2021-12-26 25:41

#86 2021/12/26 夫婦円満

エペソ-33からの礼拝説教。2021年12月26日録音。この箇所は結婚式などで朗読される聖句ですが、今の常識では抵抗を感じますね。なぜならここには当時のローマ社会とユダヤ人の社会で常識となっていた家父長制が前提となっていたからです。

 しかしパウロはその中に、当時の社会では見られなかった女性の尊厳を認めて、夫により多くの義務を課しています。さらに当時の常識の上を行くことを夫婦の教えとして伝えています。ある学者も結婚に関してこのように述べています。「キリスト教における結婚は、平等なものであり、相互の尊敬に基づくべきである」と。

 このことを前提としてまず夫への教えを取り上げ、次に妻への教え、そして最後に夫婦関係に関わる価値観を取り上げ3つの点から学びます。

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エブソビトの手紙、5章21-23 キリストを恐れて互いに従い合いなさい。妻たちを主に従うように、自分の夫に従いなさい。
キリストが教会の頭であり、ご自分がその体の救い主であるように、夫は妻の頭なのです。教会がキリストに従うように、妻も全てにおいて夫に従いなさい。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を捧げられたように、あなた方も妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、御言葉により水の洗いをもって教会を清めて聖なるものとするためであり、ご自分でシミやシワやそのようなものが何一つない聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会をご自分の前に立たせるためです。
同様に、夫たちも自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。
未だかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろそれを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。
私たちはキリストの体の部分だからです。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一心同体となるのである。
この奥義は偉大です。私はキリストと教会を指して言っているのです。
それはそれとして、あなた方もそれぞれ自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。
以上です。
今日はここから夫婦縁門と題して見事を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
本当にコロナに振り回された1年となりました。
最近のニュースでもいわゆるオミクロン株が市中感染を起こし始めているということで、本当に来年はどうなってしまうんだろうかと考えていますが、
この中で身近な人間関係、家族関係が見直されている、そういう時期がコロナ禍の時期であったのかと思います。
今日からしばらく家族関係についてパウロの書いた教えから学びますが、
今日のところはよく結婚式で朗読される聖句です。
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来年私は1月末に結婚式を取り行うのですが、通常この聖句を読むのですが、
ここを読んでいいのかちょっと戸惑うようなところなんです。
というのがお気づきのように、この箇所には当時の家訓が反映されているのですが、
それはいわゆる家婦調整が前提となっているんですね。
つまり家計では父方の家計がずっとこの財産を相続していく、家を相続していくという制度で、
そしてその家長がいわゆる父親が家族全員に対して支配権を持っている、
そういう制度がここの背景にある、そういう常識が実は背景にあります。
しかしパウロは当時の社会で見られなかった女性の尊厳を認めて、夫により多くの義務を課しています。
またキリストの愛とそれに応える教会の姿はここでは織り交ぜているんですね。
来週年の初めには心科書から教会について共に学んでいきたいと思います。
教会とキリストの関係を織り交ぜながら、当時の常識の上を行く夫婦の教えをここで伝えています。
皆さんもご存知の、今で言うとこういう言い方しないかな、シンガーソングライターの佐田雅史さんが、
だいぶ前に感覚宣言という歌を作りましてね、私の知り合いの女性、当時ある家庭に訪れた女性はですね、
この歌を聞くと腹が立つのよね、なんてですね、腹の底から言ってましたけども、
そういうことが今ではなおさら言われる時代ですけれども、
実はここの箇所とも関連して、牧師の信念書にですね、ある牧師がこういうことを書いているんです。
キリスト教における結婚は、男女平等なものであり、相互の尊敬に基づくべきである、そう言ってですね。
ですからそのことを前提として、3つのことを今日は学びます。
まず夫への教え、2番目は妻への教え、そして最後に夫婦関係に関わる価値観、このことを取り上げて学んでいきましょう。
まず最初、夫たちへですね。ちょっとこの御言葉を読んでみましょうか、5章25節。
3、夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分を捧げられたように、あなた方も妻を愛しなさい。
これは言わずもがな、当時の教会に属しているクリスチャンの男性に向けて書かれています。
ただここで言われていること、夫への命令は、妻を愛しなさいという命令です。
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実はこの愛する、愛しするという動詞がですね、6回使われています。
キリストが教会を愛したということも含めて、夫の教えの中で6回使われている。
ちなみに、女性に対する従いなさいという動詞は、1回しか使われていないんです。
男性に対する命令が関わる動詞が6回も使われている。そこから、男性の責任も大きいと言われるわけですね。
しかも女性、後で見ますけども、最後のまとめの部分で、従うではなくてですね、夫を敬いなさいという。
そういう言葉に置き換えられているところも特徴があります。
実はこの愛するという言葉は、ギリシャ語で3つあるんですね。
エロースという性愛を表す、フィレイオーという兄弟や友情を表す愛。
そして3つ目がアガパオという言葉で、ギリシャ語の愛を表す言葉でも特別なもので、神様の愛で使われています。
イエス様の愛に使われていて、学者はこういうふうに解説しているんですね。
アガペイの愛とは、全く自己中心的ではなく、自分の満足を求めるものでもなく、
そして与えた愛の応答を期待するものでもなく、愛する者の最上の幸いを願う愛である。
皆さんよくご存知の愛の章、第1コリント13章に書かれている、そういう愛です。
このアガペイの愛、実はその最大の模範が、キリストの教会に対する愛、
クリシャに対するキリストの愛だということなんですね。
その上で、夫に対して命じられているわけですけれども、
キリストを模範にする愛があった前提で、妻は夫に従いなさいと命じられていますけれども、
これらのことに関して、ある学者がこのような警告を男性に与えているんです。
まず、夫は注意しなければいけないのは、自分が言っていて耳が痛い部分はないと思いますが、
女性よく聞いてくださいね。
夫は妻に対して何でも願うことをさせようという、当時の権威を持って命令を下す支配権が与えられているわけではないということなんですね。
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独裁者になるべき支配権が夫に与えられているわけではないというんです。
そしてそこで学者は続けるんですね。ちょっと下で見えにくいんですけれども、
夫の妻に対する責任は、自己犠牲を払うという最上級の要求を示す言葉なんだ。
神様の御言葉は、何よりもまず、夫婦であれば男性に対して最上級の献身を命じているということなんですね。
これがですね、夫婦関係に先んじるある面、夫婦関係の土台とも言えるわけです。
先ほど申し上げましたが、これは当時の家府庁制度。
言ってしまえば女性の地位は低く、男性が絶対的地位を家の中で持っていた社会においては、まさに革命的な教えなんですね。
まず、夫が犠牲を払いなさいということなんです。
この例えばですね、最初に引用した、キリストが教会を愛し、教会のために御自分を捧げられたようにというこの捧げるという言葉は、パラディドマイという言葉で、
生産式のときにキリストがですね、自らを罪人に渡した、ポンテオピラトやユダヤ人に自分を明け渡した、そういう言葉なんですね。
そのような命さえも投げ出す、その犠牲的覚悟を持って御妻を愛しなさいと聖書は夫たちに教えているわけなんです。
さらにパウロは、こうまとめているですね、失礼しました。
同様に夫たちも、自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません。
自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。
いまだかせて自分の身を憎んだ人はいません。
キリストも教会に対してそのようになさるのです。
男性たる者はですね、自分の体の健康をケアするわけですね。
私ごとであれなんですけど、私6月の健康診断でですね、アクダマコレストロールの値が非常に悪い。
もう何年間もわたって悪くて、160ぐらいになってしまった。
医者にですね、これ秋にもう一回検査して、数値が変わらなかったら一生薬飲んでください。
脳梗塞や心臓病気の危険があるから。
私はあの、栄養士に相談して食べるものの指導を受けてですね、
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アイスクリームダメ、チョコレートもダメ、何も大好き。
だからケーキもダメ。
要は牛乳由来のスイーツは全部ダメです。
じゃあどうしたらいいんですかって言ったら、あんこを食べなさい、あんこって。
朝裏じゃないんですけどね。和菓子にしなさい。
で、夜ヨーグルトもダメですって。
それでですね、ケーキ、あと缶コーヒーも里入りはダメですって言われて。
全部そういうの絶って、甘いもの欲しいなと思ったらですね、こう安売りの大福買ったりしてですね。
あと夜はケーキ食べる代わりにバナナ食べたりしてですね。
それをやったらですね、検査したら11月に結果が出てですね、130まで落ちて。
主治医がびっくりしているんです。こんなに治ったんですか。
まあこれはちょっと生活節制したものなんですけど、
本当は自分の体に危機が迫っているとなると、いろんな食べ物を節制してまでもですね、体を痛まりますね。
でまあ、男性はここに少ないですけども、男性が妻に対してするのも、
自分の体を痛まるように相手の健康を考えて生活したり、行動しなさい。
自分の体を痛まるようにパートナーを痛まりなさい。
これが当時としては革命的なキリストの教えだということをまず覚えておいてください。
その上で、女性に対する教えを共に学んでいきましょう。
パウロは22節でですね、妻に従うようにと命じていますが、
キリストに従うように夫に従いなさいと言うんですけど、ちょっと難しいので前に書いてありますけれども、
実はですね、先ほど言った従うという動詞、妻が夫に従うということに関して言えば、
実はですね、直接女性に対して従いなさいという形では使われていないんですね。
ちょっと難しいんですけど、5章の21節で、互いに従い合いなさいと言っているんです。
その後、教会がキリストに従うように妻も夫に従いなさいと言っているんですけども、
その部分には文法上の省略かと思われるんですけども、妻に従いなさいという、
その妻に従えという言葉は書いていないんですね。略されている。
簡単に言うと妻に対しては、21節の言葉を受けてその通りに夫にしなさいという、
そういう柔らかい書き方をしています。
それからですね、5章の24節では、教会がキリストに従うその事例に倣って、
あなたも夫に従いなさいと、日本語の聖書でも従いなさいと、
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英語の聖書でも従いなさいという動詞が入っているんですけども、
やっぱりギリシャ語の原文を見ると、妻に対しては従いなさいと入っていないんです。
教会がキリストに従うように妻たちを夫に従いなさいと、ちょっと柔らかく書いてある。
そういうところが、貢献的に見える命令ですけれども、パウロの配慮が見て取れるわけです。
ただですね、ここで大事なのはですね、当時の教会の背景がありました。
イエス様の弟子にたくさんの女性がいましたね。
弟子たちがイエス様が従順をかかった時に、男性みんな逃げちゃったのに、
女性だけがイエス様の埋葬に立ち会ったんです。
当時、人の時代から革命的にですね、教会の中では女性が指導的な立場にもあったわけです。
だから家の教会で教える女性もいたわけですね。
そういう背景の中で、パウロはイエス様は言っても、この時代の風習は、
女性が教師だからと言ってですね、男性を避けすんではいけない。
当時の慣習に従って、教える地位のある女性でも男性に従いなさいということをやんわりと言いましめた。
夫を自分が指導的な立場にあっても、夫を敬いなさいと教えた。
そういうことも考えられるわけです。
それはさておきですね、何度も言いますけれども、ここでパウロは語っているのは、
男性も女性もこの夫婦両方をクリスチャンで教会に語っているパターンなんですけれども、
当時クリスチャン夫婦の中で、当時未信者の男性を夫に持つ信者の女性が多かったんですね。
それに関してちょっと今日見たいんですけれども、イエス様の弟子の一人ペテロがこういう言い方をしています。
未信者の夫を持つクリスチャン女性に対してこう教えています。読める方、前の御言葉を読んでみましょう。
3、同じように妻たちよ、自分の夫に従いなさい。
たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって神のものとされるためです。
夫はあなた方の神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。
このように未信者の旦那さんにあっても、風習に従ってちゃんと従いなさいと教えています。
当然明らかに神に背く偶像を許容するような教えとか、犯罪においてはもちろん例外なんですけれども、
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このように未信者のパートナーを持つ女性に基本的な指針を当時の教会は教えていたようです。
そして、そんな中でクリスチャンの女性に証としてパウロは指摘しました。
当時の教会はこういうことも勧めていたんですね。
第一ペトロ三章の3から5節。
あなた方の飾りは、紙を編んだり、金の飾りをつけたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。
むしろ、庭で穏やかな礼という朽ちることのないものを持つ心の中の隠れた人を飾りとしなさい。
それこそ神の御前で価値あるものです。
かつて神望みを置いていた、敬虔な女の人たちも、そのように自分を装って夫に従ったのです。
第一ペトロ三の3から5。
誤解しないように申し上げますが、これは全くオシャレをするなということではないんですね。
すっぴんで街を歩けばいいとか、寝巻きのまま街を歩けばいいとか、そんなことではないわけです。
もう皆さんご存知かと思いますけれども、当時もそして今も外見が取り継がれる風潮がありますね。
SNSなんかでも自分の見栄えをすごくよく見せるような。
それ良いとも悪いとも言いませんけれども、そういう風潮がありますけれども、
そういう中で違う価値観を聖書が教えているということを、今日共に共有したいと思うんですね。
内面、入話で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ心の中の隠れた人を飾りとしなさい。
そのような主にあるビーングで勝負しなさいと聖書を教えているわけです。
そのような神を恐れ従っていく、そしてそのようなクリスチャンの女性の生き様、祈りを通して、
そしてこの神様が救いをその家族にもたらしてくださるんだ。
そのように聖書を教えている、そのことを今日心に留めましょう。
最後3番目、夫婦に対して夫婦の価値観というものをこの見言葉から共に確認したいと思います。
エピソード5章に戻りますけれども、ファウルは創世紀2章24節の見言葉を引用して、結婚についてこのように宣言するんですね。
5章31節、読める方は前の見言葉をちょっと読んでみてください。
3回、それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである。
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これはですね、創世紀にある神様が結婚を制定した最初の言葉です。
結婚式でもよく宣言される厳粛な結婚の制定の見言葉なんですね。
そしてここからわかることがあります。それは、家族の基本は夫婦関係であるということなんですね。
つまり、結婚した二人の男女は夫も妻もいわゆる自分の実家の両親から自立する必要があるということです。
経済的に自立する方は多いんですけれども、精神的にもということですね。
ある学者がですね、このように解説しています。
ちょっと長いんですけれども、大切なので引用してみました。
つまりここではですね、親子関係は消滅しないが、しかし今でも最も親密で崇高な忠誠は夫婦の間に存在している。
もしこの関係に親が何らかの方法で入ってくるならば、それは夫婦間に危機をもたらすことになる。
夫と妻の側で親から離れる決断が必要であり、同様に親の側でも親の権利を放棄することが不可欠である。
これもちょっと先ほどの女性の家財と似たようにですね、全く子供が親を介入しない、そういうことじゃないんですよ。
仕送りしちゃいけないとか、親と絶縁しろということじゃなくて、夫婦の基本はまずお互いの関係だったんですね。
最も親密で崇高な忠誠、夫婦は誰に対してその忠誠を誓うかというと、まずパートナーに対して親密で崇高な忠誠をまず誓いなさいということを言っています。
そしてこのような夫婦が親から自立し、親も子供の夫婦から健全に自立しているときにですね、
夫婦は神様の祝福したこの意図である一心同体となるという、そういう祝福の関係と至るわけなんですね。
その結果、その夫婦、家族の間に安崎と祝福が訪れるということなんです。
何度も言いますけれども、年老いた親の尊敬したりですね、ティアすることは必要です。
しかしでもまず、夫婦がお互い神にあって向き合っていく、まず夫婦を基本的な寄り所とする、
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その価値観を夫婦で共有することが大事だということを御言葉から心に留めたいと思います。
新しい年間もなく迎えて、なかなかコロナが明けないと思いますけれども、
神の御言葉に聞きながら、教会の神の家族として、またそれぞれ使わされた家族として歩んでいくお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。パウロの家族関係の御言葉からしばらく学んでいきます。
今の時代の風潮、また私たちの習慣から難しさを覚えたり、抵抗を感じることもあるかもしれません。
しかしその中から正しく神様の御心を読み取って、私たちがあなたに祝福された夫婦関係、家族関係のうちを歩み、
そしてあなたの栄光を表すそれぞれとなることができるように、どうか導いてください。
どうかその中で私たちが、イエス様がどれほど私たちを愛し養っておられるか、教会を養い愛しておられるか、
その幸いを学び、また知り、実践することができるようお願いいたします。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
25:41

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