2022-12-11 26:53

#136 キリストを知る素晴らしさ 22/12/11

ピリピ3:7-11からの礼拝説教。2022年12月11日録音。サッカーワールドカップで日本がクロアチアに負けてしまいました。勝負事なのでいつかは必ず負けるのですが残念な結果です。このことは私たちの人生にも似ています。私たちは人生において勝ち続けることはできないからです。パウロは、キリストの復活の力を知るということと苦難を知ることには切っても切れない縁があるというのです。そのことを踏まえ1.土台としての信仰義認、2.キリストの復活の力を知る、3.キリストの苦難に預かる、の3つの点から学びましょう。
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それでは朗読します。 ピリフィジンへの手紙3章7節から11節。
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリストイエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。
私は、キリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはチリアクターだと考えています。
それは、私がキリストを得て、キリストにあるものと認められるようになるためです。
私は、立法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち信仰に基づいて、神から与えられる義を持つのです。
私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にも預かって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして、死者の中からの復活に達したいのです。
以上です。 今日はこのところから、キリストを知る素晴らしさと題して御言葉を取り継ぎます。
皆様おはようございます。 早いもので、どんどん12月も前半が終わってしまいました。
ここ数週間、興味ある人もない人も、サッカーのワールドカップの話題を食いついたり、テレビで見たり、見せられたりしていますが、
日本が、ついにクロアチアという国に負けてしまいました。 勝負ごとなので、必ずいつか負けるわけです。
残念な結果でしたけれどもね。 でも、それは人生にも似ていまして、私たちは自分の人生において、
勝ち続けることはできないんですね。 パウロは、実は復活の力を知るということ、そして
苦難を知るということは、切っても切れない縁があると言っているんですね。 勝ち続けることはできないとも言いませんけれども、復活だけではない
苦難を知るということは必ず必要だと、今日のところで言っています。 そのことを踏まえて、今日は3つの点から、キリストを知る素晴らしさということと関係してお話ししていきたいと思います。
まず第一、土台としての信仰義人ということがあるんです。
3章の9節でパウロはこう言っていますね。 私は立法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、
すなわち信仰に基づいて、神から与えられる義を持つのです。 ここではですね、
神の前でですね、
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義とされるという、その神の前で義とされる2つの方法が述べられているんですね。 例えば皆さんどうですか、道端で警察官に会ったり、パトカーに遭遇するとどんな気持ちになりますか?
私が住んでいる町のATM2つあるんですけど駅前に。 最近必ずですね警察官がいるんです。
折れ折れ詐欺、振り込み詐欺の被害が多いので。 行きますよね。いるとですねドキッとする。
私はいつもこうやってお疲れ様ですってやるんですけど。 なんで警察官、パトカーを見ると後ろめたい気持ちになるのか?
それはですね、おそらく私たちの中に法律100%守っているという確信がない、何かそういうところがあるので、後ろめたい気持ちが残ってそう感じるのだと私は思うんですね。
実はこの神様の前で揺るがない立場を得ているということと少し似ているんです。 神の前で自分の揺るがない立場を持っているということ、それはですね今日パウロが言っている
神の前で義とされている。 義という英語でrighteousnessという言葉と関わるわけです。
義とは何ですか?聖書の義とは何ですか?それは神の前で正しい立場、揺るがない立場が与えられているということだと思ってください。
最初の人はですね先週見た立法によって義とされようとする。 割礼を受けて立法を守って自分の力で神の前で義を得ようとする人。
実はそういう人はいつまでも神様の前で居心地が悪いままです。 だから立法の奴隷になるんですね。
前学んだガラテア人の手紙でそれもずっとパウロが警告してきたことを学びましたし、 ピリピでもそういう危険があるとパウロが指摘してこういうことを
教えているわけです。よく言われますよね、 目の前に人参ぶら下げた馬
立法の自分の力によって立法を守って義を得ようとする人は、目の前に人参をぶら下げられた馬のようなんです。
自分の力では人は神様に対して自分の罪を償い尽くすことができないですし、 当然神の前で自分が完全な人間だと胸を張って言える人は、たとえクリシャンであってもいないはずなんです。
この正しい行い、 実はですね、先週見たこの偽教師たちの立場、
滑稽を受けて立法を守り続ける人、その人たちはですね、この正しい行いをなぜするか、それは自分を正当化するため、自分のために正しい行いを積み上げる、
自分のための行為で、それは 見せかけの善行、見せかけの善行なんですね。
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一方でパウロが今日言っている、キリストを信じることによる義、すなわち信仰に基づいて、 神から与えられる義を私は持っているって言ってるんです。
どういうことでしょう。よく知ってますよね、このイエス様の十字架。 そのイエス様の十字架、どんな意味があるか。
それは私たちの罰を神の前で全て償う十字架です。 だからそのイエス様を私の救い主、このイエス様の十字架は私の全部の罪を背負ってくださった十字架だと言って、
イエス様を救い主と信じる時に、私たちは 神の前での罪の償いを全て終えたものとして、
神の前の揺るがない立場、義とされる。 これがいわゆる信仰義に、信じるだけで救われるっていうのはそういうことなんです。
皆さんファミリーレストラン行ったことあります? ある時に私、びっくりしたことがあるんですね。
誰と言いません?この教会の人じゃないんですけど、一緒に行ったらですね、 何人かで行ったら、ドリンクバーを頼みますよね。
そしたらですね、一緒に行った方が、私頼んだから、 あなた飲んできなよ。分かんないから。
分かんないから、頑張って飲みにきなよって言われて、すごくびっくりしたんですね。 皆さんそういうことをしたことあります?
そうでしょ?
それはね、犯罪ですよね。そういうことをして、
私だったら、もしその立場でドリンクバー行ったら、もう後ろめたいわけです。 でも払っていれば、自由に行き来して飲めるわけですよね。
同じで私たちは、ちょっと非禁の例かもしれませんが、イエス様が全部、罪の罰を神の前で払ってくださいましたから、
私たちはある面、自由に神の前に行き来して、 揺るがない神様の前での立場を得ている。それが信仰義になんですね。
パウロはそのことをまとめて、
もう言ってますけども
イエス様を信じることによって、私たちは神の前での正しい立場を得ていますから、
先ほどの立法の人と違って、私たちは
良いことをして、神の前での自分の地位を確保しようという、そういう労苦から解放されます。 私もですね、バブテストも受けて、それが分かるまで3年ぐらいかかったんですけど、
ある面、本当に苦しかったんですね。良いことをしても悪いことをしちゃう。 自分本当に神の前で正しいんだろうかっていうことを葛藤しましたが、イエス様の十字架の開かないってことを本当に分かった時にですね、
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そういう思いから解放されました。
私たちが神様の前で正しい立場を得ているのであれば、
自然と良い行いが湧き上がってくるんですね。 それは見せかけの善行ではなく、本物の善行なんです。
これは私たちの良い行いの土台としての信仰義人なんですね。
さっき見たのは、神の前の立場の土台としての信仰義人です。 良いことをし続けて、神の前の地位を私たちは得る必要がないイエス様の十字架があるから。
イエス様を信じることによって正しくされたというのが、私たちの神の前での信仰義人。
神の前の立場の土台としての信仰義人です。 そして次にですね、
今言った、 良い人は良いことをするんです。
イエス様によって神の前で良い立場が与えられた人というのは、良い人とされていますから、 その人のする良いことというのは自然に内側から湧き上がってくる本当の善行だって言うんですね。
先ほども言いましたが、それが良い行いの土台としての信仰義人だ。 実はこれらのことをまとめてパウロは3章8節でこう言っているんですね。
私はキリストを得て、キリストにあるものと認められると言っています。 ギリシャ語ではキリストを得て、キリストの中にあるもの、エンクリストですね。
キリストの内にあるものと認められていると言っているんですね。 つまり私たちは、イエス様の中に居場所があるんです。
つまりイエス様の中にいる私たち、イエス様を信じてイエス様の中に入れられている私たちは、自然とイエス様の義を得ているので、
神様の前での正しい立場を、義がですね、保障されているという、そういう信仰なんですね。
そしてこの信仰義人という土台の上に、さらに素晴らしい人生の目標を与えられましたとパウロは続けているんです。
それはですね、キリストを知るということですね。 ちょっと長いですけれども、読んでみましょうか。
3章8節です。
それどころか、私の主であるキリストイエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。
私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらは地位悪だと考えています。
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信仰義人によって、神の前での揺るがない立場を得たパウロには、新しい人生の目標が生まれたと宣言しています。
それはイエス様を知るということだ。
イエス様を知っていることの素晴らしさに生きるとパウロは言っているんですね。
この以前のパウロの目標、それは先ほど言ったようにですね、
神様の前で自分が良いことをして、神の前での立場を得る、それに釈迦に気になっていたんです。
だから立法を守るだけじゃなくて、 イエスというわけのわからないものを神と崇めていたこの
クリスチャンたちを迫害していたわけです。 先週までのところ、3章の4節から5節でパウロはですね
立法による義についてならば誰にも負けません。 かつて誇っていた自分のことを紹介しているわけです。
しかしパウロはですね、そのことをですね、 それらはチリアクターだと考えています。
このチリアクター、チリアクターという言葉は、 実は礼拝で口にしてはいけない言葉です。
2つ考えられています。1つは道路に落ちている生ゴミ。
もう一つは道路に落ちている犬の糞だ。 そういう言葉、先週に続けてパウロは過激な言葉を使っています。
犬がゴミを漁って糞をする。 先週見た3章2節で、悪い働き人、犬どもに気をつけろってパウロは言った。
そのことと関連して、 彼らが追い求め、パウロがかつて追い求めていた立法による義、良い行い。
立法の義を得るための良い行いは、 糞土やまた生ゴミのようだ。
なぜなら、今ではイエス様を知っている素晴らしさがあるからだ。 イエス様を知って、神の前で義とされている素晴らしさを知っているからだ。
私の主であるキリストを知る素晴らしさを体験しているからだ。
この、私の主であるキリストイエスという言葉をさらっと読み流しますが、
大変珍しい新約聖書で1回しか使われていない言い回しなんですね。 それは、
私の主である、 他でもない、私の主なる神である
キリストイエスです。 パウロとイエス様の親しい関係がこの言葉に込められているのです。
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皆さんただ知っているじゃなくてですね、友達なり家族、 伴侶、パートナーなり、
それを親しい会話とか、
助け合う関係によって、助けられ助ける、そういう関係によって人格的に知るという深みがあります。
そのことをパウロは言っているんです。 イエス様のことをそうやって深く知っている。
実はイエス様を知るということこそ、人生の最大の目的だとパウロは言うんですが、
私はクリスチャンになって40年近くになるんですが、イエス様を信じてすぐ私を導いた宣教師がこう言うんですね。
人生の目的は神様を知ることです。 そのことに向かっているならば何をしていても大丈夫です。
そういうことをおっしゃった。 おそらくカルバンという宗教改革者の言葉だと思います。
40年近く経っても今も忘れません。 それはまさにこのパウロの生き様だったんですよね。
パウロはそのことについてですね、 他のところで
10節10節でこう言っていますね。 ちょっと読めるかと読んでみましょう。
私はキリストとその復活の力を知り、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
イエス様を知るとは何ですか? 一つ目はそのイエス様の復活の力を知ることだとパウロは言っています。
それはどういうことか? パウロは苦難の中でこそイエス様の復活の力を体験すると言っているんですね。
皆さん今まで聞いてくださったように パウロはローマの極中にいました。
フクインの家に、そしてフィリピンの教会もフクインの家に 苦難にあっていた。
ローマ帝国の中でイエス様を信じるという苦難にあった。 そしてその苦難にあるフィリピン教会の人たちを励ますために
パウロはこの手紙を書いたわけですよね。 その上でパウロはこの
苦難の中で 実は他の箇所を見ると分かるんですけど、実はどうやって精霊を通して私たちの中にある精霊が
働いてそのイエス様の復活の力を体験することができると言っているんですね。 パウロはこのピリピリとの手紙の前半
自分の極中の苦難における 精霊の働きについてこう言いました。この時ですね
覚えている方がいると思うんですけど パウロに反対してわざとパウロを苦しめようとしてローマでパウロに見せつけるがごとく
フクインを伝えた人がいてさらに私を苦しめているって言ったんですけど それでも大丈夫だって言ったんです
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なぜか1章19節読める方は読んでみましょう。長いんですけど3回。 というのは
あなた方の祈りとイエスキリストの御霊の支えによって私が切に期待し望んでいる通りに このことが結局は私の救いとなることを知っているからです
この反対者たちが私を苦しめてフクインを述べ伝えているけれども そのことさえ救いになるんだ
幸いなんだなぜかそれはイエスキリストの御霊が私を支えてくださるからだ まさに苦難ながら体験する復活の
イエス様の命について精霊によってそれを体験しているということをパウロはここで 告白しているわけです
イエス様を知るそれは 復活の力を知るそして重なりますけども最後イエス様を知るというのは
キリストの苦難に預かるってことだって言うんですね 3章10節から10節
パウロはこう言っています私はキリストとその復活の力を知り キリストの苦難にも預かって
キリストの死と同じ状態になり何とかして 死者の中からの復活に達したいのです
その上でパウロはこう言っているんですね ピリピの教会の人たちも私たちもイエス様の復活の力を体験するためには
キリストの苦難も体験しなければならないということなんです ですからキリストを知るということはキリストの苦難を知るということと切っても消えない
縁があるって言うんですね 十字架なければ復活なしと
これまで歴史の中で言われてきた通りなんですね それはね私たち苦しみに何か会いたくないですよね
自分自身の病気もそうですし愛する家族の病気もそうですし いろんなクランの会わないに越したことないんですね
でも 実はですねこの
考えというのは私たちが体験する苦しみに意味を与える ある進学者ですね苦しみに尊厳を与えるって言う
災いとか不幸かもしれませんでもそれは その苦しんでいる私たちは苦しみに尊厳を与える
ですね どんなような意味を与えるか
私たちが 体験する苦しみがこういう意味だそれは
無駄なものではなくてイエス様の十字架の苦しみに預かっていることなんだ 私たちは
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繰り返しますが苦しみに合うと不幸だと感じます それ仕方がないことですよね私たちの勝負
そしてただですねもちろん苦しみや試練から逃れるために手を尽くすことは必要です 病気になればお医者さんにも行く
愚かさから苦難を招かないようになすべきことをするということも必要ですしかし それでも降りかかる試練があるし告白しがたい
苦難困難ということがやはりあるわけですよね 皆さんみたいに人生経験豊富だとそういうのわかりますよね
赤い勝手は若い人でもねここにいる方成熟してるから知ってると思います でそれはイエス様に従っていても同じことなんです
私あの詳しく言いませんけどイエス様最初に信じたきっかけは試練を通してなんです でもその後また試練が降りかかったのでなんでイエス様信じたのにこんな苦しい思いするんだ
ってことを思ったこともあるんですが イエス様を従っていても苦難が訪れる
しかしそれはパウロが言うように そのような苦難をですねそれはイエス様の十字架に預かっていることなんだ
と捉えるときに私たちは実はそれを通してもイエス様を知ることができる 繰り返しますが
苦難から逃れようと知ってもいいんです 愚かさから苦難に陥ることは避けないといけないんですそれでも私たちは苦難に預かっている
ときに私はこれはイエス様の十字架に預かっていることなんだ 実はそれは実はイエス様を知るイエス様の苦難を知るという尊い経験だっていうですね
まあ 安易な言い方かもしれませんけども
私たちはですねいいとこ取りができないことなんですね あの進学者も言ってです
復活進行だけでは不健全だ全部成功しても全部の問題解決したって進行は非現実的で 不健全
復活を知るためにも苦難を知る それが道理だって言うんですね
で信仰の家に苦しみにあったフィリピンの教会の人たちそういう時に何が訪れ買った いうと立法主義の誘惑が訪れたんです
いや滑稽は持ってそして立法守って本当の神のためになればこの苦難克服できますよ 苦難が訪れませんよっていう
実はそういう誘惑は今の私たちにもこれさえあればあなたは苦難から 解放されますっていうそういう誘惑が今でもあるわけですよね
苦難の時に安易な解決方法は罠になるんですね
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でも 受け入れなきゃいけないのは残念ながら私たちには限界があって
そしてパウロも言っていますこの地上の体っていうのは朽ち果てていく脆いものだ 当然将来今日は詳しく触れませんでしたここでも言ってますが
イエス様の復活に預かることができる 完全な復活のに預かることができるって希望ありますがその地上の障害においては
朽ち果てる体 自分の家の弱さや脆さ
を体験しなきゃいけないけれども この朽ち果てる脆さや弱さの中にこそ
イエス様の復活の力が宿っている それは尊い
ですから私たちは自分の弱さとか脆さの が理由でですね苦しみを体験するときに
その時こそ私たちの 朽ちる器の中に
宝であるイエス様の復活の命がある そういうふうに知ることができる
カールはそれを美しい言葉で表現していますそれを最後に皆さんで見ていきまっ て終わりにしましょう
第2コリンと4章7節ですねこれは有名なミル綾子さんのエッセイの 小説の台と台にもなりましたけどもね
読んでみましょう3はい私たちはこの宝を土の器の中に入れています それはこの当たり知れない力が神のものであって私たちから出たものではないことが
明らかになるためです 第2コリンと4章7節
お祈りしましょう 天の神様皆を賛美いたします
私たちの生涯には さまざまなあるいは次から次へと困難や試練が訪れますが
私たちがそれを通して自分のものさを知り またイエス様の十字架に預かるその機会であることを信じます
しかしその中にこそ私たちが知る イエス様の復活の力
5セレの命がある そのことも信じて感謝いたします
どうぞこのイエス様の苦難と復活を知りあなたにあるものと認められ この地上の生涯を
あなたのためにまた人々のために良い技に励んでいくことができるように 評価導いてください
この願いと感謝を私たちの救い主 主イエス様のお名前によって祈ります
あーめん それでは皆さんしばらく1分ほど神様に答えてお祈りしていきましょう
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