2020-08-09 32:29

#18 20/8/9 建設的、利他的、受容的

第2テサロニケ-15からの礼拝メッセージ。2020年8月9日録音。コロナ禍の今、タイトル通りのことを聖書から紐解きました。
00:07
新観薬聖書2017年度版でお読みします。
第2ケサノミケ3章11節から15節
ところが、あなた方の中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずに、おせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。
そのような人たちに、主イエスキリストによって命じ、進めます。 落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。
兄弟たち、あなた方は絶え間ず良い働きをしなさい。 もし、この手紙に書いた私たちの言葉に従わない者がいれば、
そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。 その人が恥いるようになるためです。
しかし、敵とは見なさないで、兄弟として里しなさい。 以上です。
今日はこのところから、建設的、利他的、需要的と題して御言葉を取り継ぎます。
おはようございます。 久しぶりの方、また初めての方、いらっしゃいますけれども、共に今日礼拝を持てることを感謝しています。
5月の11日からですね、新型コロナウイルスの対応しながら、 いわゆる密を避けながらですね、
礼拝を続けていて、いろんなプログラムや皆さんにも制限を給与してもらっている中、
礼拝を続けていますけれども、 変わらぬ神様を共に礼拝できることを感謝しています。
毎週、今はコロナ禍の中で歴史を刻む意味もあってですね、私はあえて、 説教の冒頭に、その前の週に起こったコロナ関連の出来事に言及してきました。
しかしも今週はですね、状況が混沌としてまして、 何に言及したらいいかわからないという、そんな状況です。
皆さんもご存知のように、ここ数週間はGoToトラベルキャンペーンとお盆の規制のですね、話題で持ちきりです。
私、線流をよく新聞に読むんですが、昨日の新聞にこんな線流があったので、2つ紹介しますね。
一応、この笑わなくていいんですけど、ユーモアとして聞いてください。 こんな線流、まず1つ目。
GoToもアベノマスクもいらぬ世話。 GoToもアベノマスクもいらぬ世話というね、余計なお世話だと。
それからですね、もう一つ、なるほどと思ったのは、 自己責任、他人に求める無責任ですね。
03:01
自己責任、他人に求める無責任。
いろいろ、政治家とかですね、いろんな知事が自分なりに発言してですね、 結局はもう自己責任で、あんたたち次第だよと言われているような、そんなことをやや知っています。
ただやはり、この間も私のある知っている方と会ったらですね、 その方は関東以外に実家があって、向こうの親から帰ってくるなと言われたと。
あなた帰ってきて感染したら、簡単に言うと地域でいられなくなるから、 来ないでとはっきり言われたと。
そういうふうにまあ、魔法もいるような、 距離の親が言ってきたと。
そういう風な感染に関わる切実な問題があるわけですね。
その感染と排除という、 実は今日の見事は、そのことを連想させるような言葉が出てきますね。
交際しないようにしなさいと。 その人とは交際しないようにしなさいという。
私たちの教会はですね、毎週のこの礼拝で、 こういうことをしているんです。
聖書の書物を1章の1節からずっと順番に学んでいて、 今日はたまたま3章の11節から学んでいます。
どうしてこういうことをするかというとですね、 2つ主な理由があるんですけれども、
1つ目は私がですね、恣意的な言葉を選んで、 勝手な説教をすることを避けるという。それが1つ目。
もう1つはですね、難しい言葉から逃げずに、 その難しいと思われている聖書の言葉にちゃんと取り組んで、
そこから神様についてとか、私たちが学ぶという。 そういうある面、健全な聖書信仰の中でこういうことをしていて、
今日はたまたまこのような理解に難しい言葉、 神様の愛と矛盾するような言葉に出会いました。
でもこういう言葉もですね、きちんと背景を理解して、 表面的ではなくて深く理解すると、
そこに神様の崇高な意図がある。 書かれたパウロの配慮があるわけです。
そのことを皆さんで学んでいきましょう。 いつも3つの点で話していますが、今日も3つの点から話します。
最初の2つの点はですね、2種類の聞き手に当てられた命令から学びます。 最後はですね、それらを鑑みて、神様の愛ということを学べたらと思います。
まず第1点。 これはですね、
破壊的ではなくて建設的な厳しい今しめだということです。
レジュメやりますから、たまに見ながら、こっちも見ながら聞いてください。 このテサルリケ教会というのはですね、
この日本があって、だいたいこの辺にある、今のギリシャにある教会です。
06:04
イエス様が十字架についたエルサレムから、パウロが旅立ってですね、電動旅行をして、
第2回電動旅行の時にテサルリケでパウロが宣教して、たくさんの非ユダヤ人が救われた。
そしてここの教会の問題は、イエス様を信じたその時から迫害が始まったということです。
そしてその中で、迫害という問題の背景とともに、当時の文化的な背景があって、
働かないでお金持ちにたかるという、そういう人が割といたそうです。
ここのクレテジンについて聖書で引用している言葉があってですね、
ここのちょっとギリシャの一部のクレテジンについて、こういう言葉があります。
クレテジンは、怠け者の食いしん坊、大酒呑み、そういうような言葉があるぐらい、
当時の文化の中でそういうことがまかり通っていたわけです。
そしてそのことをパウロはこの手紙で取り扱っているんですが、
実はでもごくごく本当に健全な人が大多数の中の、ごくごく少数なその問題のある人に
パウロは語っているのが今日の難しい箇所の特徴です。
その中でパウロはその問題のある人をこういう表現しています。
前に掲示してあります。見てください。
平らな歩みをして、私たちから受け継いだ教え、神様の御言葉に従わない兄弟であり、
何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たち、
そういう人たちに向けてパウロは厳しい言葉を投げかけているわけです。
で、これらの人たちの問題は理由はわからないんですけども、
働こうと思えばきちんと働くことができた人たちです。
ですから今ちょっとコロナの影響で色々な仕事ができないとか問題がありますけど、
そういう人たちを非難しているわけじゃなくて、繰り返し言いますが、
いくらでも仕事ができたのにもかかわらず仕事をしないで、
教会の人の善意に甘えてたかっていた人たちのことをパウロは問題にしているわけです。
で、珍しく厳しい口調でパウロはこの手紙の最後で勧告しているわけですね。
そしてこの今日の箇所の難しい言葉の一つは、
おせっかいばかり焼いている人というおせっかいです。
教会で岩鉄学会以来やってますけどね、
提唱者の日野浩夫先生が余計なおせっかいと偉大なおせっかいと言ってますけども、
このおせっかいという言葉はどういう意味か。
実はですね、
端的に言うとちょっとあまりこれは良い訳ではありません。
他の日本語の権威ある
信教同役とか
交互役で公約されているんですね。
失礼しました。
09:00
そういう人たちに
落ち着いて仕事をして自分で卵を食べなさいとパウロが続けて命令しているようにこの
落ち着いて仕事をするという言葉と比べるとわかるんです。
落ち着いてないで
おせっかい役というのはどういう言葉かというと
公約されています。
余計なことをしている者
いたずらに動き回っている者
この他の聖書では公約されています。
余計なことをしている者
いたずらに動き回っている者
ちょっと難しいんですが元々のギリシャ語では
ペリエルガゾマイという言葉なんです。
このエルガゾマイというのは
純粋に働くという言葉なんです。
言語で読むと
陰を踏んでいて
余計な働きをしないで働きなさいという言い方をしています。
ちなみにこの
ペリというのはですね
英語で言うとアラウンドとかいう周りを
周りを
うろうろするという意味なんです。
エルガゾマイというのは働くという意味なので
周りをうろうろして働き回るという
それが
このおせっかいという言葉の元の意味です。
うろうろして余計な働きをしている人って言うんですね。
ちょうどですね今
新座市でロケを行った
映画があります。
川口で起きた17歳の少年が自分の祖父母を殺害した事件が
モデルになっています。
この主人公の
にあたる
母親はですね
働かないで
お金をですね
親に無心して
いるわけです。
そして
親も
お金もあげないから来ないでって言われたらですね
妹のところに行ってお金を無心しています。
でも妹からも親からも来ないでって言われたらですね
小学生の息子を
大雨の中にもかかわらず
歩いて親の家とか
お姉さんの家まで大雨の中で二人で行って
自分のそばで見ていて子供にですね
子供から見たら自分のおじいちゃんおばあちゃんとか
自分のおばさんにお金を無心させるわけですね。
最後には
これおそらくあの
和光市の方の
橋だと思いますけどね。
ここでですね高校生の息子にお金ないから
おばあちゃんおじいちゃんの命奪ってお金を奪うしかないね
という話している
わけです。
最後はそこまで行ってしまう。つまり
まさにあちこち動き回って
あちらこちら働き回って
お金を無心するという
こういうところによく現れているわけです。
だからパウロは
まあこの
12:00
映画や状況に合わせて言い換えるならばこんなこと言ってるんですね。
お金を無心するために
うろうろあちこち歩き回るという
余計な働きをしないで
落ち着いて
なすべき仕事をして働きなさい。
こうパウロは命じているわけです。
後で詳しく取り上げますけども
パウロがこのように厳しく命令するのは
それを聞いていた人たちが悔い改めて
ちゃんと神様の民としてふさわしく
仕事をする
そのことを
願っていたわけです。
おそらくそれを
勧告したパウロの心も
痛んでいたのに違いありません。
で実は
この命令はですね
私たちここにいる一人一人には
直接当てはまらないわけです。
皆さんなりに仕事したり学業に臨んでいるわけです。
直接当てはまらない命令ですけどもそこから
どうやって聖書の言葉を自分たちの生活に
取り入れるというか学ぶか
その一つはですね
聖書の言葉は時に
厳しい言葉があるということなんです。
パウロも厳しい
珍しく最後に言葉を投げかけたように
聖書の言葉の中には時に厳しい御言葉があるわけです。
しかしそれはこのパウロのように
私たちが神様の民として
あるいはクリスチャンとして
ふさわしく
整えられるため
そういう良い意図があるんです。
聖書の神言というのにこんな言葉があるんですね。
前に掲示してありますがちょっと見てください。
父が可愛がる子を叱るように主は
愛する者を叱る。
そして新約聖書の
パウロがやはり書いた第二手本の手紙3章16節にはこうあるんですね。
聖書はすべて
神の霊感によるもので
教えと忌ましめと
矯正と
義の訓練とのために有益です。
この四つ教え忌ましめ矯正と義の訓練
ある学者に合わせればですね
教えは良いことを
知識として教える。義の訓練は良い行動を
促してさせるというんですね。
反対に忌ましめは
悪いことを悪いといって
注意する。
考え方その考え間違っているよという
否定的な
ニュアンスがある。で、矯正というのは
悪い行動をやめさせる。
そのように聖書には
時に私たちが見て厳しい言葉がありますが
それは私たちにとって
益となるということなんですね。
15:00
私も含めて自家を込めて言うと人間は
自己中心的ですから
人間の感情は
自己中心的で
その人間の叱責が
間違えることも多い
わけですね。
でも
神様の愛は完全ですから
神様の御言葉による訓戒は
私たちのためになるわけです。
そして
厳しい言葉ですけどもそれは
破壊的な言葉ではなくて
建設的な
言葉だということを
心に留めてください。それが第一点。
第二点はですね
パウロのこの
今日の言葉は
利口的ではなくてリター的だということです。
パウロは今日見た箇所で
もう一種類の人たちに対して命令しています。それは
健全な人たちです。
さっきも言いましたが
迫害がどんどん厳しくなる中でも
信仰を捨てないで
神様を信じ続けた兄弟姉妹
に対して語っています。
余談になりますけどもパウロはずっとこの手紙を通してですね
そういう兄弟姉妹にあるいはまた
道を踏み外している兄弟姉妹にもですね
励ましと慰めの言葉をずっとかけてきたわけです。
そのような健全な兄弟姉妹にパウロは
ここでこんなことを語っています。
13節14節です。こちらに掲示してありますからご覧ください。
兄弟姉妹たち
あなた方は頼まず
良い働きをしなさい。
もしこの手紙に書いた
私たちの言葉に従わない者がいれば
そのような人には
注意を払い
交際しないようにしなさい。
その人が恥じいるようになるためです。
この戒め
教え
要約して言うとですね
パウロが書いたこの手紙の
これらの勧め
従わない人がいれば
その人
が誰かをちゃんと見極めて
英語で言うとマークしてって言うんですね
そして厳しい言葉ですが
交際しないようにしなさいって言うんです。
その目的は
その人が恥じいるようになるためです。
この
良い働きをしなさいと言いながらですね
恥をかかせるような結論というのはちょっと
矛盾するように思いますけど
矛盾じゃなくてきちんとした流れがあるわけです。
こういう意味があるんですね
このテサノリ家の兄弟姉妹は
愛にあふれた人たちでしたからこれまで
お金をせがまれたら
18:01
考えもせずに
与えていたようです。
でもこれからはそういうことはしないで
交際しないでお金を与えないようにしなさい
一切そういう恋をやめなさいというそういう意図が
ここにはあるわけです
しかしそれにはさらに深い
配慮があるわけです
なぜか
一見意地悪に見えますね
交際しないで恥をかかせろっていうのは
意地悪に見えますけど意地悪じゃないんです全然
それは
良い意図があるんですね
先ほどの言った
利己的な意味
自分が損しないとかそういう自己保身という利己的な意味
じゃなくて
その相手のためになるんだという利他的な
配慮があります
その利他的な配慮というのはですね
13節にある
兄弟たちあなた方は絶えまず
良い働きをしなさいというこの
良い働きに通ずる
行為がここにあるわけなんです
相手にとって良いことなんだってことなんです
どういう
意味があるか
実はですね
ここでもし
彼らがお金を与えようになるとどうなるか
あちこち歩き回っても
お金が
手に入らないとなれば
その人たちに
目を覚ますことになるって言うんですね
自分のやってることが
意味がないんだってことに
目が開かれて
そして
自分の手を持って働くようになるんだ
そういう
相手に
目を
開かせるそういう機会を持つためにですね
与えるために
交際をやめなさいというそういう意図があるわけです
あとでもう少しここから詳しく
見ますけれども
まずここから私たちが学ぶべき点
それはですね
私たちが誰かに
何かを注意する場合
指導する場合に立ち止まって考える 必要があるってことです
それは
相手のためと言いながら実は
自分のためなんじゃないかなという
反省する時が
帰り見る時が必要だってことです
反面教師として
否定的な
話題で言えばですね
ハラスメント
パワーハラスメントですね
パワーハラスメントこそですね身勝手で利己的な
そして破壊的で
単純に感情を爆発させる
自己中心的な
態度です
それは指導という名のもとの
21:02
感情の爆発であり
自己保診
叱責で
さえない
そのような自己中心的な破壊的な行為が
ハラスメントに現れているわけですね
そしてそれに反してパウロのこの一連の厳しい言葉
これは
彼の個人的な感情とは違います
実はですねパウロは怒ってもよかったんです
パウロが伝導している最中
命を懸けて伝導している最中でも
そういうお金を無心する人たちはやめなかった
直接パウロから命令されてもそして
前回学んだ
最初の第一の手紙でもパウロはそれとなく
注意しているのにそれでも
彼らは
改まらなかった
3度目の正直ではないですけども
パウロはそれにも関わらずですね
自分の言うこと聞かないということに腹を立てたりしないで
相手のことを思って
命じているわけです
私たちもこのパウロに習ってですね
理他的な思いから
相手に
指導するとか注意をするというそういうことに
気をつける必要があるのではないでしょうか
聖書にではですね
ちょっとここで
引用するのを
忘れてしまいましたけど聞いてください
同じ真言
皆さんのレジ名を読める方
2ページ目の下から123
12345行目に
引用してあります
聖書にその理他的な
叱責についてこういうことを書いてあります
真言27節
27章5節から6節
あからさまに責めるのは
密かに愛するのに勝る
2ページ目の下から
6行目ぐらいですね真言27の5から6
あからさまに責めるのは
密かに愛するのに勝る
憎む者が口づけしてもてなすよりは
愛する者が
傷つける方が真実である
これは
指摘で極端な表現なので文字通り捉えて
愛があれば相手を傷つけてもいい ということではないわけですね
でも
ここで言っているのは
相手を
叱責する
厳しい言葉を
相手に投げかけるときの
動機は何なんだ愛なのか
閲覧
こと
との対象もありますけどそのように
相手を
責めるその動機は
愛なのかということを
見ることができるわけですね
まあちなみに
人を叱る場合には感情を抑えるという
工夫が必要ですよね
24:00
親がこう怒ってですね
お父さん怒ってるって言ったら 怒ってないよ
逆ギレしちゃうって人もいるかもしれませんが
そういうことで感情を抑えることも大事ですし
ある教育の本ではですね
叱ることと褒めることは
叱ることが1で褒めることが4
1対4ぐらいが普通であるし
基本は褒めることですよと言われている
通りです
まあ何をともあれ
私たちは
この利己的ではなくて
利己的な思いから
家族や職場や
友達と
に何かアドバイスするかどうかということは
問われるときがあるということです
最後の3番目のポイントですね
神様の愛というのは
排除ではなくて
需要の愛
排除ではなくて需要の愛
それは神様の愛です
パウロのこの戒めはですね
さらに深い
配慮と視野に立っているんです
パウロはここでですね14節
先ほど言いましたけども
交際しないで恥をかかせるようなことを言っています
ちょっと当時の文化を勉強するとですね
当時の文化は今の日本もそういうところがありますけど
今の日本以上に
名誉と恥が
影響する文化名誉と恥を気にする文化が
当時の
ギリシャローマ
地域の文化だったそうです
だから恥をかくということは本当に
その人の存在が
否定されるようなことだったそうです
そしてパウロはですね
この言葉を言いながら
こういうことを考えたんです
実はここの問題のある人が
境界で恥をかいてもいい
なぜなら
境界で恥をかいて
その人が矯正すれば
治れば
境界の外に行って
恥をかくことがないからだって言うんです
一般社会
わかりやすければここが境界ですから
ここの中で私は恥をかかせることはしませんけども
ここで恥をかいて矯正しても
矯正すれば
境界から出て
一般社会で正解した時に
恥をかくことがないということです
一般社会で恥をかくと
もうそれこそその人たちは
文字通り居場所を失うかもしれないという
そういう期間からパウロは
境界内で厳しい思いをして
この兄弟姉妹が仕事すれば
社会に帰っていっても
彼らにはきちんとした受け皿が残っている
当然境界でも彼ら彼女らを排除しないということです
そういう思想は15節に現れています
15節でこう書いてあります
27:00
最後の結論で
しかし敵とは見なさないで
兄弟として里しなさいと言っているんです
この問題がある人は敵ではなくて
兄弟なんですよ
この言葉は難しい言葉で言うと
ここの前に掲示しましたが
排他的ではなくて
包摂的取り込む
知りどけなくて包摂する
今しめであり
当然拒絶的ではなくて
受容的な御言葉
受け入れることが前提の
恥をかかせる
交際しないという
そういう受容的な意図があるということなんですね
このコロナ関連先ほど言いましたけども
本当に排除の理論
イタリアなんか皆さん知ってますよね
患者さんで入院した方
新型コロナウイルスに入院した方
帰ってくるとみんな歓迎するんですよね
NHKテレビで見てましたけど
イタリア人の人がアパートから出て
どうしたって言ったらですね
今日うちのアパートでコロナに感染して
入院した人が帰ってくるから
みんなで彼を拍手して迎えるんだって言って
みんなで拍手してその人たちを迎えるわけです
友や友情の日本だったら
そういう人もですね
アパートから追い出すかもしれませんよね
そういう包摂的な受容的なわけです
そして神様の愛というのは
それ以上に強絶的ではなくて
受容する愛ですよね
パウロの言葉に見られるように
神様の御言葉は厳しいですが
でも神様の愛というのは
私たちがいつでも神様の元に帰ってくる
そのことを望んでおられる愛なのです
神様、聖書の神様イエス様の愛は
排除ではなくて受容の愛
イエス様の弟子ペテロ
彼はですね
イエス様の一番弟子だったんです
でもイエス様が逮捕されて
無知を打たれている時
3回聞かれたんです
あなたはあの人の弟子でしょって
知らないよって言ったんです
一番弟子だったんです
それを3回繰り返したんです
十字架にかかるイエス様を前にして
そして彼は自分の失敗に気づいて泣きましたが
イエス様は復活した後
そのペテロに対してですね
許しの言葉を投げかけて
あなたの上に教会が立つんだという約束通り
イエス様が天に帰った後
ペテロは使徒の働きを代表する
大伝道者となって
教会を最初築き上げるために
豊かに用いられた
そういう人です
そのペテロが手紙の中で
30:00
こう述べているんですね
前に掲示しました
主はある人たちが遅いと思っているように
その約束のことを遅らせておられるのではありません
テサノニケビトの手紙でも見た
主のサエリンとか世の裁きです
なぜそうしているか
それはかえって
あなた方に対して忍耐具が加わられるのであって
一人でも滅びることを望まず
全ての人が悔い改めに進むことを
望んでおられるのです
さらにまた私たちの主のイエス様の忍耐は
救いであると考えなさい
それは私たちの愛する兄弟パウロも
その与えられた知恵に従って
あなた方に書き送った通りです
第一ペテロ3-9と15ですね
この今日は厳しい御言葉でしたけれども
そこの背後にあるパウロの配慮
そして神様の深い需要的な愛をですね
共に胸に留めながら
これからの日々を共に歩んでいける
お互いでありたいと思います
お祈りしましょう
天の神様
皆を賛美いたします
暑い8月になりましたけれども
私たち一人一人をこの礼拝に招いてくださり
あなたの見舞いに賛美を捧げ
御言葉に聞き
あなたの民として養われ
またあなたに使わされていく
その幸いを感謝いたします
私たちがどうぞ日々悩みの中
ややもするとこの世は拒絶や排除
そういうもので生きりたっている中ですけども
どうぞ私たちがまず神様の御言葉と
イエス様ご自身のご臨済から
あなたへのあなたの愛
またあなたの許しを日々深く知りながら
心に平安を保ち
またあなたの愛と需要を表す
そのような器としてお持ちください
今日から始まる新しい週間も委ねて
私たちの救い主イエス様のお名前によって
お祈りします
アーメン
32:29

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