられて、今の私たちのもとに届いている。 だから私たちがここにいるわけですね。そしてそのような
復活の力を持って、イエス様の福音は私たちの限界を超えて、 前進し続けていくということを信じていきましょう。
当然、積極的に明かししたいとやれば、それは結構です。 でもそれができなかったとしても、私たちの弱さは、
イエス様の復活の福音を閉じ込めておくことができない。 広がり続けていく。
そこを信じていけるということなんですね。 最後、3番目。
それでは、私たちが体験する復活の章ということを見ていきましょう。 密会は16章7節で、このような素晴らしい約束を伝えています。
さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。 太い書き書きを読んでみましょう。
イエスはあなた方より先にガリダヤへ行かれます。 前に言われた通り、そこでお会いできます。
これが福音の一つの内容ですが、イエスはあなた方より先にガリダヤへ行かれます。 前にイエス様が言われた通り、そこでお会いできます。
と密会に述べています。
この第2の点でお伝えしたマルコの福音書は、 完結していないということと、実はこのメッセージは関係しているんです。
それにはこういう意味があるからなんですね。
未来への希望がここで約束されているということなんです。 この未来への希望の約束がこの密会の言葉に込められている。
そしてもう少し皆さんわかっていると思いますけども、わかりやすく言うと、 復活のイエス様はガリダヤへ先に行って、そこであなた方を待っているから、
あなた方はそのガリダヤで復活のイエス様にお会いすることができますよという 希望のメッセージになっているわけなんですね。
このことはですね、 今年の7月14日に強がりのつまづきという礼拝説教の中でお話したんですが、
ペテロが3度知らないという、そのつまづきの予告をされた後にイエス様が この約束を語られたわけです。それが前に言われた通り、
イエス様自身が、 あなた方よりガリダヤに先に行って待っているから、つまづいても大丈夫だよというメッセージを伝えてくださったことなんですね。
その時もお話ししましたが、このガリダヤ、 イスラエルの東北地方と言われている北の地方、ペテロがこの鉛を持ってこのイエス様の弟子だと指摘されて拒んだ
その理由にまたガリダヤ、これはいわゆる イエス様の弟子たち、この女性たちにとっての地元です。
イエス様と出会い、イエス様と共に歩んだ地元、 今はその都会のエルサレムに来ていますが、そこであなた方は失敗したにもかかわらず
イエス様は待っていて、あなた方をお待ちして、 あなた方はそのイエス様に会えるんですよというメッセージが込められているわけです。
それはつまり、今の私たちにとっては私たちそれぞれが置かれている生活の場で 復活のイエス様にお会いできる、そこでイエス様が待っておられるということを意味するんですね。
日常生活でのイエス様との出会い
もちろん私たちが文字通り復活のイエス様と直接お会いするのは天の御国、 私たちの旅のゴールですけれども
そこに至るまで、私たちは復活したイエス様に借りられ合う弟子たちのように 日常生活の中でこのイエス様に出会うことができるわけです。
ある方はこう言うんですね、実はそのイエス様とのこの地上での出会いというのは 女性たちにもたらしたような衝撃をあなた方にももたらすよ
でもそれは災いの仕出せではなくて驚きと新たな発見の出会いなんですね。 ある方はですね考えられもしないような悲しみの中で
こういう体験をしたということを言っています。 前もですね
紹介しましたけれども、熱い本があるんですね 最初ははずきさんという方が証という本を書いてたくさんのクリスチャンの方の証をですね
聞きまとめた本です。いろんな エピソードが
プロテスタントからカトリックから聖教会からいろんな方の証書を書いてあるんですけれども、その中の一つにですね
40代のある男性の話が書かれています。 その方は会社経営していたんですね
横須賀などの米軍基地で信仰を持ったというんです。 ただですね残念なことに本に書いてあるからと言いますけど仮名で出てるんですけども
奥様がいたんですけども、奥様から不定を働いて
身こもったということを伝えられてしまったんですね。 非常にショックを受けたということが書いてあります
それで その時は神様なんかいないんだ
話が違うじゃないか。心の中で思わずそう叫んだ。 あとは不定にするしかないと言っているんです。
この本から引用しますけれども その夜不思議なことがありました
2015年3月23日深夜1時43分のことです 横須賀の教会で一緒だった友人からメールが届きました
彼はアメリカに帰国してワシントン dc に住んでいました 今もスマホに保存しているので翻訳しますね
そのメッセージを翻訳して書いてですね 彼に対して彼アメリカから
最後に会ってからずいぶん経ったが元気でやってるか うまくいっていることを願う
俺は今目覚めたところお前のことが夢に出てきて目が覚めた 神様っていうのは時々その人のために祈るようにと言って俺の精神に現れる
お前のために何か祈ることがあるのか祈りが必要なのか お前と仮名でですね妻ゆかりはどうなんだ
それとも会社のことか もっと大事なことだけど神様との間に何かあったのか
というメッセージですね彼が続けてこう書いています 著者っていうか明かしてる人半年以上彼とは連絡を取っていなかったので驚きました
彼にそんな力があるのかわかりませんが ああ僕は神様に忘れられていなかったのかと思って彼に感謝の気持ちを伝えました
このメールは自分にとって決定的な精霊体精霊体験だったと思っています まあこんなことを彼が言っています
復活のイエス様との出会い
まあいろんな解釈があるかと思うんですけども必ずしも夢がとかっていうことは私 こうで言いませんでも私たちの思いを超えた
この復活のイエス様との出会いやこの救いの体験 救いって言ってもなんですね日々の困難からの救いの体験ということを私たちはしますし
これからもしていくんですねそれがまさにこれからガリライでイエス様とお会いするという 私たちの期待にもなるわけです
まあ 例えばですね今日私はどのような形で復活のイエス様とお会いするのだろうか
そう期待して 歩むときに何か新しい期待が希望が生まれる一日となるかもしれませんね
あるいは夜寝る前にですね私は今日どのようなところで復活のイエス様とお会いしたの かなと考えるときにですね
日常の中で神様に感謝することが思い当たるかもしれませんね まあそしてある学者によるとですね
私たちはこのマルコの副印書が物理と切れていますけれども 私たちのこの
人生の歩みっていうのはですね 副印書に書かれていない続きの章を生きているようなものである
というんですねでわかりやすく彼の言葉を ちょっと訳し直してやっていますこんな風に言ってですね
マルコの副印書にはまだ実現されていない 素晴らしい未来への希望が描かれています
それは私たちが今経験していることよりも遥かに素晴らしい出来事がこれから起こる かもしれないということを意味しています
まるでまだ見ぬ章が書かれていない副印書があるかのように 私たちは
想像を遥かに超えるような奇跡や喜びを期待できるのです
まあ私たちの人生の旅路にいろんなことがありますけれども 日々の生活の中で旅路の中でイエス様が先にじて待っていてくださる
その復活のイエス様とお会いすることができる そのことを期待して
歩んでいくお互いでやりたいと思います もう一度イエス様のその直接の約束に耳を傾けて終わりたいと思います
感謝と祈りの時間
マルコ14章27から28 イエスは弟子たちに言われた
あなた方は皆つまずきます 私は羊飼いを打つすると羊は散らされると書いてあるからです
最後にましょうかさんはいしかし私は蘇った後 あなた方より先に狩りダイヤへ行きますお祈りしましょう
天の神様皆を賛美いたします マリアたちはイエス様の復活の幸せを聞いてまたその場所を見て大変驚き
その驚きのあまり何も誰もいうことができなかったと言う言葉にあります 私たちはそのような
ただ恐ろしいだけの体験をしたいと思いませんしかし まさにイエス様を蘇って私と出会ってくださった
私を救ってくださった そのような新たな経験を日々の生活の中で人生の旅路の中で知っていきたいと思います
あなたが詐欺んじて待っていてくださることを信じこの新しい週も読んでいきます 私たちの心と目を開いて復活のイエス様にを知ることができるように
見ることができるように導いてください 願わくは弱い私たちを持ちその復活のイエス様が開始されますよ
限界を超えて広がるイエス様の福音が 前進しますよお祈りいたします
お願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によって祈ります アーメン
それでは1分ほどイエス様の言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう